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菅氏の「野心」ですきま風、不仲説まで
菅氏が官房長官として第2次安倍政権(2012年~20年)を支え、名実ともに盟友となったかに見えた2人の関係にすきま風が吹き始めたのは、19年に元号が平成から令和に変わる頃からだった。
新元号を最初に発表する役目を果たし、「れいわおじさん」として知名度と好感度が急上昇した菅氏は、直後に官房長官としては異例の外国出張を断行、米国を訪問して拉致問題などをめぐり米政府高官と意見交換を行った。
帰国した菅氏を多くの人々が空港で待ち受け、歓迎する様子を見て、菅氏の中にトップへの「野心」が芽生えたと見る向きは多い。
最終的に官房長官在任が7年を超えた菅氏は、霞が関の人事を掌握し、ほとんどの政策で報告を受け、時に判断を求められることを通じ、経験と実力を蓄えていった。
安倍氏にしてみれば、自らの権勢を揺るがしかねない存在として、菅氏に対する思いが複雑になったのかもしれない。
永田町では、よくある光景だと言ってもいい。
その後、新型コロナウイルスが流行すると、危機管理を得意とする菅氏が対策の中枢から外れる展開になり、「安倍・菅不仲説」までささやかれた。
それでも、持病の悪化で退陣を決意した安倍氏が後を託そうと考えたのが菅氏だったことを思えば、2人の信頼関係、盟友関係が切れていたどころか、いかに太かったのかがうかがえる。
山県有朋の歌に託した思い
弔辞の最後で、菅氏は安倍氏が読みかけのままだった本にあった、山県有朋の盟友・伊藤博文を偲ぶ歌を「私自身の思いをよく詠んだ一首」として紹介した。
<かたりあひて 尽くしゝ人は 先立ちぬ 今より後の世をいかにせむ>
山県は、同じ長州出身の伊藤より3歳年上で、伊藤の2代後の首相を務めた。
菅氏は、衆院議員になったのは安倍氏より1期遅かったが年は6歳上で、安倍氏の後に首相を務めた。
自分よりも若い友に先立たれた悲しみが、菅氏の弔辞にあふれていた。(編集委員・伊藤俊行)
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