北方領土 屈辱の交渉史(3)

密約にスターリンは狂喜した 米ソのパワーゲームに翻弄された千島列島

1945(昭和20)年2月、クリミア半島の保養地ヤルタに米英ソ首脳が集まり、第二次世界大戦後の世界の割譲を決めた。戦後の世界になお暗い影を落とす「ヤルタの密約」である。

ソ連の独裁者であるヨシフ・スターリンはユスポフ宮殿に宿舎を構えた。2月8日朝、スターリンは書斎を子供のようにぐるぐる回り、何度も快哉(かいさい)を叫んだ。

「ハラショー(いいぞ)、オーチン(すごいぞ)、ハラショー!」。握りしめていたのは米大統領、フランクリン・ルーズベルトからの手紙だった。「米政府は日本の占領下にある南樺太と千島列島についてソ連の領有権を承認する」と記されていた。

米ソ両首脳による対日参戦に関する非公式会談でも千島列島の扱いはあっさり了承された。

スターリン「ソ連の対日参戦の条件について討議したい」

ルーズベルト「南樺太と千島列島がソ連に引き渡されることについては、何ら問題はない」

これには伏線があった。

43(昭和18)年10月5日、ルーズベルトは、国務長官のコーデル・ハルら政府高官をホワイトハウスに招集した。

「ソ連の対日参戦と引き換えに千島列島はソ連に引き渡されるべきである」

ルーズベルトが提起したプランに高官たちは驚愕(きょうがく)し、一部高官はソ連の参戦に反対したが、ルーズベルトは聞く耳を持たなかった。日本軍の徹底抗戦により、米軍の犠牲者が増えることを恐れていたのだ。

× × ×

だが、日本側はソ連の対日参戦など想定さえしていなかった。41(昭和16)年4月13日に締結した日ソ中立条約を固く信じていたからだ。

日ソ両政府が条約締結交渉入りしたのは40(昭和15)年。日本側代表は外相、松岡洋右、ソ連側は外相のビャチェスラフ・モロトフだったが、スターリンも顔を見せた。

スターリンは、「南樺太と千島列島を返してもらいたい」と松岡に迫った。松岡は頑として応じなかったが、ソ連は、迫りくるドイツ軍に焦りを強め、この要求を引っ込めた。

米国は日ソの条約交渉を暗号解読で把握していた。つまりルーズベルトは、スターリンが千島列島を虎視眈々(たんたん)と狙っていることを当時から知っていたのだ。

米政府内でも一部の高官は千島列島の戦略的重要性に気付いていた。

ヤルタ会談を約2カ月後に控えた44(昭和19)年12月6日、米国務省領土調査課はルーズベルトに極秘文書(ブレークスリー文書)を提出した。

「南部千島列島は日本によって保持されるべきである」「ソ連の南部諸島に対する要求を正当化する要因はほとんどない」

文書はこう警告していたが、ルーズベルトは見向きもしなかった。千島列島が太平洋の覇権をめぐる要衝であることを全く理解していなかったのだ。

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