『シェンムー』の魅力と問題を語る――『シェンムーI&II』発表記念

オープンワールドの元祖としてのイメージにそぐわない、地味だが奥深いゲーム体験

『シェンムー』の魅力と問題を語る――『シェンムーI&II』発表記念 - シェンムーI&II
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セガフェス2018にて『シェンムーI&II』がPS4向けに発表された。元々はドリームキャストのゲームである1999年の『シェンムー 一章 横須賀』(以下『シェンムーI』)と2001年の『シェンムーII』は僕のオールタイムベストゲームだ。現在開発中である『シェンムーIII』に備えて『シェンムーI&II』のプレイを検討している人向けに、そもそもどういうゲームなのか、どういった魅力があるのか、現代プレイする上でどういった懸念点があるのか、解説していきたい。

オープンワールドの先駆けとしての『シェンムー』

『シェンムー』は頻繁にオープンワールドゲームの元祖と呼ばれる。それは部分的に正しく、また、部分的に間違っている。本作が発売した1999年、オープンワールドと呼べそうなゲームは確かにほとんどなかった。『ファイナルファンタジーVIII』に初代『サイレントヒル』が発売した年で、『シェンムー』のスケールやグラフィックスは他のコンソールゲームをはるかに凌駕していた――少なくとも、技術的には。

フル3Dのリッチな環境において、インタラクションのとれるオブジェクトや中に入れる建物の数はプレイヤーにまるで「思うままに生活できる箱庭」の錯覚を与えていた。『シェンムー』の舞台である80年代の横須賀は閑静な住宅街の「山の瀬」と「桜ヶ丘」、商店街の「ドブ板」、それから「新横須賀港」という4つのエリアから形成されていた。そこには300を超えるNPCキャラクターが生活し、それぞれ独自の見た目や設定があり、話しかけるとフルボイスで主人公の芭月涼とやりとりをする。

本作には時間の概念があり、現実世界の5分がゲームの約1時間に相当する。昼間は八百屋で野菜を売る青井おじさんが夜になるとスナックでお酒を飲んでいる。放課後にランドセルを背負って帰宅する達也くんが、別の日には朝からガチャガチャの前にしゃがみ込んでいる。時間や曜日、または物語の進行に合わせて彼らとの会話は細かく変化し、何度も話しかけるとキャラクターの裏設定が垣間見える。あくまで芭月涼の冒険にフォーカスの当てられたゲームであるが、『シェンムーI』に登場するキャラクターは涼の役に立つために用意された駒ではなく、涼と関係のないところで日々の生活を送っている。これを同じレベルで実現したゲームは本作の発売からそろそろ20年が経とうとしている今も、僕の知る限りでは存在しない。

天気がリアルタイムで変化する「Magic Weather」というシステムも当時は新しかった。『シェンムー』の物語は12月3日からスタートし、最初こそは雨や雪の日が多く、雪が連日降ればちゃんと積もる。冬も峠を越えると晴天が続くようになり、春になると桜が咲く。ゲームのオプションで横須賀の気象データに基づいた当時の実際の天候を選択することもできるが、天気がランダムに変化していく「Magic Weather」も捨てがたい。ランダムでありながら、極めてリアルな変化を見せるからだ。例えば、朝は晴れていたのが、徐々に曇り出して、やがて大スコールが横須賀の屋根を叩くような日がある。晴天が何日も続くと積雪量は徐々に減っていき、雨が降り出すとキャラクターは傘を差す。同じカットシーンでも、プレイする度に天気や時間帯が異なることによって、自分が唯一無二の体験をしていると信じることができた。

 


『シェンムーI』はプレイヤーの快楽を前提とした箱庭である以前に、ライフシミュレーターなのだ。いち早く3D技術にこだわり、『バーチャファイター』や『バーチャレーシング』でリアリティを追求した鈴木裕。彼が初めてコンソール専用のソロプレイゲームを作ることによって、そのこだわりは前代未聞の次元に行きついた。

『シェンムーI』はプレイヤーの快楽を前提とした箱庭である以前に、ライフシミュレーターなのだ。

オープンワールドを本格的に普及させた『グランド・セフト・オートIII』(2001年)は『シェンムー』から影響を受けて作られたという根拠はなく、似ているというよりもむしろ対照的なゲームである。町のディテールやNPCの個性、天候のリアリティといったところに焦点を当てる『シェンムー』と、プレイヤーが思う存分にはちゃける土台を何よりも作り込んだ『GTAIII』。同作はプレイヤーにたくさんの武器や乗り物を与え、好きな順番で物語を進めるようにし、銃を撃ちまくるのも建物から飛び降りるのもプレイヤーの自由だった。ライフシミュレーターというよりはアクションシミュレーターなのである。

『シェンムー』がもつオープンワールドの元祖としてのイメージが、プレイヤーに間違った期待をさせてしまわないか、少し心配だ。『龍が如く』の原点として興味を持った人でも、がっかりするかもしれない。『シェンムー』は読者が思っている以上に、地味なゲームだ。

最大の魅力にして、最大の弱点でもあるリアリティへのこだわり

 


涼は芭月流柔術という架空の日本武術の宗家である芭月巌の息子であり、18歳の青年だ。ゲームの序盤で、父親は涼の目の前で、藍帝という不思議な中国拳法を使う男に殺される。涼は復讐を誓い、藍帝の手がかりを探す過程でさまざまな出来事に巻き込まれ、さまざまな人と出会う。

「涼、それはさすがにないぜ!」と突っ込みたくなるはずだ。

涼は無邪気で向こう見ずな性格だ。根こそ好青年だが、まだ人格者というのに程遠い。主人公の成長を描く王道物語のゲームは数多くあれど、涼ほど成長のしがいがあるキャラクターも珍しい。人格が最初から出来上がっている『龍が如く』の桐生一馬とはわけが違い、プレイするたびに「涼、それはさすがにないぜ!」と突っ込みたくなるはずだ。

そして、涼は旅をする。藍帝のあとを追い、『シェンムーII』では香港、それから中国の桂林へ移動する。『シェンムー』は現実世界を舞台としているが、主人公が旅をするという意味では王道RPGと似ている。『ドラゴンクエスト』に『ファイナルファンタジー』といったRPGは主人公の故郷から始まり、何かのきっかけによって旅立つところから始まる作品が多いはずだ。

 

ほとんどの場合、主人公が旅立つ前の故郷での生活は割愛される。ところが、『シェンムーI』は旅立つ前の出来事のみからなるゲームだ。『ドラゴンクエストIII そして伝説へ…』で言えば、16才になって、旅立つ前の日々だけについてのゲーム、ということになる。結果、『シェンムーI』には他のRPGやアクションアドベンチャーゲームにない「日常」が綴られている。『シェンムー』の最大の魅力はここにあり、最大の弱点もここにある。

『シェンムーI』には他のRPGやアクションアドベンチャーゲームにない「日常」が綴られている。

藍帝の手がかりを探しながら、涼はゲームセンターでダーツを遊んだり、ガチャガチャを集めたり、駄菓子屋やコンビニで買い物をしたり、地元の知り合いと会話したりといった活動に興じる。プレイヤーは物語を進めながら、涼の日常を能動的に学び取っていく。ここでNPCキャラクターの裏設定が生きてくる。知り合いかどうか、知り合いであればどれほど親密な関係なのか、それぞれ決まっているからだ。精肉店の田村であれば、涼は「タムさん」とあだ名で呼び、田村は田村で「うちの坊主、涼のことを待ってるよ」と親しく誘いかけてくる。ところが、世界旅行社の篠田さんに「すみません」と話しかければ、丁寧な接客から涼と赤の他人であることがわかる。普段の生活圏から離れた港まで行けば知り合いはほんの一握りになるが、地元の山ノ瀬や桜ヶ丘で面識のない人は工事現場で働く滝本に坂元と、たまに公園で酔いつぶれている高島というおじさんぐらいのものだ。

設定上、『シェンムーI』は必然的にアクションが少ない。なんてったって、日本は平和な国だ。ゲームの前半で涼の前に立ちはだかるのは弱っちいツッパリと外国の船員たちくらいだ。

『シェンムー』のアクション要素は『バーチャファイター3』のエンジンをベースとしたバトルシステム、それからQTEからなる。しかし、どれも『シェンムーI』の序盤でほとんど発生しない。『龍が如く』シリーズと違って、執拗に絡まれるようなこともなく、バトルは物語上でしか発生しない。最初の10時間、バトルに巻き込まれる回数は指で数えられる程度であり、アクションはゲームの後半に集中している。はっきり言って、バランスが悪い。リアルを追求した結果、探索とアクションのリズムは人を選ぶものになってしまっている。

バランスが悪い。リアルを追求した結果、探索とアクションのリズムは人を選ぶものになってしまっている。

技の練習は、中盤までのバトルの少なさを辛うじて補う役割を担っている。涼は家の道場、それから公園や空き地などで技の練習ができる。見えない敵に向かって技を繰り出し、何度も同じ技を出し続けると熟練度が上がり、場合によっては技の見た目まで変わる。何度も同じ技を出すという地味な作業を繰り返し、終わると自動販売機でコーラを買い、涼がそれを飲み干すところを見守る。『シェンムー』はそんなゲームだ。

『バイオハザード6』や『HEAVY RAIN 心の軋むとき』、最近のゲームで言えば『A Way Out』。こういった、なんでもQTEで片付けてしまうゲームは毛嫌いされる傾向にある。君もこれに腹を立てているひとりなら、『シェンムー』を憎むといい。『ダイナマイト刑事』など、QTEを使ったゲームのもっと古い例はいくつかあるが、それを昨今のアクションアドベンチャーのように取り入れたのは『シェンムー』が最初だ。逃亡や戦いといった派手なアクションシーンを映画のように展開させながら、ボタン入力を求めることでプレイヤーのインタラクションを促している。2018年において、『シェンムー』のQTEシーケンスは平凡的な出来だが、バトルのリアルタイムアクションと交互に展開させることによって作られているバランスは決して悪いものではない。

日本や中国の武術をリアルに表現したバトルシステムは前述したように『バーチャファイター3』(『II』に関しては『バーチャファイター4』)のエンジンをチューニングしたものだ。しかし、『バーチャファイター』をベースとしながら、おおまかに3つの違いがある。戦闘が1対複数にもなること、操作できるキャラクターが1体のみであること、それから成長要素があることだ。

涼は物語を進める上で技の熟練度を上げていくだけでなく、武術家から教わったり、技書を読んだりすることで新しい技も習得できる。涼の技はまるで別キャラといえるところまで成長させられ、カスタマイズ性も豊富なので、プレイヤーごとにまったく違ったキャラクターになり得るのが面白い。

 

香港での冒険が中心となる『シェンムーII』は前作より万人向けの作品であり、あらゆる意味でより「普通」のゲームになっている。ストーリーが本格的に動き出し、アクションが増え、全体的によりダイナミックなアドベンチャーとなっている。しかし、旅先での冒険は『シェンムーI』の日常があればこそ、こんなにも奥深い体験に感じられる。

地元の横須賀とは違い、香港に涼の知り合いはひとりもおらず、寝泊まりできる家もない。ゲームの序盤で、涼はバックパックを背負って見知らぬ大都会を歩き、安く泊まれるところを探さなければならない。トラブルに巻き込まれた末、ついに薄汚い宿を見つける。部屋に入って窓から路地裏の町並みを眺めていると、どのゲームでも味わったことのない感情が込み上がってくる。プレイヤーは横須賀に対してホームシックになっているのだ。しかし、先の見えない冒険にわくわくもしている。

ライフシミュレーターから、旅シミュレーターへ

 

マップの広さで言うと、香港は横須賀と比較もならないほど膨大なスケールになっている。それでもフィールドのディテールが「オープンワールド離れ」しているのは驚異的なことで、本作ほど中に入れる建物の多いゲームを他に知らない。とはいえ、フィールドサイズの拡大によって犠牲になった部分もないわけではない。ストーリーと関わりのないNPCの設定は前作ほど重厚ではなく、行動パターンもリアルなものではなくなった。『シェンムーII』はライフシミュレーターを卒業し、「旅シミュレーター」になったのだ。

だが、ストーリーと関与しないキャラクターをプロップ化する代わりに、メインキャラクターの掘り下げは前作よりも丁寧だ。涼は――少しずつだが――成長を見せ、出会うキャラクターに繰り返し、話しかけることでメインストーリーでは描かれない彼らの一面も見えてくる。

涼の冒険は、他のどのゲームよりも「距離」が重く感じられる。

横須賀から香港。香港から九龍城。九龍城から桂林。本作における新しい仲間との出会いと別れはまさに旅らしい流れを作り出している。ドブ板の中華料理店で修行する中国人留学生の王くんの兄に、香港のアパートビルの奥で会えるといった偶然にも彩られていく涼の冒険は、他のどのゲームよりも「距離」が重く感じられる。

昨今の膨大なオープンワールドゲームであれば、遠い町にやってきたとしてもファストトラベルか、あるいは乗り物を使って元いた場所に戻れる。ところが、いったん香港に行ってしまうと涼はもう横須賀には戻れない。桂林と香港を行き来できるわけでもない。別の場所への移動はそれだけ重く、新しいところにやってくるたびに複雑な気持ちになる。『シェンムーII』の後半で、山奥の洞窟で朝を待っていると、桜ヶ丘の駄菓子屋はとても遠い場所に思えて、横須賀港でフォークリフトのアルバイトをしていたのもまるで嘘のように感じられた。

 

横須賀での日常や香港における武術映画のような展開は、まだまだ『シェンムー』のはじまりにすぎない。アクションがクライマックスに達すると今度、ストーリーはまた違った一面を見せる。涼が桂林に辿り着くと白鹿村というところを目指し、そうする過程でついにヒロインの莎花と邂逅する。白鹿村へ向かうためには2つの山を超えなければならず、ふたりは中国の大自然にて、数日ばかりの旅にとりかかる。日本の都会に生まれ育った涼、桂林を出たことのない莎花。山道を歩きながらさまざまな会話をするふたりは、文化や暮らしによる価値観の違いを思い知る。だが、文化の壁を超えた絆が築き上げられ、プレイヤーは人間の普遍性に気づかされる。

桂林の自然がドブ板のスナック街と同じ世界にあるということに気づき、不思議な気分にさせられる

夜、木の上で歌を歌う莎花。香港で見た太極拳を模倣する涼。彼は今、ただの無邪気な青年ではなくなろうとしている。

池に集まったホタルの数を見ると、涼は驚いた表情を見せる。

日本にホタルはいないのか、と莎花は尋ねる。

「子供の頃にはよく見に行ったけど、最近は、数がかなり少なくなってるんだ」

涼のこの言葉で、桂林の幻想的な自然の光景はドブ板のスナック街と同じ世界にあるということに気づき、不思議な気分にさせられるのだ。

白鹿村に辿り着くと、これまでに謎に包まれていたストーリーの手がかりがついに少し紐解かれる。単なる復讐の物語として始まった『シェンムー』も、今となってはもっと深い何かを訴えかけている。それが何であるかは、17年の時を経て『シェンムーIII』でついに明らかになるだろう。しかし、『シェンムーII』をプレイせずしてその展開に感動することはないだろうし、『シェンムーI』をプレイしなければ『シェンムーII』の旅のリアリティを味わうのも難しい。だからこそ、セガがついにこの物語が始まるべき横須賀に立ち戻り、今のゲーマーに『シェンムーIII』までの経緯を体験する機会を与えてくれることは何事にも変えがたい喜びだ。心から、ありがとう。


とはいえ、今でも通用するゲームにするためには、いくつかの改善点を施すことは必須だ。『シェンムーI&II』で改良してほしい11箇条の記事も確認してほしい。

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