一聞百見

今だから話せる「勇者の三番」広島トレード秘話 元プロ野球阪急ブレーブス選手・加藤秀司さん

話は53年に遡(さかのぼ)る。10月22日、阪急-ヤクルトの日本シリーズ第7戦(後楽園球場)で事件は起こった。そう、球界で語り草になっている阪急・上田利治監督の『大抗議騒動』である。ヤクルト・大杉勝男の左翼ポール際に飛び込んだ打球の判定をめぐって、上田監督が「ファウルだ。審判はどこを見ている!」と1時間19分にも及ぶ猛抗議。だが、判定は覆らず結局、阪急は3勝4敗で敗れ、上田は辞意を表明した。「あの日の夜、選手会で集まって負けた責任は選手にもある。もう一度、上田監督と野球をやろうと決議して、説得しに行ったんよ」。だが、上田の辞意は変わらず退団。梶本隆夫が監督に就任した。

そして55年、梶本阪急が10年ぶりのBクラス(5位)になると、上田は阪急の監督に復帰した。「復帰が決まった日かなぁ、ウエさんからよろしく頼むと電話が掛かってきた。今度は自分の後継者も育てていくから-って。そのとき、山田(久志投手)や福さん(福本豊選手)と同じようにこちらこそ、よろしくお願いしますと答えればよかったんやが…」

--秀さんは何と答えたんです?

「何で帰ってくるんですか」

--えっ、ほんまにそう言うたんですか。そらアカンわ。

「オレもしもたぁ!?と思ったよ。けど、後の祭りや。心の中に、3年ぐらいで戻ってくるんやったら、なんであのとき、選手会で説得に行ったときに翻意してくれへんかったんや-という思いがあったんやろね。ウエさんも電話口で絶句しとったわ」

それでも2年間は上田政権下で三番を打った。「ギクシャクした関係やった。監督も以前のオレとは違う-と思っていたはずや。トレード??当然やろ。オレが監督でも放出するわ」。広島・加藤誕生。秀さんの放浪の旅の始まりである。

【こぼれ話(2) 阪神・淡路大震災でなくしたトロフィー】

数多くのタイトルや賞を獲得した加藤だが、西宮市甲子園口の自宅にはほとんどトロフィー類が飾られていない。平成7年の阪神・淡路大震災で被災したとき「瓦礫(がれき)と一緒に半壊した家の前に並べて出してたら、翌日にはトロフィーだけなかった」という。なんと、もったいない。「みんなにそう言われたよ。オレには価値が分からんかった」。どれほどの価値があるのか。昭和51年、阪急は6度目の対戦ではじめて巨人を破って「日本一」に輝いた。そのウイニングボールを加藤は自分のサインを入れて友人の藤岡琢也(俳優)に贈った。十数年後、藤岡は「開運!なんでも鑑定団」(テレビ東京系)に出品。なんと50万円の値がついたのである。

■「諦めるな」熱意に押され2000本

昭和57年オフ、水谷実雄との交換トレードで広島へ移籍し、秀さんの渡り鳥人生が始まった。58年シーズン途中に肝炎で倒れ、そのオフに近鉄へ移籍。近鉄では60年に指名打者で打率・286、26本塁打、78打点をマークしたが、そのオフに巨人へ金銭トレード。「巨人は難しいチームやった。選手の好きなように野球をやらせてもらえん。オレには合わんかった」。

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