特攻学徒、家族に残した肉声 「もっと一緒に暮らしたい」
学徒出陣で特攻隊員になった大学生が家族に「声の遺書」を残していた。家族に囲まれた平穏な暮らしから、死が待つ戦場へ――。レコードに録音された2分半の肉声からは、生と死の間で揺れ動く若者の心情が浮かび上がる。戦時下、録音機器は一般的ではなく隊員の音声記録は貴重だ。
音声を残したのは慶応大1年のときに出征し、人間魚雷「回天」の搭乗員になった塚本太郎さん(当時21)。1943年10月、学徒出陣の壮行式の後、東京・銀座で広告関係の仕事をしていた父親のスタジオで別れの言葉をふき込んだ。
レコードを託された母親は戦後、太郎さんの遺品を家族の目に触れないようにしていた。太郎さんの12歳年下の弟、悠策さん(80)が母親の死後、遺品を整理していた際に見つけたという。
「僕はもっと、もっといつまでもみんなと一緒に楽しく暮らしたいんだ」。2分半の音声の前半、太郎さんは家族との日常を懐かしく振り返る。川辺で遊んだ春の日、夏祭り……。月見に出かけて、崖下のススキを取りに行った思い出のくだりでは「あそこで転んだのは誰だったかしら」と家族に語りかけている。
声のトーンが変わるのは1分が過ぎるところ。「しかし僕はこんなにも幸福な家族の一員である前に、日本人であることを忘れてはならないと思うんだ」。日常生活と決別し、戦地へと赴く自分を鼓舞するような言葉が続く。「人生二十年。余生に費やされるべき精力のすべてをこの決戦の一瞬に捧(ささ)げよう」。最後は「みんなさようなら。元気で征(い)きます」と結んだ。
悲壮な決意を聞いた悠策さんは「肉親の声とは思えなかった」と話す。
入隊した太郎さんは44年9月、回天の搭乗員に志願した。訓練基地があった山口県周南市の大津島から出撃。45年1月21日、西太平洋のウルシー海域で敵艦に突っ込んだ。
当時疎開していた悠策さんは、新聞で兄の死を知った。「悲しいというより、立派だなと思った」。家族の死を実感したのは疎開先から一時帰宅した時。「焼け野原になった自宅跡で母が泣いているのを見た。母を通してやっと兄の死を理解した」と振り返る。
繰り返し再生するうちにレコードの原盤は破損したが、「家においていては、いずれは価値がわからなくなる」と、コピーした音声を学生時代のアルバムとともに兄の母校に寄贈した。
音声は慶応大三田キャンパス図書館(東京・港)で開催中の戦争資料を集めた展覧会「慶応義塾と戦争3 慶応義塾の昭和二十年」で、8月6日まで公開されている。慶応大での公開は初めてで、都倉武之准教授(35)は「同世代の学生が音声に耳を傾けることで、特攻で亡くなった学生が複雑で様々な心境を抱えながら出撃したという事実を知ってもらいたい」と話している。