日曜に書く

天然痘根絶に「平和賞」を 論説委員・中本哲也

講演会で学生らの質問に答える蟻田功さん=2016年12月、熊本市(PICTURES COMPANY提供)
講演会で学生らの質問に答える蟻田功さん=2016年12月、熊本市(PICTURES COMPANY提供)

お玉ケ池種痘所

職場のサンケイビル(東京・大手町)からは神田駅を挟んで北東方向にあたる神田岩本町(千代田区岩本町2丁目)に、「お玉ケ池種痘所」(東京大学医学部発祥の地)の記念碑や案内板がある。種痘は天然痘予防のためのワクチン接種のことだ。1975(昭和50)年度までに生まれた世代には、種痘の痕がある人も多いだろう。

幕末の1858(安政5)年に、江戸の蘭学者たちが資金を出し合って、予防接種の普及を図る施設を設立した。この種痘所は西洋医学の拠点となり、東大医学部へと発展した。

天然痘、種痘所から思い浮かぶ人物が2人いる。

蟻田功さん

世界保健機関(WHO)の天然痘根絶対策本部長を務めた医師、蟻田功さんが3月に亡くなった。96歳。5月9日の朝刊で訃報を知った。

「天然痘は地球上から根絶され、再び人類の病気として帰ってくることはない」

1980(昭和55)年5月のWHO総会で73カ国、680人が参加した国際プロジェクトの代表として、蟻田さんは天然痘の根絶を宣言した。

人類とウイルスとの長い闘いの歴史で、人類が勝利を宣言した唯一の事例である。

一つの感染症に打ち勝つことがどれほど困難で、どれだけ大きな恩恵を人類にもたらしたかを、新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)を経験した今、改めて考えたい。

蟻田さんが66年に設置された天然痘根絶対策本部に参加したとき、WHO本部からの参加メンバーは蟻田さんを含めてわずか4人。そのころの世界の患者数は年間3千万人、死者は600万人以上と推定される。

患者を見つけ、集中的なワクチン投与でウイルスを封じ込める。アジア・アフリカなどの常時流行国で地道な作戦を敢行しウイルスを追い詰めた。

「最大の敵は戦争と官僚主義だった」。インドでは役人の保身が作戦遂行の壁になり、紛争地帯で仲間がゲリラに拘束されたこともある。

感染症による失明から多くの人を救った大村智さんがノーベル医学・生理学賞を受賞した2015(平成27)年10月、熊本の蟻田さんに電話取材した。

「感染症の治療、根絶に向けた地道な研究に光があたったのは、大変喜ばしい」

「人類を救い、世界に平和をもたらした」

蟻田さんは大村さんらの功績を称(たた)えた。その言葉は政治、宗教、差別などあらゆる障害を乗り越えて「人類は協力し合える」ことを示した蟻田さんとWHOの天然痘根絶チームにも贈られるべきだ。先輩の長辻象平に代わって執筆した「ソロモンの頭巾」(番外編)に、《蟻田功さんに「平和賞」を》という見出しでその思いを書いた。

蟻田さんは亡くなった。けれど、天然痘根絶という偉業を後世に正しく伝えるにはノーベル賞がふさわしいと今も思う。

人類が協力して感染症や気候変動に立ち向かうためにも、天然痘根絶の功績を再評価し、団体も対象になるノーベル平和賞を授与することには大きな意義があるだろう。

稲むらの火の梧陵さん

村上もとかさんの漫画「JIN―仁―」に、濱口儀兵衛(梧陵)が登場する。

安政南海地震(1854年)のとき、稲むらに火をつけて郷里の村人を救った。あの梧陵さんが、「JIN」では江戸時代にタイムスリップした主人公の医師のペニシリン製造を支援する銚子の醬油(しょうゆ)業当主として描かれている。史実に即したフィクションである。

冒頭の「お玉ケ池種痘所」は設立の半年後に焼失し、別の地に新築された。その費用300両を寄付したのが濱口梧陵で、「胡蝶の夢」(司馬遼太郎)ではこう評されている。

《もし寄付者の名前を冠するアメリカの場合なら、濱口梧陵種痘所というふうに称せられたにちがいない。後年、小泉八雲が梧陵のことを生きた神といったが、この人物の西洋医学勃興時代の功績は大きい》

これまで津波防災に関する記事やコラムで梧陵さんのことは何度も書いてきたが、「稲むらの火」以外の功績も学び、伝えるべきだと感じている。

防災、医療、教育など濱口梧陵の幅広い社会貢献は、今に繫(つな)がっている。蟻田さんが貢献した天然痘根絶も、今を生きる者の大きな財産だ。その功績に改めて感謝し、未来に繫ぎたい。(なかもと てつや)

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