香港ガリ勉眼鏡っ娘ゲーマー第6回!人生最高のゲームとの邂逅

トンデモナイ勘違いで出逢った運命の1本

香港ガリ勉眼鏡っ娘ゲーマー第6回!人生最高のゲームとの邂逅
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香港出身の女子ゲーマーである私が、ますます日本とゲームと結ばれるようになってきた「香港ガリ勉眼鏡っ娘ゲーマー」は第6回を迎えた。先週の非常に長い第5回では、おそらく私のゲームライフに止まらず、その後十数年の人生に大きな影響を与え続けた出来事――「同級生2」との思わぬ出逢い――を描いた。第5回の終盤にも書いたように、美少女ゲームに魅了された私は、その後もギャルゲーをプレイしていった。

私が青春を謳歌した母校の可立中學。当時の香港は中学7年制で、中1~中7で1997年の香港返還にかけて在学した。屋上の一角など、誰も知らない場所で一人でゲーム音楽を聴いては踊ったり漢詩を詠んだりするのが好きだった。優等生であると同時に「不思議ちゃん」でもあった。
着物姿の女性が「あれ~」と叫びながら信長にクルクル回されるシーンは異国情緒にあふれていてかなり印象に残った。

「同級生2」の前作である「同級生」、そして「同級生」シリーズのメーカーであるエルフの作品はもちろん、80年代まで遡ってあらゆる美少女ゲームをプレイしまくった。「元祖恋愛体験シミュレーション」と銘打った初代「きゃんきゃんバニー」(カクテル・ソフト)や元祖アドベンチャー美少女ゲーム「天使たちの午後」、探偵ADVの「LIPSTICK.ADV」(フェアリーテール/アイデス)、80年代当時「チャンピオンソフト」と呼ばれるアリスソフトの前身のゲームなど、「あんたいつの時代の人やねん」と自問自答したくなるような古いPCの美少女ゲームを多く体験した。ちなみに織田信長という人物を初めて知ったのはアリスソフトの「D.P.S.」シリーズ(1989年~)でだった。着物姿の女性が「あれ~」と叫びながら信長にクルクル回されるシーンは異国情緒にあふれていてかなり印象に残った。なお、「きゃんきゃんバニー」は何年も後で全シリーズ制覇を果たしたのである。

「きゃんきゃんバニー」(1989年)のナビゲーター、亜理子
山本和枝先生は服を着た女の子の絵の方が着ない絵より断然上手いと思う。

1980年代~1990年代初頭、もっと正確に言えば「同級生」(1992年)までの美少女ゲームはどれも原始的で芸術的価値は低いが、コラムの第3回でも伝えたように「歴女」の私は祖と歴史を尊ぶ人で、ジャンルの草創期の作品を訪れ、その進化を見届けることに意味があると思った。実際、H-CG集でしかなかった初期の美少女ゲームを興味深いゲーム要素のある作品へと進化させた「LIPSTICK.ADV」(これに関しても後にエルフを創業した蛭田昌人さんの功績が大きい)とか、初期にはおまけ程度のシナリオしかなかった「きゃんきゃんバニー」シリーズやチャンピオンソフト(アリスソフト)作品の凄まじい進化は、感慨深いものだった。

古典を漁る傍ら、比較的に近代のゲーム――美少女ゲームに限らず――も多くプレイしていた。例えば、SRPGの「ファーランドストーリー」と「ファーランドサガ」(TGL)はその時期に私が好きな「非美少女ゲーム」で、SRPGそのものの楽しさに加え、ボイス付きの「ファーランドストーリー」は当時の自分にとって驚異的だったし、「ファーランドサガ」の美麗グラフィックと各種エフェクトにも魅了された(私のi80486の「パソちゃん」ではかなりきつかった)。山本和枝先生の絵もそのときに好きになった(余談だが、山本先生は服を着た女の子の絵の方が着ない絵より断然上手いと思う)。ちなみに後に人気メーカーのLeafとKeyの主要メンバーとなる下川直哉や折戸伸治、水無月徹、樋上いたるがTGLに所属していたことを知る人が少なく、TGLそのものを多くの人が知らないのはファンとして寂しく思う。

驚異的なグラフィックやエフェクト、高スペックを誇る「ファーランドサガ」(台湾メーカーによる中国語版)。山本和枝先生の絵が好き。
私は美少女ゲームだと思って「白き魔女」を購入した。

全くの余談だが、「ファーランドサガ」をプレイする少し前に香港が返還されて(1997年7月1日)、クリアした日(1997年8月31日=夏休みの末日)にダイアナ妃が亡くなったのを鮮明に覚えている。香港返還に関しては、多くの香港人と同じようにまるで現実味がなく、返還当日も至って静かに過ごした。むしろダイアナ妃の死とその数日後のマザー・テレサの死に市民の関心が引かれていた。

時間が少し戻って香港返還前になるのだが、電脳中心であるゲームを見つけた。「英雄伝説Ⅲ 白き魔女」というゲームだ。中国語版は「白き魔女」の部分が「白髪魔女」と訳されて香港の有名な武侠小説と同名で、非常にややこしいが、実際は全く関係がなかった。

「魔女」という副題、そして中国語版のメーカーである台湾の「天堂鳥」は、私に「英雄伝説Ⅲ」が美少女ゲームだと思わせた。と言っても天堂鳥は美少女ゲームの正規ローカライズで有名な台湾のパブリッシャーで、私の好きな「劍芒羅曼史(ロマンスは剣の輝き)」をはじめ、「龍騎士(ドラゴンナイト)」シリーズ、「麻雀幻想曲」シリーズ、「七英雄物語」、「逆玉王」、「麗獣 ~TWIN ROAD~」、「聖少女戦隊レイカーズ」シリーズ、「Yes! HG」など、錚々たる顔ぶれを擁していた(ちなみにこれらのゲームを私は全てクリアしている)。「英雄伝説」シリーズに無知だった私は、美少女ゲームだと思って「白き魔女」を購入したのである。これが人生最高のゲームとの出逢いの始まりになるとも知らずに……

そしてゲームのオープニングで早速疑問が浮かんだ。どうも、美少女ゲームらしいオープニングではないのだ。物寂しく、どこか哀しく、そして雄大で緻密な世界観と歴史を感じさせる。当時の美少女ゲームでこのようなものはなかった。伝承として知られる「20年前に諸国を巡礼した白き魔女の物語」か。オープニングの後半に登場した主人公らしき少年と少女もとても純粋な感じで、Hな展開があるとはちょっと思えなかった。しかし数多くの美少女ゲームで飽和状態になりつつあった私にとって、このような勘違いもまた面白いと思い、プレイを決定した。

RPGとして「異常」なのは、戦闘はあるけど最後まで主人公たちは誰一人殺していないことだ。

ゲームのジャンルは私の大好物のRPG。舞台は、ガガーブという世界の、巨大な大地の裂け目(ガガーブ)の東側にある大陸、ティラスイール。その大陸には20年前から魔法が使われ、8つの特徴的な国があり、その中の1つ、フォルティア国の片田舎、ラグピック村には主人公のジュリオ(14歳の男の子)とクリス(15歳の女の子)が住んでいる。どこまでも純粋で仲良し(?)の2人は、村の成人の儀式である「巡礼の旅」に出る。8つの国を旅して、各地のシャリネと呼ばれる祠を巡り、村に帰ってくる。しかし、2人の巡礼の旅は、世界を危機から救うことになる。

ここまで読んだら、「なーんだ、また善対悪で、世界を悪から救うお約束の話かよ」と思う人が多いかもしれない。ところが、そうではないのだ。ジュリオとクリスは、決して「勇者」とか、一般で言う意味の「英雄」ではない。ただ純粋で、正直で、真摯に人に接する至って普通の少年少女に過ぎないのだ。もちろん、2人は「世界を救うぞ!」といった意識を全く持っていない。あくまで小さな巡礼者として、世界規模で見ると取るに足らない旅をするだけのことである。基本的に一本道で、普通のRPGと同じように、旅(巡礼)の途中で様々な出来事が起こり、トラブルも頻発する。しかし全てがとても可愛らしい解決を辿り、可愛らしい展開になる。RPGとして「異常」なのは、戦闘はあるけど最後まで主人公たちは誰一人殺していないことだ。

ジュリオとクリス
ひとことで言えば、このゲームはどこまでも「可愛らしい」のだ。

現実世界と同じように、ティラスイールの人々もみんなジュリオとクリスみたいに純粋で素直で善良なわけではない。意地悪な人、盗みを働く泥棒、私利私欲を満たすために悪に染まった人など、様々な人がいる。しかし、「白き魔女」にはある力強いイデオロギーが貫いている。ごく簡単に言ってしまえば「性善説」だが、それを「英雄伝説Ⅲ」ほどよく表現できているゲームを私は知らない。心の奥底では善良な人たちは、何かにミスリードされて悪事を働く。飽くことのない欲望、生きるための諸条件によって競争して人を打ち負かさなければならない受動的現実……表面的な悪はそこから生まれる。つまり、全ての悪の所業は必然に非ず、諸条件による「非故意」なものである。

ジュリオとクリスが巡礼の中で、泥棒のコンビにしつこく狙われたり、人々を散々苦しめた砂漠の国の悪徳商人に遭遇したり、王位争いで国を二分してしまった兄弟が憎み合ったり、カジノ街の住民らが自分たちの街を栄えさせるために隣の街を荒れ果てた土地にして極端な貧困の格差を作り出したりするが、誰も心の奥底にある輝きを失わず、どのトラブルもそれを引き起こした条件がクリアになったことで団円に終結する。生活における問題が解決され、物欲から自己意識を解放させたら、誰でも本来の善に戻る。ひとことで言えば、このゲームはどこまでも「可愛らしい」のだ。極めつけは世界に災厄をもたらしてティラスイールを壊滅させようとするラスボスら「極悪人」たちだ。

戦いはあるが、誰も殺さない。

実はジュリオとクリスの巡礼の旅は、言い伝えられる20年前の謎の白き魔女と同じルートを巡っている。白き魔女の名は、ゲルド(中国語:耶魯杜)。異界から来た魔女である。彼女は各地に不吉な謎めいた予言を警告として残し、人々に恐怖と憎悪の感情を込めて「白き魔女」と呼ばれるようになった。やがて彼女は姿を消して、奇妙な伝承として残ったのだ。主人公らの巡礼を進むにつれ、凶暴化した巨大な海獣や色々な人間同士の争いなど、ゲルドが残した様々な警告をその目で見ることとなる。

さて、ご想像の通り、こちらの世界を滅ぼそうとするのは、異界の人たちだ。しかし彼らは一般のRPGの魔王のように世界征服を目論むわけではない。滅亡の危機に瀕した彼らの世界を救うために、災厄を別の世界に転送するのだ。しかも、元々その災厄はこちらの世界の人々が遠い昔、栄華をもたらす太古の魔法を好き勝手に使った末に生み出した負のエネルギーの塊(害周波という)を異界に転送した結果だ。ラスボスらは悲しい運命を背負った、害周波を監視するために異界に移住した人々の末裔である。やがて異界でも害周波の悪影響が表面化し、世界滅亡を前にして彼らは仕方なく再びそれを祖先の世界に転送しようとするわけだ。

凶暴化した巨大な海獣「ガルガ」を前にビクビクするジュリオ
ラスボス戦は非常に切ない戦いであった。

18歳のゲルドは異界から失踪し、ティラスイールを一人で巡りながら20年後に訪れる災厄について警告を残していった。スパイとしてやってきた異界の女王と宰相はすでにティラスイールで政治的権力を握っていて、宰相は無抵抗のゲルド――彼女は自分の運命も予見していた――を刺殺した。

ここまで述べて、ある非常に重要な事実が明らかになった。世界滅亡を目論む異界の人々は、「悪」ではないのだ。全てが矛盾していて、全てが哀しく、どうしようもないのだ。ゲルドの死の20年後、無邪気なジュリオとクリスはその巡礼の軌跡を追体験し、その途中で目にしたトラブルの多くは異界の仕業だが、異界の人たちはただ彼らの世界を救うためにやっている。18歳のゲルドは大きな悲しみを抱えながら、なんとか警鐘を鳴らそうとしていた。終盤にはゲルドのことを知っている年配の人たちと会い、決戦の地へ赴く。ラスボスは異界の女王だが、非常に切ない戦いであった。そして最後に、異界から転送された害周波はゲルドの魂によって浄化され、2つの世界を救う代わりに、ゲルドは永遠に、完全に消えることとなった。

切ないラスボス戦
複雑な環境や条件の上に成り立つ純粋さと可愛らしさは、決して子供向けのものではなく「大人向け」のものだ。

巡礼の旅を進んでいくと、私の精神は徐々にゲルドとシンクロし、深い感情移入をするのと同時に、この18歳の偉大な存在に純粋な敬意を持つようになった。ゲルドが無抵抗に異界の宰相に刺殺されるシーンには「ゲルドさん……!ゲルドさん……!」と言いながら体の震えを禁じえなかった。そしてエンディングには泣きながらただただ大きく、温かく、無私の優しさに感動した。ちなみに異界の人たちは、危機が去った後で平和的に自分の世界に戻った。

要するに、「英雄伝説Ⅲ」には「特別に偉大な善人」がいても、「悪人」など存在しないのだ。白き魔女の巡礼の軌跡を追うというストーリーテリングは非常に自然で、人為の痕跡がほぼ見つからず、本当に「そこにある本物の世界」を感じた。そして何よりも、全てが可愛らしい。見た目とか、なんとか「萌え」とかではなく、本質的・精神的な、心からの可愛らしさなのだ。しかもこれは複雑な社会的環境、生活に関わる諸条件の上に成り立つ純粋さと可愛らしさであり、決して子供向けのものではなく「大人向け」のものだ。そもそも精神的に大人ではない人には、真の意味で悪の不在を理解するのは不可能と思われる。つまり、「アダルトゲーム」ではないが、どんなゲームよりもアダルト(大人)向けなのだ。

ゲルドさんの寂しげな後ろ姿だけで泣ける
「白き魔女」ほど素晴らしく的確な「英雄」の定義を見たことがない。

私は美少女ゲームだと思ってこの最高傑作を買った自分をひどく恥じた。そして同時に己の幸運を喜んだ。当時、私はメーカーの日本ファルコムが「白き魔女」を「詩(うた)うRPG」と宣伝することを知らずに、「これは詩(し)だ」と確信した。天衣無縫のナラティブ、意境(中国文学の用語で、詩などが醸し出す抽象的な境地)が統一された究極の可愛らしく温かい雰囲気、そして心の奥底まで人を感動させる叙事詩。全てが詩そのものだ。作詩が得意で、日頃漢詩・漢文を創作する私にとっても、「英雄伝説Ⅲ」はどんな古典的名作にも劣らず、ゲーム界における空前絶後の最高傑作だ。あまりにも奥深く、「白き魔女」を専門とする学問があっても良いんじゃないかと考えた。中国文学の世界では、古典小説の名著「紅楼夢」を専門とする「紅学」という学問のジャンルがあるけれど、「白学」もあってしかるべきだと思った。

「英雄伝説Ⅲ」には「白き魔女」以外の副題がある。「もうひとつの英雄たちの物語」。その「英雄」とは、物理的あるいは精神的に強靭な者でも、社会に大きな貢献をして世界を救う者でもない。きれいで一片の曇りもなく輝く心を持つ人たち、つまりゲルド、そしてジュリオやクリス、その他大勢なのだ。ゲルドに続くジュリオとクリスの旅は、「もうひとつの英雄たちの物語」である。2人の主人公は強いわけでもないし知的な旅人でもない。無邪気で、正直で、そして時には軽率で無分別な少年少女に過ぎない。私は、伝統的な「英雄」の定義を覆した「白き魔女」ほど素晴らしく的確な「英雄」の定義を見たことがない。

ゲルドさん(銀髪の女性)に導かれる主人公たち
まるで恋愛でもしているかのように、世界が以前とは違って見え、全てが輝いているように映る。

私は最初のDOS版をクリアした後、何年にもかけて「白き魔女」関係の商品を片っ端から全部購入している。数年後に出たWindows版も、セガサターン版も複数回クリアした。毎回深く感動するだけでなく、クリア後のしばらくの間、私自身がとても優しくなれるのだ。まるで恋愛でもしているかのように、世界が以前とは違って見え、全てが輝いているように映る。私が初めて通販を利用して日本から直接購入した商品もWindows用「白き魔女」の初回特典版だ。

私に「同級生2」を貸した男子に「英雄伝説Ⅲ」を「逆貸し」したが、彼はクリア後に私に正直な感想を述べた。「人に教訓を与えると言われる物語や寓話が多いけど、実際に学べるものが少ない。でも『英伝Ⅲ』から僕は本当に何かとても大切なものを学んだよ」と。今でも、私は自分の心が少し汚れたと思ったときには、「白き魔女」を棚から出して再プレイする。ジュリオとクリスの心を忘れないという意味を込めて、私は一時期、ペンネームを樹里栗(ジュリクリ)にしていた。このゲームは、もはやゲームや作品の範疇を越えて、私の生涯の友なのだ。

私が半生(?)を過ごしたティラスイールの世界
「白き魔女」の短評は、私のゲームレビューの中で最も簡潔で、最も力強いものだ。

私はこれで日本ファルコムの大ファンとなり、後にガガーブトリロジー(「英雄伝説」のⅢ、Ⅳ、Ⅴ)をクリアしたことはもちろん、「イース」シリーズなどもプレイした。「イース」、特に最初の2部作もその時代において重大な影響を与えた素晴らしい作品だ。ちなみに「白き魔女」から気付いたのだが、日本ファルコムは本当にカッコイイ老人の描写に長けている。あんなに多くのカッコイイ老人を創造するゲームメーカーは他に知らない。

私は「白き魔女」のために数万字(中国語)のレビューを書いたが、同時に短評も書いた。「白き魔女」以降、私はクリアした全てのゲームに短評(一部は長文レビュー)を書くようにしたが、「白き魔女」は私のゲームレビューの一番手だけでなく、最も簡潔で、最も力強い短評となっている。古典文学にも劣らないという意味で、私は漢文で「白き魔女」の短評を書いた。今回の最後は、その「白き魔女」の短評(下手な書き下し)で終わりたい。

温かき情に洋溢(よういつ)し、詩の味が濃厚なり。意境(いきょう)可愛く、至る深さで感人(かんじん)す。斯(これ)天下の奇麗(きれい)、前人之(そ)の先を為すもの莫(な)し、後世能(よ)く継ぐもの莫し。天下の奇夢(きむ)、以て之(そ)れを過ぎるもの靡(な)し!
(※原文:温情洋溢,詩味濃厚,意境可愛,感人至深,斯天下之奇麗,前人莫能為之先,後世莫能繼焉者也;天下奇夢,靡以過之!)

2回連続で数奇な運命に恵まれ、ついに人生最高の1本に邂逅した私。次にどんなアドベンチャーが待っているのだろうか? 来週の「香港ガリ勉眼鏡っ娘ゲーマー」第7回もお見逃しなく!


「香港ガリ勉眼鏡っ娘ゲーマー」過去記事
第5回:“おしん”が“オタク”になるお話
第4回:「パソちゃん」との慣れ初めと、中国語ゲームの感動体験
第3回:忽然と現れた謎の「8088」と、繰り返す奇跡
第2回:諸葛亮とトルネコと一緒に行く大発見の旅
第1回:紅白機と灰機と、ささやかな奇跡の物語

ゲームプレイやストーリーテリングの「やさしさ」、典雅な雰囲気をもってRPG界の革命を起こした「イース」
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