退廃芸術 退廃とされた芸術家と作品のその後

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退廃芸術

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/29 01:35 UTC 版)

退廃とされた芸術家と作品のその後

退廃芸術家の放浪と作品制作禁止命令

退廃芸術展に出展された画家や彫刻家、その多くは表現主義など前衛的な芸術家であるが、彼らはもはや「国家の敵」で「ドイツ民族の脅威」とみなされた。芸術家たちは評判も信用も失い、ドイツ国内外を放浪し始めた。マックス・ベックマンは、ミュンヘンの退廃芸術展の開幕日、アムステルダムへ逃亡した。マックス・エルンストはペギー・グッゲンハイムの助力でアメリカ合衆国に移民した。エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーは1938年、スイスで自殺した。パウル・クレーもスイス各地を放浪したが、ドイツで退廃芸術家として分類されていたためにスイス市民権を得ることができなかった。

エルンスト・バルラハなどドイツに残った退廃芸術家たちは大学などの職を失い、全国造形美術院から「民族と国家に責任を負う文化の仕事にふさわしくない」として除名の通知が届き、以後の芸術活動を一切禁止された[63]。こうした画家たちは画材を買うことすら当局に監視され、制作継続が困難となった。またゲシュタポによる抜き打ち捜査対象となり、制作をひそかに続けていないかどうか厳しくチェックされた。エミール・ノルデのように、ユダヤ人嫌いで1920年からナチスに入党していた人物ですら、退廃芸術家の烙印を押された以上、制作を続けることができず、数人の友人に支えられ『描かれざる絵』という小さな水彩画を見つからないように描きながら戦時中を生き延びる[64]

そして、フェリックス・ヌスバウムら、ドイツに踏みとどまったユダヤ系の作家たちは後に強制収容所へと送られて死亡することになる。この時期に死亡した上に、押収などで代表作を失って半ば忘れられた美術家も多く、その再発見には現在もなお多くの困難がある。

退廃芸術作品の売却と処分

退廃美術展が全国を巡回する中、展覧会用に各地の美術館から「預かる」形で押収されていた美術品は約17,000点に及んでいたが、1938年5月31日に「退廃芸術作品の没収に関する法律」が公布され、政府が退廃芸術と認定した美術品は、金銭的補償もなく強制的に押収・処分して良いものとされた。展覧会を巡回していない美術品はベルリンの倉庫に押し込まれた[65]。その中から、ナチスの高官たち、特にヘルマン・ゲーリングは自分の趣味である美術品収集のためにゴッホセザンヌ、ムンクなど13点を取り置きさせ、別荘に持ち去った[66]

ベルリンのケペニッカー通りにあった「退廃芸術」作品倉庫跡地に設置された解説板

宣伝省高官フランツ・ホフマンやツィーグラーなどからなる「押収された退廃芸術作品活用のための委員会」が編成され、残りの作品のうち売れるものは売って外貨を獲得し軍備の費用にあてることとなり、メンバーの中にいた画商たちに売却がゆだねられた[67]。特に、当時国際的に評価の上がっていた印象派ポスト印象派の絵画が高く売れることが期待された。しかし、ドイツ国内で危険視されている作品を褒めることは許されないため、そうした作品を顧客に対して高く売ることは至難の業だった[68]。しかもナチスから買うことを忌避する外国人もいたため、出所がドイツであることを隠して売ることも困難であり、処分は進まなかった。この時売られた作品は、各国のコレクターが出所を言えない物として秘蔵しているとされ、各国の美術館に流れ着いて公開されている作品以外の所在は多くが現在も分からないままである。退廃芸術販売の責任者に任ぜられていた画商ヒルデブラント・グルリットは相当数の作品を横領しており、2012年にその息子コルネリウス・グルリットに対する脱税調査時に、アパートから長年行方不明になっていたピカソ、マティス、シャガールの作品など1280点の芸術作品が発見されている。

残った膨大な作品に対し、ホフマンから「売れない作品は、国民の前で見せしめとして盛大に焼き払いたい」との圧力があった[69]。結果、1939年3月に倉庫の鍵は明け渡され、同年3月20日、ベルリンの消防署の庭でホフマンたちによって多くの作品が焼却された。しかし後日、この時燃やされた作品は少数で、大部分は木材や梱包材などであったということがわかっている[70]。実際は、鍵を明け渡す前、宣伝省の職員や画商らが売れるものはなお売ろうとベルリン郊外のニーダーシェーンハウゼン城に作品の大部分を避難させており、その多くは売買、交換、そしてスイスでの1939年6月の大々的なオークションで、各国マスコミの関心の集まる中、ヨーロッパの美術館やアメリカの個人コレクターなどに売却された[71]

こうして3,000点以上が売られていったが、売れ残って城に置かれた作品の大半の行方は分かっていない。各地の画商に流出して売られていったものもあったようだが、大戦中の空襲の激化するさなかの1943年、ベルリンの宣伝省地下に移送され[72]、以後はおそらく空襲やベルリン市街戦で破壊されたと考えられる。

ベルリンを占領した赤軍は、退廃芸術展に展示されていた作品多数が地下に埋められていたのを発見し、これを持ち去った。この内のいくつかが現在「出所不明」とされた上でエルミタージュ美術館に展示されているが、ベルリンから持ち去られたうち何割がこうして展示されているかは不明である。これらの作品がどのように生き残ったかについても、確認できる文書資料はない。


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