P-3 (航空機)
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日本における採用と運用
国内開発の白紙還元
P-2Jの量産決定直前の1967年初頭から、その開発・生産を担当する川崎重工業は、既にその後継機について独自の研究開発を開始していた[15]。また運用側である海上幕僚監部も、1968年ごろから基礎的な検討を開始していた[16]。海幕では、P-3C搭載の画期的な対潜戦システム(A-NEWシステム)の情報を入手し、これをP-2J搭載機に導入したいと考えて、1968年には米軍事顧問団(MAAG-J)に対して資料の提供を要請していたが、1969年4月、現時点ではこれを拒否する旨の回答があった[16]。また1968年には、欧米各国における対潜哨戒機及び搭載載装備品等についての調査団も派遣されていたが、これらの調査・検討結果を踏まえて、海上自衛隊としては、次期対潜機は、搭載装備品を含めて日本で自主的に開発する方策について調査研究する必要があることを認識するに至った[16]。
防衛庁は次期対潜機(PX-L)の国内開発に着手する決心を固め、昭和46年度以降、毎年のように基本設計のための予算を盛り込んでいたが、技術調査研究費のみが認められる状態が続いており、今度こそ本格的な開発が開始されるものと期待していた第4次防衛力整備計画の閣議決定直前には、逆に国産化方針の白紙還元が決定された[16]。その後、従来から検討されてきた国産開発や現存機等の改造機に加えて、国産の機体にアメリカ製のシステムを搭載するという折衷案についても検討が進められた[16]。しかし海自としては、現用機の減耗を考慮すると遅くとも1980年ないし1981年ごろまでには次期対潜機の部隊配備を開始しなければならないと考えており、このような計画の遅延を受けて、何らかの形で外国機の導入を図らざるを得ないものと考えるに至った[16]。
一度はP-3Cの対日リリースを拒絶したアメリカ側も、増強が続くソビエト連邦の潜水艦戦力に対抗する必要から、海上自衛隊の対潜戦能力を向上させてその一翼を担わせることを構想するようになっており、1972年夏には、ニクソン大統領とキッシンジャー国務長官により、P-3Cの対日リリースが主張されるようになっていた[17]。1973年7月にはP-3Cの対日リリースが可能であることが日本側に伝えられ、9月には岩国航空基地においてP-3Cのデモフライトが行われており、航空集団司令官や現場の隊員などの視察団が搭乗してシステムに触れ、その性能に深い感銘を受けていた[18]。しかしアメリカ側は、P-3Cのシステムは機体と一体でなければリリースしない方針であった[16]。ほぼ同世代の艦上哨戒機であるS-3Aの搭載システムであれば、カナダのCP-140用として単体で輸出された前例があり、期待されたものの[18]、これはP-3Cのシステムと比べると大きく劣ったものであった[19]。
P-3Cの採用と調達開始
海幕では、1975年5月から6月にかけて防衛部副部長を派米し、P-3Cの導入についての実地調査を行った[16]。しかしこのようにP-3Cの導入へと傾いていた最中の1976年2月4日、アメリカ合衆国上院外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)での証言を発端としてロッキード事件が発生した[16]。これはロッキード社が旅客機売り込み工作のため外国政府関係者に贈賄をしたというものであるが、P-3Cもロッキード社製であったうえに、田中首相がニクソン大統領に航空機購入を約束した日米首脳会談が行われたのが1972年で、上記の白紙還元と時期的に符合することもあって、関連が疑われた[20][注 6]。
この事態を受けて、海幕は事実関係の調査や関係資料の作成、司法当局を含む部内外への説明、報道関係者への対応などで長期間にわたって忙殺され、一般業務にも大きな影響をもたらした[16]。調査の過程で、ロッキード社のコーチャン副社長の証言により、同社と丸紅との間でP-3Cについて手数料1機15万ドルの契約があったことや[注 7]、田中首相に支払われた5億円は旅客機というよりP-3Cの売り込みを見据えたものであったこと[22]、閣僚に次ぐ高官との接触なども明らかになった[20]。しかし海上自衛隊においては、対日リリースが許可された直後にコーチャン副社長が海幕長を表敬訪問したという以上の働きかけはなかったことが判明した[18]。むしろ国会での討議の過程で、次期対潜機の必要性そのものは広く理解されるようになり、かえって導入の追い風となった部分もあったという[20]。
こうして、防衛庁は1977年8月24日の庁議において、昭和62年度末までにP-3C 45機をライセンス生産により取得することと、53年度予算概算要求にP-3Cの購入費用などを計上することを内定した。これらの内容は12月の国防会議において承認され、P-3Cの導入が決定された[16][15]。
当初、昭和53年度では有償軍事援助調達(FMS)機3機とライセンス生産機7機の取得が計画されたが、予算化されたのはFMS機3機とライセンス生産機7機となった[23]。まずアメリカで製造されるFMS機が引き渡されることになり、1981年2月、ジャクソンビル航空基地 (NAS Jacksonville) に根拠地を置くP-3C派米訓練隊が編成された[23]。また上記の通り、P-3Cでは地上設備とリンクすることで高度な対潜戦能力を実現していることから、これらの地上施設の要員は先行して1980年より派米訓練に入っていた[23]。1981年4月29日に1号機を受領したのを皮切りに、7月までに3機の引き渡しを受けて教育訓練に使用したのち、12月25日にはこれらの機体は厚木航空基地へと空輸されて、第51航空隊へと装備替えされた[23]。また1982年5月26日には、川崎重工岐阜工場においてライセンス生産機1号機(通算4号機)が引き渡された[23]。以後、国産率は順次に向上しており[23]、機体は川崎重工、エンジンは石川島播磨重工、プロペラは住友精密、搭載電子機器等は各担当会社と契約が行われた[24]。
体制の整備と配備の進展
1982年3月31日には最初の航空対潜水艦作戦センター (ASWOC) が厚木航空基地に配備された[23]。そして1983年3月30日、第4航空群においてP-3C 6機、人員約130名をもって第6航空隊が新編され、初のP-3C部隊となるとともに、約90名の要員とともにASWOCが同群に移管された[23]。同隊は既に部隊配備の時点で有事即応の体制を整備しており、その威力は、同年の海上自衛隊演習(58海演)において遺憾なく発揮された[23]。この演習では、潜水艦隊が全く予期しない探知事象が多発して大きな衝撃を与え、潜水艦の放射雑音の低減に努力を傾注していく契機にもなった[23]。
海自のP-3Cは、初号機から5045号機(昭和63年度就役)までは米海軍のP-3C アップデートIIと同じ形態であったが、その後、逐次改善を行ってきた。その主なものは、次のとおりである[23]。
- 昭和63年度就役の5046号機から、捜索レーダー・新逆探装置・ロジックユニットの換装等
- 平成2年度就役の5061号機から、ディジタル化した自動操縦装置に改善
- 平成3年度就役の5070号機から、新音響処理装置・ロジックユニットを換装
- 平成5年度就役の5089号機から、衛星通信装置を装備
- 平成6年度就役の5097号機から、アンチ・スキッド・システムを装備
- 平成8年度就役の5100号機から、新戦術データ処理装置・逆探装置の換装及び衛星航法装置を装備
1997年(平成9年)9月17日に最終号機(5101号機)が完成し、岐阜工場において完納式が実施された[23][注 8]。
ASWOCについても、最初のシステムは地上に据え付けるコンテナ・タイプであったが、それ以降のASWOCは地下に作られ、抗堪性が高められた[23]。なお、最初のASWOCは、昭和63年度に厚木航空基地から鹿屋航空基地に移転された[23]。また滑走路については、本機の重量・車輪構造の関係から、現用滑走路の上に約33センチかさ上げする必要が生じたので、昭和59・60年度に八戸航空基地、昭和60-62年度に下総航空基地、昭和63-平成元年度に鹿屋航空基地で滑走路のかさ上げを行った[23]。なお、厚木・那覇・岩国各航空基地の滑走路は、滑走路の厚みが十分満足していたのでかさ上げの工事は行わなかった[23]。さらに、P-3Cが各航空基地に配備されるのに伴い、必要とする格納庫が逐次整備されていった[23]。
海上自衛隊では1998年(平成10年)頃からP-3Cの機種呼称を「対潜哨戒機」から「哨戒機」へと変更しており、対潜水艦一辺倒だった体制を改善し、不審船対策や東シナ海ガス田に対する監視強化も主要任務に挙げられている。また、2000年(平成12年)からはアメリカ海軍にあわせ白と灰色の二色塗り分けにノーズを黒とした洋上迷彩を改め、明灰色単色の低視認性塗装が適用された。訓練機は視認性向上のため主翼の端は蛍光オレンジに塗装している(空自のT-4と同じ)。派生型は、EP-3・OP-3Cは低視認性塗装、UP-3C・UP-3Dは旧塗装である[25]。
2023年3月末時点の海上自衛隊のP-3C保有数は35機である[26]。また、余剰機を改修して転用し、老朽化の進むYS-11の各種任務型を置き換える計画もあった。初期導入機体から国産のターボファン4発機P-1に更新されるほか、現用機の一部は機齢延伸措置を行い、6年程度延伸する計画を予定している。
日本国内でのP-3の修理は川崎重工からの下請けで日本飛行機が行っており、海上自衛隊だけでなくアメリカ海軍機の修理も厚木航空基地に隣接する航空機整備事業部で行っている。
配備基地
- 第2航空群 - 第2航空隊
- 下総教育航空群 - 第203教育航空隊(練習機)
- 第51航空隊(P-3C/UP-3C(評価試験機))
- 第31航空群 - 第81航空隊 (EP-3(電子戦データ収集機)/OP-3C(画像データ収集機)/UP-3D(電子戦訓練支援機))
- 第5航空群 - 第5航空隊
日本での改造・改良
1986年(昭和61年)頃、P-3Cを母体に、E-2Cと同じAN/APS-138レーダーを搭載して早期警戒能力を付与し、さらにAN/AWG-9レーダー・火器管制装置とAIM-54 フェニックス12発を装備した機材で船団の防空を行うという「空中巡洋艦」とも称される大型戦闘機構想が検討されていた[27][28][29]が、防空範囲は在空空域周辺に限られ、作戦柔軟性や迅速性に乏しく、護衛艦隊の都合に合わせて一体運用できないといった理由から早々に検討対象から除外された[30]。
冷戦終結による哨戒作戦の減少に伴い、20機程度が実働任務から削減されることになり、そのうち5機が画像情報収集機OP-3Cに独自改造された。また、1991年(平成3年)から1998年(平成10年)にかけて、P-3Cをベースにした電子戦データ収集機EP-3に5機が、1994年(平成6年)に装備試験機UP-3Cに1機が、1998年から2000年(平成12年)にかけて電子戦訓練支援機UP-3Dに3機が改造製造された。
一方、哨戒機としての運用を継続している機体についても改造が行われ、衛星通信装置、合成開口レーダー、画像伝送装置、ミサイル警報装置、GPS対応電子海図表示装置、AIS:自動船舶識別装置、次世代データリンクなどの追加装備によって、年々能力向上を図っている[24]。
他国への売却
P-1への置き換えで余剰機が発生するP-3Cを他国に移転することが計画されており、いくつかの国で協議されている。
南シナ海での監視能力強化を図りたいフィリピンは当初P-3Cを希望していたが、後に運用に高度な能力を必要とし維持費も高いP-3Cに代わり、より扱い易く維持費が安いTC-90に変更となった[31]。
マレーシアには南シナ海での同国の監視能力の向上を後押しし、海洋進出する中国をけん制する狙いでP-3Cの無償供与を提案している。導入希望はマレーシアが持ちかけたという。この場合を修理して引き渡すが潜水艦探知用の高性能レーダーなどは防衛機密に当たる可能性があるため取り外す予定だという[32][33]。
注釈
- ^ Tactical Navigation Modification
- ^ Anti-Surface Warfare Improvement Program
- ^ Block Modification Upgrade Program
- ^ Acoustic Receiver Technology Refresh
- ^ Capability Upkeep Program
- ^ 実際、このときの会談で、P-3CとE-2Cの売り込みが図られたともされている[17]。
- ^ ロッキード社が顧問として契約していた児玉誉士夫には、50機を超えるP-3Cの契約が取れれば25億円のボーナスが支払われることになっていた[21]。同社が児玉に渡した工作資金は約700万ドル(約21億円)だが、児玉側が証拠を隠滅したため、最終的には誰にどう配られたかは不明である[21]。
- ^ 通算101機の内訳はアップデートII.5相当が69機、アップデートIII相当が32機である。
出典
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- ^ ロッキード・マーティン、P-3オライオンMLU用翼の生産を再開
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- ^ 防衛省・自衛隊:平成26年2月の大雪による日本飛行機(株)整備施設の損壊により発生した自衛隊航空機の損害状況について
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- P-3 (航空機)のページへのリンク