BC級戦犯
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BC戦犯の逮捕
ダグラス・マッカーサー元帥は厚木に到着すると真っ先にエリオット・ソープ准将に東條以下の戦争犯罪人を逮捕するよう命じた。
GHQは、1945年9月11日に東條英機など43名をはじめとして、1948年7月1日までに2,636名の逮捕令状を出し、2602名の容疑者を逮捕・起訴した。
イギリス軍を主体とする連合軍東南アジア司令部は1946年5月の時点で8,900名を逮捕し、この他にソビエト連邦軍やアジア各国で逮捕されている。正確な容疑者の逮捕総数を示す資料はないが、第一復員局法務調査部では1946年10月上旬の時点で約11,000名が海外で逮捕されたと推計していることなどから、その数が1万名をはるかに超すものと考えられている。
日本はジュネーヴ条約(赤十字条約)のひとつである俘虜の待遇に関する条約を、加入はしたものの批准していなかった(適用すると連合国側には約束はしていた)事から、参謀本部や軍令部にも条約への意識が無く、捕虜の扱いについて指示がまちまちとなった。
その結果、各部隊に捕虜の人権への理解が届かずに処刑や虐待に繋がり、必然的に訴追対象者の増加にも繋がっている(九州大学生体解剖事件、油山事件など)。
戦後の海軍反省会では軍令部の高級参謀達が当時を振り返り、「捕虜であろうと敵は一人でも多く殺せ」という空気があり、それが軍全体に行き渡ったのだろう」と証言している。この中で元大佐の大井篤は中国三竈島における海軍の民間人掃討を例に、日本兵の人権、人命軽視は日中戦争の頃より醸成されて麻痺してしまっていた事も影響したと指摘している。
また、連合軍軍用機の搭乗員の捕虜に対する扱いも問題となった。田中宏巳「BC級戦犯」(ちくま新書)では、「航空機と地上部隊の戦いは『一方的に航空機が攻撃を加え地上部隊は無力感と憎悪が高まる』という具合になりやすい。この状況で軍用機が墜落して搭乗員が捕虜となった時に、ついさっきまで空中から一方的に自軍を殺戮していた者が『捕虜になった以上ジュネーヴ条約で守られる権利がある』ということなど戦場の兵士にはとうてい受け入れられない」と述べている。
同書によると、石垣島で米軍機搭乗員3人が捕虜となった後殺害された件で(後に減刑されたが)死刑判決42人という事例もあり、軍用機搭乗員捕虜の殺害では全体的に死刑判決が多くなる傾向にあったという。
戦犯逮捕の過程では、敵軍の裁きを潔しとしないという理由で自らの命を絶った者もいた。主なものを挙げると、杉山元(元帥、陸軍大将、開戦時の参謀総長)は拳銃自殺、橋田邦彦(文部大臣)、近衛文麿(元首相)の2名は服毒自殺、小泉親彦(東條内閣の厚生大臣、軍医中将)、本庄繁(元関東軍司令官、陸軍大将)は割腹自殺を行っている。なお東條英機(元首相、陸軍大将)は自殺を図ったが未遂に終わっている。
朝鮮人・台湾人の戦争犯罪人
BC級戦犯の中には、当時日本統治下にあった朝鮮・台湾出身の朝鮮人と台湾人がいた。その数は、朝鮮人が148人、台湾人が173名だった。
連合国が、日本の戦争犯罪の中でも捕虜虐待を特に重視していたこと(ポツダム宣言の第10項)、日本軍が、東南アジアの各地に設置した捕虜収容所の監視員に朝鮮人・台湾人の軍属を充てたこと、連合国各国が朝鮮人・台湾人を、「敵国に使用された臣民」と見なし、日本人として裁いたこと、上官の命令に基づく行為でも責任を免除されないとしたことが、多くの朝鮮人・台湾人の戦犯を生み出した要因となった。
泰緬鉄道建設の例に見られるように、日本政府が「ジュネーヴ条約」の準用を連合国各国に約束しながら、それに基づいた処遇を適正に行わなかった為、条約に反した命令・処遇の実行責任が、末端の軍属にも問われた(厳密には「準用」は「遵守」に比べて実行側の裁量の余地が大きいが、そうした主張が通る状況ではなかった)。
朝鮮人戦犯148人のうち、軍人は3人だった。1人は洪思翊中将であり、2人は志願兵だった。この他、通訳だった朝鮮人16人が中華民国の国民政府によって裁かれ、うち8人が死刑となった。残る129人全員が、捕虜収容所の監視員として徴用され、タイ・ジャワ・マレーの捕虜収容所に配属された軍属である。
尚、敵国の婦女子をはじめとする民間人を抑留したジャワ軍抑留所の監視にも朝鮮人軍属があたったため、オランダ法廷で戦犯となっている[8]。
台湾人軍属は、ボルネオ捕虜収容所に配属された。オーストラリア法廷で多くの台湾人が戦犯として裁かれ、うち7人が死刑、84人が有期禁錮となった。
朝鮮人・台湾人の戦犯受刑者は、日本人受刑者が「内地送還」になる際、一緒に日本へ送還され、巣鴨プリズンで刑の執行が継続された。
- ^ 対象は「枢軸諸国のために、一個人として、又は組織の一員として、次の各犯罪のいずれかを犯した者」(第六条)で、原則としては官吏や軍人、市民など地位や身分を問わない。
- ^ 野呂浩「パール判事研究 : A級戦犯無罪論の深層」、『東京工芸大学工学部紀要. 人文・社会編』31(2)、東京工芸大学、2008年、p43
- ^ 1948年戦争犯罪人に対する裁判と天皇の責任 法学館憲法研究所
- ^ BC級戦犯とは? 日本共産党中央委員会
- ^ 林(2005) 32-33頁。
- ^ a b 林(2005) 3頁。
- ^ 東京裁判研究会編『共同研究パル判決書(上)』(講談社、1984年)「第一章 パル判決の背景 東京裁判の概要」
- ^ 『朝鮮人BC級戦犯の記録』内海愛子 ii頁
- ^ 法務大臣官房司法法制調査部『戦争犯罪裁判概史要』
- ^ BC級戦犯裁判 林 博史著 岩波新書
- ^ 前坂 俊之 (2003年7月). 東京裁判で絞首刑にされた戦犯たち― 勝者が敗者に執行した「死刑」の手段― (PDF) (Report). 2020年10月23日閲覧。
- ^ 巣鴨遺書編纂会編「世紀の遺書」
- ^ 以下、裁判対象事件の出典は半藤一利 秦郁彦 保阪正康 井上亮『「BC級裁判」を読む』日本経済新聞社ほか。
- ^ 林(2005) 86頁。
- ^ 岩川(1995) 199-200頁
- ^ 岩川(1995) 199頁
- ^ 林(2005) 121-125頁
- ^ 岩川(1995) 237-238頁
- ^ 岩川(1995) 238-240頁
- ^ 岩川(1995) 232-234頁
- ^ 岩川(1995) 235-236頁
- ^ 岩川(1995) 220-224頁。林(2005) 126-127頁。林(1998)
- ^ 岩川(1995) 213-220頁
- ^ 林前掲岩波新書、98頁
- ^ 井上ほか(2010) 152頁
- ^ 林前掲岩波新書、97頁
- ^ 林前掲岩波新書、104頁
- ^ 林前掲岩波新書、106頁
- ^ 石井明 「中国の立場とソ連の立場」『[争論]東京裁判とは何だったのか』築地書館 1997、pp.93-102.
- ^ 林前掲岩波新書、112頁
- ^ 朝日新聞 朝刊. (1953年5月10日)
- ^ 朝日新聞. (1952年8月11日)
- ^ 朝日新聞 朝刊. (1953年8月9日)
- ^ 朝日新聞. (1953年11月5日)
- ^ 朝日新聞 朝刊. (1955年9月2日)
- ^ “社説”. 朝日新聞 朝刊. (1956年9月26日)
- ^ 中立悠紀「戦後日本における戦犯「復権」 : 戦犯釈放運動から戦犯靖国神社合祀へ」九州大学 博士論文(学術)、 17102甲第14131号、2018年、NAID 500001371063。
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