1984年のル・マン24時間レース 1984年のル・マン24時間レースの概要

1984年のル・マン24時間レース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/11 22:54 UTC 版)

1984年のル・マン24時間レース
前年: 1983 翌年: 1985
1984年のコース

ポスターの図柄にはランチア・LC2が使われた[2]

概要

この年、ポルシェのワークスは欠場した。理由としては

  • ポルシェがあまりに強すぎて対抗馬が現れなかったため自主的に辞退した[1]という説。ただしこの説では1985年以降復帰したことの説明ができない。
  • ポルシェがあまりに強すぎてポルシェを持たないチームが出走を回避する可能性があり、出走台数を確保するためACOがIMSAに相談し、グループCと規定が似ているIMSA GTP規定の車両を4台出走させることとなった。しかしIMSA GTPは燃料タンクが120リットルだったので、これまでの「給油25回」との規定を撤廃しそのかわり「燃料総使用量2210リットル」とした。しかしこのルールではピットインが少なくて済むIMSA GTPに非常に有利であったため抗議の目的で欠場した[2]という説。
  • 1983年に国際自動車スポーツ連盟はグループCの燃費制限をさらに厳しくすると発表し、これを受けてポルシェは電子制御式のフューエルインジェクションシステムを導入してエンジンの効率を大幅に向上させた[3]。しかし1984年3月、国際自動車スポーツ連盟のジャン=マリー・バレストルから「1984年限りで燃費制限を撤廃する」というグループCの規定を根底から覆すような発表があり、ポルシェは世界選手権への参加を検討していたメルセデス・ベンツと相談の上で抗議の目的で欠場した[4]という説。

と色々な説がある。ワークス参加はランチアのみとなり寂しいレースとなったが、それでも参加台数54台を数えた[2]

グループCはグループC1に、グループCジュニアはグループC2に改名された。

グループC1

唯一のワークス参加となったランチアは汚名返上を狙い、ダウンフォースを大きくするためボディ下部を改良[1]するとともにフェラーリV型8気筒エンジンも出力と燃費の両面から改良[1]されたランチア・LC2/84を3台[1]持ち込み、ポルシェ・956を使用するプライベーターチームとの対決が注目された。

ポルシェ・956の出場は16台を数えた[1]。この時点でカスタマースペックもボッシュ製モトロニックMP1.2を装備する935/82型エンジンを装備するポルシェ・956Bになっていた[4]が、現場での細かいセッティングができないモトロニックMP1.2に不満を感じたチームもあり、例えばヨースト・レーシングは独自のルートでMP1.2をセッティングしかなりの燃費改善に成功[4]、またシリンダー構造がモジュラーになっていることに注目し特注ピストンを使用して3.0リットルエンジンを製作するなど本体側の改良も進め[4][注釈 1]、新規購入したシャシ番号956-117に積み、7号車として出場させた[4]

アストンマーティンはヴァイカウント・ダウン[5]からニムロッド・C2Bの31号車、32号車が出走した[5]。31号車は585馬力、32号車は560馬力であったという[5]

フランス人はWMセカテバプジョーに期待した[1]シャシ、ボディとも1983年モデルを改良し、エンジンにはプジョー本社から技術援助を受けて出力向上を図っていた[1]

童夢は体制を一新、ターボ車が多くなる中でノンターボのフォードコスワース・DFL型エンジンを搭載[2]し、これまでの直線重視からコーナリング重視にシャシの設計を変更[2]した童夢・RC-83を持ち込んだ。

グループC2

マツダは前年の教訓から空気抵抗よりダウンフォースを重視しコーナーリングスピードを重視したマツダ・727Cを製作した。ただ排気量、エンジンパワーとも参加車両中最小[2]であり、信頼性で上位入賞を狙う作戦であった。

マツダのエンジンはその耐久性が認められてBFグッドリッチチームも採用[2]し、ローラのシャシに積まれた[2]。ドライバーの一人に片山義美が指名[2]され、片山もこれまでの経験を全て提供[2]した。チームはその助言の的確さに驚き、その助言に全面的に沿ってセッティングが進められた[2]

IMSA GTP

グループCと似たマシンということで出場が認められた[1]

ジャガーがIMSA用に開発されたシャシにSOHC5,945cc[6]V型12気筒[6]エンジンを搭載したジャガー・XJR-5[1][5]を使用しグループ44より久しぶりに参戦[5]し、イギリス人のレースファンが再びル・マン24時間レースに興味を持つきっかけとなった[1]。またポルシェの圧倒的優位に不満を感じる観客もこの参戦を喜んだ[5]

マーチ・エンジニアリングビュイック3.4リットルシングルターボエンジンを搭載するマーチ・84Gを出場させた[1]

予選

予選初日は18時[2]、2日目は17時30分[2]に始まった。

前年ジャッキー・イクスが作ったコースレコードに迫る3分17秒[4]11[2][1]をマークし、ランチア・LC2/84の2台が最前列を占めた[1][4]。3位は1位から16秒[4]、2位から13秒[4]の大差を付けられてヨースト・レーシングのポルシェ・956、7号車[4]であった。

WMセカテバプジョーは改良が功を奏し予選8位[1]をマークした。

童夢・RC-83はノンターボ車としてトップクラスの出来であり、予選の初日に過去最高の3分39秒47を記録[2][1]、ポルシェ・956を9台も上回る14番手[2]となった。2日目引き続きスタンレー・ディケンズがタイムアタックしたがダンロップブリッジの先でアクセルが戻らなくなり大破、ドライバーは奇跡的に無事だったが予選21位という記録だけ残し、決勝への出走は取りやめとなった[2]

マツダ・727は従野孝司の運転で3分47秒60[2]をマーク、初日28位[2]となった。2日目はタイムアタックせず決勝のセッティングに務めた[2]


  1. ^ この方法で後にポルシェワークスも排気量拡大を図っている。
  2. ^ 『ル・マンの英国車』p.135は「XJR-S」とするが、写真を見る限り形状は44号車と同一に見え、誤植と判断した。
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『ルマン 伝統と日本チームの戦い』pp.27-154「ルマン24時間レースの歴史」。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』pp.29-62「質屋通いのレース記者」。
  3. ^ ポルシェ公式ウェブサイト1984年のレース戦績
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br bs bt bu bv bw bx by bz ca cb cc cd ce cf cg ch ci cj ck cl cm cn co cp cq cr cs ct cu cv cw cx cy cz da db dc dd de df dg dh di dj dk dl dm dn do dp dq dr ds 『Gr.Cとル・マン』pp.60-61。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai 『ル・マンの英国車』pp.134-135「1984」。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l 『ル・マンの英国車』p.144。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m 『Gr.Cとル・マン』p.13。


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