ヒルデガルト・フォン・ビンゲン ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの概要

ヒルデガルト・フォン・ビンゲン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/22 13:56 UTC 版)

ビンゲンの聖ヒルデガルト
『道を知れ』の挿絵。
神からの啓示を受けているヒルデガルトと、書記のフォルマール。
この絵は修道女達によって描かれたとされる。
教会博士、神秘家、修道女
生誕 1098年
神聖ローマ帝国
ラインラント
ベルマースハイム
死没 1179年9月17日
神聖ローマ帝国
ビンゲン・アム・ライン
崇敬する教派 カトリック教会
列聖日 2012年10月7日
列聖決定者 ベネディクト16世
記念日 9月17日
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神秘家であり、40歳頃に「生ける光の影」(umbra viventis lucis)の幻視体験(visio)をし、女預言者とみなされた。50歳頃、ビンゲンにて自分の女子修道院を作る。自己体験を書と絵に残した。

医学薬草学に強く、ドイツ薬草学の祖とされる[2]。彼女の薬草学の書は、20世紀の第二次世界大戦時にオーストリア軍医ヘルツカドイツ語版により再発見された。世に知られた最初のドイツ人博物学者とされる[3]。才能に恵まれ、神学者、説教者である他、宗教劇の作家、伝記作家、言語学者、詩人であり、また古代ローマ時代以降最初(ギリシア時代に数名が知られる)の女性作曲家とされ、近年グレゴリオ聖歌と並んで頻繁に演奏されCD化されている。神秘主義的な目的のために使われたリングア・イグノタという言語も考案した。中世ヨーロッパ最大の賢女とも言われる。

生涯

活動地 マインツ近郊
ザンクト・ディジボード修道院址(オーデルンハイム、ディジボーデンベルク)
活動地拡大

1098年神聖ローマ帝国のドイツ王国、ラインラントのアルツァイ近く、マインツ大司教区・ベルマースハイム(Bermersheim)で、地方貴族である父ヒルデベルト(Hildebert)、母メヒティルト(Mechtild)の10番目の子供として生まれる[4]。洗礼名はヒルデガルト。出生地については両親の出身地であるベッケルハイム(Böckelheim)という記述もあり[5]、ディジボーデンベルク近くのベッケルハイム城の在った現在のシュロスベッケルハイム(Schloßböckelheim)と思われるが、詳細は不明である。

1106年より同大司教区オーデルンハイム(Odernheim)のディジボーデンベルク(Disibodenberg)にあるベネディクト会系男子修道院ザンクト・ディジボードの近くで隠遁生活を送る修道女ユッタ・フォン・シュポンハイム(Jutta von Sponheim)に育てられる[4]。ユッタはディジボーデンベルク近くのシュポンハイム城の貴族(シュポンハイム伯シュテファン1世の娘)で[6]、兄弟にケルン大司教フーゴー・フォン・シュポンハイムドイツ語版がいる。姓については、シュパンハイム(Spanheim)とシュポンハイム(Sponheim)の両方の記述がある[注釈 1]

後に、彼女の教育にはザンクト・ディジボード男子修道院の修道士フォルマール(Volmar)が加わった[注釈 2]。ユッタは敷地内に女子修道院を設立して院長となった。1136年にユッタが死去すると、ヒルデガルトが女子修道院の院長に就任した[7][4]

1141年、神の啓示を受けたとして、フォルマールと腹心の修道女リヒャルディス・フォン・シュターデ(Richardis von Stade)の援助の下、『道を知れ』 (Scivias) の執筆を開始し、自らの幻視体験[6](後の彼女自身の言葉によれば「生ける光の影」(umbra viventis lucis))を初めて公けに表明し、この頃から彼女の幻視体験がマインツ大司教ハインリヒの知るところとなる[8]

1147年、クレルヴォーの大修道院院長で、当時宗教界に非常に大きな影響力があった聖ベルナールに助言を求めて書簡を送る。同年、教皇エウゲニウス3世によって開かれたトリーア教会会議において、ヒルデガルトの幻視体験がマインツ大司教ハインリヒによって俎上に載せられる。教皇使節が彼女の許に派遣され、執筆途中の『道を知れ』を持ち帰り、教会会議上でそれが披露され、多くの人に感銘を与えたとされる[9]。この時同席していた聖ベルナールの取り成しもあって、教皇より執筆の認可が正式に彼女に与えられ[10]、これによって彼女の名が広く知られるようになる。また、この頃から典礼用の宗教曲を作詞作曲し始める。彼女の作曲した典礼劇『諸徳目の秩序』(Ordo virtutum)は、作者の知られた典礼劇そして道徳劇としては最も古い。ヒルデガルトはユッタからプサルテリウムの演奏の手解きを受けており、合唱の伴奏楽器として使用したと思われる。

彼女の名声によって各地から修道女が集まり手狭になったため、1150年にビンゲン近郊のルペルツベルク(Rupertsberg)に新しい女子修道院を建設して移る[11][4]。 ビンゲンとライン川の支流ナーエ川を挟んだ対岸の丘陵地は、ザルツブルクのベネディクト会修道士聖ルペルト(St.Rupert / Rupertus)の一族の所有地であり、その聖遺物が納められてルペルツベルクと名付けられた聖地であった。ヒルデガルトが新しく建設する女子修道院をこの地に定めたのは、聖ルペルトがドイツ圏で初めて女子修道院を建設した人であった事が念頭にあったと思われる。翌年、『道を知れ』が完成した[12]

年譜
出来事
1098年 誕生
1106年 ユッタのもとへ
1136年 ユッタ没。ヒルデガルト、女子修道院院長就任
1141年 『道を知れ』執筆開始
1147年 聖ベルナールへ書簡
教会会議にてヒルデガルトが話題に。教皇より執筆の正式認可
1150年 ルペルツベルクに新しい女子修道院を建設して移る
1151年 『道を知れ』完成。
1150年代後半 バルバロッサ謁見
1158-63年 ドイツ王国各地へ説教旅行(計3回)
1163年 ルペルツベルク女子修道院に対する保護勅令
1165年 アイビンゲンの修道院建設
1167-70年 病床
1170-71年 ドイツ王国各地へ説教旅行
1173年 フォルマール没。ゴットフリートが『生涯』を執筆
1176年 ゴットフリート没
1177年 ギベール・ド・ガンブルーが『生涯』を追補執筆
1178年 ルペルツベルク女子修道院へ聖務停止禁令
1179年3月 禁令解除
1179年9月17日 死去

1158年から63年にかけて、 ドイツ王国各地へ3回の説教旅行を行い、1150年代後半にはインゲルハイム宮廷ドイツ語版にてフリードリヒ1世・バルバロッサ(赤髭王)に謁見した。バルバロッサからは1163年にルペルツベルク女子修道院に対する皇帝による保護の勅令が出される。

1165年にアイビンゲン(Eibingen)に庶民階級のための新しい修道院を建設する。アイビンゲンはビンゲンとライン川を挟んだ対岸の、現在リューデスハイム(Rüdesheim)と呼ばれる丘陵地帯に位置する。1167年から70年は病床に臥すが、70年から翌年に再びドイツ王国各地へ説教旅行を行った。

1173年にフォルマールが死去し、後任に就いたザンクト・ディジボード男子修道院のゴットフリート(Gottfried)はヒルデガルトの『生涯』を執筆開始する。が、1176年にゴットフリートも死去し、翌年、ヒルデガルトとかねてから文通し共感していたベルギーのガンブルー修道院出身のギベール・ド・ガンブルー(Guibert de Gembloux)が彼女の秘書となり、『生涯』を追補執筆する。

1178年、破門された貴族(後に、破門を解除されている)を保護し、その死後同修道院敷地内に埋葬した件で、マインツの司教座聖堂参事会員達との間で確執が起こり、マインツ大司教クリスチャンよりルペルツベルク女子修道院に対し聖務停止(聖体拝領の禁止、聖歌唱の禁止)の禁令が出される。翌年3月禁令が解かれるが、同年9月17日に死去した[13]

ルペルツベルクの修道院は、17世紀の三十年戦争スウェーデン軍によって破壊され放棄された。現在地図上にこの名は残っていない。一方、アイビンゲンの女子修道院は19世紀まで存在していたが、俗化が進み、また地所が没収されたために閉鎖された。20世紀になって同地に新しく聖ヒルデガルトの名前を付けた女子修道院が建てられている。

2012年10月7日、ローマ教皇ベネディクト16世によって女性としては四人目の教会博士の称号を受けた。

ヒルデガルトの幻視体験について

『道を知れ』の挿絵。
三位一体を象徴的に表現している。
『道を知れ』の挿絵。
教会の処女性を示す。

ヒルデガルトの幻視体験は対外的には40歳代の『道を知れ』で初めて示されたが、その序文で実は5歳頃から体験していることが述べられている[14]。またその中で彼女は、この幻視体験が興奮状態(トランス)や瞑想状態ではなく、実に意識がしっかりしていて周囲の状況が分かっている正常な覚醒状態で生じ、それを受けている時も周囲で現実に生じている事象を同時に知覚していると述べている。そしてこの幻視体験を Visio(ヴィシオ、英:ヴィジョン)という言葉で表現している。

具体的な幻視の状況について、彼女は後にギベールへの書簡(書簡No.103r,1175年)の中で次のように述べている。

「生き生きした光の影」(umbra viventis luminis)が現れ、その光の中に様々な様相が形となって浮かび上がり輝く。炎のように言葉が彼女に伝わり、また見た物の意味付けは一瞬にしてなされ、長く、長く記憶に留まる。
また別の「生ける光」(Lux vivens)がその中に現れる事があるが、それを見ると苦悩や悲しみがすべて彼女から去ってしまい、気持ちが若返る。

これらの幻視が示す内容は、ほとんどがキリスト教に関わる事柄であり、彼女の基盤となったベネディクト会の規範の範疇で解釈され意味付けがなされている。またこれらを表した幾つかの絵画に見られるように非常に象徴的であり、中世修道会のもつ神秘主義的な面が強く現れているとして後のスコラ学と対比される点でもある。


注釈

  1. ^ 現在シュポンハイムと呼ばれる地名は、当時シュパンハイムと呼ばれていたらしい。
  2. ^ ザンクト・ディジボード修道院は、アイルランドの聖コルンバ系修道士ディジボード(St.Disibod / Disibodus)が700年頃にこの地に教会を建設したのが始まり。1000年頃にマインツの大司教によって再整備された。16世紀の半ばに戦争や略奪で破壊され、現在は史跡として残されている。聖ディジボードの名前はヒルデガルトの記述によってのみ知られているに過ぎない。
  3. ^ O viridissima virga はアンティフォナに分類されている場合もある。

出典



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