黒髭 経歴

黒髭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/14 10:04 UTC 版)

経歴

表舞台に登場するまで

黒髭の初期の経歴はほとんどわかっていない。通説では死亡時の年齢は35から40歳で、1680年頃に生まれたと考えられている[1][2]。現代の記録では、彼の名前は「黒髭(Blackbeard)」「エドワード・サッチ(Edward Thatch)」「エドワード・ティーチ(Edward Teach)」が頻出するが、ティーチが最もよく用いられる。また、その姓もいくつか綴りのブレが存在し、Thatch、Thach、Thache、Thack、Tack、Thatche、そしてTheachがある。ある初期の情報では、彼の姓をDrummondとするものがあるが、裏付けとなる史料がなく信憑性は低い。海賊は血筋の名誉を傷つけないために、偽名を用いるのが一般的であり、そのためティーチの本名を知るすべはない[3][4]

ティーチはほぼ確実に読み書きができ、商人と連絡を取り合い、殺害された時にはカロライナ植民地政府のトビアス・ナイト司法長官の手紙を所有していた。このため、著述家のロバート・リーは、ティーチは上流で裕福な家の出かもしれないと推測している[5]。17世紀末頃にティーチは、商船(おそらく奴隷船)でカリブ海にやってきたと推定される[6]チャールズ・ジョンソンの『海賊史』では、ティーチはスペイン継承戦争中にジャマイカの私掠船に従事していた船乗りであり、「彼は類稀な大胆さと蛮勇をしばしば区別していた」と説明されている[7]。ただ、いずれにしても、彼が海賊になる前の大部分の記録と同じく、彼がいつから戦争に参加していたのかもわからない[8]

ニュープロビデンス島時代

エドワード・ティーチ (黒髭)が描かれているAllen & Ginterシガレットカード「Pirates of the Spanish」シリーズ(N19)から「板歩きの刑(Walking the Plank)」

植民地主義、貿易、海賊の歴史を持つ西インド諸島(カリブ海)は、17世紀と18世紀の多くの海での事件の舞台だった。私掠船から海賊となったヘンリー・ジェニングスと、彼の後継者たちは18世紀の初め頃に、統治機構が撤退したニュープロビデンス島を拠点として使うことにした(海賊共和国)。それはフロリダ海峡と大西洋を通過するヨーロッパの船で往来が激しい航路に容易く手を出せる位置にあった。ニュープロビデンスの港は、何百もの船を容易に収容できる一方で、イギリス海軍の大型船が航行するには浅いという特徴があった。作家のジョージ・ウッドベリーはニュープロビデンス島を「家がない街。文字通り浮浪する者たちの一時的な滞在と快楽の場所だった」と続け、「定住者は海賊の支持者か貿易業者、死刑執行人くらいだった。他のものはすべて一時的な滞在者にすぎなかった」と記す[9]。ニュープロビデンスでは海賊は歓迎され休息を得られた[10]

ティーチは島の恩恵を受けるようになった者たちの一人だった。1713年にユトレヒト条約が調印された直後に、おそらく彼はジャマイカから移住し、かつて戦争に関わった私掠船の仲間とともに海賊稼業に関わるようになった。推定では1716年頃にニュープロビデンスの安定的な海域で活動していた有名な海賊船長ベンジャミン・ホーニゴールドの手下になった。1716年にホーニゴールドは拿捕したスループ船の船長としてティーチを任命した[11]。1717年初頭に、それぞれスループ船を指揮するホーニゴールドとティーチは本土へと向かい、ハバナから出港した120バレルの小麦粉を運ぶ船舶や、さらに間もなくバミューダ諸島から出向した100バレルのワインを運ぶスループ船を拿捕した。数日後、船はマデイラからカロライナ植民地のチャールズタウンへの航行中に停止した。その時、ティーチと彼の操舵長ウィリアム・ハワードは手下たちに対する指揮に悩んでいたかもしれない。9月29日、チャールズ岬の近くで、バージニア植民地のベティ号から、その船が沈む前にマデイラからの荷物を積み込んでおり、おそらく彼らはマデイラ・ワインを堪能していた[12]

このホーニゴールドとの航海中に、ティーチが自分の意志で大勢の船員を指揮する海賊だと最も初期の記録が作られた。ノースカロライナで海賊に対する哨戒を行っていたMathew Munthe船長の報告によれば、ティーチ(Thatch)は「大砲6門と砲手6人、約70人の手下」を指揮しているとされていた[13]。9月にホーニゴールドとティーチは、大地主で武官を務める裕福な家の出身だがその年の頭に海賊を始めたスティード・ボネットと出会う。約70人のボネットの手下達は彼の指揮に不満を持っていたと伝えられ、そのため、ティーチはボネットの許可を得て、指揮権を彼らの船リベンジ号ごと引き継いだ。こうしてティーチが乗るリベンジ号と、彼の元いた船、そしてホーニゴールドのレンジャー号と、彼らの海賊団は3隻での構成となった。10月までに別の船がさらに鹵獲され、船団に加えられた[14]。1717年10月22日に2隻のスループ船、フィラデルフィアのロバート号とダブリンのグッド・インテント号が海上で襲撃され、彼らの積荷は残らず奪われた[15]

元イギリス軍の兵士としてホーニゴールドは、元々の敵(スペインやフランス)の船だけを標的にしていた。しかし、襲われることなく貴重な物資を運ぶイギリス船が多く見られるようになると、1717年末に手下たちはホーニゴールドを船長の役から引きずり下ろした。ティーチがこの決定にどのように関与したのかは不明だが[16]、間もなくホーニゴールドは海賊稼業から足を洗った。ホーニゴールドはレンジャー号ともう1隻のスループ船を持って去り、ティーチはリベンジ号と残りの1隻を受け取った[17]。そして翌年6月、ニュープロビデンス島の多くの住民と共にホーニゴールドはウッズ・ロジャーズから王の恩赦を受けることとなり、ティーチとホーニゴールドが会うことは二度となかった[18]

黒髭として

『海賊史』の第2版でベンジャミン・コールによって描かれた黒髭[7]

1717年11月28日、ティーチが指揮する2隻の船は、セントビンセント島沖でフランスの大型商船を攻撃した。彼らの舷側砲による砲撃は舷墻を超え、何人かの船員が死に、船長は降伏した[19]。拿捕された船はサン・マロに所属するフランスの大型奴隷船(Guineamen[注釈 1])ラ・コンコルド号で、奴隷を輸送中であった。ティーチたちは、セントビンセント・グレナディーンに沿って南方のベキア島に向かい、そこでラ・コンコルド号の船員と積荷(奴隷)を下船させた後、船を自分たちの使用目的に合わせ改造した。ティーチは、ラ・コンコルド号の船員たちに所有する2隻のスループ船の内、小さい方をMauvaise Rencontre号(悪い意味を持つ)と改名して与え、その船はマルティニーク島に向かった。奴隷たちに関しては、ティーチが何人かを仲間に迎え入れたかもしれないが、残りは島に取り残され、後に戻ってきたMauvaise Rencontre号の船員たちに回収された[20]

ティーチはすぐにラ・コンコルド号をアン女王の復讐号に改名し、40門の大砲を配備させた。この時までにティーチは副官リチャーズ(Lieutenant Richards)に、ボネットのリベンジ号の指揮権を与えている[21]。11月下旬、セントビンセント島近くでGreat Allen号を襲撃し、長い交戦の末に、この大型武装商船を降伏させた。ティーチは岸に着けるよう命令すると船員たちを下船させ、積荷を奪ってから火をつけて沈めた。この事件はボストン・ニュースレターで報じられ、ティーチは「32門のフランス船、10門のブリガンティン、12門のスループ船」を指揮していたという。ティーチがいつ10門のブリガンティンを手に入れたのかは不明だが、この時までに少なくとも約150人の手下と3隻の船を率いていたものと思われる[22][23]

12月5日、ティーチは、アンギラ島近くのカニ島の浜に停泊中であったスループ船の商船マーガレット号を拿捕した。船長のボストックと船員たちは約8時間に渡ってティーチの捕虜として、自分たちの船が蹂躙されるのを見ることを強いられた[24]。アン女王の復讐号の船内に勾留されたボストックだったが、その後、マーガレット号に無傷で解放され、他の船員らと共に帰ることを許された。彼がセントクリストファー島の駐屯基地に戻って、このことをウォルター・ハミルトン総督に報告すると、総督は宣誓供述書(Affidavit)にしたためるよう要請した。ボストックの口述書では、ティーチが指揮する2隻の船舶について詳しく書かれている。それによれば1隻のスループ船と、フランスの大型奴隷船からなり、オランダ製の36門の大砲と300人の手下たちを擁していたという。その大型船にはGreat Allen号の艦長から奪ったと思われる高価な金粉や銀のメッキ品、また「とても精巧なカップ(a very fine cup)」があった[注釈 2]。ティーチの手下は、ボストックに他の船舶をいくつか襲ったことや、イスパニョーラ島に向かい、駐屯軍に支払う資金を運んだスペイン艦隊を待ち伏せする計画を立てていることなどを明かしてきた。ボストックはまたティーチが現地の船の動きについて質問してきただけではなく[注釈 3]、近く海賊に対する王の恩赦が行われるかもしれないと伝えた時に特に驚いた様子は見せなかったとも述べている[27]

So our Heroe, Captain Teach, assumed the Cognomen of Black-beard, from that large Quantity of Hair, which, like a frightful Meteor, covered his whole Face, and frightened America more than any Comet that has appeared there a long Time. This Beard was black, which he suffered to grow of an extravagant Length; as to Breadth, it came up to his Eyes; he was accustomed to twist it with Ribbons, in small Tails, after the Manner of our Ramilies Wiggs, and turn them about his Ears
チャールズ・ジョンソン海賊史[28]

ボストックによれば、ティーチは「背の高い引き締まった体格の男で、とても豊かな黒いアゴ髭をしていた」と説明している。これがティーチの容姿に関する最初の記録であり、彼の異名「黒髭」の由来である[29]。後の記録では、彼は豊かな黒髭をおさげ状に編み込み、時々、色のついた小さなリボンを結びつけていたという。『海賊史』では「地獄から来たような凶暴さをより恐ろしく見せるように、常人では思いつかないようなアイデアに基づいた格好をしていた」と説明されている。この記述がまさしく事実か誇張かは不明だが、ティーチは外見の価値を理解していたように思われる。ただ怒鳴り散らすよりも、相手の心に恐怖を抱かせることを重視していた[30]。ティーチは背が高く、肩幅が広かった。膝丈のブーツに暗い色の服を着込み、つば広帽に、時に鮮やかな色のシルクやビロードのロングコートを着ていた。『海賊史』ではまた、戦闘中のティーチは「肩がけにした吊り帯に3対(6丁)のピストルがセットされた弾帯のようなホルスターがぶら下がっており、帽子の下には点火した導火線(スローマッチ[注釈 4])をつけていた」という[28]。後者は明らかに恐ろしい外見を相手に誇示するのが目的だった[32][33]。そんな悪名高さに反して、ティーチが捕虜を殺害したり、暴力をくわえたことを証明する記録はない[注釈 5]。ただ、別名を使っていた可能性はあり、11月30日にモンセラーテ・マーチャント号は、Kentish船長とエドワード船長が指揮する2隻のスループ船に遭遇したというが、このエドワードとはスティード・ボネットの別名である[36]

海賊団の拡大

1717年の終わりから1718年初頭にかけてのティーチの行動はわかっていない。ヘンリー・ボストックは、ティーチらがイスパニョーラ島のスペイン支配下にあるサマナ湾に向かうと言っていた、と口述しているが、捜査の結果、海賊行為は発見されなかった。 英国艦スカボロー号のヒューム艦長は、2月6日に「36門の大砲と250人の兵士を擁する海賊船と、10門の大砲と100人の船員の船からなる一団がリーワード諸島を航行中という情報を得た」と報告した。ヒュームはこの2隻が、セントクリストファー島沖でフランスの船を沈めたと考え、船員をマスケット銃で補強して追跡し、最終的に「イスパニョーラの北方向に去っていった」のを見たと報告した。この2隻の船がティーチとボネットによって指揮されていたという確証はないが、作家兼歴史家のアンガス・コンスタム(en:Angus Konstam)は黒髭の船団であった可能性が非常に高いと考えている[37]

1718年3月、2隻はベリーズの東にあるターネフ島での給水中に、港を作るためにジャマイカ産のアカミノキを切り出していたスループ船アドベンチャー号を停止させ、その船長であるハリオットに海賊団に入らないかと誘った。ハリオットと部下たちは誘いを受けたため、ティーチはアドベンチャー号に手下を配属させ、船長にイスラエル・ハンズを任命した[38]。さらにホンジュラス湾への航行中に、別の船と4つスループ船を海賊団に加えた[39][40]。4月9日、ティーチの拡大した船団はプロテスタント・シーザー号を襲撃して略奪し、火をつけた。そして彼らは「小さな亀(small turtler)」を捕獲し、グランドケイマン島から出航した。ティーチはおそらくハバナに向かって航海したが、その途中でキューバを出港した小さなスペイン船を拿捕したのかもしれない。それから彼らはフロリダの東海岸沖に1715年に沈没したスペイン艦隊の残骸に向かって出航した。ティーチは、カロライナ植民地のチャールズタウンへと北上する前に拘束していたスペインのスループ船の船員たちを解放し、道中では3隻の船を襲撃した[41]

チャールズタウン封鎖

「海賊黒髭」。1725年発行の『海賊史』での挿絵。

1718年5月までにティーチは自分自身に提督(Commodore)の地位を与え、権勢は最高潮に達していた。その月の後半に彼の艦隊はサウスカロライナ植民地(正確にはまだカロライナ植民地)のチャールズタウン(現在のチャールストン)の港を封鎖した。港を出入りするすべての船舶は止められ、街には警備船が無かったため[42]に最初に水先案内船が拿捕された。その後、5-6日の間に、海賊団が停泊していたチャールズタウン・バー(街から南東約8マイルに広がる砂州)を超えようとしたおよそ9隻の船が拿捕された。その内の1隻は、サミュエル・ラッグ(カロライナ植民地の評議会のメンバー)を含む著名なチャールズタウンの市民グループを乗せたクローリー号であった。船の乗客たちは港に停泊している他の船について聴取され、そして約半日ほどデッキ下に閉じ込められた。ティーチは人質たちに、自分たちが医療品を必要としていてサウスカロライナ植民地政府に要求すること、もし要求が拒否された場合には、すべての人質を処刑して、その首を総督に送りつけ、拿捕した船もすべて焼き捨てると伝えた[43]

ラッグがティーチの要求に同意したため、人質の代表マークス氏と2人の海賊が薬を集めるのに2日の猶予を与えられ街へ向かった。ティーチは彼の艦隊と拿捕した船を陸から約5-6リーグ以内に移動させた。マークスの船は途中で転覆してしまったがためにチャールズタウンに連絡が届くのは遅れ、艦隊へマークスからの返答が届いたのは3日後であった。ティーチはさらに2日の猶予を与えたが、送り出した者たちは戻ってこなかった。そのため、ティーチは仲間たちに連絡して8隻の船を港へと乗り入れさせ、街はパニックに陥った。マークスはようやく艦隊に戻ると、何があったかを釈明した。街に到着すると彼はすぐに総督に海賊の要求を伝え、薬はすぐに集められた。ところが、一緒に送られた2人の海賊が見つからなかった。彼らは仲間と酒を飲むのに夢中になっており、見つけた時には泥酔していたという[44]

ともかくティーチは交渉内容を守り、拿捕した船と人質たちを無事に解放した。もっとも、彼らの上等な服を含む貴重品は一部しか返さなかったが[45]

ボーフォートの入り江

アン女王の復讐号を描いたイラスト(1736年)

チャールズタウン滞在中、ティーチはウッズ・ロジャーズが軍隊を率いてイギリスを出発し、西インド諸島から海賊を追放する命令を出したことを知った。ティーチの海賊団は大西洋沿岸に沿って北上し、ノースカロライナのボーフォートの入り江に向かった。そこで船の整備をするつもりであったが、1718年6月10日にアン女王の復讐号は砂州に座礁し、メインマストにはヒビが入り、船体は酷く傷ついた。船を助けるため、ティーチは他のスループ船にロープで引っ張るように命令した。しかし、イスラエル・ハンズが指揮するアドベンチャー号も座礁してしまい、修理不可能なほどの損傷を受けた[46]。これによって保有する船は、リベンジ号とスペインのスループ船のみとなってしまった[47]

ティーチはある段階から王室による恩赦の件を知り、おそらくそれを受け入れる意向をボネットには伝えていた。ただ、この恩赦は1718年9月5日以前に降伏した者に適用される以外に、その免責対象が1月5日以前の略奪行為に限るという規定が存在した。普通に考えれば、チャールズタウンの一件のためにティーチとボネットは絞首刑にされる危険があったが、当局がそれを目こぼしする可能性は大きかった。ティーチはノースカロライナのチャールズ・エデン総督は信頼できると考えていたが、念のために、他の船長に対する動向を見てから動くことに決めた[48]。ボネットは小さな帆船で[注釈 6]ノースカロライナの中心地であったバスの町へ向かい、そこでエデン総督に降伏し、恩赦を受けた。それからボネットはボーフォートに戻り、リベンジ号と残りの船員を招集してセント・トーマス島に向かうつもりであった。ところが残念なことに、ティーチは船の貴重品や船員たちを奪い去っていた。ボネットは報復しようとしたが見つけることはできず、仕方なくボネットと手下たちは海賊行為に戻ったが、1718年9月27日にケープフィア川の河口で逮捕された。その後、チャールズタウンで4人を除いて絞首刑に処された[50][注釈 7]

著述家ロバート・リーは、ティーチとハンズが戦利品の分け前を増やすために海賊団員の数を減らそうとし、故意に船を座礁させたのではないかと推測している[51]。例えばボネットの手下たちの裁判において、リベンジ号に乗っていたIgnatius Pellは「船を座礁して失ったのは、ティーチ(Teach)の狙いだった」と証言している。リーは、ティーチがボネットにエデン総督からの恩赦を受けるという計画を実行させたのが、一番ありえるとしている。彼はボネットに自分も後に続くこと伝え、さらに四国同盟とスペインの間で戦争が起きそうな気配であり(四国同盟戦争)、その際にイギリスから私掠免許状がもらえると吹き込んでいた。リーは、他にもティーチがボネットにリベンジ号を返還をしたことも根拠として挙げている[52]。コンスタムも同様にティーチが故意に座礁させた説を提唱し、理由としてティーチはアン女王の復讐号がかえって海賊稼業の邪魔になっているとみなし始めたのではないかと説明している。例えば海賊艦隊が停泊しているとなれば、このことは近隣の街や植民地に知らされ、近くの船は航行を見合わせるだろうから。そのため、船を損壊させたのはやや極端な作戦だったが、あまり長く留まらなかったのは賢明な判断であった[53]

恩赦と復帰

オクラコークの入り江とその周辺の地図(1775年)

ティーチは残ったスループ船でオクラコークの入り江に向けて北に進む前に、約25人の手下たちを陸地から1リーグ離れた浜だけの島に置き去りにしていた。これは、彼らがティーチの計画に感づいて反抗しようとしたために行われたのかもしれない[54]。なお、置き去りにされた者たちは2日後に戻ってきたボネットが助け出している。一方、ティーチはバスに向かって進み続け、1718年6月(それはボネットが恩赦を受けて出発した数日後)、彼と大幅に減少した手下たちはエデン総督からの恩赦を受けた[55]

彼はバスに定住することを決め、エデンの総督邸の近くでもあるバスの入り江の東側に位置するプラム岬に住んだ。7月から8月にかけて、ティーチは街での拠点とオクラコークに停泊させた自分のスループ船の間を行き来していた。裏付ける証拠はないが、『海賊史』の説明によれば、この頃、地元のプランテーションの所有者の娘と結婚したという。エデンは、ティーチに私掠船としての任務のためにセント・トーマス島に航海する許可を与えた(これは小さな開拓地から面倒な海賊を追い払うのに有用な方法だった)。また、ティーチは残ったスループ船の正式な権利を認められ、それをアドベンチャー号と改名した。8月末までには彼は海賊行為に戻っており、同月にペンシルベニア植民地総督は逮捕状を出したくらいだが、おそらくこの頃にはティーチは少し離れたデラウェア湾で活動していた。彼は2隻のフランス船をカリブ海から出航させ、1人の船員を他に移動させると、残った船をオクラコークに戻させた[56]。9月に、彼は海上に放棄されたフランスの船を発見したとエデンに伝えた。すぐにトビアス・ナイトと税関の徴収官が統括する代理海事裁判所(Vice admiralty court)が召集された。船は海上で発見された遺棄品と判断され、その積荷の内、大樽20樽分の砂糖がナイトに、60樽がエデンに引き渡され、船倉にある残りの貨物はすべてティーチと彼の手下たちに与えられた[57]

オクラコークの入り江は、ティーチのお気に入りの拠点だった。ノースカロライナ北東部の様々な集落間を航行する船を見つけるのに最適な立地だった。そこでティーチはイギリスの海賊チャールズ・ヴェインの海賊船を発見した。数ヶ月前にヴェインはウッズ・ロジャーズによる恩赦を拒絶して英国海軍の包囲からナッソーを脱出したばかりであった。また、海賊ハンターとなっていたティーチの元上司ホーニゴールドの追跡を受けていた。ティーチとヴェインは、イスラエル・ハンズやロバート・ディール、キャラコ・ジャックのような悪名高い海賊たちと一緒にオクラコーク島の南端で数日過ごした[58]

アレクサンダー・スポッツウッド

バージニア植民地総督アレキサンダー・スポッツウッド

ティーチとヴェインが一時的に手を結んだニュースは近隣の植民地全体に広がり、心配したペンシルベニア植民地総督は海賊逮捕のために2隻のスループ船を派遣するのに及んだほどだった[59]。バージニア植民地総督アレキサンダー・スポッツウッドもまた、引退したとされる海賊やその船員が、ほど近いノースカロライナに住んでいたために警戒した。実際、ティーチの元手下たちのいくらかは既にいくつかのバージニア植民地の港町に移り住んでいたが、7月10日にスポッツウッドは、すべての元海賊たちは当局に名乗り出ること、武器の携行は許さないこと、3人以上での旅行を禁じることを宣言した。王室直轄領の植民地の長としてスポッツウッドは、ノースカロライナの為政者たちを侮蔑して見ていた。なぜなら、カロライナの者たちに海賊を抑える能力があるとは思っていなかったし、だから元海賊たちは金に困れば、すぐにかつての仕事に戻ってバージニアの商業に混乱を与えると疑っていた[60]

スポッツウッドは、アン女王の復讐号の元操舵手であったウィリアム・ハワードがこの地域にいたことを知り、彼がティーチの居場所を知っているのではないかと考え、彼と彼の2人の奴隷を逮捕した。しかし、スポッツウッドは、海賊を裁判にかけるための法的権限を持たず[注釈 8]、その結果、ハワードの弁護を担当したジョン・ホロウェイは、彼を逮捕した英国艦ライム号のブランド艦長を告訴した。加えてホロウェイは、ハワードの代理人として500ポンドの損害賠償を訴え、これが不当逮捕だと主張した[62]

スポッツウッドの諮問委員会はウィリアム3世の法令を引用し、総督は危急の場合には陪審員なしで海賊を裁判にかける権限を有し、ティーチの存在はまさに危険であるため適法という見解を出した。ハワードに対する起訴内容は、恩赦後にいくつかの海賊行為に関与したというものであったが、その被害は「スペイン王国に所属するスループ船」であって、スポッツウッドの管轄外の地域及び船舶であったが、その事実を無視し合法な裁判とした。また別の2件の襲撃容疑もかけられ、その1つはチャールズタウン・バー沖での奴隷船の拿捕であり、ハワードの奴隷の1人はその時のものと推定された。ハワードは海賊行為の容疑で代理海事裁判所の審議に送られたが、ブランド艦長と彼の同僚である(英国艦パール号の)ゴードン艦長は、ホロウェイを相手にすることを拒んだ[注釈 9]。ホロウェイは、スポッツウッドが「(ホロウェイよりも)尊敬すべき人物」と評するバージニア植民地司法長官ジョン・クレイトンに交代させられて、法廷から退去させられ激怒したが他に選択肢はなかった[63]。ハワードは有罪判決を受けて絞首刑を宣告されたが、ロンドンの委員会はスポッツウッドに1718年7月23日以前の海賊行為は赦免するよう命令し、死刑は免れた[64][65]

スポッツウッドはハワードからティーチの居場所に関する貴重な情報を聞き出し[66]、彼を捕まえるために管轄外のノースカロライナに自分の部隊を送ることを画策した[67]。スポッツウッドは、ノースカロライナの提督と敵対する2人の男、エドワーズ・モーズリーと、モーリス・ムーア大佐の協力を得た。さらに貿易委員会(Lords of Trade)を通して王室にティーチの逮捕によって経済的利益を得られるかもしれないと提案した。スポッツウッドはおそらくティーチが莫大な財宝を隠し持っていると信じており、個人的にもこの計画に出資していた。スポッツウッドは、パール号とライム号の艦長であるゴードンとブランドに陸路でバスへ向かうよう命令した。そして英国艦パール号に所属するロバート・メイナード大尉に2隻の指揮権を与え、海から町に近づくものとした[注釈 10]。ティーチの逮捕を目指す執拗な動機は、王室から賜ることができるかもしれないもの以上に、バージニア植民地議会からの報奨金だった[69]

11月17日、メイナードは2隻の武装スループ船の指揮を執ることになった。彼は、英国艦パール号から33名、英国艦ライム号から24名の計57名を与えられた。メイナードは2隻の内、大きい方を乗艦に選びジェーン号と名付け英国艦パール号の人員を充てた。もう1隻の方はレンジャー号と名付け、メイナードの部下の一人ハイドが艦長に命じられた。2隻に元々乗っていた民間の乗組員の何人かも船に残っていた。11月17日、彼らはジェームズ川に沿ってケコダンから出航した[70]。この行軍速度は遅く、ブランドがバスに到着するための時間的猶予が与えられた。ノースカロライナに向けて出発した6日後、11月23日にブランドはバスの3マイル以内に到着した。ブランドの部隊には、他植民地の兵隊がやってきたことに対する抗議を伝えるために、ムーア大佐やエレミアベイル大尉を含む数人のノースカロライナ人が派遣された。ムーアはティーチがそこにいるかどうかを確かめるために町に入り、彼はいなかったが海賊がいることは期待できると報告した。その後、ブランドはエデン総督の家に行き、自分のたちの目的を通達した。翌日、ブランドはパムリコ川に沿って2つのカヌーをオクラコークの入り江に送り、ティーチが発見できるか確認した。彼らは2日後に戻り、最終的に何があったかを報告した[71]

最後の戦い

11月21日の夜、メイナードはオクラコーク島の内側に海賊船が停泊しているのを発見した[72]。メイナードは停止させた自船から、彼らの船の位置を確認したが、水路や浅瀬といった地理が不確かであるため、攻撃は翌朝まで待つことにした[73]。メイナードはティーチを海に逃さないようにするため、自分たちの存在がばれないよう島への航路上に入らないように気をつけ、さらに2隻に見張り台を置いた。ティーチは客をもてなすのに忙しく、島の反対側に見張りを配置していなかった。 イスラエル・ハンズは約24人のアドベンチャー号の船員と共にバスに上陸した。彼もまた非常に乗組員が減っていた。『海賊史』では、海賊船には「乗船している者は25人以下だった」ことや、「すべての船を合わせても40人ほどしかいなかった」ことが記されている[74]。「13の白人と6人の黒人」がいたというのは、後にブランドによって提督に報告された数である[75]

夜明け、小船が鳴らした音を合図にメイナードが指揮する2隻のスループ船が水路に突入した。小船はすぐにアドベンチャー号に捕捉され、その大砲の射程に入ると間もなく砲火を浴びた。船が迅速にジェーン号の方へ撤退している間に、ティーチはアドベンチャー号の錨綱を切り離した。船員たちは帆を巻き上げるとアドベンチャー号の右舷の大砲がメイナードのスループ船に向くように操縦し、徐々に射線を合わせた[76]。ハイドがレンジャー号をジェーン号の左舷側に動かすと両船は、連合旗を掲げた。アドベンチャー号はオクラコーク島の浜の方へ船体を向け、狭い水路に向かった。その次に起こったとされることは不明確である。『海賊史』では小火器による射撃の後、アドベンチャー号が砂州に座礁し、メイナードは浅瀬を通り過ぎるために船を停止させて船体を軽くさせたという[77]。別の記録ではジェーン号とレンジャー号も座礁したとされているが、メイナードの航海日誌ではこれらの言及はない[78]

Damn you for Villains, who are you? And, from whence came you? The Lieutenant made him Answer, You may see by our Colours we are no Pyrates. Black-beard bid him send his Boat on Board, that he might see who he was; but Mr. Maynard reply'd thus; I cannot spare my Boat, but I will come aboard of you as soon as I can, with my Sloop. Upon this, Black-beard took a Glass of Liquor and drank to him with these Words: Damnation seize my Soul if I give you Quarters, or take any from you. In Answer to which, Mr. Maynard told him, That he expected no Quarters from him, nor should he give him any.
『海賊史』よりティーチとメイナードが対峙する場面[79][注釈 11]

確かなことは、アドベンチャー号が2隻に向けて大砲の砲火を浴びせたことである。舷側(舷側砲)は壊滅的であり、一瞬にしてメイナードはその3分の1の戦闘能力を失った。ジェーン号は約20人の死傷者を出し、レンジャー号では9人であった。ハイドも死亡し、彼の2番と3番目の副官も死亡か重傷を負った。彼のスループ船は酷く損傷を受けたために、もはや攻撃できるような状態ではなかった[81]。先述のようにこの戦闘の記録はだいぶ混乱の様相を呈しており不明確であるが、おそらくジェーン号からの小火器射撃がアドベンチャー号のジブシートを切断し、そのため船は制御を失って砂州に乗り上げた可能性がある。また、ティーチによる圧倒的な攻撃の結果、ジェーン号とレンジャー号も座礁したかもしれない。こうして戦いはどちらが最初に船を海上に復帰させるかの勝負になったと思われる[82]

「海賊黒髭の拘束(1718年)」。ジーン・レオン・ジェローム・フェリスによる1920年の作品。

メイナードは、敵が乗り込んでくることを見越して、部下の多くを甲板下に待機させ、白兵戦に備えるように言った。ティーチは船の距離が縮まるのを見て、手下たちに戦闘を準備するように命じた。アドベンチャー号のグラップリングフックが標的を捉え、2隻が接着すると、導火線に火のついた手榴弾(火薬と銃弾が詰まった瓶で作られている)が甲板に投げ込まれ爆発した。煙が晴れるとティーチは手下を率いて船に乗り込んだが誰もいないことに気づき、船尾にいたメイナードの小隊に向かって手下たちに発砲させた[83]

船内に待機していたメイナードの部下たちは甲板に飛び出すと、叫び、発砲した。ティーチと彼の手下たちを驚かせる作戦はうまくいき、この攻撃で明らかに彼らは動揺した。そして2つのグループによる戦いは、先のティーチの攻撃によって舷側が破壊され、大量の死傷者の血で滑りやすくなっている甲板で始まった。メイナードとティーチは、互いのフリントロック式銃を発砲して捨てた。ティーチのカトラスは、メイナードの剣を折った。周りでは優れた練度と僅かな数の差によって、海賊たちは船首に向かって押し返されていた。そして、ジェーン号の船員たちは、それまで孤立していたメイナードとティーチを取り囲んだ[84]。メイナードが再び発砲しようとすると、ティーチは移動して攻撃しようとしたが、その時、メイナードの部下の一人の攻撃がティーチの首元に当たった。重傷を負ったところを、ティーチは数人の攻撃を受けて殺された。他の海賊たちはすぐに降伏した。アドベンチャー号に残っていた者たちもレンジャー号の船員によって拘束された。その中には火薬庫に火をつけて船を爆破しようとしていた者もいた。この戦闘による死傷者リストは、いくつか内容が異なって存在する。メイナードは8人の部下と12人の海賊が死んだと報告した。ブランドの報告では死亡したのは10人の海賊と11人のメイナードの部下だった。スポッツウッドは10人の海賊と10人の王の臣民が亡くなったと述べている[85]

チャールズ著『The Pirates Own Book』(1837年)に描かれているように、ティーチの首はメイナードの船のマストにぶら下げられた。

メイナードがティーチの死体を検分すると、銃創が5つ、太刀傷がおよそ20に及んでいた。他にトビアス・ナイトからの手紙を含む、いくつかの書状も持っていた。ティーチの死体の胴体は入り江に投げ捨てられ、頭部は討伐の証拠としてメイナードの船のマストに吊り下げられた[86]

死後

メイナード大尉はさらに数日間、オクラコークに留まり、船の修理や死亡者の埋葬を行った[87]。ティーチの略奪品(砂糖、ココア、インディゴ、綿)は、「in pirate sloops and ashore in a tent where the sloops lay」から見つかり、トビアス・ナイトの納屋にあった砂糖や綿と合わせて2,238ポンドで売られた。スポッツウッドはこの収益の全額を今回の作戦の費用に充てた。ティーチに掛けられた懸賞金は約400ポンドであったが、これはライム号とパール号の船員達に分配された。しかし、ブランド艦長と彼の部隊は死にたくなくて戦いに参加していなかったのだから、この分配は非常に不公平だとメイナードは考えた。ところが、こうしたメイナードの不満も、彼と彼の部下たちがティーチの略奪品から約90ポンド分くすねていたことが発覚したために、もしかしたら認められたかもしれない抗議ができなくなってしまった。また、2つの部隊に対する懸賞金の支払いが実施されたのは4年後だったし[88][89]、その勇敢さにも関わらずメイナードは昇進されなかった。その後の彼については不明瞭なまま消えてしまう[90]

ティーチの手下たちと、元仲間たちはバスのブランドで発見されて[89]バージニア植民地のウィリアムズバーグに移送され、海賊行為の容疑で投獄された。何人かは黒人で、スポッツウッドは、彼の諮問委員会に「これらの黒人たちが他の海賊と同じ裁判を受けることを免除するための状況」について何ができるか、迅速に諮問した。それにも関わらず、1719年3月12日、男たちはウィリアムズバーグの議事堂で開かれた裁判にかけられた。その日の訴訟記録は残っていないが、16人中14人が有罪となった。無罪となった2人の内、一人は前夜にゲストとして酒盛りに参加しただけであり、明白に海賊ではなく無実であることを証明した。もう一人はイスラエル・ハンズで、彼は戦闘には参加していなかった。ハンズは、酒盛りの最中にティーチに膝を撃たれたことや、王の恩赦を受けていることを訴えた[注釈 12]。残りの海賊は絞首刑にされ、その死体はウィリアムズバーグの議事堂の道沿いに腐敗するまで晒された(その後、しばらく「Gallows Road(絞首刑通り)」として知られていた)[92]

スポッツウッドがノースカロライナの自治権を侵したことは[93]、確実にエデンを困惑させたが、スポッツウッドはいささかも私欲に基づくものではないと抗弁した。スポッツウッドは、カロライナ植民地の出資者であるカーテレット卿に、押収した資産の売却益を得られるかもしれないことや、自分たちの権益を守るために亡くなったバージニアの人たちのことを思い起こすよう訴えた。また、彼はエデンが「作戦の成功に何ら寄与しない」と示唆することで、作戦の機密性を主張し、海賊を逮捕する根拠は、王命に由来するとエデンに言った。エデンはティーチと深い関係にあったことを強く批難され、共犯者であるとまで指摘された。エデンを批判することによって、スポッツウッドは自分の侵害行為の合法性を強化しようと意図していた[94]。スポッツウッドは目的によって手段を正当化できると考えていたのかもしれないが、実際にはノースカロライナに一方的に派兵したことに何ら法的根拠はなかったし、海賊を逮捕することも、その略奪品を押収したり競売にかける権限もなかった、とリーは指摘している[95]。エデンも間違いなく同じ考えを持っていた。スポッツウッドはトビアス・ナイトもティーチの協力者であったと批判したため、1719年4月4日にエデンはナイトに対する尋問を認めた。数週間前、イスラエル・ハンズは、1718年8月にティーチがフランス船をノースカロライナに運び込んだ直後にナイトがアドベンチャー号に乗船していたと証言していた。また、4人の海賊はティーチと一緒に贈り物を渡すためにナイトの家に行ったと証言した。これら証言とメイナードが黒髭の死体から発見したナイトの手紙によって、このナイトにかけられた容疑は説得力があるように見えたが、彼はその能力で上手く立ち回って反論した。ナイトは死病に冒されながらも、スポッツウッドの用意した証言者たちの信頼性を疑問視し、イスラエル・ハンズの証言は強迫された下で行われたことや、ノースカロライナの法によってアフリカ人の証言は認められないことを挙げた。また、自分の家に保管されていた砂糖は合法的なものであり、ティーチは我々が許可した範囲の仕事に関してのみ訪問したに過ぎないと主張した。理事会はすべての罪状に対し、ナイトを無実とした。そして彼はその年の内に亡くなった[96][97]

エデンは、ナイトに対する裁判について何の役割も果たせないことに苛ついていた。ブランドが押収した物品は、公的なノースカロライナの資産であり、エデンはこれを泥棒行為とみなしていた。この論争は1722年3月17日にエデンが亡くなるまで植民地間でやり取りされた。こうしたエデンの指摘は、スポッツウッドの政敵の一人、ジョン・ホロウェイに引き継がれ利用された。同年、スポッツウッドは、長年に渡ってバージニア評議会で有力者のブルージュ家と敵対していたこともあり、ロバート・ウォルポールによって総督を解任され、後任にHugh Drysdaleが着任した[62][98]


注釈

  1. ^ 奴隷を輸送する目的で特別に改造された大型貨物船の通称。
  2. ^ コンスタムは海賊たちはほぼ確実に「ホラを吹いて捕虜をからかう」として事実である可能性は低いと指摘している[25]
  3. ^ これらの話の中で、ボストックは、ティーチがしきりにPinkentham船長を見つけたがっており、繰り返し彼のことを尋ねてきたという。実はPinkenthamは、Grinnawayという名の海賊に捕まっていたが、ボストックは教えなかった[26]
  4. ^ ゆっくり均一に燃えるように作られた導火線。リーはこの導火線について「鉛筆ほどの太さで、麻紐を塩水と石灰水に浸して作った導火線」と説明している[31]
  5. ^ この方針はティーチに大きく貢献した。コンスタムによればティーチは最後の戦いまで一人とすら殺さなかった[34]。シカゴ大学の経済学者であるピーター・リーソンは、彼はそんなことをする必要はまったくなかったと指摘している[35]
  6. ^ おそらくアン女王の復讐号に備え付けられたロングボート[49]
  7. ^ 鹵獲されたリベンジ号は後にサウスカロライナ植民地総督の命令により艦隊に組み込まれた。艦隊はチャールズタウンの港の入り口近くにおいて海賊団と激しい戦闘になり、1ヶ月の間に49人の海賊が処刑された。それら遺体はホワイトポイント近くの絞首台に放置されていた[50]
  8. ^ 植民地総督は1702年にウィリアム3世の布告によってイギリス国外での海賊鎮圧の権限を与えられていたが、その期限は切れており、スポッツウッドは1718年12月までジョージ1世の新たな布告を受けていなかった[61]
  9. ^ 二人の艦長はホロウェイが民事訴訟に関与していたので拒否した。
  10. ^ パール号とライム号は船足が深く、オクラコーク周辺の浅瀬を航行できなかった[68]
  11. ^ このやり取りは他に裏付けする史料がなく、ジョンソンが内容を面白くするために捏造した疑いが強い[80]
  12. ^ コンスタムは、獄中のハンズがスポッツウッドへの情報提供者だったと示唆している[91]
  13. ^ ジョンソンの説明で疑わしい多くの「事実」の中に、ティーチと英国艦スカーボロー号の遭遇がある[105]。スカーボロー号の記録にも、その艦長の手紙にも、そのような出来事があったことに言及していない。歴史家のColin Woodardは、ジョンソンが、ジョン・マーテル一味とスカーボロー号が戦闘したことと、黒髭が別の軍艦シーフォードと遭遇したことを混同したのではないかと指摘している[106]

出典

  1. ^ Perry 2006, p. 14
  2. ^ Konstam 2007, pp. 10–12
  3. ^ Lee 1974, pp. 3–4
  4. ^ Wood, Peter H (2004), “Teach, Edward (Blackbeard) (d. 1718)”, Oxford Dictionary of National Biography (Oxford University Press), http://www.oxforddnb.com/view/article/27097 2009年6月9日閲覧。 
  5. ^ Lee 1974, pp. 4–5
  6. ^ Konstam 2007, p. 19
  7. ^ a b Johnson 1724, p. 70
  8. ^ Lee 1974, p. 9
  9. ^ Woodbury 1951, pp. 71–72
  10. ^ Lee 1974, pp. 9–11
  11. ^ Lee 1974, pp. 11–12
  12. ^ Konstam 2007, pp. 64–69
  13. ^ Konstam 2007, p. 64
  14. ^ Konstam 2007, pp. 78–79
  15. ^ Lee 1974, pp. 13–14
  16. ^ Konstam 2007, pp. 66–67
  17. ^ Konstam 2007, p. 79
  18. ^ Woodbury 1951, p. 155
  19. ^ Lee 1974, p. 14
  20. ^ Konstam 2007, pp. 81–88
  21. ^ Gosse, Philip (1924). The Pirates' Who's Who by Philip Gosse. New York: Burt Franklin. http://www.gutenberg.org/files/19564/19564-h/19564-h.htm 2017年6月23日閲覧。. 
  22. ^ Lee 1974, p. 18
  23. ^ Konstam 2007, p. 88
  24. ^ Konstam 2007, pp. 154–155
  25. ^ Konstam 2007, pp. 90–91
  26. ^ Woodard 2007, pp. 224–225
  27. ^ Lee 1974, pp. 27–28
  28. ^ a b Johnson 1724, p. 87
  29. ^ Konstam 2007, p. 91
  30. ^ Konstam 2007, p. 155
  31. ^ Lee 1974, p. 21
  32. ^ Johnson 1724, p. 57
  33. ^ Lee 1974, p. 20
  34. ^ Konstam 2007, p. 157
  35. ^ Leeson, Peter T. (2010), Pirational Choice: The Economics of Infamous Pirate Practices, p. 21, http://www.peterleeson.com/Papers.html 2010年4月21日閲覧。 
  36. ^ Konstam 2007, pp. 88–89
  37. ^ Konstam 2007, pp. 124–126
  38. ^ Downey, Cristopher Byrd (2012). “Blackbeard”. Stede Bonnet: Charleston's Gentleman Pirate. The History Press. p. 44. ISBN 1609495403. https://books.google.com/books?id=jSNmqFqIzfEC&pg=PA44. 
  39. ^ Lee 1974, pp. 30–33
  40. ^ Konstam 2007, pp. 127–128
  41. ^ Konstam 2007, p. 130
  42. ^ Konstam 2007, p. 164
  43. ^ Lee 1974, pp. 39–42
  44. ^ Lee 1974, pp. 42–47
  45. ^ Lee 1974, p. 47
  46. ^ Lee 1974, pp. 50–51
  47. ^ Konstam 2007, p. 183
  48. ^ Konstam 2007, pp. 183–185
  49. ^ Konstam 2007, p. 184
  50. ^ a b Lee 1974, pp. 52–54
  51. ^ Cobbett, Howell & Howell 1816, p. 1249
  52. ^ Lee 1974, pp. 51–52
  53. ^ Konstam 2007, pp. 150, 167
  54. ^ Konstam 2007, p. 187
  55. ^ Lee 1974, pp. 52–53, 56
  56. ^ Konstam 2007, pp. 198–202
  57. ^ Lee 1974, p. 80
  58. ^ Lee 1974, pp. 85,88–90
  59. ^ Konstam 2007, pp. 204–205
  60. ^ Lee 1974, pp. 94–95
  61. ^ Konstam 2007, pp. 205–206, 217
  62. ^ a b Lee 1974, pp. 98–101
  63. ^ Lee 1974, p. 104
  64. ^ Lee 1974, pp. 104–105
  65. ^ Konstam 2007, pp. 205–207
  66. ^ Lee 1974, p. 105
  67. ^ Lee 1974, p. 106
  68. ^ Konstam 2007, p. 241
  69. ^ Lee 1974, pp. 108–110
  70. ^ Konstam 2007, pp. 242–244
  71. ^ Lee 1974, pp. 111–112
  72. ^ Woodard 2007, pp. 289–290
  73. ^ Lee 1974, p. 113
  74. ^ Johnson 1724, p. 81
  75. ^ Lee 1974, p. 210
  76. ^ Konstam 2007, pp. 246–248
  77. ^ Lee 1974, pp. 115–117
  78. ^ Konstam 2007, p. 252
  79. ^ Johnson 1724, p. 82
  80. ^ Konstam 2007, p. 251
  81. ^ Lee 1974, p. 118
  82. ^ Konstam 2007, p. 253
  83. ^ Lee 1974, pp. 119–120
  84. ^ Konstam 2007, pp. 255–257
  85. ^ Lee 1974, pp. 120–123
  86. ^ Lee 1974, pp. 122, 124
  87. ^ Konstam 2007, p. 259
  88. ^ Lee 1974, p. 139
  89. ^ a b Lee 1974, pp. 125–126
  90. ^ Konstam 2007, pp. 272–274
  91. ^ Konstam 2007, p. 271
  92. ^ Lee 1974, pp. 136–138
  93. ^ Lee 1974, p. 127
  94. ^ Konstam 2007, p. 233
  95. ^ Lee 1974, pp. 127–135
  96. ^ Lee 1974, pp. 143–153
  97. ^ Konstam 2007, pp. 274–277
  98. ^ Konstam 2007, pp. 276–280
  99. ^ a b Matson, John (26 November 2008), What Would Blackbeard Do? Why Piracy Pays, scientificamerican.com, p. 2, http://www.scientificamerican.com/article.cfm?id=pirates-rational-choice&page=2 2010年2月20日閲覧。 
  100. ^ Lee 1974, p. 5
  101. ^ Lee 1974, p. 168
  102. ^ Woodbury 1951, pp. 201–208
  103. ^ Woodard 2007, p. 325
  104. ^ a b Lee 1974, pp. 8–9
  105. ^ Konstam 2007, p. 90
  106. ^ Woodard 2007, pp. 222–223
  107. ^ Konstam 2007, p. 4
  108. ^ a b Konstam 2007, pp. 1–2
  109. ^ Woodbury 1951, p. 198
  110. ^ a b 15 Facts About Blackbeard”. Mental Floss (2018年11月22日). 2019年1月2日閲覧。
  111. ^ Konstam 2007, pp. 176–177
  112. ^ Konstam 2007, pp. 176–177
  113. ^ Konstam 2007, p. viii
  114. ^ Ross, I. (October 1974), Blackbeard, United States Naval Institute Proceedings, pp. 72–74 
  115. ^ Woodbury 1951, pp. 131–133
  116. ^ Konstam 2007, p. 285
  117. ^ In Shipwreck Linked to Pirate, State Sees a Tourism Treasure, The New York Times, hosted at nytimes.com, (9 November 1997), p. 134, https://www.nytimes.com/1997/11/09/us/in-shipwreck-linked-to-pirate-state-sees-a-tourism-treasure.html 2010年4月21日閲覧。 
  118. ^ 250,000 Pieces of Blackbeard from Shipwreck, islandgazette.net, (20 November 2009), オリジナルの9 July 2015時点によるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20150709054722/http://www.islandgazette.net/news-server1/index.php?option=com_content&view=article&id=9534%3A250000-pieces- 2015年3月27日閲覧。 
  119. ^ Konstam 2007, p. 288
  120. ^ Lee 1974, p. 174
  121. ^ Whedbee 1989, pp. 32–33
  122. ^ Blackbeard's Cove, blackbeardscove.net, (2007), http://www.blackbeardscove.net/ 2010年4月21日閲覧。 
  123. ^ Douglas 1835, p. 34
  124. ^ 尾田栄一郎 (w, p, i). "SBS" ONE PIECE vol. 49, p.88 (2008年3月9日), 集英社, ISBN 9784088744858
  125. ^ Konstam 2007, pp. 284–285
  126. ^ Ostrow, Joanne (2014年5月28日). “John Malkovich is a bizarro Blackbeard in NBC’s "Crossbones"”. Denver Post. http://www.denverpost.com/2014/05/28/john-malkovich-is-a-bizarro-blackbeard-in-nbcs-crossbones/ 2017年10月24日閲覧。 
  127. ^ Frielander, Whitney (2015年3月24日). “‘Divergent’s’ Ray Stevenson Joins Starz’s ‘Black Sails’ as Blackbeard”. Variety. https://variety.com/2015/tv/news/black-sails-blackbeard-ray-stevenson-1201459131/ 2017年10月24日閲覧。 





黒髭と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「黒髭」の関連用語

黒髭のお隣キーワード

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   
検索ランキング



黒髭のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの黒髭 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2020 Weblio RSS