黒田孝高 関連史跡ほか

黒田孝高

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/14 15:05 UTC 版)

関連史跡ほか

  • 宇佐神宮大分県宇佐市)- 大友宗麟の戦火により消失した、神宮寺・弥勒寺の再建に当たっている。
  • 安楽寺天満宮(太宰府天満宮)- 如水は中興の祖といわれ、境内には茶の湯で使用した「如水の井戸」が残っている。
  • 合元寺(大分県中津市)- 城井鎮房が中津城で暗殺された際、城井家臣40名が滞在していた。寺の門前の白壁は黒田兵が彼らを討った際に血痕が付着し、それが幾度塗り替えられても浮き出るので、ついに赤色に塗られるようになり、地元では通称「赤壁寺」と呼ばれる由来になったという伝承がある。庫裏の大黒柱には現在も刃痕が残っている。戦死した城井家臣は合葬され、境内の延命地蔵菩薩堂に祀られ菩提が弔われた。ただし合元寺は中国式の廟を模して作られ、当初より壁は赤かったという説もあり、城井家臣誅殺の悲劇性が赤壁と結びついて伝説を生んだともいわれる。
  • 黒田家の播磨での先祖の伝承がある兵庫県西脇市荘厳寺では、毎年、官兵衛を偲び法要が行われている。
    黒田如水の墓(崇福寺
  • 墓所
  • 祀社
    •  福岡市中央区西公園光雲神社。黒田孝高を祭神、「水鏡権現」として祀る。[49]
    •  兵庫県姫路市廣峯神社本殿隣「官兵衛神社」。黒田家が廣峯神社御師だったとの伝承により建立。

系譜

孝高の子は、正室櫛橋光との間に生まれた黒田長政(長男、永禄11年(1568年)生誕)と黒田熊之助(次男、天正10年(1582年)生誕)のみであった。長政の誕生後、しばらく子が生まれなかったが、側室を持つことはなかった。

次男・熊之助は慶長2年(1597年)、朝鮮出兵に参加していた父や兄を見舞うために、母里吉太夫(母里友信の嫡男)・加藤吉松(黒田一成の弟)・木山紹宅を従え朝鮮半島を目指していた途中で暴風に遭って船が沈没し亡くなった(享年16)。

その他

  • 筑前国福岡の地名は元は福崎であり、如水が曾祖父・黒田高政の代から関わりが深く、洪水で壊滅した備前国福岡 (瀬戸内市)の地名にちなみ変更されたとされる[注釈 45]
  • 『黒田家譜』を編纂した貝原益軒の祖父・貝原信盛は備前国吉備津神社の神官であり、武田信玄に仕えた後、九州攻めの際に孝高に出仕して外交官[4]慶長7年には福津崎の代官を務めている[51]
  • 江戸時代には如水の家臣から24人の精鋭が選出され、黒田二十四騎と呼ばれた。そして、この24人の中の親族や譜代重臣の黒田利高栗山利安井上之房後藤基次母里友信など8人が、黒田八虎とされた。この二十四騎の成立については江戸時代初期、江戸城百人組番所鉄砲隊の二十五騎組との関連性が指摘されている。
  • 19世紀の福岡藩士・山口武乕の調査により発見された系図『黒田家略系図(荘厳寺本)』によると、足利尊氏の有力守護大名である赤松円心の弟・円光の子を1351年より氏祖として代々黒田城主を務め、赤井忠家(赤井直正の祖父)に落城させられる最後の当主のその弟を孝高とする、とされる[52]。黒田庄が黒田氏ゆかりの地である可能性は、『播磨鑑』の記述や初期の家臣団の出身地などから否定出来ないものの、赤松氏の『赤松諸家大系図』を始めとする他の眷属や姻族の系図などに拠る裏付けも無く、黒田氏の祖先を赤松氏につなげようとした意図がみられる[53]
  • 1983年に黒田孝高の子孫で黒田家第16代当主・黒田長高が孝高の号の「如水」を冠した不動産会社「如水興産」を設立している[54]。主にかつての福岡藩藩邸があった、東京都港区を中心に事業を展開している。
  • 平成25年(2013年)、黒田官兵衛中津顕彰会によって、黒田孝高の人物屋外像(石造)が中津城に史上初めて建立された[55]。2016年には正室、櫛橋光の石像も隣に建立され「夫婦和合の像」として紹介されている[56]

注釈

  1. ^ a b 祐隆」(「祐」の字は赤松義祐より受けたものか)の名は、永禄10年(1567年)12月23日の「小寺祐隆下地売券」に見られ、同13年(1570年)3月12日の「小寺孝隆借銭請取状」では「孝隆」とあることからこの間に改名しているものとみられる。「小寺孝隆」の名は、天正11年(1583年賤ヶ岳の戦いを記録した『天正記-柴田退治記』など)の段階までに確認され、これ以降に黒田に改姓および曽祖父・黒田高政以前の通字である「高」の字を取って「黒田孝高」と名乗ったと思われる。
  2. ^ 先夫・尾上武則の死後、孝高より毛利家臣との縁談を紹介されたが、断り地元の麻生氏と再婚した。
  3. ^ a b 『備前軍記』によると孝高の娘とされているが、年齢的に合わず、孝高ではなく父の職隆の子ではないかという説がある。なお黒田氏の系図類ではその名は一切見られず、養女と見る向きもある。
  4. ^ 今日では一般的に「黒田官兵衛」とは黒田孝高のことを指すが、他にも後世の黒田家の当主が「官兵衛」を通称としている。
  5. ^ 偽書とされることが多い『江源武鑑』、及びこれを参考とした貞享4年(1687年)に福岡藩貝原益軒が編纂した『黒田家譜』などにも「近江源氏佐々木氏京極氏)の傍系である」と同様に記載されるが不明瞭で、『寛政重修諸家譜』などには省かれている[3]
  6. ^ 浦上村宗から逃れたとされる。
  7. ^ 置塩城守護赤松晴政に属したとも言われる。
  8. ^ 小寺則職にも要請が届いている。
  9. ^ 2月に娘・さこの方を義昭の侍女としている。[5]
  10. ^ 『黒田家譜』では天正4年の事とするが、感状から天正5年の誤りとされる。
  11. ^ 別名は妻鹿城・甲山城・功山城・袴垂城ともいう。
  12. ^ 孝高の妻・光の実家である櫛橋氏なども離反し、東播磨で織田方に残ったのは孝高の従兄弟にあたる明石則実、当初より織田派であった別所重宗、赤松広秀など僅か。
  13. ^ 8月、別所氏に呼応した書写山西向かいの、峰相山鶏足寺 (姫路市)を攻めている
  14. ^ 直家は、小西行長を取次として秀吉に帰属を申し入れている。
  15. ^ 賤ヶ岳の戦いを当時に記録した『天正記-柴田退治記』などに、小寺孝隆での記載があることから、それ以降とも考えられる。
  16. ^ 天正8年(1580年)7月に、秀吉が姫路城普請を命じた文書に黒官兵と記されているのが、黒田姓の初見。一方で天正16年(1588年)のフロイスの手紙には、「Condera Cambioyedono」とある。
  17. ^ 『吉田大略記』によると孝高の家臣吉田長利(八代道慶と乳母の子で黒田二十四騎の1人)から孝高へ提案されている。
  18. ^ 大返しの前に小早川隆景より人質と共に20本の旗を借り受け、宇喜多秀家の旗10本と共に掲げた。中国の大勢力が加勢していると見せて、味方を増やし、敵を弱気にさせる策略とされる。[4]
  19. ^ 高名していた配下の秦桐若丸を、この戦いの負傷が元に失っている[要出典]
  20. ^ 香宗我部親泰の与力の菅達長
  21. ^ 黒田孝高、黒田長政、蜂須賀正勝、前野長康生駒親正、明石則実ら在番衆。(『浅野家文書』)
  22. ^ フロイス日本史』によると、天正11年(1583年)頃から室津の小西行長に影響され、明石城の高山右近や蒲生氏郷らに勧められ、天正13年に洗礼を受けた三木城の前野長康(間も無く出石城へ移り、中川秀政が入城)と共に、播磨における布教の入り口となっていたとされる。
  23. ^ 他に、障子岳城、原田信種の高祖城など。
  24. ^ 家臣の久野重勝が担当し、博多商人の神屋宗湛島井宗室が参画している。
  25. ^ 蔵入地は2万石程。自己申告である差出検地を認められている。
  26. ^ 豊前国でも上毛郡の如法寺久信などによる規模な一揆は起きていた。(『金苗文書』)
  27. ^ その間、妹婿の尾上武則などが戦死している。
  28. ^ 天正15年(1587年)12月、下毛郡の犬丸城の攻略に対し、秀吉より長政が感状を受けている。
  29. ^ 『黒田家譜』によると、孝高が朝房を伴い肥後国に出陣していた際、中津城を訪れた鎮房を、長政が酒宴の席で謀殺した。その報告を受けて、孝高は陣に加わっていた朝房を殺害した。
  30. ^ 金子堅太郎は、位牌や系図などから事件は天正17年(1589年)の出来事としている。[9]
  31. ^ 『川角太閤記』では、まだ妻がいなかった長政に鎮房の17歳の息女と縁組をし、孝高が出陣中に留守居役として鎮房を誘い出して殺害した。孝高は「息女たちは親類のいる周防国へ送れ」と指示していたが、長政は手ぬるいとして息女と乳母を火炙りの刑、侍女たちを磔の刑にしたとする。ただし、既に長政には蜂須賀正勝の娘・糸姫を正室としている。
  32. ^ 一連の動きをフロイスは「関白の不興を買った。彼は、少なくとも(赤国・全羅道)を一度攻撃した後に、使者を寄こすべきであったと言い、彼らを卑怯者と呼んだ。なおまた、(黒田)官兵衛殿に対して激昂し、彼を引見しようとせず 、その封禄と屋敷を没収した。 官兵衛殿は剃髪し、予の権力、武勲、領地および多年にわたって戦争で獲得した功績、それらすべては今水泡が消え去るように去って行ったと言いながら、如水すなわち水の如し、と自ら名乗った。かくて彼は息子(黒田長政)がいる朝鮮に戻るのが最良の道であると考えて、その地に帰って行った。」と伝えている。[11]
  33. ^ この如水剃髪に関わる三奉行との確執も、戦略・戦術をめぐっての建設的な衝突ではなく、豊臣政権内における主導権争いであり、それも太閤権力を一手に握ろうとする三奉行の一方的な仕掛けによるものであったために、如水としては弁明の機会も失い、自ら剃髪する以外に危機を脱する術がなかったとされている[12]
  34. ^ 実父は保科正直
  35. ^ 熊谷直盛の安岐城、毛利高政角牟礼城日隈城毛利勝信小倉城、毛利信友の香春岳城など。
  36. ^ 当時、「博多」という地名は「福岡と博多を合わせた双子都市」を指した。[15]
  37. ^ 滋賀県長浜市木之本地区、兵庫県但馬地方、香美町村岡地区など。
  38. ^ 渡邊大門は『黒田家譜』について「参考になる点は多々ある一方で、孝高については黒田家藩祖として顕彰する傾向がある」としている。[20]
  39. ^ (原文)「 上方、美濃口御取り相い当月までも御座候は、中国へ切りあげ、花々と見知返し候て、一合戦仕るべしと存じ候に、むやく内府御勝手に罷り成り残り多し候」
  40. ^ 「くゎんひゃうゑ(くわんひやうゑ)」は「官兵衛」当時の正式なカナ表記。実際の発音としては「かんびょーえ」などが知られる。[23]
  41. ^ ローマ字で表記された以下の人名は全て黒田孝高を指す。Simon Condera (Simon 小寺), Simeon Condera (Simeon 小寺), Kodera Cambyoye (小寺官兵衛), Kodera Kambyoye (小寺官兵衛), Quadera Quanbioi (小寺官兵衛), Kuroda Kambroye (黒田官兵衛、なお KambroyeはKambyoyeの誤読と考えられる), Cuwanbioye (官兵衛), Cambioiendono (官兵衛殿、なお母音のつぎにdなどが続くと、その母音を発音するときに息を鼻に送る[24]。donoの前のnはこの鼻母音を表したものと考えられる), Quambioi-dono (官兵衛殿), and Condera-quansioye (小寺官兵衛、なお18世紀以前、sは時にſと書かれており、quansioyeはquanfioyeの誤読と考えられる。「兵衛」の読みはfioyeとbioyeの二通りがあった[25]
  42. ^ 毛利側にも、御着、志方、山﨑、野間などと共に、姫路も寝返ったと伝わっている。(『毛利家文書』)
  43. ^ この家紋とは石餅(こくもち)の事を指す。石餅とは石高の加増を願う家紋である。
  44. ^ 孝高の母方の祖父に当たる枝吉城主・明石正風は風流武人であったと記録が残る。
  45. ^ 『如水公夢想連歌』の一節、慶長7年(1602年)1月16日付で「松むめ(梅)や 末なか(長)かれと みとり(緑)たつ 山よりつゝく(続く) さとはふく岡(福岡)」と詠んだ記載が現在の初見。[50]

出典

  1. ^ 黒田孝高』 - コトバンク
  2. ^ 福本日南『黒田如水』
  3. ^ 福岡市博物館 - 黒田家のご先祖探し
  4. ^ a b c d e f g h i j k l 貝原益軒『黒田家譜』
  5. ^ 『大阪城天守閣所蔵文書』
  6. ^ a b c d e f 『黒田家文書』
  7. ^ 金子堅太郎『黒田如水伝』博文館、1916年。 
  8. ^ 賤ケ岳合戦:黒田官兵衛も参戦していた…秀吉の古文書発見(毎日新聞2013年5月10日)
  9. ^ 金子堅太郎 『黒田如水傳』(博文館、1916年、のちに文献出版から1976年に再版)
  10. ^ 福岡市博物館蔵、黒田家文書
  11. ^ 松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ』、中央公論社、1979~1980年
  12. ^ 宮本義己「如水剃髪の真相」(『別冊歴史読本』32巻24号、2007年)
  13. ^ 中野等「黒田孝高」『キリシタン大名 布教・政策・信仰の実相』宮帯出版社、2017年、274頁
  14. ^ 小和田 哲男『黒田如水―臣下百姓の罰恐るべし』ミネルヴァ書房、2011年12月1日、280頁。ISBN 978-4623062454 
  15. ^ キリシタン研究19, pp. 116, 131, 137, 153, 168.
  16. ^ キリシタン研究19, pp. 23.
  17. ^ キリシタン研究19, pp. 23–24.
  18. ^ キリシタン研究19, pp. 27.
  19. ^ 『官報』第5812号「叙任及辞令」1902年11月17日
  20. ^ 渡邊大門 『誰も書かなかった 黒田官兵衛の謎』(中経出版、2013年)
  21. ^ 完訳フロイス日本史5 第44章
  22. ^ 西日本文化協会 福岡県地域史研究所編『福岡県史』近世史料編 福岡藩初期(下)(西日本文化協会、1983年)pp.487,489。
  23. ^ クリセル神父校閲・吉田小五郎訳『日本切支丹宗門史(上)』岩波書店、1938年、p.39など
  24. ^ 池上岑夫訳『日本語小文典 上』岩波書店、1993年、73頁
  25. ^ 池上岑夫訳『日本語小文典 下』岩波書店、1993年、198頁
  26. ^ 土居忠生ほか訳『邦訳 日葡辞書』(岩波書店、1980年)巻末「ローマ字綴り・音注対照表」(p.863の次の頁)、また、池上岑夫訳『ロドリゲス 日本語小文典(上)』(岩波書店、1993年)p.266。
  27. ^ 黒田長政と二十四騎展実行委員会編集・発行 『黒田長政生誕四四〇年記念展 黒田長政と二十四騎 黒田武士の世界』 福岡市美術館、2008年9月、p.93。
  28. ^ 黒田如水』 - 国立国会図書館デジタルコレクション p216
  29. ^ 黒田如水伝』 - 国立国会図書館デジタルコレクション p530-531
  30. ^ 本郷和人「戦国武将のLOE」『週刊文春』1月1日号、2014年。 
  31. ^ a b 岡谷繁実 『名将言行録』 前編下冊 巻之二十九
  32. ^ 諏訪 2013.
  33. ^ 新井トシ訳『グスマン東方伝道史』下巻、養徳社、1945年、536-537頁。原文:..., te quite grande parte de darte lo que auia determinado do darte (dixo esto) porque siendo su capi tan en las guerras del Ximo, le auia prometido de darle dos Reynos, y con el disgusto que enton ces tomo contra los Padres, y corra la Christiandad, no quiso darle despues sino la mayor parte te del Reyno de Buygen, con el titulo de aquel reyno.
  34. ^ 官兵衛、幽閉への遺恨なし? 荒木村重への書状確認
  35. ^ a b c d e 黒田如水と一族, p. 5
  36. ^ (福岡市博物館発行『黒田家の甲冑と刀剣』第二版)
  37. ^ 黒田長政と二十四騎-福岡市博物館のウェブサイトより-2008年9月21日確認
  38. ^ 諏訪勝則『黒田官兵衛』(中央公論新社、2013年、34-35頁)
  39. ^ 国宝刀 名物「へし切長谷部」-福岡市博物館のウェブサイト-2008年9月21日確認
  40. ^ 第一次四国征伐ー2008年9月21日確認
  41. ^ 刀と能面-福岡市博物館ウェブサイトより-2008年9月21日確認
  42. ^ 国宝太刀 名物「日光一文字」-福岡市博物館のウェブサイト-2008年9月21日確認
  43. ^ a b 黒田如水と一族, p. 4
  44. ^ 黒田如水と一族, p. 65.
  45. ^ 黒田家 その歴史と名宝展-福岡市博物館のウェブサイト-2008年9月21日確認
  46. ^ 黒田如水と一族, p. 25.
  47. ^ [1]開運!なんでも鑑定団2010年8月3日放送分
  48. ^ 金子堅太郎『黒田如水傳』
  49. ^ 光雲神社公式ホームページ”. 光雲神社. 2022年4月6日閲覧。
  50. ^ 西日本新聞2013年7月10日
  51. ^ 『「如水発行 勝浦浜「塩」皆済状」』。
  52. ^ 「播磨黒田氏 黒田官兵衛」参照。
  53. ^ 渡邊大門「黒田官兵衛の生涯」(『歴史読本』58巻5号、2013年)
  54. ^ “[解藩知県]令和の殿<8>旧福岡藩黒田家 黒田長高さん 69”. 読売新聞. (2021年9月11日). https://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/feature/CO051552/20210911-OYTAT50008/ 2021年9月16日閲覧。 
  55. ^ 官兵衛スポットに新戦力!~中津城下で黒田官兵衛“石造”除幕式が開催されました~、2015年6月5日閲覧。
  56. ^ 【市長フォト】黒田官兵衛正室「光姫」石造除幕式 |”. 中津市役所. 2018年6月2日閲覧。


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