黒沢年雄 黒沢年雄の概要

黒沢年雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/04 22:29 UTC 版)

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くろさわ としお
黒沢 年雄
本名 黒沢 年男
生年月日 (1944-02-04) 1944年2月4日(76歳)
出生地 日本神奈川県横浜市西区
身長 175cm
血液型 AB型
職業 俳優
ジャンル テレビドラマ映画
活動期間 1964年 -
配偶者 街田リーヌ
著名な家族 黒沢レイラ(娘)
黒沢博(弟)
事務所 プロダクション・クロ
公式サイト 株式会社プロダクション・クロ 公式サイト
主な作品
テレビドラマ
日本沈没』、『影同心II』、『大空港
爆走! ドーベルマン刑事』、『ザ・ハングマン
映画
日本のいちばん長い日
修羅雪姫』、『仁義なき戦い 頂上作戦
バラエティー番組など
踊る!さんま御殿!!
CM
オウミ住宅
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神奈川県横浜市西区出身[1]日本大学高等学校中退[2]

来歴

父はボイラー技士[1]。四人兄弟の長男(博は三男)[3]

小学生の頃に好きだった巨人の選手(川上哲治青田昇ら)に憧れて野球選手になると決心して野球を始め[4]、日本大学横浜学園(日本大学中学校)進学後も高校生時代まで野球部に所属[5]。高校生の時には、法政二高との練習試合で投手だった柴田勲と対戦し、ヒットを打ったことがある。しかしその時バットがへし折られていたことと、先輩たちが全く歯が立たなかったのを見たことから、上には上がいるからプロ野球選手は無理かも知れないと思うようになる[6]

その後、同じ高校の2年先輩で高校生時代からすでに歌手活動をしていた坂本九、同じ野球部の2年先輩で後に歌手になった飯田久彦に影響されて、自分も歌手になりたいと思い、家出して数日後、ジャズ喫茶の銀座ACBでオーディションの告知を偶然目にして参加、合格するも「自分には才能がある」と思い込んで給料8千円のバンドボーイの条件を断り、大阪のナンバ一番や京都のベラミなどのジャズ喫茶、クラブなどのオーディションも受けたが条件がみんな似通っていたようなこともあって、結局横浜に帰って来る[7]。その後も歌手や芸能界への夢はあきらめず、高校の野球部の先輩の飯田久彦に相談を持ち掛けたこともあったが、その後は精肉店勤務を経て、紹介により横浜の企業「築港興業」に入社。この頃は昼のサラリーマン生活の傍ら、夜はキャバレーのボーイとしても勤務していた[8]

その後も各映画会社のニューフェース募集の告知があるたびにオーディションに通い続け、日活では最終面接まで行くことが出来たが落選[9]1964年東宝ニューフェイスの後身の第4期オール東宝ニュータレントとして東宝に入社。俳優を志した理由は「有名になって金持ちになりたかったから」[10]。東宝に入社して間もない頃に、プロデューサー会議で決定したという芸名「八方一郎(やかた いちろう)」を提示される。「三船敏郎三橋達也加山雄三、わが社のスターは全員名前に数字が入っている。それに方破れな君にぴったりだし、八は末広がり。姓名判断を加味して決めた」という命名理由だったが、これにすぐに呆気にとられて嫌になったことから断り、それならという案で提示された「黒沢敏郎」も「三船さんの敏郎だから名前負けする」と固辞。結局、本名でデビューすることになった[11]。その後『踊る!さんま御殿!!』内では一時期これをネタにして「八方一郎」という名前で呼ばれ、頻繁にゲスト出演していた。

岡本喜八福田純西村潔松林宗恵などの作品に多く起用されて人気が出る。

テレビドラマでも『ザ・ハングマン』への出演で知られるようになる。

独特の低音声が特徴で、「やすらぎ」と「時には娼婦のように」は大ヒットとなった。

それまでオファーを受けても本人曰く「格好つけて」断っていたというバラエティ番組に本格的に出始めるようになったきっかけは娘に勧められたことで、42歳の時に『さんまのまんま』(関西テレビ放送)に出演し、本人曰く「オーバー過ぎるくらいにバカをやってみた」ところ、予想以上の反響を呼んだことで他のバラエティ番組から次々にオファーが来るようになる[12]。そして平成に入ってからはオウミ住宅のCMが話題を集め、トーク番組では中尾彬などと並んで出演が増加した。

1992年大腸癌が発覚し、それまでアイパーをかけていた頭髪を短く刈り込み(現在はそれに加えて白く染めている)、その後は無精髭(長さは2mmにそろえている)を生やし、ニット帽(当初はファッションモデルの夫人が持っていたピエール・カルダンのニット帽だった)を被るようになった。

2010年、著書『二流芸能人が、何度がんになっても笑って生きている理由』(講談社刊)を上梓、2008年膀胱癌内視鏡手術を行っていたことを告白した。

2015年5月14日白内障の手術を受け、成功[13]

近年は「夢スター歌謡祭 春組対秋組歌合戦」に出演し、全国各地を回っている。

人物

  • 東宝で面接を受ける日、わざと遅刻して面接会場に現れ、母親の話や仕事を三つ掛け持ちしていたために寝坊したなどといった話をした後に「自分を合格させないと映画界の損失になる」と言い放った(その時面接を受けた男性希望者で合格したのは黒沢ただ1人だった)[14]。後で黒沢自身がプロデューサーの藤本真澄から聞いた話によると、この受け答えのぶっきらぼうさが三船敏郎の面接時のそれにそっくりだったという。また、名前だけ見て黒澤明の息子かと勘違いした審査員も何人かいたという[15]
  • トレードマークとなったニット帽は先述の通り妻が持っていたものであるが、黒沢は、ある日「このままでは自分の存在が薄くなって忘れ去られてしまうのではないか」と思い立ち、今までの自分を捨てて新しくイメージを構築することを思い立ち、まず頭を丸めたが、「まだ何か足りない」と思っている時、妻が自分の古い写真を見つけ、さらにその中で被っていたニット帽がタンスの中から出てきたので被ってみると、思いのほか似合っていたため、この格好に決めたという。さらに髭を伸ばして見たとき、自ら「ショーン・コネリーに似ている」とも思ったと述べている[16]
  • 当初は『ウルトラマン』のウルトラマン(ハヤタ)役の候補に挙がっていた[10]。黒沢本人は、当時所属していた東宝プロデューサーの藤本真澄が黒沢に映画の仕事を優先させるために断ったのではないかと推測している[10]。また、『ウルトラセブン』のウルトラセブン(モロボシ・ダン)役の候補に挙がったこともあった。
  • いつみても波瀾万丈』出演時によると、デビュー前後に関わらず、ケンカに明け暮れていた。その腕っ節は強く、警察に職務質問を受けても捕まらなかった。
  • 映画スターとなってかなりの収入があったが、森繁久彌から「30歳までに稼いだ金は全部使いなさい。貯金を残すな」と言われ、そのとおりに遊興し、東宝との契約解除や『ハングマン』の主役交代などで幾度か収入がピンチになってしまい、「森繁さんの言うことさえ聞いてなければ、今頃は……」とコメントしたことがある[17][18]
  • 上記のように20代など若い頃は毎年春と秋の2回、ヨーロッパ(主にフランスイタリア)に行くことが慣例となっており、現地で最先端のファッションに直接触れていたその影響もあって、ファッションについては「いつまでもTシャツジーンズスポーツカーの似合う男になりたい」などといった持論がある[18]
  • 三年目の浮気」を歌う依頼があったが、当初、ニヒルな二枚目としてのイメージがあった黒沢は、コミカルな歌の内容からこれを断り、バンド活動をしていた弟に白羽の矢が立てられた。



  1. ^ a b 東京新聞 2020年2月4日夕刊「『この道』黒沢年雄・2」
  2. ^ 東京新聞 2020年3月2日夕刊「『この道』黒沢年雄・23」
  3. ^ 東京新聞 2020年2月7日夕刊「『この道』黒沢年雄・5」
  4. ^ 東京新聞 2020年2月10日夕刊「『この道』黒沢年雄・7」
  5. ^ 東京新聞 2020年2月14日夕刊「『この道』黒沢年雄・9」
  6. ^ 東京新聞 2020年2月17日夕刊「『この道』黒沢年雄・12」
  7. ^ 東京新聞 2020年2月21日夕刊・2月22日夕刊「『この道』黒沢年雄・15、16」
  8. ^ 東京新聞 2020年2月23日夕刊・2月24日夕刊・2月26日夕刊・2月27日夕刊「『この道』黒沢年雄・17、18、19、20」
  9. ^ 東京新聞 2020年2月29日夕刊「『この道』黒沢年雄・22」
  10. ^ a b c 「黒沢年雄インタビュー」『円谷プロ怪奇ドラマ大作戦』洋泉社〈洋泉社MOOK 別冊映画秘宝〉、2013年、127頁。ISBN 978-4-8003-0174-1
  11. ^ 東京新聞 2020年3月5日夕刊「『この道』黒沢年雄・26」
  12. ^ スポーツニッポン 2016年9月22日22面「我が道 黒沢年雄・22」
  13. ^ 黒沢年雄、白内障の手術成功”. デイリースポーツ online (2015年5月15日). 2015年5月15日閲覧。
  14. ^ 東京新聞 2020年3月3日夕刊「『この道』黒沢年雄・24」
  15. ^ 東京新聞 2020年3月4日夕刊「『この道』黒沢年雄・25」
  16. ^ スポーツニッポン 2016年9月23日24面「我が道 黒沢年雄・23」
  17. ^ スポーツニッポン 2016年9月21日22面「我が道 黒沢年雄・21」
  18. ^ a b スポーツニッポン 2016年9月24日26面「我が道 黒沢年雄・24」


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