鳥羽・伏見の戦い 背景

鳥羽・伏見の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 17:53 UTC 版)

背景

攘夷戦争を巡って

江戸幕府の「異国船打ち払い令」と『新論』の広まり

江戸時代末期の1824年(文政7年)に常陸国水戸藩外国人上陸事件・大津浜事件が起きた[1]江戸幕府代官・古山善吉、蘭学者通訳・吉雄忠次郎、天文方・高橋作左衛門らと共に、を求めて上陸したイギリス捕鯨長・ジョンギブソンらの対応にあたった哲学者思想家水戸学者)の水戸藩士・会沢正志斎会沢安)は、数十年にわたる彼の西洋史研究や、周辺諸国の殆どが欧米列強植民地化されてきている国際認識から「イギリス人通商自由貿易)が目的だと語り、いたるところで友好的に近づいているが、国の強弱を確かめると、弱い国には兵力で攻め込み、強い国にはキリスト教で民衆をたぶらかして国を奪っている」「キリスト教圏の西洋諸国に対抗し、日本を強国にするべきだ」との危機感を深めた[1]。翌1825年(文政8年)2月、江戸時代を通じ出島に限定した保護貿易政策をとってきた江戸幕府は、オランダ朝鮮王国の船や明らかな遭難船を除いて、陸に近づく正体不明の外国船へ沿岸警備の役人から発砲するよう命じる異国船打払令(無二念打払令)を発布し、これまで大津浜事件と同じよう、上陸した外国人へ丁寧に退去を求めながら、どの外国船にも食料と水などを供給する微温的国防政策から転換することになった[2]。同年、会沢は日本再興のための国事改革マニフェスト新論』を著すと、「欧米列強の力の源である国民の精神的統一と国家への忠誠をうみだしているのはキリスト教による一般民衆の教化である」と分析した上で「日本でも、臣下から君主への「」(君臣の忠)と親子における「」(親子の孝)のパラレルな関係のもとに、これら忠孝道徳をうみだす源泉である太陽の女神・アマテラスこと天皇家の始祖を祭ると共に、この始祖を広く日本国民共通の始祖と捉え直し、今はまだ令制国連邦として各大名らの高度自治のなかで分裂・対立・孤立している国内諸藩民を「国体」(国家の本体)によってまとめ、早急に全国の国防を基礎づけなければならない」と論じた[3]。会沢は250年の天下泰平になずんだ江戸の平和のもとで、単に武士道精神の復興、農兵の導入、沿岸警備隊や火薬廠の建設、参勤交代費を節減して雄藩を強化する事など具体的な国事改革論を提出するだけでなく、近代日本を造る「国家」の単位を、改めて定義した「国体」概念ではじめて提出したのである[3]。この書は会沢から第8代水戸藩主・徳川斉脩(おくり名・哀公あいこう)へ献上されたが、哀公は同書を一読後、幕府への献上を認めなかった[3]。また哀公は同書の出版時にも匿名とするよう会沢へ警告した[3]。この書は既存の幕藩体制の秩序を強化する幕政改革論で、決して倒幕や王政復古への展望をもつものではなかった[4]。しかしすぐそこに列強からの植民地化が迫る危機感を「尊王攘夷」の精神として全国へ啓蒙する強烈な檄文でもあったため、既存の幕藩体制をおおかれすくなかれ批判する側面がある以上、現政体を飽くまで維持しようとする保守主義の立場からはいささか進歩主義的にすぎるとみられる内容でもあった[3]。その後、30年間『新論』は出版されなかった[3]。しかし会沢の弟子や同僚らが密かに筆写し世に出回ると[3]、国内知識人のネットワークを通じて同書を読み、感動した諸国の志士らが会沢らに学ぶため常陸国水戸(会沢らの暮らしていた現茨城県水戸市の城下町)を訪れるようになった[3][5]佐賀藩士・大隈重信『大隈伯昔日譚』によると、「勤皇の大義」を説く水戸学派の学説は大隈はじめ同藩士・江藤新平大木喬任らから輸入され、そのうち、会沢の『新論』は「佐賀藩の一部の庶民が最も貴重とするところとなっていた」という[6]

アヘン戦争が日本列島へ与えた衝撃

イギリス東インド会社大清帝国)との貿易で利益を得るため、インド産の麻薬アヘンを清へ密輸した。結果、清でのアヘン輸入は激増、麻薬中毒患者による公衆衛生上の重大問題が発生し、また茶、絹などの輸出でそれまで清側に黒字だった外国銀琉球は、巨額の流出での清側の甚大な経済損失にかわっていた[7]。清では雍正帝以来アヘン禁止が祖先伝来のしきたりとされていた[8]。1839年、道光帝はアヘン厳禁論者・林則徐を欽差大臣として広東に赴任させ、イギリス商人のアヘンを没収・廃棄した[7]。イギリスはその外務相ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)の主導で対清開戦に傾いていき、10月1日にメルバーン子爵内閣の閣議で清への遠征軍派遣が決定された[9]。こうして1840年から2年間にわたりイギリスによる清への侵略戦争として行われたアヘン戦争で、欧米列強による植民地主義の脅威を受け、日本列島の隣国・は敗北した[10]。1842年8月29日、南京に停泊したイギリス戦艦上で、清国の全権大使は戦争をおわらせるためイギリス使節団との屈辱的な南京条約に調印し、清国の半植民地化が確定した[11]。強大な大清帝国が、イギリス軍による強制的な武力行使で西洋に膝を屈し、みずからの中国大陸を外国商人やキリスト教宣教師団へあけわたした――その事実は東アジア全体に衝撃を走らせた[11]。さらに、清帝はアメリカロシアなどとも同様の不平等条約をむすばされたので、もはやアジア諸国の国事指導者らは、一刻の猶予もなく、西洋諸国をまったくもって無視できなくなった[11]。勿論、清敗北・半植民地化の結果は日本の指導者層にも多大な衝撃を与え、それはとりもなおさず、17年前に著され密かに全国で回し読みされていた会沢安『新論』で警告されていた西洋帝国主義が、いまや完全にまぢかで現実化し、切実かつ緊急に国政上の判断をせまる内容となった事を意味していた[11]。また、中国大陸でイギリスが使った膨大な火力は幕府が出した異国船打ち払い令の限界も同時に明らかにしており、「外国船へむやみに砲撃をあびせれば、西洋諸国からの痛烈な反撃を引き起こす」と当然の教訓がひろがって、清敗北と同年に、幕府は同法令を廃止した[11]

幕府へ攘夷戦争を求める孝明天皇の朝廷

1853年(嘉永6年)黒船来航以来、時の第121代孝明天皇は「攘夷戦争」の決行を征夷大将軍を任ずる江戸幕府へ求めつづけていた[12][13][注釈 1]

1853(嘉永6)年、時の第12代将軍・徳川家慶はペリー初来航時に薨去し、次代の第13代将軍・徳川家定(当時29歳)は病弱で非常時の将軍にふさわしくない上に、子がいないので将軍継嗣問題が生じていた[16]。翌1854年3月31日(嘉永7年3月3日)幕府大老で彦根藩主・井伊直弼らは、砲艦外交の下で浦賀に迫ったアメリカ合衆国米国)軍艦との不平等条約である日米和親条約を、孝明天皇による勅許のないまま結んだ。一方朝廷の孝明天皇は、1858年9月14日(安政5年8月8日)攘夷戦争決行の為の幕政改革を依願する『戊午の密勅』(密勅:天皇からの秘密文書)を中納言で同幕府の称副将軍御三家水戸藩主へ送った。

雄藩の尊攘運動

御三家の一つ第9代水戸藩主・徳川斉昭おくり名烈公れっこう)は、同2代徳川光圀(おくり名・義公ぎこう)以来代々勤皇の水戸学哲学してきた家柄で、また正妻の皇族吉子女王との間にうまれたのちの江戸幕府第15代(最後の)将軍徳川慶喜(幼名・七郎麿しちろうまろ)の父だった。佐賀藩士・大隈重信『大隈伯昔日譚』によると、烈公は「天下の望みを繋いだ水戸の藩主で、一代の名君と称せられ、三百諸侯の泰斗と仰がれ」[17]中津藩士・福沢諭吉『福翁自伝』によると「そのとき、中津の人気はどうかといえば、学者はこぞって水戸のご隠居様、すなわち烈公のことと、越前の春嶽(松平春嶽)さまの話が多い」「学者は水戸の老公と云い、俗では水戸のご隠居様と云う。御三家の事だから譜代大名家来けらいは大変に崇めて、かりそめにも隠居などと呼びすてにする者は一人もない。水戸のご隠居様、水戸の老公と尊称して、天下一の人物のように話していたから、私もそう思っていました」というほど全国の尊敬や信望を集めていた[18]。烈公は尊王の志が厚く、義公がそうしていたよう[19]、毎正月元旦に江戸城登城前に庭上におりたつと遥か天皇のおわす方を拝むのが常だった[14]。歴代水戸藩主は定府で江戸住みが常だったが、烈公は都会の軽薄な風紀(社会風潮、世の習わし)がこどもの幼い心に伝染するのを恐れ、かつ、付き人の雇い扶持や服飾代までも都心では子育てに無駄な費用がかさむことから、幕府へ特別にたのんで、公子らをくにもとの常陸国水戸で育てた[20]。当時の江戸の風紀は、化政文化のもとで贅沢や退廃がはびこり、賄賂わいろが公然とやりとりされる金権政治がおこなわれており、武士は長く続いた平和になれ柔弱で、財力のある商人にこうべを垂れる拝金主義同然の状態だった[21]。慶喜は誕生の翌1838(天保9)年、江戸から水戸へ移されると藩校・弘道館水戸徳川家(水戸家)の公子・同藩士らと質実剛健な教育を受け[注釈 2]、1847(弘化4)年、10歳で時の江戸幕府第12代征夷大将軍徳川家慶から請われて江戸へおもむくと、御三卿の一つ一橋徳川家(一橋家)の家督を相続した[注釈 3]。烈公は慶喜がはたちのころ彼を江戸・小石川の水戸藩邸に招くと、

おおやけに言い出すことではないが、御身おんみ(あなた。慶喜)ももう20歳はたちなので万一のため内々に申し聴かせておく。われらは三家三卿(御三家御三卿)の一つとして、おおやけのまつりごとを助けるべきなのはいうまでもないが、今後、朝廷幕府との間でなにごとかが起きて、たがいに弓矢を引く事態になるかどうかもはかりがたい。そんな場合、われらはどんな状況にいたっても朝廷をたてまつって、朝廷に向け弓を引くことはあるべきですらない。これは義公以来、代々わが家(水戸徳川家)に受け継がれてきた家訓、絶対に忘れてはならない。万が一のためさとしておく。
――烈公[14][32]

と慶喜へ伝えた[14][32]。また1851年(嘉永4年)長州藩士・吉田松陰(当時21歳)は日本最大の藩校・水戸弘道館を訪れた際、水戸学者で弘道館初代教授頭取(初代学長)の会沢安会沢正志斎)(当時69歳[注釈 4])や同学者・豊田天功らに教えを受け[33][34]、1854年(嘉永七年)薩摩藩士・西郷隆盛(当時28歳)は水戸学者・同藩士で烈公の側近・藤田東湖(当時49歳)から江戸の水戸藩邸で尊王論を核心とする薫陶を受けた[35][36]。これら水戸学に端を発した尊王攘夷(尊攘)の旗印のもと、おのおの近代軍備への勢いをつける雄藩(水戸藩、薩摩藩、長州藩ら)だったが、1858年(安政5年)から1859年(安政6年)にかけ幕府は朝廷から大政委任されていると信じる井伊大老は、安政の大獄をおこない烈公や松陰ら尊攘派を思想弾圧・大量粛清した。その反動として1860年3月24日(安政7年3月3日)「井伊から廃帝を要請された孝明天皇冤罪で処罰された主君にあたる烈公ら無罪の人々を雪冤しながら、日本の万人に平和をもたらし公平な国事へ忠義を示す目的」から[37][38]水戸藩薩摩藩を脱藩した尊攘急進派一部浪士ら18名による桜田門外の変が起き、井伊は江戸城の桜田門外(今の東京都千代田区霞が関)で暗殺された。

全国の信望を一手に集めていた烈公[17][18]が桜田門外の変と同年に薨去し、尊攘急進主義者・桜田烈士らによる雪冤の復讐劇で大老・井伊直弼も凶刃にたおれると、幕閣の実質的な最高指導者を2人同時に失った幕府は、その中心にたった老中・安藤信正久世広周らのもとで公武合体策により体制を立て直すべく、1860(万延元)年11月、皇女(孝明天皇の妹)和宮親子内親王かずのみや ちかこないしんのう(当時14歳)を井伊ら南紀派が推していた将軍継嗣・徳川家茂(当時14歳)と政略婚させるよう朝廷へ求めた[39]。このとき親子内親王はすでに、烈公ら一橋派が推していた将軍継嗣・徳川慶喜(烈公の七男。当時23歳)の母方の主家筋にあたる有栖川宮熾仁親王(当時25歳)と、1851(嘉永4)年7月、6歳で婚約済みだった[40]。兄の孝明天皇は、親子内親王が既に婚約済みで、まだ幼少でもある事などを理由に、安藤ら幕閣による政略婚の求めを拒絶した[39]。一方、公家岩倉具視はこの政略婚を朝廷の権力を回復する足掛かりになると孝明天皇へ献策した[39]。孝明天皇はこの岩倉の意見をいれて、幕府が攘夷戦争の実行を約束するのを条件に、親子内親王と家茂の婚約をゆるした[39]

同1860(万延元)年6月、水戸藩と長州藩の尊攘派志士らはともに幕政改革を目指す成破の盟約丙辰丸の盟約)を長州藩の洋式軍艦丙辰丸で結んだ[41]茨城県立歴史館の調べによると、約定に名を連ねたのは水戸側が同藩士・西丸帯刀、岩間金平、薗部源吉、越宗太郎らで[42]、長州側が同藩士・桂小五郎松島剛蔵[41]、仲介者は肥前国の草場又三だった[42]。この密約の内容は、歴史学者奈良本辰也によると、話し合いの中で時局にあたる態勢として「破壊(破)」と「建設(成)」の議論になったとき、西丸が桂に成破のどちらが難しいかを問うと、桂が「破」の方がむずかしいと答えたため、西丸は「水戸側に破(むずかしい方)を任せて下さい」と念を押して約束したものだという[43]

水戸藩の尊攘志士ら、下野国宇都宮藩の儒学者・大橋訥庵やその門下の宇都宮藩尊攘志士らは、親子内親王の政略婚を主導した安藤を「君臣・父子の大倫(道徳)を忘れ、天皇の大御心に背く暴政をおこなっている君側の奸」とみなしながら、「もし天皇への忠義を明らかにし、天下と死生を共にし、朝廷(天朝)を尊び、叡慮を慰め、万民の困窮を救う忠臣の義士が一人も現れなければ、幕府の為に身を投げ出すサムライはいなくなってしまう」と考えるに至った[44]。計画が事前に発覚し1862年(文久2)1月12日大橋は捉えられたが、水戸と宇都宮の志士らは両藩を脱藩すると、江戸城の坂下門外で15日に襲撃を決行し、安藤を負傷させた(坂下門外の変[45]。襲撃した浪士6人は幕府から斬首刑にされ、安藤はまもなく老中を辞任した[46]

同1862(文久2)年8月、薩摩藩主の父・島津久光が江戸から帰国中、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)にさしかかったとき騎馬で横切ったイギリス人4名が大名行列を乱したとし、同藩士・奈良原喜左衛門が商人・チャールス・リチャードソンに斬りかかると[47]、同藩士・海江田信義がリチャードソンを追いかけとどめをさし殺害[48]、同藩士らは他のイギリス人2名を負傷させた生麦事件が起きた[49][50][51]。イギリス代理公使ジョン・ニールは幕府へ責任者処罰と10万ポンドの賠償金を請求した[52]。このため幕府は薩摩藩へ犯人の引き渡しを要求したが、薩摩藩は浪人・岡野新助(架空の人物)が犯人だが行方不明と嘘の届け出で、犯人を匿い通そうとした[51]。翌1863(文久3)2月、ニールは幕府へ正式な謝罪状の提出と賠償金10万ポンド、薩摩藩へ賠償金2万5000ポンドの支払いを要求、また犯人処罰を要求した[51]。5月幕府はこれに応じたが薩摩藩は飽くまで拒否しつづけたため[51]、7月2日イギリス艦隊が鹿児島に砲撃を加え薩英戦争が起きた[53]

1863(文久3)年5月10日を攘夷期日とする朝命(朝廷からの命令)を受け長州藩は攘夷戦争を決行し、同日、下関海峡を通過したアメリカ合衆国商船フランスオランダ軍艦を砲撃した(四国連合艦隊下関砲撃事件)。同年9月30日(文久3年8月18日)、長州藩急進主義的な尊王攘夷(尊攘)派が朝廷から排除される八月十八日の政変が起き、同第13代藩主・毛利慶親とその子・毛利定広らは朝廷により国許へ謹慎を命じられた。1864(元治元)年2月日米和親条約による自由貿易方針をふたたび放棄する「横浜鎖港」が朝廷・幕府の双方で合意されるものの、幕府内の意見対立で未だ実行されないままであった。そうしたなか同1864(元治元)年3月に尊攘急進派の水戸藩志士藤田小四郎[注釈 5]義勇軍天狗党常陸国筑波山で旗揚げし、朝命に応じた幕府の「横浜鎖港」と「攘夷戦争」決行の直接的勅許を求め、朝廷のあった京都御所へ向かって進軍を始めた(天狗党の乱[54]。長州藩の藩政を掌握した尊攘急進派志士・久坂玄瑞らの間でも、天狗党の尊王攘夷の志による行動を支援するとともに、ふたたび京都政界に乗り込み、武力を背景に自分達の無実を朝廷に訴えようとする進発論が優勢となった[55]。こうして8月20日(元治元年7月18日)長州藩大坂夏の陣(1615年)以来の関西地方での交戦にあたり、2日間つづく激しい戦いで京都市中を戦火により約3万戸焼失させた禁門の変(蛤御門の変)を起こした[55]

禁門の変

1864(元治元)年3月25日江戸幕府第14代征夷大将軍徳川家茂(当時18歳)の将軍後見職をしていた徳川慶喜(当時27歳)は、禁裏御守衛総督(今の皇宮警察長官)へ就任した。慶喜は水戸徳川家出身だったが、おくにもとにあたる水戸藩尊攘急進派の義勇軍・天狗党は、慶喜を主君と頼って、鎮圧を図る幕府軍の追手と抗戦しながら、越前国敦賀まで約千名の浪士らを率い進軍してきていた[54]。慶喜はやはり御所へ向け入京を求め進軍してくる長州藩の尊攘急進派(進発勢)の大軍にまず対処しなければならなかった[56]

御所で将軍の藩屏をしていた京都守護職会津藩桑名藩の侍らの間では、長州進発兵をただちに武力排除する論が盛んだったが、慶喜ははじめ、「朝廷への嘆願」が目的と称し入京する者をみだりに武力行使するのは不可能だと固く制止していた[56]。しかし日を経るに従って形勢が切迫してくると、7月18日御所から慶喜へすぐ参内するよう二条城に通達があった[56]。9時ころ慶喜が衣冠し騎馬で3人ほどの従者と共に馳せいでると、途中ですでに軍備をしている兵士に会う事がしばしばあり、暴発が起きたのかと危惧しながら朝廷へ着いた[56]関白鷹司輔煕以下の重臣が慶喜へ長州藩からの内密の上申書(密疏)を示すと、文章が長く全てを読み下す暇はなかったが末尾に「会津藩に天誅を加える」との字がみられたので、この一句をみれば足りる、と慶喜はただちに座を立ち、会津藩・桑名藩ら諸藩へ命令を下し、御所警備の兵隊を出した[56]。19日午前4時頃、伏見で砲声がきこえると攻める長州藩兵と守る大垣藩兵とが開戦すると、慶喜は菊亭家に入って衣冠を小具足に改め、御所周囲を巡検した[56]。下舘立売御門あたりで鉄砲で狙撃した者がいたため、慶喜はやむをえず御台所口から御所内へ引き入ったところ、公卿らが衣冠の上にたすきをかけ東奔西走し、甲冑をつけ抜き身の槍や刀などをを携えた警備兵らが左右に徘徊しており、禁中の騒動はすでにただごとではなかった[56]。慶喜はこの様に乱れていては仕方がないと一旦兵士らを御所内から追い出し、新たに部署を定め再配置した[56]。そのとき孝明天皇は早くも慶喜が銃撃されたと聞くと酷く心を痛め、慶喜へ勅諚を与えた[56]。慶喜はご覧のとおり無事な旨を申し上げ、ふたたび戦線にもどった[56]。慶喜が御所の塀の外で指揮していると、急いでくるよう御所の中からしらせがあり、とりあえずもどってみると鷹司家に潜伏している長州藩兵が塀越しに打ち出す銃丸が「カツカツ」と時たま紫宸殿高御座の軒端にあたっており、天皇の身に危険が迫っているのはいうまでもなく明らかだった[56]。このとき長州加担派の公卿裏松恭光をはじめとする堂上らが、しきりに長州兵と和睦すべきだと主張し、「万一玉体(天皇の体)にご異変があれば、禁裏御守衛総督たる職掌も立つまいに」などといった[57]。慶喜は時勢が移れば長州への入京許可も朝廷から直接でるかもしれないものの、いまは一大事で、現実の天皇を守るに一刻の猶予もないと判断し、必死の覚悟を決めると心中で断然とその意見を退け、「玉体のご安全は確かにお請け合い申し上げます」と述べると、取り急ぎ裏松ら公卿の前を去って戦線にもどった[58]。ちょうど正午ごろだったが、慶喜は戦線へもどるとすぐ会津藩・桑名藩兵と大砲方へ命じ鷹司家に火を放たせたため、ここに潜んで紫宸殿を正面から砲撃していた長州藩兵は死に絶えたり逃れたりしたりし、天皇へすぐそこまで迫った直接の危険をようやく除き得た[58]。その後、慶喜は承明門を陣所に定め御所を警備していたが、20日午後3時ころ幕臣糟屋義明が「支配向探索方(密偵)が十津川郷士一味の秘密会議を聴いたところ、今夜、鳳輦(ほうれん、天皇の行幸用の晴れの御輿)を奪って天皇を誘拐しようとする企てがあります」と慶喜へ秘密報告をした[58]。同時にどこからか「十津川郷士らはすでに御所の中に入りこんでいます」と報告した者がいたので、慶喜は大変驚き、筑後守から会津・桑名両藩へ内々にしらせ、ひそかに衛兵を天皇のいる常御殿の塀外へおくりこんだ[58]。慶喜はまた関白鷹司輔煕へも十津川郷士勢の天皇誘拐計画を伝えておいた[58]。夜が更け、慶喜が警備で御所に入ってみると天皇はまだ常御殿にいたが、その縁側にはすでにを着た者数十人が入り込み、天皇誘拐用の1つの御輿を担ぎだし、御輿のそばでひざまづいていた[59]。このため慶喜は急いで天皇へ事態を上奏すると紫宸殿へ移動してもらい、また会津・桑名藩兵を御庭内に繰りこませると、郷士らは誘拐に失敗したとみて御輿をかつぎ逃げ去った[60]。あとから慶喜がきくところでは、御所の裏門の鍵がねじ切られており、そこから侵入されたように考えられ、また宮中にも彼らを手引きした者がいたと思われる節があった[60]。慶喜はこのときが人生で死を覚悟したときの一つだったという[60]

第一次長州征伐と下関戦争

こうして長州藩は京都守護職会津藩江戸幕府軍(皇軍・官軍)による防衛戦に敗れ、さらに孝明天皇は1864年(元治元年)7月23日江戸幕府第14代征夷大将軍徳川家茂長州征伐の勅命を発した。同年8月17-18日(元治元年7月27日-28日)、前年に長州藩から受けた砲撃への報復として、イギリスオーガスタス・レオポルド・キューパー中将を総司令官とするイギリスフランスオランダアメリカの四国連合艦隊は横浜を出港し、9月5日(元治元年8月5日)に下関海峡から長門国を攻撃、長州藩は敗北・降伏し講和条件を受け入れた(下関戦争[注釈 6]。これをうけて長州藩政は尊攘派が後退し、俗論派(保守派)が皇軍(官軍、幕府軍)に恭順の意を示し、禁門の変の首謀者である3家老・4参謀の処刑、長州藩第13代藩主・毛利敬親の謝罪、山口城の破却、禁門の変以後に七卿落ちで同藩へ身を寄せていた三条実美ら5公卿の身柄引き渡しなどの要求に応じ戦わず降伏した[61]

天狗党の投降と処刑

尊王攘夷論を鼓吹した後期水戸学の大成者で同藩士・藤田東湖は、安政の大地震(1855年)の際、自宅内にとりのこされた母を助けに入って圧死していたが[62]、彼の4男で同藩士・藤田小四郎は、父の果たせなかった勤皇の志である尊攘の勅命(戊午の密勅)を継ごうとする道徳に動機づけられ[63]、1864(元治元)年3月みずからの決起で22歳のとき尊攘義勇軍[64]天狗党常陸国筑波山で組織した[54][65]

前1863(文久3)年、水戸藩士・武田耕雲斎(当時60歳)は慶喜に侍って京都へ行くと、同4月15日に孝明天皇の陪食をし、天皇の用いた箸をもらった経験もあって、攘夷論者としての天皇を間近に感じていた[66]。また、武田は、慶喜が烈公の遺志をたてまつる人物であることも、慶喜から武田へ宛てた手紙で知っていた[66]。武田は幕府から、また同藩士・田丸稲之衛門山国兵部らは同藩主・徳川慶篤から平定を命じられ天狗党を説得にきたが、小四郎の熱意により逆に説得され[67]、61歳の武田が同党の総大将(首領)[68]、59歳の田丸と22歳の小四郎が副大将にされた[69]。天狗党は尊王の志から天皇の大御心を汲んで、慶喜を通して朝廷へ訴え、攘夷を実行しようとしない幕府を動かそうとした[69]。御所へ向かって従軍していた天狗党は鎮圧を試みる幕府軍(藩兵)から攻撃を受けつつ、各地で呼応した浪人や農民らも加わって、1000人ほどの数で越前国敦賀に近づいていた。

しかし、幕府は天狗党を反乱者とみなし、水戸藩だけでなく諸藩へその鎮圧を命じていた上、江戸の幕吏らは慶喜と天狗党の内通を疑っていた[70][71]。慶喜は禁裏御守衛総督として家来を討たねばならない板挟みの立場に置かれ[72]、1864(文久4)年11月30日、孝明天皇は慶喜の願い出をゆるして、天狗党を処分させた[73]。この頃、薩摩藩士・西郷隆盛の密使として同藩士・桐野利秋が武田に面会を求め、小四郎と水戸藩郷士・竹内百太郎が対応すると、桐野は薩摩藩士が入京を助けるので天狗党一行へ中山道を直進するよう促した[74]。しかし天狗党はこの申し出に感謝しながら、慶喜軍と鉢合わせするのを避けるため北へ迂回した[75]。同年12月11日、天狗党が新保宿に着いた時、長州藩の密使が日本海側を回って長州へきて共同行動をするよう勧めてきた[76]。72歳の水戸藩士・山国兵部はこの案に賛成したが、武田は「主君に等しい二公(徳川慶喜と、彼と共に出陣していた弟でのちの第11代水戸藩主・徳川昭武)に逆らうのは臣子の情に忍びない」とし、越前国敦賀で慶喜軍へ恭順・投降した[77]。12月21日、慶喜は天狗党の降伏状を正式にうけとり、23日京都へもどった[78]。24日から25日にかけ天狗党員らは敦賀の3つの寺、本勝寺、本妙寺、長遠寺に収容されたが、地元の加賀藩は正月を迎えると鏡餅を差し入れするなど懇切に面倒をみながら[78]、同藩士・永原甚七郎は幕府へ天狗党員の助命を嘆願した[77]。1965(慶応元)年1月29日、遠江国相良藩主、若年寄常野浪士追討軍総括じょうやろうしついとうぐんそうかつ田沼意尊は慶喜から天狗党をひきうけた[79][71]。田沼はすぐ越前海岸の船町にある16棟の鰊蔵に828人の天狗党員らを50名ずつ閉じ込め、足枷をはめ身動きをとれなくさせた上で、帯や袴などのひも類をすべてとりあげ、一日の食事も握り飯2、3個だけを与える状態へ追い込むとつぎつぎ餓死・病死させ、彦根藩士らへ命じてうち352人を斬首、他を島流し・追放などに処した[80]。また田沼は、天狗党指導者格の水戸藩士・藤田小四郎武田耕雲斎山国兵部田丸稲之衛門ら4名の首を塩漬けにすると水戸へ送り、市中に晒した[80]。幕吏は天狗党員の家族や、彼らに縁のある者らも、80数歳の老婆や3歳の子供まで死刑にした[80]

第二次長州征伐

翌1865(慶応1)年、討幕派の長州藩士・高杉晋作が自らの創設した奇兵隊功山寺挙兵を起こし、山口藩庁を武力クーデターでのっとると幕府軍に反抗[61]、続く1866年(慶応2年)6月7日から始まった第二次長州征討の最中、同20日、薩摩藩主・島津久光島津忠義父子は連名で内覧左大臣関白二条斉敬へ第二次長州征伐の継続に反対する建白書を提出した。朝議が紛糾するなか、三回目(8月4日)の朝議に召し出された禁裏御守衛総督将軍後見職徳川慶喜は、予てから腹案として温めてきた王政復古のもとでの議会主義(大政奉還後の諸侯会議の政体論、朝廷での諸大名合議制)に則り、長州藩への朝廷からの寛大な処置と、諸侯会議による国事の議決を願ったが[81]、孝明天皇は幕府(徳川家の政体)へ長州征伐の継続を求め続けた。同月、幕府は長州征伐継続の費用を確保するためイギリスのオリエンタル・バンクと600万ドルの借款契約を締結していた[82]。8日、前将軍・家茂の名代として出陣すべき慶喜は朝廷へ参内し孝明天皇から天盃と節刀を賜ったが、いよいよ進発になろうという時、肥後藩主・細川韶邦らはじめ、討伐する側がみなおびえてしまった報せが届いた[83]。慶喜はみな兵隊を解散してしまってはいくら節刀を賜っても征伐の功を為すわけにはいかないと熟慮し、王政復古の議会主義に則り、薩摩藩主の父・島津久光、前越前藩主・松平春嶽、前宇和島藩主・伊達宗城、前土佐藩主・山内容堂などを残らず呼び寄せ、私を棄ててひとつ国家の為公明正大にに評議を尽してみたい、とのちの四侯会議を考え、水戸藩士で一橋徳川家臣の側近梅沢孫太郎を使者に、国家の大本について相談したいことがあるから至急、京都へ来てもらいたいと伝えさせた[83][84]。また慶喜は、「よく考えてみると自分は別に長州を憎んでいるわけではなく、会津藩・桑名藩らはじめ旗下の者もひたすら長州憎しでどこまでもやってしまおうというのではない。ただ、禁門の変で同藩士らがが錦旗(朝廷の天皇)に発砲したとはいうものの決して主人(毛利藩主)の命令というわけではないだろうし、雪冤を望む尊攘の志からやむを得ずおこなったことでもあろうから、その筋さえ立てれば、どのように寛大にしてもよい」と思い、長州藩側に懇意な者がいる幕臣勝海舟を呼び、彼を交渉役として長州藩が占領済みの場を譲って国許へ兵を引けば「長州は大人しい者だ」との名分が立つので、その意をくんで幕府軍も敵方を寛大に処することで平和裏に終戦に結ぼうとした[85]。勝が交渉を終えて慶喜のもとへ帰ってくると、「談判相手の長州藩士・広沢真臣らから丁寧に取り扱われ、長州側は話を聞いて誠に喜びました」といい、長州藩も兵を引きましょうという事になり、ほとんどの兵らを占領地から引いた[85]慶喜は14日二条へ出陣を見合わせる内願を提出、16日に勅許された。[要出典]

20日大坂城で将軍・家茂が20歳で薨去した[86]。22日、孝明天皇は将軍・家茂の薨去により、上下(親王から庶民まで)が哀しむ情を察し、長州征伐を一時休止させる勅を出し、慶喜ら征長軍へしばらく戦を休ませたが、同時に「長門国・周防国を支配する長州藩に隣国の境界を侵略した地域を早々に引き払い鎮定するよう取り計らってほしい。また長州藩が朝命に逆らうようなら早々に討ち入りしてほしい」との国書を第二次征長軍の先鋒総督で紀伊藩主・徳川茂承へ送った[87]

この長州征討の失敗は、幕藩体制の限界と弱体化を白日のもとに晒し、幕府の威信を大きく低下させた。

孝明天皇の崩御、明治天皇の践祚

1866年10月8日(慶応2年8月30日)公卿・大原重徳ら22名が、八月十八日の政変禁門の変長州征伐のあいだ孝明天皇により朝廷を追放された公家の政権復帰と朝廷改革を求め御所に押しかける騒擾事件を起こした(廷臣二十二卿列参事件)。こうしたなか、1867年1月30日(慶応2年12月25日)孝明天皇は満35歳で崩御した。

慶応3年1月9日(同2月13日)明治天皇が満14歳で践祚した。

徳川慶喜の将軍就任

江戸幕府第14代征夷大将軍徳川家茂薨去後、老中板倉勝静幕臣永井尚志はご遺命と称し、徳川宗家が初代家康以来代々継いできた将軍職の相続を、徳川慶喜へ勧めてやまなかった[88]。12代将軍・徳川家慶の命で水戸徳川家から一橋徳川家の養子になり、のち父方の主家にあたる徳川宗家将軍後見職とされ、また禁裏御守衛総督として母方(有栖川宮家)の主家にあたる天皇家へ侍っていた慶喜だったが、「予には以前ご養君の一件(未成年のまま14代の前将軍を継いだ家茂との間で生じた将軍継嗣問題)があって、さも将軍になろうとする野心があるかのよう風説で中傷された経験があるので、いまもし将軍職を継げばますます世評を害することになるだろうから受け入れがたい」と板倉らへ説明し、将軍職継承を拒んでいた[88]。長倉と永井両人は「仰せられる事は誠にご道理ではありますが、いまのまつりごとの歩みは実に国難の際で、貴卿ならずんばこの政局にあたって適う人はひとりもございません。とにかく、ご議論をなさらず是非お引き受けください」と拒む慶喜へいった[88]。慶喜は「たとえ朝廷からご沙汰があろうとも、お受けいたしますまい」というが、両人は「決して朝廷のご沙汰を請うような事はつかまつりますまいが、ただわれらが誠意をもって、貴卿のご許諾を待つのみでございます」というと、毎日慶喜のもとへやってきて「今日はどうなさいますか」「今日はどうなさいますか」と迫ってきていた[88]。この間、慶喜にも思いを巡らしていたふしがあり、ひそかに水戸藩士の側近・原市之進を召して本当の心の内を語り、「板倉と永井らにはご養君の事で辞めると説明したが、実はあのような事はどうでもよい。ただつらつら考えると、今後の処置は極めて困難で、どうなりゆくかも予想がつかない。いづれにしても、徳川家をこれまでのよう持ち伝えようとするのは覚束ないので、この際いっそ断然と王政の御世にかえしてひたすら忠義を尽くそうと思うが、なんじの心に思うところはどうか」と問いかけた[88]。原は「ご尤ものご存知よりではございますが、もし挙国一致できなければ非常な紛乱をまねくでしょう。第一、そのような大事を決行するに堪えられる人がございましょうか。今の老中らでは、まことに失礼ながら、無事なしとげられるとも拙者には思えませぬ。人物がいないわけではございませんが、いまのご制度では、急に身分の低い者を登用して大事に当たらせるのもまた、難しいでしょう。そうであれば、ご先祖以来の規範をご持続なさいます方がよろしいでしょう」といった[88]。このため慶喜はまだ大政奉還をこのとき決行することはできなかったが、板倉と永井をよぶとついに「徳川宗家徳川氏の本家)を継ぐだけで、将軍職は受けずに済むなら、足下らの願いに従ってもよい」といった[88]。板倉と永井らはそれでもよいでしょうと、慶喜は宗家を相続した[88]。このとき一橋徳川家の家臣で慶喜に仕えていた元農民名主)の志士渋沢栄一は、慶喜の為にはわが主君が国事の難局に当たって宗家を継ぐべきではないと考え、原へなにゆえ宗家相続へ反対しないのかと進言したが、採用されなかったので、たとえようもないほど落胆した[89]。慶喜がいざ宗家を相続してみると、老中らはまた「将軍職も受けてくださいますよう」と強請してくるだけでなく、対外的な統一政権としての外国との関係――外交上の代表権の問題。大政奉還以前、天皇ではなく征夷大将軍大君)が事実上の日本の主権を持つ、唯一の公的政権の代表者だった――なども重なって、結局は将軍職も許諾せざるをえなくなった[88]。この頃、慶喜は大政奉還の志をもちはじめ、「東照公(徳川家康公)は日本国のために幕府を開き将軍職に就かれたが、予は日本国のために幕府を葬る任にあたるべき」との覚悟を定めた[88]

12月5日、慶喜は二条城で明治天皇から江戸幕府第15代征夷大将軍の宣下を受けた。

四侯会議

1867年(慶応3年)5月、開かれた四侯会議で、薩摩藩主・島津久光は政権を江戸幕府から薩長連合側へ簒奪しようと謀り、四侯会議を主導する。しかし、征夷大将軍徳川慶喜との政局に敗れ失敗すると、幕藩体制下での主導権獲得策を見限り、徳川家を排除した新政権の樹立へと方針を転換するようになる。薩摩・長州はもはや武力による倒幕しか事態を打開できないと悟る。[要出典]

薩土討幕の密約

薩摩藩と土佐藩は、慶応3年5月21日(1867年6月23日) 夕方、京都室町通り鞍馬口下る西入森之木町の近衛家別邸(薩摩藩家老小松帯刀の寓居[注釈 7]「御花畑屋敷」)において薩土密約を結ぶ[90]

薩土討幕之密約紀念碑
密約が締結される前段階として京都「近安楼」で会見がもたれたことを記念する石碑
京都市東山区(祇園)

5月22日(太陽暦6月24日)に、土佐藩士乾退助はこれを前土佐藩主・山内容堂に稟申し、同時に勤王派水戸浪士(天狗党残党)・中村勇吉相楽総三らを江戸藩邸に隠匿している事を告白し、土佐藩の起居を促した。(この浪士たちが、のちに薩摩藩へ移管され庄内藩などを挑発し江戸薩摩藩邸の焼討事件へ発展する)[要出典]

乾は容堂の許可を得て5月27日(太陽暦6月29日)、中岡慎太郎らに大坂ベルギー製活罨式(かつあんしき)アルミニー銃英語版(Albini-Braendlin_rifle)300挺[注釈 8]の購入を命じ、6月2日(太陽暦7月3日)に土佐に帰国。弓隊を廃止して銃砲隊を組織し近代式練兵を行った。中岡は乾の武力討幕の意をしたためた書簡を土佐勤王党の同志あてに送り、勤王党員ら300余名の支持を得る。薩摩藩側も5月25日(太陽暦6月27日)、薩摩藩邸で重臣会議を開き、藩論を武力討幕に統一することが確認された。

討幕の密勅

慶応3年10月13日(1867年11月8日)、公家岩倉具視らの盡力により、討幕及び会津桑名両藩討伐を命ずる討幕の密勅が薩摩藩に下る。翌14日、同様の密勅が長州藩に下る。

大政奉還

土佐藩士・後藤象二郎福岡孝弟らが同藩主・山内容堂らによる大政奉還を勧める建白書をみて、慶喜は将軍職を継ぐと決めた時からの志――王政復古により、以前から希望していた議会主義による国会を設けた二院制合議政体への移行を果たしつつ[91][注釈 9]、即時の攘夷戦は不可能[92][注釈 10]朝廷へ建言し征夷大将軍の覇府としての江戸幕府を閉じる志[88]――を遂げる好機会だと考え[93]10月14日大政奉還を上表した。薩摩藩士・小松帯刀は、薩長両藩への討幕の密勅はこれより先すでに内定があり、大政奉還はそれよりあとでは効果がないと知っており、討幕の密勅が出される以前に、大政奉還を今すぐ発するべきだと徳川幕府へ勧めていた[94]これは薩長による武力討幕を避け、徳川家の勢力を温存したまま、天皇の下での諸侯会議であらためて国家首班に就くという策略だったと見られている(公議政体論[誰?]。慶喜は後年『昔夢会筆記』で、大政奉還の決心とその後の徳川家の立場をどう考えていたかとの問いに「それは真の考えは、大政を返上して、それで自分が俗にいう肩を抜くとか、安をぬすむとかいうことになってすまない、大政を返上した以上は、実は飽くまでも国家のために尽くそうという精神であった。しかし返上した上からは、朝廷のご指図を受けて国家のために尽くすというのだね、精神は。それで旗本などの始末をどうするとかこうするとかいうことまでには、考えが及ばない。ただ返上した上からは、これまでのとおりにいっそう皇国のために尽くさぬではならぬ、肩を抜いたようになってはすまぬというのが真の精神であった。あとで家来をどうしようとかこうしようとかいうことまでには、考えがまだ及ばなかった」と答えた[95][注釈 11]イェール大学東アジア研究所博士研究員マイケル・ソントンはその著『水戸維新』(2021年)で、「仮に(慎重な戦略的政治家だった)慶喜が王政復古を考えていたとしても、政治から離れるつもりはなかった。フランスの指導で西洋式兵制に着手し、徳川家の棟梁が実戦で軍隊を率いる準備を整えようとしたことはそのあたりの意思を物語っている」としているが[96]、実際、慶喜は晩年『昔夢会筆記』のなかで「王政に復するというと大変今日(明治維新後)からみればたやすいようだが、さてその王政に御復しになる手段はどうなさるといわれると、誰もその手段がつかない」「それにまたひとつは外国の事(欧米列強からの植民地侵略の脅威)があり、内外切迫(薩長同盟による倒幕の動き)の結果だ。それでその王政復古という立派な名にして、そうして(それまで政治的に無力化していた朝廷に代わって、政治的実務全般をこなしてきた事実上の日本の統一政権である江戸幕府の長として、政権を朝廷の天皇家へ返上する禅譲の行動をした)自分が(国事上の責任放棄の形で)その肩を抜くようになってもならず、また王政になった以上は、これまでよりも国家のために尽くさねばならぬ。いろいろそこに考えもある。とにかく諸侯を集めて、腹蔵(伏蔵)なく公平なところの評議に及んだらよかろう、長州はもうどうあろうとも寛大でよい。あれはあれでよいという考えを出したが、少しそういう辺にもいかなかったのだ……。」と語り、むしろ王政復古後の姿を誰も知らない状況下で政治的指導力を発揮し、あらたな合議政体下で天皇家の一忠臣として皇国の為に尽くそうとしていた[97]。同1867(慶応3)年11月当時の慶喜のブレーンのひとりで、幕府開成所教授職を務めた蘭学者思想家西周は、慶喜側近の幕臣平山敬忠へ『議題草案』を献上し、天皇象徴的地位に置いた上で、大君国家元首とし、三権分立をとりいれた近代議会制の政体案を出していた[98]公家岩倉具視はのち慶喜の大政奉還について「孝明天皇と将軍家茂がどちらも没したとき、将軍後継者の慶喜は有能な人物で、天皇に直結した政府が絶対に不可欠と見抜くことができた。この心からの確信で、慶喜は単なる贈り物としてではなく彼の政権を天皇へ禅譲したが、それが存在する政治的困難の数々を解決するただひとつの道だったからだ」と述べた[99]

諸国の大名は様子見をして上京しないまま諸侯会議が開かれず、逆に旗本の中には無許可で上京してくるものも相次いだ。

討幕の密勅は江戸の薩摩邸にも伝わり、討幕挙兵の準備と工作活動が行われていたが、大政奉還により「討幕の密勅」はその名目を失い『討幕実行延期の沙汰書』が10月21日(太陽暦11月16日)に薩長両藩に対し下された。

武力討幕の大義名分を延期された薩摩藩の西郷隆盛は、乾退助より移管された勤王派浪士を使い江戸市中を撹乱させ、旧幕府を挑発することによって旧幕府側から戦端を開かせようと戦略をたてた。

土佐藩兵の上洛

10月18日(太陽暦11月13日)、武力討幕論を主張し、大政奉還論に反対する乾を残し、土佐藩(勤皇派)上士山田清廉(第一別撰隊隊長)、渋谷伝之助(第二別撰隊隊長)らが兵を率いて浦戸を出港。しかし、この時「もし京都で戦闘が始まれば藩論の如何に関わらず、薩土討幕の密約に基づき参戦し薩摩藩に加勢せよ」との内命を乾退助より受ける[90]

10月19日(太陽暦11月14日)、大政奉還論に反対したことにより乾が、土佐藩仕置役(参政)を解任され失脚[90]

王政復古の大号令

慶応3年12月9日(1868年1月3日)、明治天皇王政復古の大号令を発し、1.徳川慶喜の将軍職辞職を勅許。2.江戸幕府の廃止、摂政関白の廃止と総裁議定参与の三職の設置。3.諸事神武創業のはじめに基づき、至当の公議をつくすことが宣言された[100]

同日夕刻開かれた小御所会議で討幕・公儀政体派両陣営が激しく意見を対立させた。冒頭で司会の公家・中山忠能が「大政奉還に際し、先ず一点、無私の公平で、はじめに王政の基本を定める公議を尽くすべき」旨を述べ[101][102]、公卿の間で「内府公(内府は内大臣。慶喜のこと)は政権を返上したが、おこなった目的の正邪が弁じ難いため、実績で罪科を咎めるべきだ」との意見がみられると[101][103]、前土佐藩主・山内容堂が大声を発して議論をはじめ[104]「速やかに内府公(慶喜公)のほうから朝議にご参与していただくべきだ」と主張[105]公卿大原重徳に「内府公(慶喜)が大政奉還したのは忠誠から出た行動かどうか知れないため、しばらく朝議に参与させない方がよい」と反論されると山内は抗弁し、「今日の(会議参加者の)ご挙動はすこぶる陰険なところが多い。そればかりではなく、凶器をもてあそんで、諸藩の武装させた兵どもに議場を守らせ、わざわざ厳戒態勢をしくにいたっては陰険さが最もはなはだしく、くわしい理由すら分からぬ。王政復古の初めにあたっては、よくよく公平無私な心でなにごとも措置されるべきでござろう。そうでもございますまいば、天下の衆心を帰服させられもすまい。元和偃武から300年近くも天下泰平の世を開かれたのは徳川氏ではござらぬのか。なのに或る朝なれば突然理由もなく、大いなるご功績のあらせられる徳川氏ともあろうおかたをおそれおおくも排斥いたすとはいったい何事なのか。これぞ恩知らずというものではないか。いま内府公(慶喜公)がご祖先からご継承された覇権をも投げうたれ、ご政権をご返上なされたのは政令一途であらせられるからに違いなく、金甌無欠の国体を永久に維持しようとしたものであらせられます。かの忠誠のほどは、まことこのわたくしなどにも、感嘆をこらえがたいほどだ。しかも、内府公(慶喜公)のご英明の名は、すでに天下にとどろいているのではないのか。一刻でも早く、すみやかに内府公(慶喜公)のほうへ朝議にご参与していただき、台慮たいりょ(貴人の考え)を開陳していただき遊ばされるべきだ。しかるに、2、3の公卿のかたがたはいったいどんなご見識をもってこんな陰険な暴挙をなされる。わたくしにはすこぶる理解しがたい。恐らくではありますが、幼い天皇をだきかかえ[106]、この国の権勢を盗もうとたくらむ悪意でもおありになるのではございますまいか。まこと天下に戦乱の兆しを作るくわだてと申すべきでござろう」と一座を睥睨すると、意気軒高に色を成し主張した[107][108][109]越前藩主・松平春嶽も「王政を施行する最もはじめのときにあたって、刑罰の名をとって、道徳の方を捨ててしまうのは、はなはだよろしくない。徳川氏にあらせられては200余年の太平の世を開かれた。幕府による天下泰平の功績はこんにちのわずかな罪を償うに余りありましょう。皆さまもよくよく、土佐殿(山内容堂公)のお言葉をお聞きになるべきです」と、山内に歩調をあわせた大論陣を張った[110][111][112]。会議に参加していた福井藩士・中根雪江による『丁卯日記』によると、薩摩藩士・大久保利通が「幕府が近年、正しい道に背いたのははなはだ重罪なだけでなく、このたびの内府公(慶喜公)の処置につきまして、わたしが正否を問いますと、尾張候(徳川慶勝)、越前候(松平春嶽)、土佐候(山内容堂)、おさんかたの無理にお立てになった説をうのみにすべきではございません。事実をみるに越したことはない。まず内府公(慶喜公)の官位をけなしてみまして、所領を朝廷へ収めるよう命じまして(辞官納地)、わずかなりとも不平不満の声色がなく、真実をみることができましたならば、すみやかに参内を命じ、会議に参加していただけばよろしい。もしそれと違って、一点でも要求受け入れを拒んで、あるいはふせぐ気配があったなら、政権返上(大政奉還)はうそいつわりの策略であります。さすれば、実際に官位剥奪のうえ領地も削り、内府公(慶喜公)の罪と責任を天下に示すべきであります」といい、公家岩倉具視は大久保の説に追従しまわりにも採用するようしきりに勧めながら「内府公(慶喜公)の正邪を分かつには、空論で分析をもてあそぶより、実績を見るに越したことはない」と弁論をきわめ、山内や春嶽とおのおの正論と信じるところを主張しあって、会議は決着しなかった[113][注釈 12]。この後、会議は休憩に入るが、休憩中に薩摩藩士・西郷隆盛が「短刀一本があれば片が付く」と刀を示した[114]。この西郷の言葉を聴いてから休憩室に入った岩倉[114]は「山内容堂がなおも固く前と同じ論陣を張るなら、私は非常手段を使って、ことを一呼吸の間に決するだけだ」と心に期し[115]広島藩主・浅野長勲土佐藩士・後藤象二郎を説得するよう依頼した[116]。浅野はその様にはからうと「私は岩倉卿の論が事理の当然とします。いま(広島藩士)辻維岳に命じ、後藤を説得させていますから、しばらくお待ちください。後藤がうなずきませんでしたら、私は飽くまでも土佐殿(山内容堂)に抗弁してやめませんから」と岩倉へ伝えた[117][118]。五藩重臣の休憩室で、後藤は大久保へ山内説に従わせようとしていた。しかしすでに同じ休憩室にいた辻が、浅野の指令をうけて「岩倉説に抗弁すると主君(山内容堂)に不利な結果になる」と遠回しに後藤を諭していたこともあり、大久保はなんらききいれることがなかった[119]。後藤はそれまで主君・山内の説どおり、「会議参加者一同が陰険なふるまいをやめ、公正にことを決める」よう一所懸命に全員を諭しつづけてきていたが[120][121]、主君が間接的に命をおびやかされている事に悟ると、今度は山内と春嶽の方を向いて「さきほど殿が申されたまこと立派なご説法は、さも内府公(慶喜公)がはかりごとを企てていらっしゃることをご承知の上で、隠そうとなさっているかのごとく嫌疑されております。願わくばどうかもう一度お考え直されますように」といった[122]明治天皇がすでに席に着き、会議参加者もあつまって議論が再開されると、山内は腹心の後藤にも裏切られ心が折れてしまい、敢えてもう一度論戦を始めようとしなかった[122]。再開された議決では岩倉・大久保らの説に決まり、有栖川宮熾仁親王が天皇の裁可を得た[123]

こうして朝廷は、内大臣・慶喜へ官位返上と、領地からくる収入を天皇家へ献上するよう命じた。

二条城から大阪城への移徙わたまし

10日徳川宗家の親族で小御所会議議定越前藩主・松平春嶽尾張藩主・徳川慶勝が使者として慶喜のいる二条城へ来ると、「朝廷(天皇家の政体)では王政復古を仰せ出されましたが、経費がなければ国政をおこなうためのどの施設も作り難いので、朝廷があらたに国政をはじめるにあたって徳川宗家の家禄うち200万石を朝廷へ献上するよう、また上様(慶喜)がさきの内大臣も辞任されるよう朝廷は求めております」との勅諚を慶喜へ伝えた[124]。慶喜は新たに朝廷が政務をおこなう際の経費は、諸大名一般に石高に応じて割賦で朝廷へ献上させる方が合理的と考え、「ご尤もの仰せだが、江戸幕府(徳川宗家)の石高は世に400万石と称すると申せど(表高)、その実200万石の収入にすぎず(内高)、全額を献上とあらば幕領旗本らの差し支えも少なくないであろう。一応、老中以下にも申し聞いた上で、人心を鎮め、定めてからお請け申し上げる。両人からその旨、執奏したまわりたく存じ申し上げる」と答えた[124][125]。この話の事情が漏れたか、二条城の兵士らは大いに激動しはじめ、老中らには「(要求が過剰・傲慢な)朝廷も朝廷で(日本国を一家で切り盛りしながら、代々天皇家へ仕えてきた)徳川宗家へ余りにむごいといえばむごすぎるご無法さで、我々家臣団をもないがしろにしてくるしうちだ。これは全く、薩摩人(薩摩藩の者、鹿児島人)らが、勅諚の内容をたわめているからに違いない」と、いよいよ兵力に訴えようとする議論が起きた[124]

11日になると二条城内外での紛擾さわぎがますますはなはだしくなり、討薩の声がかまびすしくなり、殺気がいよいよあがって、会津藩士と薩摩藩士が市中で行き合うと刃傷沙汰に及ぶ者もあらわれた[126]。こうして二条城に控える幕府の諸藩兵と、御所に侍る薩摩藩兵の間で、戦乱勃発は必至の勢いとなった[126]。中でも丹波亀山藩主・松平信義若年寄陸軍奉行竹中重固らは過激な挙兵論者で、また老中・板倉勝静の様な慎重な者でさえ関東へ手紙を送って歩兵隊・騎兵隊・砲兵隊の3兵隊と軍艦を関西へ送るよう促したほどだった[126]。この日、慶喜は親しく諸隊長へ引見し「我らが割腹したと聞けば、なんじらはいかようにともせよ。だが我らが生きてかくある間は、決して妄動すべきではないぞ」と厳しく言い伝えた[126]。慶喜はこれでも心安からず、旗本5000人あまり、会津藩兵3000人あまり、桑名藩兵1500人あまりへ命令し、城中にあつめると、もっぱら開戦の暴挙をふせぐため城外に出るのを禁じた[126]。薩摩藩兵が二条城下に迫ったとのうわさがあり、だれが指図するでもなく大手まわりの土塀に弓矢を射る狭間を切り開いた者がおり、それをみつけ驚くとやめさせた目付もいた[126]。また薩摩藩兵が竹屋町までおしよせたといううわさがあったとき、ますます藩屏は憤怒して相互いに争ってでも城外に出ようとした[127]。会津藩士・手代木勝任福井藩士・中根雪江酒井十之丞をみて「先んずれば人を制す。いま敵を討たねば戦機を失う。二者はどう思う」[128]と血眼で詰問すると、両人はそれは嘘の言い伝えだとしながら「天皇の目前で戦の兆しをつくれば、朝敵も同然でござる」と説得し、辛うじてなだめえた[128]。しかし将校・兵士らの憤怒はその極度を達し、一戦を交え薩摩藩の悪謀に報いようと殆ど狂ったかのごとく叱咤、慷慨、殺気が天を衝いた[128]

慶喜は極力配下を制し、その思いを忖度した老中・板倉勝静若年寄永井尚志らも鎮撫に努めたが、会津藩桑名藩らを主とした兵士らの激動はたやすく静まらなかった[124]。慶喜が心を込めた兵隊への親しい説諭も、軽挙妄動の制止も、いまではその手段を使い果たし、だからといってこのまま過ごしていれば、遂には天皇の間近で流血沙汰の大惨事となる戦乱が勃発するだろうことはまた確かな状況においつめられていた[128]。むしろ一旦この地を去って、兵士らの高まり続けている憤怒の気勢を緩和させるに越したことはないだろうと思案しはじめた[128]。こうして慶喜は天皇のもとで騒乱が起きる事を第一に恐れ、ただ時々刻々と激しくなっていく兵士らの「薩摩藩撃つべし」の勢いを緩和しよう欲し、特に深謀遠慮があったわけではないままで、ひとまず大阪城へ退去しようとした[124]。しかし慶喜は後年、いつでも起きかねない御所辺での戦闘[注釈 13]から、慶喜にとって母(吉子女王)方の実家で主家にあたる天皇を守ろうとするあまり、二条城から大阪城へ配下の兵士らを伴って退去しようとしたこの一時の判断が、暗躍する薩摩藩のたわめた非道な朝命への義憤でいきり立つ配下の多勢を結果として抑えきれないまま、つづく鳥羽・伏見の戦いを引き起こした事を「一期の失策」と後悔し、「たとえ発奮している部下の兵隊に刺し殺されようとも自分は天皇のもとを泰然として一歩も動かず、(徳川宗家の旧幕府軍の主力部隊を構成していた)会津藩主と桑名藩主へ帰国(帰藩)を命じ、(内大臣をやめてから)自分ひとりでいち平大名として再び天皇家朝廷)に公職(仕官)を願い出ればよかった」と振り返っている[129]。慶喜は大阪城へ一時退避する決心のもと、まず近臣に命じて身辺の武具などを整理させ、二条城を退去する準備をひそかにさせはじめた[130]

同日(11日)慶喜は「昨夜から辞官納地の朝命が外に漏れ、みなの心はますます激昂し、予に迫って挙兵を促しておる。予は不敏な者ではあるが、朝敵の名を負って祖先を辱めるのは忍びえぬ[14][32]。よって、しばらくこの地を避け、下坂(大阪へ移動)しようとぞ思う。大阪ならば鎮撫のすべも講じやすいであろう」とほとんど涙を落としかけながら、ふたたび二条城に登城してきた福井藩主・松平春嶽へいった[131]。春嶽はその言葉を聞き、感涙して、慶喜を仰ぎ見る事ができなかった[131]

12日、春嶽は尾張藩主・徳川慶勝と議論して出した案――慶喜の大阪移徙(いし。わたまし。貴人の移動)後、衆心が鎮静したのを待ってから再度入京し、辞官納地を正式に受ける案をだすと、そのむねを慶喜へ言上した[131]。慶喜はこれをこころよく許諾した[131]。慶喜はまた会津藩・桑名藩の藩屏主力2藩へ帰国させようと、宇都宮藩主・戸田忠恕へ命じて、会津藩主・松平容保と桑名藩主・松平定敬らへ帰国のおいとまを出させようとし、ほどなく老中らの裁可が得られ、容保と定敬に伝えられた[131]。しかし両藩兵の実際の帰国は、朝廷が両藩の主家にあたる徳川家を薩摩藩・長州藩らの武力のもと、内大臣・慶喜を排除した秘密会議(小御所会議)での朝命の名を借り、徳川宗家地位財産をその政権と共に簒奪しようとする「辞官納地」の無理難題であり、徳川方からの不満・反発を鑑みれば不可能だった[131]。だからといって、慶喜が大阪へ移徙後に会津・桑名藩兵を京都にのこしておくと、どんな事態がおきるか分からなかった[131]。慶喜は、むしろそうならば、会津・桑名藩兵をともに大阪城へつれていこうと考えた[131]。慶喜は大阪城への移動企図の重要な一側面が、会津藩兵らの暴発を防ぐつもりでありながら、激昂している会津藩士らを刺激しないため、さもそうと思っていない風を装って会津藩の家老田中玄清へ「薩摩人(鹿児島人、薩摩藩士)が兵の威圧で幼帝をだきかかえ奉ったので、今の所業になったのだ。緩急や遅速はあれども、彼らの罪は問うべきであろう。けれども、陛下の間近で戦闘すれば、宸襟(天子のお心)を悩まし奉るだけでなく、同時に外国勢力が好機とうかがいみて不相応な干渉を企てようとするであろうし、大戦乱も目前に開ける。そうなってしまえば、わが政権を陛下へ奉還し、万国に並び立つ国威を建てようとした予の素願も、水泡に帰してしまうであろう。ゆえに、予は一旦下坂しようと思うのだが、肥後守(松平容保)も予に同行してもらうつもりなので、なんじら部下も予と共に来たれ」といった[132]。田中がしりぞくと、おなじ会津藩士の佐川官兵衛林権助らは田中をみて「敵に計略があるかもしれぬ。決して夜が迫ってからのご出発であってはならぬ。たとえ内府公(慶喜公)のご出発があっても、わが容保公にご出発していただくのはならぬ」と真っ赤な顔で言い争っていた[133]。慶喜が容保をよび、容保のあとに佐川と林がしたがって慶喜の御前ごぜんに至ると、老中・板倉勝静らが座にいた[133]。慶喜が「なんじらは隊士の長だと聞く。その壮武、愛すべきである。今しきりに下坂をとめるのはなにゆえだ」と問うと、佐川と林は「もうすでに夜になりかかっております。倉卒そうそつの(あわただしく急な)ご下阪は、すこぶる危うくございます。願わくば斥候を設け、兵威をおごそかにし、明朝を待ってご下阪あらせられるべきかと存じ申し上げます」と答えた[133]。慶喜は「下坂の機会を失うべきでもなかろう。斥候はすでに配置してある。兵威もまさに張り巡らせてある。遅速や緩急はあっても、かならずや薩摩の者の罪を問おう。予に深い計略はあっても、事が内密でなければ敗れるのは明らかであるがゆえ、今は明言しない。なんじらは憂わずともよい」というと、佐川と林の両人は拝謝し、外へ出て、激昂する他の兵士を慰め諭した[133]

いつでも兵士暴発が起きかねない危険な二条城側の状況[注釈 14]を伝える報告書(奏聞)で「(まだ慶喜が正式に官位を辞任していない以上、天皇家政体朝廷)側の事実上の内大臣のままともいえる)徳川宗家家臣団の大阪城への移動の可否について、本来なら天皇家朝廷)の許可(勅許)を待ってから出発すべきですが、このたびの朝命の帯びている無法さへの配下の義憤はただ事ではなく、配下の暴走で天皇家側をまきこみかねない戦闘勃発の危機がいますぐそこにも迫っているため、その許可を待っている一刻の猶予もありません。ほかの手立てもありませんから、致し方なく、配下を連れて、天皇家のおわす御所と一定の距離が保てる大阪城へ即時退去させていただきます」と御所側(天皇家側、朝廷)へ届け出た[124]。慶喜は留守居役にした水戸藩家老大場一真斎へ二条城を預けると、城中の兵士らをこぞって集め、会津藩・桑名藩の主力部隊も引き連れ、徳川宗家の全軍をまとめて大阪城へ退去した[124]

慶喜はもともと勤皇の水戸藩(慶喜の実家、水戸徳川家臣団)であれば有事があっても後顧の憂いなしと考え、同藩・本圀寺党としてこれまでともに天皇を守ってきた同藩家老・大場一真斎鈴木縫殿の2人をじきじきに召し、二条城の留守居役を命じると、手づから、腰に帯びた刀、備前一文字則宗の拵附を大場へたまわった[133]。こうして二条城は大場を主将として留守をし、若年寄・永井尚志は物情鎮定の命令を受け城中に留まった[135]

また慶喜はお供の将校・兵士らを二条城中の広場に呼び、酒樽を開いて乾杯し、一同に飲ませた[133]。『徳川慶喜公伝』によると、このときの杯は桐の紋章を描いた金製で、何千個あったか定かではないが、以前、本願寺から献上されたものだったという[133]。酒を散じてから、慶喜は会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、老中筆頭・板倉勝静らをしたがえて、徒歩で二条城の裏門から出で立った[133]。慶喜は途中で馬に乗り換えたが[133]、このとき旗本御家人らをはじめ会津藩士・桑名藩士ら随従する者が約1万人ほどに及び非常に多く、時刻は午後6時頃だった[133]。日はすでに暮れていたので、慶喜は白い木綿を着て両腕をたすき掛けにし、他の者は片方の腕だけたすき掛けにさせ、主従を見分けられるようにした[133]。提灯は一小隊に一個を与えただけだった[133]。慶喜ら大行列の一行は大宮通をくだり、三条通を西へ出て、千本通をくだり、四辻にでて鳥羽街道をへて、しばらく鳥羽村で休憩した[133]。淀の橋のもとで食事をとったが、普段は路地を掃き清め、砂を盛り、御小休憩所や御旅館などを厳にしつらえるべきであるのに、今は落ち武者ともいうべきありさまだったので、扈従(こしょう。貴人に付き従う人々)の人々は密かに涙を流さない者はなかった[133]。八幡の闕門をすぎ、枚方駅についたとき、13日の朝日がほのぼのと白みわたるあかつきだったが、ここで慶喜は朝食を食べた[133]。守口駅で昼食のとき、慶喜は容保をかえりみて「越中(越中守、松平定敬)も同じ事だが、6年もの久しきあいだ、誠実な心で朝廷の御為に尽くしてきたが、この体たらくに立ち至ったのは時の運というべきだろう。けれども、御所からご譴責もあるべき勢いであったのに、無事においとまたまわってここまでこれたのはせめてもの事で、つまるところ、貴卿らの誠実が貫通したものであろう。この節ではご賞与をこうむっても嬉しいとも思わぬが、ご譴責をこうむればなおさら遺憾なるべきだったのに、そのことがなかったのはまずまず一同さいわいであった」といった[133]。こうして同日午後4時頃、慶喜らは大阪城についた。急な事だったので、いろいろなお迎えの用意も整っておらず、大阪城代常陸国笠間藩主・牧野貞直がとりあえず夕食の御膳を慶喜へ勧めたが、慶喜はその半分をわけ、容保らへたまわり、お供の部下をねぎらった[133]

薩長両藩が未成年の明治天皇のもと朝廷政治を操って急進的な極左(革新)政策をしいた手段については、慶喜にもさすがに不満の情があった[128]。しかし慶喜は天下国家のためにこれを堪え忍んで許容し、徳川家には極めて恩恵の少ない(実の損害ばかりが大きい)王政復古の大号令へも敢えて従い、激昂に激昂を重ねている幾万の家臣らをも抑制し、断固として挙兵を求める衆議を退けた[128]。慶喜の家臣でのちの男爵渋沢栄一はその著『徳川慶喜公伝』で「この際の慶喜公の苦衷のほどは、ただ慶喜公だけが知るところで、後世の人間が推測できる範囲をとうに超えている」と記している[128]

こうして徳川宗家慶喜率いる旧幕府軍は、12日夕刻には京都の二条城を出て、翌13日大坂城へ退去した。

春嶽はこれを見て「天地に誓って慶喜は辞官と納地を実行するだろう」という見通しを総裁の有栖川宮熾仁親王に報告した。[要出典]

徳川宗家による外交事務代行

「徳川家(徳川宗家)の政体(江戸幕府)」は大政奉還の後から、日本政府の外交事務は「徳川家の政体(幕府)」と「天皇家の政体(朝廷)」のどちらで取り扱うのかと、各外国公使から頻繁に問い合わせられていた[136]。慶喜はみずからがかねてからの志であった大政奉還[137][138]をした以上「天皇家の政体(朝廷)」が日本政府として外交事務をつかさどるべきだと考えていたが[136]、これまで日本の公儀としてあらゆる政治的実務をつかさどってきたのは「徳川家の政体(幕府)」であった一方、「天皇家の政体(朝廷)」側にはまだその準備がまだ整っておらず[136]、外交上の実務経験や心構えも不足しているからには、いますぐ外交事務をおこなうのは難しいだろうと天皇家を思いやっていた[136]。慶喜には、水戸徳川家代々の「尊王の大義」で母方(有栖川宮家)の主家に当たる天皇家を立てる必要があり[14][32]、その尊王主義の手前、新政体が発足間もない天皇家側にはまだ政治的能力がないと直接正直に外国公使らへ打ち明けて語るのも難しい事情があった[136]。また、慶喜は、彼と同様の認識であった明治天皇(当時16歳)の摂政二条斉敬から内々に、「ただいま朝廷(天皇家の政体)では外国人らを接受することはできそうにないので、徳川家(徳川宗家)には気の毒だが、大政を奉還される前のとおり、外国公使らを応接して下さい」との外国公使・接受代行の依頼を受けていた[136]。そんななか二条城を出て、大坂城に入った慶喜は、12日大坂城黒書院フランスイギリスイタリアアメリカプロイセンオランダ各国公使らを集め、各国との条約の締結や外交事務は、唯一の公式政権として徳川宗家が一時的に取り扱う旨を説明した[注釈 15][136][139]

この頃、フランス公使レオン・ロッシュが「徳川家徳川宗家)が政権をお持ちになっているあいだ、フランス側は飽くまで貴家へお味方させていただくつもりですが、政権を奉還(大政奉還)なさった以上は、これまで通りお味方させていだくのは難しいかと存じ上げます」と、旧幕府側へ申し出た[136]。このため、幕閣の一人として諸外国と直接外交を行ってきていたもと老中・外国事務取扱(外交官)の丹波亀山藩主・松平信義が、「いまご当主(徳川宗家主、慶喜)が外国の助けを失っては一大事でございます」と、慶喜に朝廷(天皇家の政体)からの外交権委任状をフランス側へ示す事を勧めた[124]。実際は徳川宗家当主で(前)内大臣・慶喜が内々に(まだ当時16歳で十分な実務能力を持たない)明治天皇摂政二条斉敬から依頼を受け、日本政府側として外交事務を一時代行する予定だったが[136]、松平信義が勧めている委任状の内容は「天皇家朝廷)からの委任で」徳川宗家が外交事務をつかさどる、とわずかな事務手続き上の偽りを含んでいた[注釈 16]。慶喜はこの委任状の事務手続き状の偽り(摂政個人からの内々の依頼と、天皇家の政体からの公式の外交権委任として勅許があった事実の違い)を厳格にみて[注釈 17]、松平信義にそのような文書を朝廷からわざわざ取り付けたりロッシュへ渡したりすることを許さなかった[136][注釈 18]。しかし、松平信義はロッシュの説得にはやむを得ない措置と考え、密かに作った自作の外交権委任状を外国人へ示した[136][注釈 19]

旧幕府側で高まる主戦論

大坂城では、会津藩士と桑名藩士だけでなく幕閣にも主戦論が高まったため、12月中旬に旧幕府軍は京坂の要地に軍隊を展開した。西国街道西宮札の辻に小浜藩兵500人、京街道守口伊勢亀山藩兵200余人、奈良街道河堀口姫路藩兵200余人、紀州街道住吉口紀州藩兵若干名を配した。また、枚方には注進に備えて騎兵を置き、真田山天王寺陣営を築き、大坂、大坂城外14カ所の柵十三川、守口、枚方、山崎八幡、淀を幕府陸軍で固め、伏見には幕府陸軍新選組を配して臨戦態勢を整えた[140][141]

12月23日24日にかけて朝廷において、[要出典]大坂城に移り音信不通となった[要出典]慶喜について会議が行われた[要出典]参与大久保利通は慶喜の裏切りと主張し、ただちに「領地返上」を求めるべきだとした。これに対し春嶽は、旧幕府内部の過激勢力が慶喜の妨害をしていると睨み、それでは説得が不可能として今は「徳川家の領地を取り調べ、政府の会議をもって確定する」という曖昧な命令にとどめるべきとした。岩倉も春嶽の考えに賛成し、他の政府メンバーもおおむねこれが現実的と判断したため、この命令が出されることに決した。再度春嶽と慶勝が使者に立てられ、慶喜に政府決定を通告し、慶喜もこれを受け入れた。[要出典]近日中に慶喜が上京することも合意され、この時点まで、慶喜は復権に向けて着実に歩を進めていた[要出典][注釈 20]

鳥羽伏見開戦の前哨戦

薩摩藩の浪人募集

これら慶喜復権に向けての不穏な動きを感じた討幕派は、薩摩藩管理下の勤王派浪士たちを用いて旧江戸幕府)に対し江戸市中で放火町人への強盗庶民への辻斬りなど騒擾による挑発作戦を敢行しはじめた。

10月、薩摩藩士・西郷隆盛は討幕の名分がないのを苦にして、百万の兵をもつ徳川家を憤激させようと謀り、その第一計として浪人を関東各地へ放って、開戦時には関西関東どちらでも江戸幕府を奔走させ疲れさせようと考えた[143]。そこで西郷は薩摩藩士・益満休之助と同藩の陪臣(倍々臣)・伊牟田尚平に「江戸へ出たら浪人をよびあつめ、関東中で騒乱を起こせ。もし徳川家警備隊警察)を送ってくればできるだけ抵抗せよ」と告げると、両人は大喜びで江戸へ向かった[143]。益満と伊牟田が三田の薩摩藩邸に着くと、同藩邸の留守居役・篠崎彦次郎とともに、公然と浪人を募集しはじめた[143]。益満らは同藩主・島津忠義の名で「(江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所で、薩摩藩出身の)天璋院さまご守衛の為」と偽って徳川宗家へ浪人公募の旨を届け出た為、老中らは拒むことができなかった[143]。これから益満らは東奔西走し募集した500名の浪人らを落合直亮相楽総三の2人を統括者としてまとめると、権田直助を彼らの相談役に、しきりに彼らを江戸から関東一帯へ放って騒擾活動をさせた[144]

浪人による騒擾活動

四散した浪人らは江戸では豪商や民家を強盗し、関東取締出役渋谷和四郎の留守宅を襲うと家族を殺傷した[145]。浪人らは、無頼の徒や浪人の名を借りて誰にはばかるところもなく、至るところで財産を盗んで騒擾事件を起こした[145]。これらの浪人による騒擾事件は、10月下旬からはじまり、12月になると最も凄まじくなってきた[145]

庄内藩の見回り警備

そのとき庄内藩主・酒井忠篤 (庄内藩主)新徴組を率いて江戸府内を取り締まっていたが、薩摩藩が放った浪人による暴動に人手が足りなくなり、10月末から歩兵半大隊、撤兵二中隊、奥詰銃隊半大隊、遊撃隊らへ市中の見回りと警備をさせていた[145]。11月2日に酒井は城門の勤番人数をふやし戒厳をしき、月末には前橋藩佐倉藩壬生藩にも協力させ、12月18日には松代藩丸岡藩杵築藩ら52藩らに命じて各藩邸付近7、8町をおのおのの持ち場に定めると一晩中みまわりさせ、一宮藩泉藩館山藩新庄藩ら4藩には上野山内や芝山内を警護させていた[145]

関東中での浪人による騒擾事件

11月から12月にかけ、薩摩藩士・鯉渕四郎ら数十人は相模国へいくと、荻野山中藩主・大久保教義甲府城の勤番のために留守にしていた荻野山中陣屋放火し、武器や軍用金を強盗した[146]。薩摩浪人・竹内啓武蔵国出身)ら数十人は下野国へいくと、薩摩藩と称し大平山おおひらやま岩舟山出流山いずるさん出流山事件)などによって尊王・討幕と称する集団での騒擾行為をおこなった[147]。また一群の浪人らは上総国下総国常陸国水戸へ赴いたが消息をつかめなくなった[147]。薩摩浪人・上田修理らの一群は、甲府城を焼こうとして八王子にやってきたが、江川太郎左衛門の配下に逮捕された[147]

旧幕府方は壬生藩館林藩足利藩ら諸藩に命じ賊徒を追討させ、宇都宮藩には真岡陣屋を警護させた[147]足利藩兵は関東取締出役・宮内左右平の兵とともに、竹内啓らの賊徒を撃破し、捕縛・斬刑した[147]。12月18日、旧幕府方は歩兵一中隊を戸塚へ派遣して、また似た様な暴行をしている浪人らを追討させた[147]

江戸城・二の丸御殿の炎上

23日、江戸城の二の丸が火事になった[145]。これは放火だとすると噂が広まり[148]、二の丸御殿は天璋院の住まいだったため、大奥の女中が薩摩藩士と共謀して犯行したに違いないとか、同藩士が天璋院を誘拐しようと攪乱行為を働いているせいだとか、嫌疑が薩摩のみへ一気に集まった[146]。『徳川慶喜公伝』が引用するところ、『史談会速記録』「落合直亮談話」の中で、旧薩摩藩士・市来四郎が、江戸城二の丸放火は同藩陪臣(倍々臣)伊牟田尚平のせい、としているとする[146]。もろもろの役人(公務員)もあちこちで起きてきているあまたの暴行は薩摩浪人の所業だとついに探知するにいたった[146]。役人らは大いに心を戒めると城門の警備を厳格にしだし、歩兵・騎兵・砲兵の3兵隊を曲輪内に集め非常時だと知らせながら、幕府陸軍へ命じて新橋、喰違、水道橋、昌平橋、和泉橋、下谷新橋を守らせ、往来を禁止した[146]。また、永代橋、大橋、両国橋、東橋、一石橋、日本橋、江戸橋、鐙之渡、湊橋、豊後橋を諸大名の分担で守らせた。これらの戒厳令の敢行は、各警備隊がいづれも浪人を監視するためのものだったが、ひとりも浪人を逮捕したり処刑したりする成果は挙げられなかった[146]

江戸薩摩藩邸の焼討事件発生

12月23日夜、薩摩藩の支藩・佐土原藩士の一隊は三田の庄内藩屯所を銃撃し、詰め合いの者を殺傷した[147]。さらに同日江戸城二の丸附近も炎上し、これらの工作活動に堪りかねた江戸幕府は薩摩藩上屋敷の浪人処分を決定した。25日、旧幕府は薩摩藩に浪人たちの引き渡しを求めたが薩摩側が拒絶したため、庄内藩らによる江戸薩摩藩邸の焼討事件が勃発した。

27日(1868年1月21日)、薩摩・長州・土佐・安芸四藩が、天皇観閲の下、京都御所建春門前で軍事演習を披露。[要出典]

大阪城での官吏の大憤激

28日(1868年1月22日)、江戸薩摩藩邸の焼討事件の報が大坂に届く[要出典]と、慶喜の周囲では「薩摩討つべし」の声が高まる。

慶喜は大阪城で物情の鎮静化につとめていたが、小御所会議王政復古クーデター)での辞官納地の通達以来、幕臣の激昂が甚だしくなっており、そこでさらに薩摩藩士が家康以来徳川宗家将軍家)の本拠で主城を構えていた江戸で市中への放火等の騒擾事件(江戸薩摩藩邸の焼討事件[149]を起こすと、庄内藩士らによる治安維持のための鎮圧戦が始まった[150]。 老中・板倉勝静江戸薩摩藩邸の焼討事件について憂慮し、「焼き討ちする様な事は以ての外だ。上方(京阪地方)も江戸もひたすら静まっていて、薩摩藩につけいる隙を与えないことが肝要でござる」と慎重姿勢を崩さなかった[151]。しかし大阪城のなかでは上司も下士も今にも暴発しそうな勢いが誰にもほぼ制御できなくなり、老中丹波亀山藩主の松平信義は「令状を出して、大阪を徘徊する薩摩人(鹿児島人)1人を斬るごとに15金を与えよう」との公議を出すに至った[150]。慶喜はこれを聴くと、無謀な議論で、血気の小勇(蛮勇)にすぎないと、幕命による大阪からの鹿児島人抹殺の企てを制止した[150]

薩摩が薩土密約の履行を促す

28日(1868年1月22日)同日、土佐藩士山田喜久馬吉松速之助らが伏見の警固につくと、西郷隆盛は土佐藩士・谷干城へ薩長芸の三藩へは既に討幕の勅命が下ったことを示し「薩土密約に基づき、乾退助を大将として国許の土佐藩兵を上洛させ参戦」させるよう促した。谷は大仏智積院の土州本陣に戻って、執政・山内隼人(深尾茂延、深尾成質の弟)に報告。慶応4年1月1日(1868年1月25日)、谷はこれを伝えるため、下横目・森脇唯一郎を伴って京を出立し早馬で土佐へ向う。[要出典]

徳川慶喜への再入京の朝命

京都から越前藩士・中根雪江尾張藩の者ら4、5人が大阪へきて、朝命(天皇家政体朝廷からの指令)によって[注釈 21]、慶喜へ再び京都へくるよう勧めた[150]。慶喜は「では軽装(少数のお供だけを連れての朝議参内)で京都へ行こう」と考えたが、会津藩桑名藩やほかの旗本の者らがこの慶喜の台慮(貴人の思い)をききいれず反対し、「薩摩藩を討つ好機会なので、十分な兵力を持って京都へ行き、是非とも君側の奸を清めましょう」と主張した[150]。このとき、官僚で最も身分が高い者で老中からそれ以下の官職にあたる大目付目付までほとんど半狂乱のありさまで、もし慶喜が薩摩藩征討(討薩)を肯定しなければ配下が一体なにをしだすか想像もできない状態で、しかも官僚から兵士らまでみなが完全に討薩を心から固く決意している気配だった[150]。当時の大小目付部屋の光景は驚くべきもので、居並ぶ武者のみながあぐらをかき口角泡を飛ばしながら討薩論に熱中しているありさまは、ほとんどどこからも手の下しようもない状態だった[150]

このとき慶喜は風邪をひいており、寝巻(寝間着、寝衣)のまま寝床布団)の中にいたところへ老中板倉勝静がやってくると、将校から兵士までの討薩を望む士気の激昂は凄まじいもので、このまま何もせずには到底いられない旨、また「いくら少数のお供を除けばおひとりで京都へ行かれたいとはいえ、所詮、大君日本最大の大名)であらせられるからには、万が一の為に御身をお守り申しあげる大勢の兵隊を帯びねば到底その様な事は叶いますまい」とくりかえし慶喜を説き伏せた[150]。慶喜はそのとき読みかけの『孫子』の一節を示しながら「『彼を知り己を知れば百戦あやうからず』とこの本にある。そこで試しに聞くのだが、今わが幕府に西郷隆盛に匹敵すべき人物はいるか」と板倉に問うと、板倉はしばらく考えてから「おりません」と答えた[150]。慶喜が続けて「では大久保利通ほどの者はどうか?」と問うと、板倉はまた「おりません」といった[150]。慶喜はさらに吉井友実ら薩摩藩で名のある数人を挙げ「この人々に拮抗しうる者はいるか」とつぎつぎ尋ねてみると、板倉はまたまた「おります」とは言えなかった[150]。このため慶喜は「こんなありさまでは、もしわが軍が薩摩藩側と戦っても必勝を期し難いだけでなく、遂にはいたづらに朝敵の汚名をこうむるだけではないか。決してわが方から戦を挑むことなきよう」と板倉へ無謀な開戦を制止した[150]。それでも、板倉と若年寄永井尚志らはしきりに将校・兵士らの激憤状態を慶喜へ説明し、「もし上様(慶喜)が飽くまで討薩の命令をゆるして下さらなければ、おそれ多くも、上様を刺し違えたてまつってでもわが軍隊は脱走しかねない勢いなのでございます」といった[150]。慶喜は「まさかおのれを殺すまではしまいが、わが方の兵が脱走しそうなのは勿論だ。そうなったらいよいよ国が乱れるもとであろう」と、自軍の制御が十分に及んでいないのをひたすら嘆いていた[150]。こうして江戸薩摩藩邸の焼討事件以後、なおさら大阪城のなかの将校・兵士らの憤激は到底制御することが不可能になった[150]

慶喜が薩摩藩への義憤に逸る大阪城配下の兵隊の大勢を抑え続けられなくなり[150]、「なんじらのなさんと欲するところをなせ」「いかようとも勝手にせよ」と放任すると[129]、将校・兵士らは『討薩表』を慶喜の名で書くと旗本竹中重固薩摩藩側へ持って行った[注釈 22][150]

こうして朝廷から御所への参内を命じられた慶喜は[152]、慶応4年(1868年)元日討薩表』と共に[注釈 23]2日から3日にかけて[要出典]京都へ向け近代装備を擁する約1万5千の[要出典]軍勢を進軍させた。さきども進軍の間、朝命のとおり軽装で上京するつもりで[注釈 24]出兵が本意ではなかった慶喜[注釈 25][注釈 26]はこのとき風邪をひいてずっと寝巻布団の中にいて[154]、はじめからおわりまで大阪城の中から出ず[154]甲冑軍装などの軍服も着ずに[150]、ただ嘆息していた[150]。後年、慶喜は回想談中で、自身はもとから朝命どおり軽装(連れても少数のお供だけ)で御所へ参内するつもりだったことともあわせ、当時の大阪城の配下がことごとく「なにがなんでも討薩の命令を」と大憤激し、全軍の総指揮官としての自分には彼らの進軍を抑えきれなくなってしまったありさまは、自身の為に御所までの道を開ける先供の制止にあらゆる手を尽くしたが最早どんななすすべもなく、形の上でそういう結果に立ち至ってしまったもの、と語っている[注釈 27]

アメリカ合衆国(米国)弁理公使(駐日アメリカ合衆国大使)・ロバート・ヴァン・ヴォールクンバーグはの老中板倉勝静酒井忠惇松平信義 (丹波亀山藩主)らへ正式な外交文書を送り、そのなかで旧幕府側は条約に基づく米国人保護を依頼されると共に、旧幕府は現在誰と戦争をしているのか」「旧幕府側に反抗しているのは島津忠義だけか、それとも味方や協力者がいるのか」と米国政府側から問われると[155][注釈 28]、これへ返信した老中板倉勝静酒井忠惇は連署による公文書で「当今わが国(日本国)に政変があり、やむを得ず兵力を用いるときは賊徒・不臣である島津忠義の一藩(薩摩藩)を除くためで、同藩がどこへ潜伏しどんなはかりごとを企んでいるかも測り難い。旧幕府が兵力を用いる際、条約批准済みの外国人は保護し、その方法も厳重に手配するので安心して欲しい。事態の鎮静化までにはなるだけ遠行等もなきようお心づきを頼み入ります」と、不測の事態による武力衝突時には、飽くまで徳川方へ反抗し謀略を企んでいる島津忠義の率いる薩摩藩一藩との間のもの、との政府公式見解を出した[156][157][注釈 29]武備を鞏めての進軍は明らかに朝廷に対する威圧行為であった。[独自研究?]

旧幕府軍[136][156][158]主力の幕府陸軍歩兵隊及び桑名藩兵、見廻組等は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。旧幕府軍の本営淀本宮(淀姫社)[注釈 30]に置かれ、総督松平正質、副総督は塚原昌義であった[160]

慶喜出兵の報告を受けて朝廷では、2日に旧幕府側[136][156][158]の援軍が東側から京都に進軍する事態も想定して、橋本実梁を総督として柳原前光を補佐につけて京都の東側の要所である近江国大津滋賀県大津市)に派遣することを決めるとともに、京都に部隊を置く複数の藩と彦根藩に対して大津への出兵を命じた。だが、どの藩も出兵に躊躇し、命令に応えたのは大村藩のみであった。渡辺清左衛門率いる大村藩兵は3日未明には大津に到着したが、揃えられた兵力はわずか50名であった[161]


  1. ^ 生前の孝明天皇と直接接していた最後の征夷大将軍徳川慶喜が後年『昔夢会筆記』で男爵渋沢栄一から孝明天皇の「攘夷についての真の叡慮(天皇の思い)」を問われ、孝明天皇が過去の天皇家中華思想神道、近臣の無知に由来した外国人嫌悪だった事情を説明している[12]。また慶喜は同じ回想録のなかで、鷹司に外国の形勢、軍艦や兵隊の強大なこと、銃砲の鋭利なこと、それらの運転も自在であることなど、敗戦必須な攘夷戦争の現実政治上の不可能性を間接的に伝えたが、上述の鷹司による「大和魂」を持ち出しての精神論のあとで、鷹司から「貴所も烈公(徳川斉昭)の御子なれば、必ず攘夷はなされような」と奇抜な問いかけをされ、道理を説いても分からせることのできない分からず屋のどうしようもなさに困り果てた、とふりかえっている[13]。なお、同『昔夢会筆記』第1「烈公御教訓の事」での慶喜による述懐や、渋沢栄一『徳川慶喜公伝』巻1 第三章 相続前後の外国関係「烈公の海防意見十條」で引用される烈公が老中筆頭・阿部正弘へ示した国事策論『海防愚存』の趣旨によると、烈公はその対外政策において、泰平になれきった士気を国内的に鼓舞する目的で攘夷論を使っていたのと同時に、現実政治上の国外政策としては軍制近代化を急ぎながらの和睦論者だったが、和睦を先に公開してしまえば一気に士気がゆるみいざ欧米列強から侵略戦をこうむれば日本国民全般が奴隷根性に陥ってどうしようもなく征服されてしまうのを危惧していたので、国防階級である武士側は幕閣の長(知的に問題があったとされる将軍・徳川家定による政務が実質的な機能していない状態でいう副将軍)である自ら、体面上、飽くまでタカ派を演じるべきだとしていたという[14][15]
  2. ^ 徳川慶喜(七郎麿)ら水戸家の貴公子らは水戸城で起床後かおを洗ってうがいをし、寝巻から服を着替えて座に着くと、侍臣が目の前に見台をもちだしてきて、貴公子らがただちに四書五経のなかのひとつを一巻の半分ほど復読する[22]。その近侍らが公子らのうしろから髪を結いながら公子らの復読の間違いを正し、終わって朝食をとると午前10時まで習字、つづけて水戸弘道館へそろって登校し、教師から四書五経の素読の授業をうけ講義を聴き、校内の文武の学生らの修業を見学した[22]。正午に公子らは弘道館至善堂(公子らの休憩所・勉強部屋を兼ねる一室)へかえり昼食をとった[22]。午後、公子らは武芸(武道)の教えを受け、夕方に一定時間、遊びの時間が与えられた[22]。夕食後に、公子らはその朝読み残したところを復習して本一冊をおわり、これで一日の文武課程と定められ、それと違ったことはゆるされていなかった[22]。水戸家の子女はみなそうで、七郎麿(慶喜)も等しくこの規則のもとで教育されていた[22]。烈公は傅役(養育担当の侍従長)の水戸藩士・井上甚三郎に公子らの教育方針の手紙を送り「予の庶子は嫡子とちがって養子を望む家があればただちに遣わすつもりなので、永くわがひざもとで教育しがたい。そうならば文武ともに怠らせてはいけない。もし他家に出してやった時、柔弱で文武の心得がなければ、わが水戸家の名を辱めることがあるだろうからだ。水泳・弓術・馬術の三科は並列して修業させてくれ。なかでも馬術は弘道館の馬場でのるだけでは何の役にも立たない。現実の山の坂道をのぼりまわる練習で、たびたび偕楽園の好文亭あたりや、千波湖のあたりを走らせてまわるべきだ。那珂湊などへも供をする付き人どもと手軽に馬に乗って遠出させるよう扱ってくれ。ただし、子供はじめみな腰弁当でいくように」と述べていた[23]。慶喜は天分に恵まれ他の諸子らより明敏で、烈公が水戸へ帰ってきて各こどもをみて評したとき、慶喜について「天下天晴あっぱれの名将となるだろう。しかしよく教育しなければ、手に余るかもしれない」「七郎(慶喜)と八郎(松平直侯)は御用に立つべき者」といっていた[24]。青年期の慶喜は初代リーズデイル男爵アルジャーノン・フリーマン=ミットフォード から「彼は英国の狩りの名人と同じく、あらゆる天候で鍛えられた疲れを知らぬ馬術家であった」と評されたが[25]、馬術について非凡でいわゆる大名芸(実戦に堪えない武技)ではなかったのはこの為だと渋沢栄一は『徳川慶喜公伝』(1章 誕生及幼時)でいう[23]。慶喜への少年教育の様子は『徳川慶喜公伝』4巻35章逸事「烈公の教育」以下で詳しく触れられている。七郎麿(慶喜)は総じて挙動が快活で甚だ元気がよく、優しい性格の異母兄・五郎麿(池田慶徳)がひな人形を飾って遊んでいると七郎が「五郎様は面倒な事をなさる」といって取り壊し喧嘩になったり、弘道館までの通学路でいつも兄弟の公子たちと石けり遊びをしているため外聞を考えたお付きの侍従がついにやめさせようとしたところ、帰り道では七郎の発案で公子らが左右二手に分かれ止めようとする2人の侍従を公子ら申し合わせて順番に煙に巻き、石けり遊びをつづけようといたづらしたり、『弘道館記』の文武両道(文武不岐)の方針にたがわず運動を好んで読書をくりかえし怠けたりしていた。このため七郎は侍臣からいよいよ灸を据えられた。しかし七郎はこれでも「陰気な書物を読まなくていいからかえって心安い」と平然としていたので、烈公の命令でつくられた座敷牢にいれられ、以後、反省して別人の様に読書にも励み学習課程をきちんとおこなうようになった。授業を受ける態度は整然と着座するなど他の公子らより真面目で、授業後の休み時間にはうってかわって八郎(松平直侯)や九郎(池田慶徳)ら2公子を相手に火事だ軍だとわめきまわって手荒い遊びをするなど勇ましい様子だった。七郎は就学した6、7歳ころには松平頼救ふうの書道を習いきわめてみごとな筆遣いで、10歳の頃にはすでに四書五経の素読課程を終えて『史記』や漢書もよみこなすなど、少年の所業をこえていたので、人々は古今聞いた事のない英邁さだと感じていた。また、ある日、烈公の前で公子らが書道を披露する催しがあったとき、兄の五郎(慶徳)が書く順序をなぜか弟の七郎(慶喜)へゆずろうとした。しかし七郎(慶喜)も兄へゆずろうとして、互いに席へ着こうとしなかった。いくらいっても兄が席につこうとしないのでやむをえず、七郎(慶喜)が筆を執ったが、連句の下の句をかきはじめ、上の句を無言のうち兄君にゆずっていた。このときの七郎(慶喜)のふるまいがすべてのすがた)にかなっていたので、謙譲の美徳の見本だと感じない人はいなかった[26]
  3. ^ 12代将軍・家慶にとって慶喜(松平七郎麿が家慶から偏諱を賜った名)は、家慶の正室・喬子女王と斉昭の正室(慶喜の実母)・吉子女王が共に有栖川宮家出身の実の姉妹であるため、血統上の甥にあたり、当時の一橋家にとって身近で血統的にもふさわしい人物は御三家御三卿の中で慶喜以外にいなかった。また時の老中筆頭・阿部正弘の賛意があり、七郎麿(慶喜)は幼少から英明のうわさが広く流布していた。こうして家慶は七郎麿(慶喜)を将軍家(徳川宗家)を継ぐ系譜にあった御三卿・一橋家の養子にすることを望んだ[27]。家慶は慶喜をたいそう深くかわいがることおおかたではなく、既に実子の徳川家定がいたが病身で、鷹狩り・猪狩りなどの狩猟や釣りの際にはおおむね慶喜を伴わせた[28]。ある日、慶喜が家慶の釣りにお供して将軍家(徳川宗家)側近の侍臣の人々と共に糸を垂れていたとき、お付きの人々は大きな魚を釣り上げれば慶喜のかごにいれて彼のお手柄とみせかけようとしたが、慶喜はこどもながら「そういう不正はよくない」といって、自分の釣ったのは小さな魚だと従者からそのまま家慶へいわせた[28]。家慶はこれを聞くと手を打って悦に入った[28]。のちの家臣で慶喜の伝記編纂者・渋沢栄一は、これが水戸での少年教育の結果であるという[28]水戸藩士で慶喜の傅役(養育担当の侍従代表者)井上甚三郎がこどもの七郎麿(慶喜)と打球(慶喜がおさないころから好んでいた武芸)の時「わたしがお相手とならば、いくら君公(主君の貴公子)といっても決して勝ちはゆずれません。わざと勝ちを譲られても真の勝ちとはいえません。かえって君公の心がおごりたかぶることがあっては、なげくべきことですから」といった[29][30]。七郎麿がひそかにルール違反の左手をつかい、ずるをして勝とうとしたとき、そばで見ていた井上が声をかけ「今度はそれがしがお相手つかまつりましょう」というと、(より卑怯な手をつかって)ザルで一気に数十個の玉をゴールに投げ入れた[29][30]。井上は「もし貴公がひそかに手を使って球を掬われるのなら、それがしはこのように致しますぞ」といい、顔色を正して、七郎麿(慶喜)のずるをいさめた[29][30]。後年の慶喜が振り返って言うには、このとき慶喜はひどく恥じ入って、井上へなにも答えられなかったという[30]。1856(安政3)年慶喜が一橋家を相続した20歳の頃、まだ武道の方が文事よりまさっていたので、旗本川路聖謨がいさめて「ただいままでは武7、文3ですが、文武不岐と(烈公から『弘道館記』で示される様な教育方針を)申し聞かされておりますので、貴卿もいま専ら学問を遊ばされ、文武5分5分まで至らせ給わるがよろしいかと存じます」と慶喜へ言上した[31]。慶喜が22、3歳になるころにはどの本でも、レ点のない漢文の原書もかな書きのよう読めるようになっていたためその間、尋常でなく学力が進歩し、愛読書は『資治通鑑』や『孫子』などだった[31]
  4. ^ 吉田松陰『東北遊日記』の記録では当時71歳。1851年(嘉永4年)1月14日。国立国会図書館デジタルアーカイブ、2021年10月8日閲覧。
  5. ^ 当時22歳。水戸学者の同藩士・藤田東湖の4男。
  6. ^ 下関戦争の講和条件に含まれる賠償金300万ドルは調印した長州藩ではなく、公儀である江戸幕府徳川宗家の政体)へ請求され、満額を分割で払いきるまでには大日本帝国発足後の1874(明治7)年前までかかった。(下関賠償金)。
  7. ^ 薩長同盟が結ばれたのと同じ場所にあたる。
  8. ^ ベルギーからの直輸入ではなく、米国南北戦争で使用され、戦争終結後に余剰となった武器類が日本へ輸入されたものと言われる。
  9. ^ 「予が政権返上の意を決したるは早くよりの事なれど、さりとていかにして王政復古の実を挙ぐべきかということは成案なかりき。如何となれば、公卿・堂上の力にては事ゆかず、諸大名とでも同様なり。さりとて諸藩士にてはまた治まるべしとも思われず、これが予の苦心のあるところなりしが、要するに、朝幕ともに有力者は下にありて上になければ、その下にある有力者の説によりて、百事公論に決せば可ならんとは思いしかど、その方法に至りては何等の定見なかりしなり。松平容堂(山内容堂)の建白出ずるに及び、そのうちに上院・下院の制を設くべしとあるを見て、これはいかにも良き考えなり、上院に公卿・諸大名、下院に諸藩士を選補して、公論によりて事を行わば、王政復古の実を挙ぐるを得べしと思い、これに勇気と自信とを得て、遂にこれを断行するに至りたり。」[91]
  10. ^ 1862(文久2)年、水戸学者・会沢安は『時務策』を徳川慶喜へ献上。日本と欧米諸国の武力差などから即時の攘夷戦争は不可能とみて、もっぱら富国強兵をめざし、諸外国と友好関係のもと開国貿易をおこなうべきことを勧めていた[92]。日本大百科全書(ニッポニカ)「会沢正志斎」コトバンク、2021年10月8日閲覧。
  11. ^ 1911(明治44)年6月14日、日本史学者・井野辺茂雄が東京・兜町事務所にて、「次を伺います。大政を御奉還になりました時に、その後の御処分はいかが遊ばさるべきお考えでございましたろうか。将来における徳川家のお立場についてのその時の御決心を伺いとうございます。」と徳川慶喜へ問いかけたことへの、慶喜からの答え。[95]
  12. ^ なお多田好間・編『岩倉公実記』では岩倉具視側の記述として大久保利通より先に岩倉が発言したとされ、その発言内容に続く山内容堂の反応など細部が異なっているが、高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』(2007年)によれば、他の一次史料など同時期の関連史料に共通してみられない『岩倉公実記』での岩倉発言・逸話は、天皇や岩倉の権威を高める目的で岩倉側によっておこなわれた後世の創作とする。
  13. ^ 禁門の変の当時、慶喜は母(吉子女王)方の実家・主家にあたる天皇家の暮らしていた御所警備隊長(のちの皇宮警察長官にあたる)、禁裏御守衛総督だった。[124]
  14. ^ 鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍の兵糧方を務めた坂本柳佐は、慶応3年(1867年)12月12日夕方から夜の二条城内の様子について、「彼のなどは二條城に於きまして、今 丸太町通薩藩會津の藩が、五人一時に殺した とか何とか云ふ注進が参りました、それで其になつて慶喜公出立となりました、それを會藩が 慶喜公御とあれバ此處で残らず屠腹して仕舞ふ と云ふので、夫れから容保と云ふ人が涙を流して諫めた、其處で又 薩藩を何人斬つた と云ふ注進がありました、慶喜公も會津や桑名を留めましたら内部で軍さが起る勢ですから少し斷念したと思はれます、其丈の策畧は無くして、唯一時に早る者ばかり多かつたです、」と述べ、慶喜が二条城を出る直前、会津藩士や桑名藩士は暴発寸前であったことが分かる[134]
  15. ^ 渋沢栄一・編『昔夢会筆記』第14、「政権御奉還後旧幕府にて外交事務を取り扱いし事」271頁で、慶喜は、当時、徳川宗家側が天皇家側に代わって一時的に外国公使らとの外交を行った理由を以下のよう説明している。 1.直接外交をおこなってきていない天皇家側に外国公使接受の準備が整っておらず、一時の処置として、以前通り徳川宗家が続けるしかなかった。2.天皇家側の摂政・二条斉敬から内々に、天皇家側でいますぐは外国公使らを応接できないので、気の毒だが従前どおり徳川宗家に頼むとの依頼があった。これら2つの理由で、以前から公式政府として外国公使らと外交接受を続けてきた徳川宗家側が、天皇家側の準備が整うまで、一時的に外国事務を続けている必要があった。
  16. ^ 「この頃松平豊前守(正質、後に大河内氏を称す)は外国公使に向かいて、徳川家は朝廷の御委任により以前外交の事を掌る旨通告し、御委任状をも作りて示したりという。」[124]
  17. ^ 当時の徳川慶喜は政治家としてすでに同様の事務手続きの手違いである「条約勅許問題」で政争に巻き込まれた経験がある事に注意。コトバンク「条約勅許問題」、2021年10月8日閲覧。
  18. ^ (豊前守・松平信義から徳川宗家の一大事と、フランス公使ロッシュへの外交権委任状提出を勧められるも)「予は固く執りて許さざりしかば」[136]
  19. ^ 「豊前守はやむをえずして、上に述ぶるがごとく密かに御委任状を作りて外人に示したるものなるべし。」[136]
  20. ^ 土佐藩は、乾退助(板垣退助)主導のもと、軍制近代化と武力討幕論に舵を切ったが、後藤象二郎が「大政奉還論」を献策すると、藩論は過激な武力討幕論を退け、大政奉還論が主流となる。退助は武力討幕の意見を曲げず、大政奉還論を「空名無実」と批判し「徳川300年の幕藩体制は、戦争によって作られた秩序である。ならば戦争によってでなければこれを覆えすことは出来ない。話し合いで将軍職を退任させるような、生易しい策は早々に破綻するであろう」と予見する意見を述べたことで全役職を解任されて失脚したが、その予見通りになりつつある危機に直面していた。「大政返上の事、その名は美なるも是れ空名のみ。徳川氏、馬上に天下を取れり。然(しか)らば馬上に於いて之(これ)を復して王廷に奉ずるにあらずんば、いかで能(よ)く三百年の覇政を滅するを得んや。無名の師は王者の與(くみ)せざる所なれど、今や幕府の罪悪は天下に盈(み)つ。此時に際して断乎(だんこ)たる討幕の計に出(い)でず、徒(いたづら)に言論のみを以て将軍職を退かしめんとすは、迂闊を極まれり。乾退助」[142]
  21. ^ 「さきに朝廷から軽装で私に上京しろという事であった。」[152]
  22. ^ 渋沢栄一・編『昔夢会筆記』第5で、慶喜は『討薩表』について、自らが出したものではなく、激昂する藩屏が書いたものを自分も見たようではあったが仕方なしにうっちゃらかして置いて、旗本竹中重固が相手方へ持って行った、と語っている。なお、当時、慶喜は風邪をひいており、大阪城から一歩もでず寝巻のまま布団の中にいた[153]
  23. ^ 渋沢栄一・編『昔夢会筆記』第5で、慶喜は『討薩表』について、自らが出したものではなく、激昂する藩屏が書いたものを自分も見たようではあったが仕方なしにうっちゃらかして置いて、竹中重固が相手方へ持って行った、と語っている。原文:「いや、軍令状を出したというようなわけじゃない」「軍令状も何もない。無茶苦茶だ」「さきに朝廷から軽装で私に上京しろという事であった。軽装で行くなら残らず行けという勢いで、そこでなお上京しろという命令があったから、それを幸い、先供(さきども)でござると言って出て来た。」「(討薩表について)それは確か見たようだったが、もうあの時分勢い仕方がない……。とうてい仕方がないので、実は打棄(うっちゃ)らかしておいた。討つとか退けるとかいう文面のものを、竹中(竹中重固)が持って行ったということだ。」「書面などは後の話で、大体向こうが始めてくれればしめたものだ。何方(どっち)も早く始めりゃあよい。始めりゃ向こうを討ってしまうというのだ。向こうも討ってしまいたいけれども機会がない。此方も機会がないといったようなわけで、両方真赤になって逆上(のぼ)せ返っているんだ。どんなことを言ってもとても仕方がない。」
  24. ^ 「予もさらば軽装をもって入京せんと考えたりしかど、会桑両藩以下旗本の者等これを聴かず、「好機会なれば十分兵力を有して入京し、君側を清むべし」と主張し」[150]
  25. ^ 「因りて予は、「このごとき有様にては、戦うとも必勝期し難きのみならず、遂にはいたずらに朝敵の汚名を蒙るのみなれば、決して我より戦を挑むことなかれ」と(板倉勝静によって繰り返される討薩の出兵要請を)制止したり。」[150]
  26. ^ 「この際の処置は、予ももとより宜を得たりとは思わざりしも」[150]
  27. ^ 「この際の処置は、予ももとより宜を得たりとは思わざりしも、今にていえばこそあれ、当時の有様にては実にせんすべも尽き果て、形のごとき結果に立ち至りしなり。」[150]
  28. ^ No. 17. legation of United States in Japan Osaka, Jan'y 28th, 1868. Gentlemen, I have this moment received Your Excellencies Communication of last night, asking me to take such measures as may be necessary to preserve neutrality upon the part of citizens of the United States. In order that I may be correct in any notice that I may deem proper to issue to my countrymen, it will be necessary for me to be informed, "With whom is the Japanese Government now engaged in war?" "Is Matsudaira Shurino Daibu the only person in arms against the Government, or has he allies and confederates?" I also desire to say to my countrymen ( if such be the fact) that the Japanese Government has not only the disposition and ability to protect them and their rights under the Treaty, in Japan, but that it will do so. Will Your Excellencies give to me information upon these points to-day, as I desire if possible, to leave fro Yedo to-morrow. With Respect & Esteem R. B. VAN VALKENBURGH Minister Resident of the U. S. in Japan. Their Excellencies Sakai Wuta no Kami Itakura Iga no Kami Matsudaira Buzen no Kami etc. etc. etc. etc.[155]
  29. ^ 『幕府ト戦フ者は薩摩藩ノミナル旨並ニ外国人ノ保護方手配セル旨通知ノ件』御書状致被見候然者當今我国内変有之不得巳兵力を用ひ候場合ニ至り候に付貴国人民おゐて総て関係不被致候様貴様より御布告有之度段御頼申候處賊徒之名前等委敷御承知被成度旨云々御申越之趣委細承知いたし候昨今我政府おゐて討伐を加え候不臣之ものハ全く松平修理大夫一藩のミニ有之候乍併若以後同藩に黨與いたし候者有之候節は共ニ誅戮いたし候積ニ付其節は名前等委敷可申進候尤右徒黨之もの何處へ潜伏いたし非謀を巧候哉も難計候間條約済外国人を保護致し候法方は夫々厳重に手配いたし置候間其段は御安意有之候様存候附而は全く鎮静致し候迄は可成丈遠行等無之様御心附頼入候右御報可得御意如此御座候以上 正月四日 板倉伊賀守 花押 酒井雅楽頭 花押 アルビワンワンケルボルグ閣下[157]
  30. ^ 当時の淀本宮(淀姫社、與杼神社)は淀小橋の西の桂川の対岸(現在の京都市伏見区淀水垂町)にあった[159]
  31. ^ 「さきに朝廷から軽装で私に上京しろという事であった。」[152]
  32. ^ 渋沢栄一・編『徳川慶喜公伝』「4巻、第三十五章 逸事、父祖の遺訓遵守」で、慶喜は一連の天皇家吉子女王の子である慶喜にとって、母方の主家)への恭順行動理由を、伊藤博文渋沢栄一の両名へ、「実家である水戸徳川家での普段の教えだけでなく、父・烈公(徳川斉昭)からはたちの頃、庭で威儀を正して教えられた、義公(徳川光圀)以来わが家代々の尊王の大義を守っただけ」と語っている。[32]
  33. ^ 渋沢栄一・編『昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談』第14「大阪城御引上げの時の事」で、慶喜は「予(自分)は激昂する会津藩・桑名藩の兵士らへ刺殺される覚悟で帰国を命じ、天皇家に呼ばれた御所へ参内して新たな朝命を受け、『今は一己の平大名として朝廷に粉骨砕身つかまつる』と言えばよかったと、両藩兵の暴発を抑えきれず後悔している中、神保修理の東帰による善後策の勧めに、永井尚志板倉勝静も同意していた。予(自分)が大広間に出て様子をみるたび予の出馬を迫る藩兵へ『ならば今から打ち立つ。皆おのおの用意をせよ』と命じ、一同が喜び踊って持ち場に向かって退いた隙に、永井尚志・松平容保松平定敬ら4、5人を従えて密かに大阪城の後門から抜け出た」と大阪城撤退時の自身の心理と詳細な状況を回顧している。[136]
  34. ^ 『徳川慶喜公伝』が引用する『静寛院宮手記』では「長州勢」と記述されているが、『徳川慶喜公伝』では「薩州勢(薩摩勢)の誤なるべし」としている。渋沢栄一『徳川慶喜公伝』巻4、第三十二章 「東帰恭順」竜門社、1918(大正7)年、299頁。 国立国会図書館デジタルコレクション
  35. ^ 「城中の混雑はひとかたならず。当時主戦論を主張せしはひとり会桑のみにあらず、老中以下諸有司に至るまで、ほとんど主戦論者ならざるはなき有様なりしかば(なかには随分抱腹すべき主戦論もありたり)」[179]
  36. ^ 徳川慶喜「あの時分、(フランス公使)ロセス(レオン・ロッシュ)は(私を)マゼステー(fr:Sa Majesté陛下)、それから(イギリス公使)パークス(ハリー・パークス)はハイネス(en:Highness殿下)といった。それで板倉が、こういう議がある、どちらにきめると私に尋ねたことがある。上に天子天皇)がある、天子のある以上は(私の方、征夷大将軍大君は)ハイネスの方が相当と思うと言ったところが、板倉が大分不承知だった。それで仏が先に出るとか英が先に出るとか、大分先を争った。その時分にロセスの方では、いろいろ日本のためになることを密かに申し上げたいから、どうぞ内謁をしたいということであった。よろしいと言って、内謁でロセスに逢った。いろいろ話をしていると、パークスがずっとやって来たんだね。どうもどういうものか、私も外国のことには慣れぬから、喧嘩でもできなければよいと思っていると、しきりにロセスとパークスと議論を始めたのだね。けれども私は議論は分からないから黙っていたが、それがすんでから、塩田三郎……ロセスの通訳に、あれは何だと尋ねたところが、一向沙汰もなくて、お前が先に出て挨拶をするという理由はないとパークスが言う、それからロセスはこうこうとしきりに論じ詰めた。ところがなかなか激しくなって、一番しまいに、さすがにロセスは才物で、パークスに、お前ここを何の場処と思う、大君へ拝謁する場処ではないか、拝謁の場処でそういう議論は甚だ失敬だと言ったんだ。それでパークスがついと止(や)めてしまった。こういうことを塩田から聴いた。それでロセスは、やはりパークスをおいてマゼステーと言うのだ、片方はハイネス、そういうことがあったよ。」[188]
  37. ^ イギリス公使パークスは殿下にあたるen:Highnessの敬称を征夷大将軍大君であった徳川慶喜へ用いていた[188]
  38. ^ 藩主不在の桑名藩では桑名城を捨てて藩主・松平定敬に合流するか、新政府軍と徹底抗戦をするか、開城して降伏するかで意見が分かれたが、議論が纏まらないうちに新政府軍の桑名進撃の情報が入ったため、桑名城を無血開城した。
  39. ^ 「十五日朝廷も亦外国事務取調掛東久世前少将をして、仏国公使と大坂に会見し、国書を授けて王政復古を通告せしめ(後日に到りて他国にも通告せり)、二十一日又、「徳川慶喜追討につきては、兵器・軍艦を徳川家・及其命を受くる諸大名等に輸入し、士官・兵卒を貸与することなかれ」と各国公使に要求セルを以て、二十五日各国孰れも局外中立を在留の其国民に布告せり。(戊辰局外中立顛末。内地騒擾局外中立始末書。平山敬忠日記。)老中の連署状に大君政府の語を用いたるは、失体の甚だしきものなれども、蓋し当時の情勢深く咎め難かるべし。又欧米諸国が孰れも局外中立を宣告せるを見れば、未だ朝廷を日本政府として承認せざりしを見るべし。」[195]






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