魯迅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/11 13:52 UTC 版)
魯迅 | |
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誕生 |
周樹人 1881年9月25日(清光緒7年8月初3日) ![]() |
死没 |
1936年10月19日(55歳没)![]() |
職業 | 小説家 |
国籍 |
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活動期間 | 1918年 - 1936年 |
主題 | 小説 |
代表作 |
『阿Q正伝』 『狂人日記』 |
子供 | 周海嬰(長男) |
親族 |
周作人(弟) 周建人(弟) 朱安、許広平(妻) |
サイン |
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魯迅 | |
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各種表記 | |
繁体字: | 魯迅 |
簡体字: | 鲁迅 |
拼音: | Lǔ Xùn |
ラテン字: | Lu Hsün |
和名表記: | ろ じん |
発音転記: | ルー シュン |
浙江省紹興府の士大夫の家系に生まれた[1]。父は周鳳儀(しゅう ほうぎ)、母は魯瑞(ろ ずい)、弟に文学者・日本文化研究者の周作人(しゅう さくじん、1885年-1967年)、生物学者の周建人(しゅう けんじん、1888年-1984年)がいる[2]。中国で最も早く西洋の技法を用いて小説を書いた作家である[3]。その作品は、中国だけでなく、東アジアでも広く愛読されている[4]。日本でも中学校用のすべての国語教科書に彼の作品が収録されている[4]。
生誕から日本留学時代まで
1881年に誕生。幼い時は裕福な家庭だったが父の死が原因で家が没落、学問を尊ぶ伝統を残している家の長男。17歳で南京にあった理系の学校に入学、4年間を過ごす。その間、厳復が訳した『天演論』などを読み、新しい思想にふれる[5]。1902年、国費留学生として日本に留学した[6]。医学を専攻したが、同時に西洋の文学や哲学にも心惹かれた[6]。ニーチェ、ダーウィンのみならず、ゴーゴリ、チェーホフ、アンドレーエフによるなどロシアの小説を読み、後の生涯に決定的な影響を与えた[6]。ヴェルヌの科学小説『月界旅行』、『地底旅行』の翻訳をする[6]。1904年、仙台医学専門学校の最初の中国人留学生として入学し、学校側も彼を無試験かつ学費免除と厚遇した[7]。特に解剖学の藤野厳九郎教授は丁寧に指導した。しかし、彼は学業半ばで退学してしまう[7]。当時、医学校では講義用の幻灯機で日露戦争(1904年から1905年)に関する時事的幻灯画を見せていた[7]。このとき、母国の人々の屈辱的な姿を映し出したニュースの幻灯写真を見て、小説家を最終的な自分の職業として選択した[8]。その幻灯写真には中国人がロシアのスパイとしてまさに打ち首にされようとしている映像が映し出されていた[8]。そして屈辱を全く感じることなく、好奇心に満ちた表情でその出来事をただ眺めているだけの一団の中国人の姿があった[8]。のちに、はじめての小説集である『吶喊』(1923年)の「自序」にこの事件について以下のように書いた[8]。
あのことがあって以来、私は、医学などは肝要でない、と考えるようになった。愚弱な国民は、たとえ体格がよく、どんなに頑強であっても、せいぜいくだらぬ見せしめの材料と、その見物人となるだけだ。病気したり死んだりする人間がたとい多かろうと、そんなことは不幸とまではいえぬのだ。むしろわれわれの最初に果たすべき任務は、かれらの精神を改造することだ。そして、精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むろん文芸が第一だった。そこで文芸運動をおこす気になった。(竹内好訳『阿Q正伝・狂人日記』(1955年)岩波文庫)
魯迅が幻灯を見た建物「仙台医専六号教室」は、1904年に建設され、移築された後、2021年現在実在している。「魯迅の階段教室」には魯迅と藤野先生の写真が掲げられている。魯迅は「中央のブロック、前から3列目の真ん中あたりにいつも座っていた」とされ、江沢民総書記も着席した[9]。 東北大学構内には東北大学史料館があり、魯迅記念展示室がある(但し、阿部兼也と竹内好によれば、ガラス絵で描かれたスライドに詳細に描かれることが考えにくいことを理由にフィクションである可能性があると指摘されている[10]。更に、発見されたガラス絵の幻灯スライドには、スパイ行為により死刑執行された様子を映すものはなかった[11][12][13]。一方で、申彦俊によるインタビューよると、映画館のニュース映画により銃殺された場面を見たことになっている。また、博文館発行の『日露戦争実記』[1905年12月13日号、最終号]では、「満州軍中露探の処刑」の写真があり、実際に旧日本軍によるロシアのスパイに対する斬首刑の執行がされている[13]。)
その後、この時とばかり東京で雑誌の出版事業を始め、教訓的な内容の散文を文語体で書いた[14]。それは中国人にダーウィンの進化論や英雄出現を求めるニーチェの哲学を啓蒙する狙いであった[14]。これらの散文は、後に『墳』と名付けられた散文集に収められた[14]。また、周作人が編集した2巻からなる『域外小説集』のために3編の外国小説(アンドレエフの2編とガーシンの1編)を翻訳した[14]。しかし『域外小説集』の売れ行きは伸びず、各巻20冊ほどだったという[14]。文学出版事業の失敗に落胆した彼は、1909年に帰国した[14]。
7年間の日本留学の間、日本人の親友は一人もできなかった。辛うじてある教師(『藤野先生』)を尊敬しただけだった。帰国後も、民族や国家の大原則にかかわる問題が生じた際には、必ず中国側に立ったと孫利川は述べている[15]。
神奈川県鎌倉市にある円覚寺の塔頭「佛日庵」には、1933年(昭和8年)に魯迅より寄贈されたというハクモクレンとタイサンボクの木がある[16]。
北京時代
帰国後は、杭州と紹興の中学校教師として生物学の教師として過ごし、1912年中華民国政府が成立すると、教育部の事務官の職位に就き北京に移り住んだ[14]。北京での最初の数年間は、依然として隠遁者を演じており、もっぱら中国文学の典籍研究に没頭することで忙しい日々を送っていた[14]。袁世凱ら軍閥が主導権を争う混乱した政治状況に失望したからといわれる[5]。しかし、彼の文学への野望は、文学革命によって再び蘇った[14]。日本留学時代の友人であった銭玄同から要望され、雑誌『新青年』の1918年5月号に、小説『狂人日記』を発表した[14]。『新青年』は、「民主と科学」をスローガンとして1915年に創刊され、文学革命の中核となった。魯迅は、この小説の中で、表では礼節を説く「儒教」が裏では生命の抑圧者として「人を食」ってきたことを指摘し、「真の人間」となることを説いたと井ノ口後掲書は指摘する[17]。同書は続けて、「儒教」という暗黒の伝統社会とその一員である自己を否定することで、未来の子供たちには自分たちがこれまで経験したことのない人間らしい生活を準備しようとする魯迅の精神と彼の進化論が横たわっているとする[17]。
翌1919年には、『孔乙己』と『薬』の2つの小説を寄稿した[14]。『狂人日記』がその一人称を用いた文体と食人批判という内容が社会に衝撃を与えたが、口語文としての技法や物語構成において未熟だったのに対して、『孔乙己』と『薬』は、文体・構成とも優れており、魯迅の作家としての実質的なデビューは『孔乙己』と『薬』であると後掲藤井書は指摘する[18]。作家魯迅の最も優れた小説は、第1集の『吶喊』と第2集の『彷徨』に含まれている[14]。散文詩集『野草』とあわせて、これらの作品は、彼の創作力が最も充実していた北京在住時代に書かれている[19]。また彼は、中国語の小説では一般的でなかった語りのモデルを、自作において様々に試みている[20]。代表作『阿Q正伝』(1921年)では章回小説のスタイルを一見踏襲しながら、国民性の中に潜む卑怯や惰弱、軽率を阿Qという形象に結晶させ[20]、また、『孔乙己』(1919年)、『傷逝』(1925年)では物語る主体である「私」の物語内容に対する認識や責任のあり方を問い、物語を聞く読者(知識人層)にも同じ問いを突き付けた[20]。1920年秋から1926年夏まで、北京大学ついで北京女子師範学校の講師をつとめ、中国小説史を講じる一方、『祝福』をはじめとする短編小説や散文詩を執筆発表した[21]。しかし、1925年には北京女子師範大学で学園紛争が起こり、学生処分に反対する魯迅は処分派の論者と大論争を展開、これを機に彼は雑文(論争文)に力を注ぐようになる[21]。1926年3月、日本の内政干渉に強硬な態度を採るよう政府に求めよと抗議する学生・市民に対し、軍隊が発砲して47名が死亡する「3.18事件」が起きると、魯迅は政府を激しく批判した[22]。これに対し軍閥政府は魯迅を含め50数名を指名手配者としてリストアップした[22]。彼は、日本人やドイツ人が経営する病院に潜伏を余儀なくされた[22]。
避難生活は5月には終わるが、その年8月北京を離れ、福建省にある厦門大学の中国文学の教授として迎えられた[22][19]。しかし、当時人口が11万7000人足らずの厦門は、魯迅にとって居心地の良いものでなく、翌1927年1月には、北京女子師範大学の教え子であった許広平のいる広州に移り、中山大学文学系の主任兼教務主任の職に就いた[23][21][24]。広東省の省都である広州の当時の人口は81万人、中国5番目の大きさの都市であった[23]。中山大学助手となった許と、郊外の新築マンションで別室ながらも同じユニットに住み始めた[23]。ただし、この町でも反共クーデターが起こり、多くの学生達が逮捕され、虐殺されてゆく中、精一杯の抗議として、中山大学の職を辞した[25]。
- ^ 藤井(2011年)25ページ
- ^ 藤井(2011年)27ページ
- ^ a b c d e 夏(2011年)11ページ
- ^ a b 藤井(2011年)まえがき1ページ
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- ^ 「名言巡礼 国籍超えた「惜別」の証し」読売新聞2016年3月20日日曜版
- ^ “[337]「藤野先生」根幹部分は虚構か 魯迅小説言語拾零(4)” (プレスリリース), 一般財団法人日本中国語検定協会, (2014年2月7日) 2021年12月12日閲覧。
- ^ 仙台における魯迅の記録を調べる会 (1978-02-01), 仙台における魯迅の記録, pp. 143-148, ISBN 978-4582826180
- ^ “医学から文学へ”. 魯迅と東北大学-歴史の中の留学生-. 東北大学. 2021年12月19日閲覧。
- ^ a b 渡辺襄 (2021年1月11日). “魯迅と仙台留学-魯迅の見た露探処刑「幻灯」に関する資料と解説-”. 日本中国友好協会 宮城県支部連合会. 2021年12月19日閲覧。
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- ^ 莫邦富『中国人は落日の日本をどう見ているか』(1998年 草思社)
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- ^ 大島(2011年)14ページ
- ^ 大島(2011年)16ページ
- ^ 藤井(2011年)210ページ
- ^ 藤井(2011年)104ページ
- ^ 魯迅特集(東北大学・まなびの杜)
- ^ a b 魯迅の下宿跡地、仙台市が記念広場化 21年3月完成予定 - 河北新報
- ^ 日中今昔ものがたり「人的財産」賞に(asahi.com)
- ^ 東北大学魯迅記念奨励賞(東北大学)
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