高知県 概要

高知県

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/26 14:31 UTC 版)

概要

令制国では土佐国に当たり、県庁所在地の高知市の大半は土佐国の土佐郡に属していた。日本最後の清流といわれる四万十川(しまんとがわ)のほか、水辺利用率全国一の仁淀川物部川安田川など四国山地に源を発する清流が多く流れる。室戸岬足摺岬龍河洞四国カルストなど多くの天然の観光資源を有する。

近年は、輸入野菜や徳島県宮崎県などに押されがちであるが、ピーマンなすトマトをはじめとする野菜類の促成栽培でも有名で、県中央部の沿岸部(土佐市芸西村付近)は、ビニールハウスが多く並んでいる。

地理・地域

高知県は東西に長い四国の南部、太平洋から四国山地の尾根までの範囲で「海の国」としてのイメージが強いが、高知市から香南市香美市土佐山田町南部に至る香長平野と南西部の四万十市周辺がやや広い平野となっているほかは、そのほとんどが海の近くまで山が迫る典型的な山国である。

山地率は89%にも及び、全国平均の66%と比べてもその険しさがよく分かる。最高峰は三嶺で(山頂が高知県単独の場合は手箱山)、地質的には四万十帯と呼ばれる堆積岩が多い地域でもあり、土砂災害がきわめて多い。その一方で県西部を流れる四万十川、石鎚山から土佐湾に南下する仁淀川、県北部から徳島県へと流れる吉野川など水量豊富な河川が多くあり、近年はカヌーでの川下りをする人が増えてきている。

水不足に悩まされることはほとんどないが、治水は古くからの課題となっており江戸時代初期の土佐藩奉行野中兼山による大規模な河川改修は県下主要河川のほとんどで実施されている。

高知県沖の太平洋黒潮が流れており、冬の朝などは海面から湯気が立っているのが見える。気候は温暖多雨で台風の襲来も多く、1951年(昭和26年)以降の台風上陸数は鹿児島県に次いで2番目に多い。特に「室戸台風」では、室戸岬上陸時の中心気圧が911.6hPaであり、日本本土に上陸した台風のなかで観測史上最も上陸時の中心気圧が低い台風だった。台風の正式な統計は1951年昭和26年)から開始されたため、この記録は参考記録扱いとされているが、これは同緯度の台風における中心気圧の最低記録として、いまだに破られていない。太平洋に突き出た足摺岬、室戸岬は強風でも知られる。

台風の上陸数
(都道府県別)
順位 都道府県 上陸数
1 鹿児島県 41
2 高知県 26
3 和歌山県 24
4 静岡県 21
5 長崎県 17
6 宮崎県 14
7 愛知県 12
8 千葉県 9
9 熊本県 8
10 徳島県 7

県南西部の山間は大きく開発されることが無く、豊かな山林とダムの無い大きな川が残されている。四万十川は最後の清流として有名である。

広袤(こうぼう)

高知県の東西南北それぞれの端、及び重心は以下の位置である[1][2]。北端はちち山、南端は沖の島 (高知県)、東端は甲浦港沖に浮かぶ葛島、西端は鵜来島にある。また統計局の平成22年国勢調査によると、人口重心は土佐市新居付近にある[3]

重心
北緯33度25分28秒東経133度21分51秒

北端
北緯33度53分00秒東経133度38分39秒
人口重心
北緯33度27分27.21秒東経133度27分46.77秒
西端
北緯32度47分59秒東経132度28分47秒
高知県庁舎所在地
北緯33度33分35秒東経133度31分52秒
東端
北緯33度32分17秒東経134度18分50秒

南端
北緯32度42分09秒東経132度32分35秒

地形

主な海
桂浜
主な河川
主な平野
主な山岳
主な島

隣接している自治体

徳島県
愛媛県
大分県

気候

高知県の年間日照時間は2000時間を越え、全国1-2位が定位置となっている一方、年間降水量も平野部で2500mm前後、山間部では3000mmを超え、東部山間部の魚梁瀬は4100mm程度と日本有数である[4]。夏は蒸し暑く、連日のように熱帯夜が続くが昼間は比較的過ごしやすい。しかし西部側の地域は北西風が四国山地を超えてフェーンを起こし、本州内陸部にも匹敵する暑さとなることがある。四万十市江川崎では、2013年8月12日に日本の歴代最高気温記録(当時)である41.0℃を観測している。

平野部での積雪はまれであるが、山間部や豊後水道側に開けた県西部の幡多地域平野部では大雪に見舞われることもあり、剣山系、石鎚山系の高い山では厳冬期に根雪が見られる地域も存在する。冬は晴れ間が多い為、放射冷却が強まった朝などは高知市でも氷点下になることも多いが、日中は暖かい。その反面、室戸岬や足摺岬などの半島部や沿岸部では無霜地帯が存在する。その温暖な気候を求め、スポーツチームが多数キャンプを設置する。春は宇和島と並び、ソメイヨシノの開花前線が全国でも早く訪れることで知られる。だが、夏から秋は頻繁に台風の直撃を受けることがあるほか、台風本体が東シナ海から日本海側を通過する際も南からの温かい湿った風が四国山地に遮られて大雨になることもある。

高知県各地の平年値(統計期間:1971年 - 2000年、出典:気象庁・気象統計情報
平年値
(月単位)
西部沿岸部 中部沿岸部 東部沿岸部
宿毛 土佐清水市
清水
四万十市
中村
黒潮町
佐賀
四万十町
窪川
須崎 高知 南国市
後免
南国市
南国日章
安芸 室戸市
室戸岬
平均
気温
(°C)
最暖月 26.7
(8月)
27.2
(8月)
26.6
(8月)
26.3
(8月)
25.5
(8月)
26.7
(8月)
27.2
(8月)
26.5
(8月)
26.9
(8月)
25.8
(8月)
最寒月 6.9
(1月)
8.6
(1月)
5.6
(1月)
6.1
(1月)
3.9
(1月)
6.5
(1月)
6.1
(1月)
5.5
(1月)
7.3
(1月)
7.5
(1,2月)
降水量
(mm)
最多月 321.2
(6月)
346.8
(9月)
434.9
(9月)
386.9
(6月)
479.4
(9月)
379.5
(9月)
404.3
(9月)
335.0
(9月)
280.5
(6月)
331.0
(9月)
最少月 55.3
(12月)
70.3
(12月)
61.5
(12月)
54.5
(12月)
59.0
(12月)
47.9
(12月)
52.0
(12月)
48.6
(12月)
47.3
(12月)
70.2
(12月)
平年値
(月単位)
内陸部
四万十市
江川崎
梼原 いの町
本川
本山 香美市
大栃
平均
気温
(°C)
最暖月 26.2
(8月)
23.9
(8月)
22.8
(8月)
24.8
(8月)
25.4
(8月)
最寒月 4.6
(1月)
2.4
(1月)
1.3
(1月)
3.1
(1月)
4.2
(1月)
降水量
(mm)
最多月 343.0
(7月)
420.3
(8月)
534.2
(8月)
407.1
(9月)
408.8
(6月)
最少月 54.8
(12月)
69.5
(12月)
62.8
(12月)
54.9
(12月)
65.7
(12月)

自治体

以下の11市6郡17町6村がある。町はすべて「ちょう」、村は「むら」と読む。

以下、7つの広域市町村圏ごとに記述する。

市町村合併

市町村境界図 左・1970年代、中央・2004年、右・2008年
  • 2004年(平成16年)10月1日: 本川村+伊野町+吾北村=いの町(新設)
  • 2005年(平成17年)
    • 1月1日: 高知市+鏡村+土佐山村=高知市(編入)
    • 2月1日: 東津野村+葉山村=津野町(新設)
    • 4月10日: 中村市+西土佐村=四万十市(新設)
    • 8月1日: 池川町+吾川村+仁淀村=仁淀川町(新設)
  • 2006年(平成18年)
    • 1月1日: 中土佐町+大野見村=中土佐町(新設)
    • 3月1日: 赤岡町+香我美町+野市町+夜須町+吉川村=香南市(新設)
    • 3月1日: 土佐山田町+香北町+物部村=香美市(新設)
    • 3月20日: 窪川町+大正町+十和村=四万十町(新設)
    • 3月20日: 佐賀町+大方町=黒潮町(新設)
  • 2008年(平成20年)1月1日: 高知市+春野町=高知市(編入)

歴史

古代

律令制以前

現在の高知県の行政機構の最も古い時代の記録は、国造本紀の記録があり、幡多(県西部、後の幡多郡か)・都佐(県中東部)の二つの国造がおかれた。それぞれの初代の任命者は、幡多国造が崇神朝(紀元前1世紀頃)の天韓襲命、都佐国造が成務朝(2世紀後半頃)の小立足尼[注釈 1]であり、幡多のほうが先であったことから、古来は幡多地方がはやくから大和朝廷の勢力と交渉があったものと思われる[5]

この時期の高知県域の詳細な文献記録は乏しいが、天韓襲命、小立足尼はいずれも三島溝杭賀茂氏)の後裔を称しており、摂津国三嶋県(大阪府北部)を根拠とした賀茂氏の一族が阿波国を経て都佐・幡多に降り、土着した可能性がある。また、土佐神社(のちの土佐国一宮)の主祭神であるアヂスキタカヒコネは、賀茂氏の氏神とされる[6]

律令制下

高知県域に国司が置かれた初見は、天武天皇13年(684年)の白鳳地震に際して、日本書紀に土佐国内での被害状況が「土左国司」からの報告として引用されたものが挙げられる、遅くともこの時期には高知県域にも国司が置かれ土佐国が成立、完全に律令体制下に組み込まれたことがわかる。個人名の分かる国司の初例は、天平15年(743年)任命の引田虫麻呂である[7]

律令制下での土佐の国制については、以下の通り。

  • 国府は、長岡郡比江(現・南国市比江)におかれた。
  • は、当初は幡多吾川土佐安芸の四郡が置かれたが、後に土佐郡から長岡郡香美郡が、承和8年(841年)に吾川郡から高岡郡が分立し、その後、平成18年(2006年)に香美郡が消滅するまで、千年余りにわたって増減なく七郡で推移した。
  • 官道は、当初は紀淡海峡鳴門海峡を渡って阿波国で四国に上陸してから、讃岐国伊予国を経由するものであったが、大まわりであまりに非効率的であったため、国司側の要望によって養老2年(718年)に経路が変更され、阿波国から海岸伝いに直接土佐に入る道が開かれた。さらに時代が下って延暦15年(796年)になると、国府から北上して四国山脈を横断する、さらに短いルートが開かれた(北山越え)。しかし、険しい山越えが敬遠されたためか、利用頻度は乏しいまま廃れてしまった。都との行程は上り35日、下り18日、海路25日とされた。
  • その他、軍団として長岡団が、勅旨牧として沼山村(所在地不明[注釈 2])がそれぞれ置かれた。
  • 調の内、土佐国の名産品としてはや押鮎(の塩漬け)が指定されていた。

土佐国司として任命されたのは、治承・寿永の乱(源平合戦)の頃までの五世紀弱の間に106名に及んでいるが、時代が下るにつれて、他の国の国司の例に漏れず、遥任の発生など、利権に与って蓄財に走る事例が定着した。延暦4年(785年)には、調の納入が遅れ、しかも届いた品が粗悪品であったため、守から目(さかん)に至るまで、国司税人が解任されている[8]

歴代の国司の中では、紀貫之(延長8年(930年)任命)が特に善政を行った事例として全国的に著名であり、また任期を終えての復命中の道中記「土佐日記」には、当時の土佐の風俗なども記されている[9]

また、土佐国は畿内から特に遠く離れた遠国とされたため、重罪人の配流が多かった。土佐へ配流されたものは、天武天皇5年(676年)の屋垣王を初例として、鎌倉時代までに約60人に及んだ[10]

中世

鎌倉時代

12世紀末に鎌倉幕府が成立した時、土佐は源平合戦時において源氏と関係が強かったため、いち早く幕府の勢力下に入った。文治元年(1185年)、源頼朝守護地頭の設置を許されたのと前後して(文治の勅許)、梶原朝景(梶原景時の弟)が事実上の初代守護として派遣され、国内の鎮撫にあたった[11]

その後、建久3年(1192年)には佐々木経高、建仁元年(1200年)には豊島朝経、建仁3年(1202年)には三浦義村が守護となり、宝治元年(1247年)の三浦氏滅亡(宝治合戦)まで三浦氏が守護を務めた。時代が下ると執権北条氏の一族が守護を務め、大須賀氏や安藤氏が守護代として現地での任に当たった[12]

また、地頭には香宗我部氏長曾我部氏津野氏安芸氏・大黒氏らが補任された[13]

南北朝・室町時代

鎌倉幕府滅亡後の建武3年(1336年)足利尊氏豊島河原合戦に敗れ、九州に退いて体勢を立て直す途中、四国に細川氏の一族を配置して武士たちを統制させた。土佐国は細川顕氏が配され、以降の南北朝時代において、土佐の勢力争いは興国2年/暦応4年(1341年)の時点で北朝優位が確立した[14]

室町時代の間、四国一帯は、南北朝時代に細川頼之の地域平定の功により細川氏の両国となり、土佐国は一門の細川頼益の子孫(遠州家)が守護代として下向、統治にあたった[14]

戦国時代

遠州家の土佐統治は5代にわたって続いたが、4代勝益の代になると、豪族の反乱の討伐に手間取るなど、領内の統制がままならなくなった。応仁元年(1467年)、応仁の乱が勃発すると、勝益は乱の当事者となった細川勝元の命を受けて、豪族を引き連れて上洛、国元を長期間不在にすることにより、影響力を徐々に減退させる[15]

応仁の乱終結後も遠州家の土佐統治は、本家の細川政元の影響力のもと、曲がりなりにも継続していた。しかし、栄正4年(1507年)、政元の暗殺(永正の錯乱)が引き金となり、国人の抑えが効かなくなり、5代政益は土佐を脱出する[16]

この後、土佐国内は守護の勢力が及ばない動乱状態に陥り、土佐七雄本山氏吉良氏安芸氏津野氏香宗我部氏[注釈 3]大平氏長曾我部氏)に国司であるところの土佐一条氏の八勢力を中心にしのぎを削り、国内の城は最盛時には300を超えた[17]

土佐国は天正3年(1575年)、長曾我部元親の手によって統一される。元親は次いで四国平定に乗り出したが、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国進出に敗れ、土佐一国の領主に収まった[18]

その後、元親の後を継いだ盛親は、慶長5年(1600年)、関ケ原の合戦に西軍として参陣、これに敗れて、領地を改易された。土佐一国は、東軍に属した遠州掛川城主山内一豊に与えられた[19]

近世

土佐国は山内一豊の入府以降、一度も転封を経ることなく、山内氏が16代にわたって、廃藩置県に至るまでこれを統治した。

山内氏の入府

山内氏の土佐入府にあたり、長曾我部遺臣の一領具足たちは頑強な抵抗を見せた(浦戸一揆)。最終的には、一揆中の裏切りによって、多くの旧臣が打ち取られる形でことは決着した。一豊が入府したのちも、滝山一揆など、数年間は散発的な反乱が続いた[20]

一豊は入府後、元親の居城を引き継いだ浦戸城にかわり、広域な城下町形成を企図して高知平野の大高坂山に新城を築城、慶長8年(1603年)にここへ移った。新城は慶長15年(1610年)に高知城と名付けられ、以降山内家代々の土佐経営の中心地となった。同時に城下町も碁盤目状に整備され、家臣や商人・職人などが定住した[21]

土佐藩の統治機構は以下の通りである。まず、家柄等をもととする身分の区別として、上士(家老・中老・馬廻・小姓組・留守居組)と下士(郷士・徒士・組外・足軽・奉公人)があり、大まかに分けて遠州時代からの山内家臣が上士、長曾我部旧臣が下士とされた。のちに、上士と下士の間で、白札(しろふだ)という特別の身分が出来た[22]

家臣のうち、領国統治に直接関わる部署は外官と称された。外官職のトップは奉行職(執政とも)と呼ばれ、家老のうちから任命された。実際に実務を指揮するのは仕置役(参政とも)であり、中老や馬廻から任命された。仕置役の下に各部署が設置されて職務を分担し、奉行がこれを統率した。裁判や警察に関する職務は大目付が担当し、奉行職に直属した。

藩主の家政に関わる部署は内官と称された。内官職のトップは近習家老と呼ばれ、山内家の私的な家政の管理のほか、江戸・京都・大坂の藩邸を通じて幕府や他大名との渉外なども統括した。

経営危機と藩政改革

慶長10年(1605年)、一豊の甥、山内忠義が2代藩主に就任する。この頃、山内家は幕府から土木建築の助役(江戸城、名古屋城など)や大坂の陣への参陣などの要求により出費がかさみ、さらに忠義本人の浪費癖もあいまって、借金は最も多い時期では歳入米2、3年分にまで膨れ上がり、幕府から借財整理を勧告されるほどであった[23]

勧告を受けて元和7年(1621年)、仕置役・福岡丹波が中心となり、藩政改革が行われた。具体的には、領内の山林の伐採に農民を動員し(料木役)、伐採した檜などを大坂へ送って売却し、借財の返却に充てた。ほかに、緊縮政策による経費節約、家臣からの上米・借上(俸禄カット)、米の販売統制などをあわせて実施し、寛永2年(1625年)に借財の返済は完了した。

同時に、安定した年貢収入を得るべく、改めて検地を行うとともに[注釈 4]、農民による土地の所有関係を明確化した。国内の田畑については、山間部を中心に、一領具足が同時に本百姓(名主)として土地を支配し、下層農民が被官としてこれに隷属していたのであるが、長曾我部氏の失脚によって一領具足、さらにその被官の地位が不安定化すると、被官たちが土地を捨てて逃げ出す事例(走り者)が多発した。藩当局は走り者の罪を赦して農地への復帰を進めるとともに、土地を公平に分けて耕作させる田地割替制度を始めたり、さらに年貢徴収の制度を定免法に改めることにより、年貢収入の安定化を図った。

寛永8年(1631年)、山内家の近親である野中兼山が奉行職に就任し、以降30年間にわたり、藩政改革をリードした。

兼山は藩収入の根幹である年貢米の収入を増加させるべく、新田開発、それに伴う灌漑開発や用水路の建設、そして港湾整備などの土木事業を主導した。

同時に、いまだに不平分子として燻っていた一領具足を救済すべく、新田開発や原野の開墾に功績のあったものを郷士として取り立てて知行を与え、才覚のあるものは奉行に取り立てるなど、国内の融和に努めた。

しかし、これらの兼山の施策は、農民の労働力の徴発を伴うものであったため農民の不満を招き、さらに百姓に対する生活指導や国産品の専売による経済統制、さらには飲酒に対する罰金制度まで出されたため、国内の反感を招いた。さらに、郷士を取り立てる方針が譜代の上士たちの不平を招いた。

寛文3年(1663年)、家臣より3代藩主忠豊に対して、兼山の弾劾状が出され、兼山は失脚する。兼山は程なく死去、一族は永く幽閉され、野中家は絶えた[24]

藩政の推移

兼山失脚の後、藩政の方針は兼山時代から逆方向へ舵を切った。専売制をはじめとする経済統制を廃し、民衆の生活への介入なども留めたため、藩内は旧来の活気が戻った。これらの施策を「寛文の改替」という[25]

一方で、藩の基礎収入が年貢だよりであることには変わりなかったため、藩としては、民力の回復を待って、年貢収入を増加させることを想定していた。そのため、新田開発を引き続き奨励し、新田の年貢の負担を軽くするなどの措置をとった[26]

しかし、経済統制が解除されたことによって、商業経済がさらに発展し、相対的に武士の暮らし向きは悪くなった。さらに、新田開発によって本田の荒廃や移動を招き、山林開発も衰退するなど、藩財政は悪化した。藩はこの状態を改めるべく、「留物条例」を出して、牛馬・毛皮・漆など一部商品の移出を禁止するなど、新興の商業資本の発展に制限を加えた。同時に有力商人に運上銀を上納させるなどして、藩財政の安定を図った[26]

更に、年貢収入の不安定性を取り除くべく、貢租額を、年々の額を平均した値を定める"平等免"(ならしめん)に定め、さらに藩士の年貢収入を地方知行から蔵米知行に改めるなど、租税体系の整備が進んだ。しかし一方で、農民に対する生活統制が新たに定められるなど、兼山時代の生活統制の一部が復活したのもこの時期である[27]

4代藩主豊昌時代の元禄3年(1690年)、これらの土佐藩歴代の法令が集大成され、「元禄大定目」と名付けられた[28]

これ以降も、収入安定のため商業・生活への介入を行う藩庁と、それに対して抵抗する百姓との間の緊張的な対立関係は続いた。8代藩主豊敷時代の宝暦2年(1752年)、藩庁は国産方役所を設置した。これは藩内の生産商品を藩庁が指定した問屋が買い上げる制度で、藩庁は指定問屋から運上金を得ることで利益を得ていた。この時、一部の指定問屋の購入価格が安価であり、不当な利益を収奪しているとして、津野山の義民・中平善之丞を指導者に、一揆が起こった(津野山騒動)。結局、問屋制度は廃止された[29]

その後、明和3年(1766年)に再び問屋制度が定められたが、天明7年(1787年)、凶作に困窮した製糸業者らが伊予まで逃亡するという事件が起こった(池川紙一揆)。さらに同年、高知城下で米騒動が起こったのをはじめ、藩内各所で騒動が起こった。これらの騒動を受けて、問屋制度は再び廃止された[30]

天保14年(1843年)、13代藩主豊熈は進んで人材登用を行い、登用されたものはおこぜ組と呼ばれた。しかしこの流れは旧門閥らの反発を招き、1年足らずで頓挫することとなった[31]

幕末

幕末、土佐藩は15代藩主豊信(容堂)のもとで、土佐一国の大藩として深く関与する。

幕末維新の政局における土佐藩の態度については、変遷や対立はありつつも、容堂ら藩上層部は一貫して公武合体論の立場を堅持する。容堂は幕府大老井伊直弼と対立、安政の大獄で隠居に追い込まれるが、井伊大老が桜田門外の変で暗殺されると程なく復権し、参預会議四侯会議王政復古の大号令などで雄藩の一員としていずれもメンバーに含まれた。容堂の藩政を支えたのが馬廻格の吉田東洋で、藩論の策定や幕府への意見書の起草、軍備増強を行うにあたっての資金の用立てなどを推し進める[32]

一方で、藩内にあって、幕府と距離を置くことを主張する尊王攘夷派は、安政の大獄を機に顕在化し、文久元年(1861年)、武市瑞山を盟主に土佐勤皇党を結成。次第に藩上層部との間の階級対立の様相を呈し、翌文久2年(1862年)、東洋は勤皇党員によって暗殺された[33]

勤皇党は他藩の同志らと連携して広範に活動を行い、脱藩して京都や長州に赴く者も後を絶たなかった。「人斬り以蔵」と恐れられた岡田以蔵天誅組の変を起こした吉村虎太郎などがいる。

しかし、文久3年(1863年)、八月十八日の政変をきっかけに尊王攘夷派の動きは頭打ちになり、土佐勤皇党も瑞山が投獄、切腹するなど、壊滅的な打撃を受けた。

その後、薩長同盟が成立、第二次長州征伐で幕府軍が敗北するにつれ、藩内でも板垣退助らが積極的な討幕を訴え、幕府の大政奉還による安定的な政権交代を模索する後藤象二郎らと対立した。

王政復古の大号令後、小御所会議においても容堂は幕府を擁護していたが、慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発。板垣が容堂の制止を無視して幕府軍に砲撃を加えたことで、土佐藩はなし崩し的に討幕の立場をとることになった[34]

戊辰戦争では、土佐藩は四国内の親藩である高松藩(水戸徳川家一門)・松山藩(久松松平家)の征討を命じられるが、両藩ともに戦わずして開城したため、高松へ出征した板垣が軍を率いてそのまま京都で編成中の東征軍に合流する。土佐藩兵2700余は征討軍参謀となった板垣とともに東国へ転戦し、最終的に会津若松城の攻城戦にまで従った。一連の戦闘で、土佐藩兵の戦死者は106、負傷者は168であった[35]

近代

廃藩置県

明治新政府成立後、土佐藩は板垣、後藤らを筆頭に多くの人材を送り込み、「薩長土肥」と通称されるように、新政府の一角を占めるにいたった。しかし、この頃の土佐藩の負債は金100万両、銀345貫目におよび、封建制を維持することは不可能になっていた[36]

明治2年(1869年)、版籍奉還。16代藩主豊範が新たに藩知事に就任、大参事の板垣の下で藩政改革が試みられたものの、根本的な改革は困難であった。明治4年(1987年)、廃藩置県により藩は正式に配され、行政機構としての高知県が誕生した[37]

なお、明治9年(1876年)に名東県(旧阿波国)が高知県に編入されたが、明治13年(1880年)、徳島県として再度分離している。

士族の困窮と県内の動揺

明治維新におもなって急速な国内改革が推し進められることにより、県内各所では混乱が起こった。特に、生活の糧を失った士族は、官吏や軍人[注釈 5]として登用されたもののほかは、自力で生計を立てねばならなかった。少なくない者はいわゆる士族の商法に手を出したが、多くは程なく行き詰まることとなった。旧藩主山内家も物流業界に手を出して"山一商会"を創業したが、うまくゆかなかった[38]

また、農民層にも動揺を巻き起こした。年貢米の減免や手放した田地の回復を求めて一揆が起こったほか、外国由来の風習(徴兵制など)に対する誤解に基づく反対運動も行われた[39]

自由民権運動

明治6年(1873年)、明治六年の政変にともない、板垣、後藤らは政府を離れた。板垣らは高知へ帰り、片岡健吉林有造らとともに立志社を設立する。士族授産による没落士族の救済、学校設立などによる民生の安定を標榜、さらに、民選議院の設立を求めていた。

一方で、これらに対抗する団体として、静倹社(原茂胤社長)、嶺南社、猶興社などが設立された。

立志社の方針は政府と対立し、明治11年(1878年)、林、片岡らが拘束される。板垣や植木枝盛らはこれに対抗して独自の議会「土佐国州会」を設立、選挙を行い、政府の地方自治の方針を質すなどした[40]

明治14年(1881年)、明治十四年の政変により、一旦政府に戻っていた板垣は再び下野すると、自由党を結成。高知県人は党役員の多くを占めるなど、自由党の活動を指導する立場を占めた[41]

産業の発達

幕末から明治初期にかけて、土佐藩は藩の産物を独占販売する「土佐商会」を運営しており、利益を上げようとしていた。しかし、明治2年(1869年)、政府は府県藩による商会所の経営を禁止した。そこで、解散した土佐商会の事実上の後継組織として「九十九商会」が設立され、社長には土佐商会の経営に携わっていた藩の地下浪人出身の岩崎弥太郎が就任した。岩崎は東京・大阪・神戸と高知を回漕する運輸業を経営することにより藩財政の立て直しに寄与したあと、藩債のうち4万両の肩代わりと引き換えに旧藩船2隻を譲り受け、後に三菱財閥へと至る民間経営者としてのあゆみを始めた[42]

また、立志社が目指した士族授産についても、政府からの貸付金をもとに民立会社が続々と創業され、士族の雇用創出に貢献した[43]

農業については、明治以降は年貢米の納入が金納に改まったこともあり、米の品質が一時的に落ちた。これに対して、篤農家の吉川類次と式地亀七の研究によって、古来から行われていた二期作に適した品種衣笠早稲、相川が開発、明治末期から二期作の作付面積が増加した[44]

交通インフラについては、まず明治19年(1886年)、田辺良顕知事の主導で県内の主要な道路の整備が開始された。明治36年(1903年)には土佐電気鉄道が創業する。国鉄は、大正13年(1924年)に土讃線が県内(高知-須崎間)で開業し、昭和10年(1935年)に至ってようやく高松まで全通、県外と直接の連絡が成立した[45]

戦時下・戦後

アジア・太平洋戦争大東亜戦争)下では、昭和20年(1945年)7月4日、高知市は米軍の空襲を受け、市街地が全焼した。さらに翌昭和21年(1946年)、昭和南海地震によって沿岸部を中心に被災した。

昭和30年(1955年)、県下人口は史上最高の88万3000人に達したが、この時をピークとして以降は減少を続けている。




注釈

  1. ^ 三島溝杭の九世の子孫とされる。
  2. ^ 一説に須崎市浦ノ内、または香長平野北部ともされる。
  3. ^ 一説には、香宗我部にかわって山田氏を入れる場合もある。
  4. ^ 検地を指揮した検知奉行村上八兵衛の名を借りて村上改めと呼称される。この際国内の総石高は33800石ほど増加した。土佐国の石高は"土佐二十四万石"と通称されるが、実際に24万石に達成したのはこの時である。
  5. ^ 土佐藩兵の一部は、廃藩置県に先だって御親兵(政府の直轄軍)として徴用されており、これがのちの近衛兵になった。

出典

  1. ^ 中国・四国地方の東西南北端点と重心の経度緯度 国土地理院 2013年9月26日閲覧
  2. ^ 高知県 市区町村の役所・役場及び東西南北端点の経度緯度(世界測地系) 国土地理院 2013年9月26日閲覧
  3. ^ 我が国の人口重心 -平成22年国勢調査結果から- 統計局 2013年9月26日閲覧
  4. ^ 気象庁/過去の気象データ検索/高知県
  5. ^ 山本, p. 19.
  6. ^ 山本, pp. 19-21.
  7. ^ 山本, p. 25.
  8. ^ 山本, pp. 25-26.
  9. ^ 山本, pp. 27-29.
  10. ^ 山本, p. 30.
  11. ^ 山本, p. 48.
  12. ^ 山本, pp. 48-49.
  13. ^ 山本, p. 49.
  14. ^ a b 山本, p. 57.
  15. ^ 山本, p. 59.
  16. ^ 山本, pp. 59-60.
  17. ^ 山本, p. 60.
  18. ^ 山本, pp. 76-79.
  19. ^ 山本, pp. 87-88.
  20. ^ 山本, pp. 93-95.
  21. ^ 山本, pp. 97-99.
  22. ^ 山本, pp. 99-103.
  23. ^ 山本, pp. 106-107.
  24. ^ 山本, pp. 116-118.
  25. ^ 山本, pp. 118-119.
  26. ^ a b 山本, p. 120.
  27. ^ 山本, pp. 120-121.
  28. ^ 山本, p. 121.
  29. ^ 山本, p. 125.
  30. ^ 山本, p. 127-130.
  31. ^ 山本, pp. 133-135.
  32. ^ 山本, pp. 165-167.
  33. ^ 山本, pp. 167-168.
  34. ^ 山本, p. 178.
  35. ^ 山本, pp. 180-183.
  36. ^ 山本, p. 184.
  37. ^ 山本, p. 186.
  38. ^ 山本, p. 187.
  39. ^ 山本, p. 189.
  40. ^ 山本, p. 197.
  41. ^ 山本, p. 198.
  42. ^ 山本, pp. 206-207.
  43. ^ 山本, p. 209.
  44. ^ 山本, pp. 213-214.
  45. ^ 山本, p. 217.
  46. ^ 高知県の自治体間交流
  47. ^ まんが王国とっとり公式ホームページ「まんが王国会議/高知県との連携」
  48. ^ 「維新150年記念 高知県と連携 品川区、地域振興など」『日本経済新聞』朝刊2018年8月21日(首都圏経済面)2018年8月24日閲覧。
  49. ^ 『47都道府県うんちく事典』著者八幡和郎194頁
  50. ^ 中国四国農政局/高知県農林水産業の概要(農業-農業産出額-)”. 中国四国農政局. 2015年2月23日閲覧。
  51. ^ 中国四国農政局高知農政事務所「世界一になったグロリオサ『ミサトレッド』」、2002年12月11日
  52. ^ a b 農林水産省/海面漁業生産統計調査”. 農林水産省. 2015年2月25日閲覧。
  53. ^ 松山, 遠藤 & 中村 2016, p. 49.
  54. ^ モービルハム 1986年1月号 電波実験社
  55. ^ 高知県名誉県民顕彰要綱 (PDF) - 高知県、2019年7月28日閲覧。
  56. ^ 高知県名誉県民章 - 高知県、2019年7月28日閲覧。
  57. ^ 名誉県民 やなせたかし - 高知県、2019年7月28日閲覧。
  58. ^ 名誉県民 やなせたかし - 高知県、2019年7月28日閲覧。
  59. ^ 高知県名誉県民顕彰 - 高知県、2019年7月28日閲覧。
  60. ^ a b 名誉高知県人一覧(敬称略) - 高知県、2019年7月28日閲覧。





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「高知県」の関連用語


2
100% |||||

3
100% |||||

4
100% |||||

5
100% |||||

6
100% |||||

7
100% |||||

8
100% |||||

9
100% |||||

10
100% |||||

高知県のお隣キーワード

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   
検索ランキング
高知県の温泉情報



高知県のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの高知県 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2020 Weblio RSS