高浜虚子
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作家評
子規の没後、五七五調に囚われない新傾向俳句を唱えた碧梧桐に対して、虚子は1913年(大正2年)の俳壇復帰の理由として、俳句は伝統的な五七五調で詠まれるべきであると唱えた。また、季語を重んじ平明で余韻があるべきだとし、客観写生を旨とすることを主張し、「守旧派」として碧梧桐と激しく対立した。そしてまた、1927年(昭和2年)、俳句こそは「花鳥諷詠」「客観写生」の詩であるという理念を掲げた。
しかしまた反面、1937年(昭和12年)1月に碧梧桐が危篤に陥ると見舞いに駆け付けたほか、死去直後には新聞に碧梧桐との思い出を寄稿。出だしに「最近は俳諧上の意見の問題やらなんやらで昔ほどでもなかったが、おそらく私と碧梧桐ほど親しい仲はちょっとなかったろうと思う」と記した[7]。亡くなった翌年の1937年(昭和12年)には、かつての親友であり激論を交わしたライバルの死を悼む句「たとふれば独楽のはぢける如くなり」を詠んでいる。
俳壇に復帰したのち、虚子つまり『ホトトギス』は大きく勢力を伸ばし、大正、昭和期(特に戦前)は、俳壇即『ホトトギス』であったといえる。虚子は俳壇に君臨する存在であった。
『ホトトギス』からは飯田蛇笏、水原秋桜子[8]、山口誓子、中村草田男、川端茅舎、松本たかしなどを輩出している。
代表作・作品集
- 遠山に日の当たりたる枯野かな
- 春風や闘志抱きて丘に立つ
- 去年今年貫く棒の如きもの
- 道のべに阿波の遍路の墓あはれ
- 波音の由井ガ濱より初電車
- 吾も亦紅なりとひそやかに
- 子規逝くや 十七日の 月明に
- 流れ行く大根の葉の早さかな
句集
- 『虚子句集』(昭和3年(1928年)6月、春秋社) 虚子初めての句集
- 『五百句』(昭和12年(1937年)6月、改造社) 『ホトトギス』500号記念の年に自選して上梓
- 『五百五十句』(昭和18年(1943年)8月、桜井書店) 『ホトトギス』550号記念の年に自選して上梓
- 『六百句』(昭和22年(1947年)2月、菁柿堂) 『ホトトギス』600号記念の年に自選して上梓
- 『六百五十句』(昭和30年(1955年)6月、角川書店) 『ホトトギス』650号記念の年に自選して上梓
- 『七百五十句』(昭和39年(1964年)) 『六百五十句』以後の句を虚子没後に上梓
- 『虚子俳話』(昭和33年(1958年)2月、東都書房) 『朝日新聞』に連載した「虚子俳話」をまとめて刊行
- 『句日記』(1巻目:昭和11年(1936年)11月、改造社~最終6巻目:昭和35年(1960年)6月、新樹社)
- 『虚子百句』(昭和33年(1958年)12月、便利堂)[9] 100句を選び短冊に揮毫、ほぼ同じサイズに印刷した大作。年尾・立子の解説つき。
小説集・創作集
- 『寸紅集』(明治33年(1900年)12月、ホトトギス発行所) 正岡子規との共編による写生文集
- 『帆立貝』(明治39年(1906年)12月、俳書堂) 坂本四方太との共編による写生文集。虚子はこれを機に小説に傾いてゆく。
- 『鶏頭』(明治41年(1908年)1月、春陽堂)
- 『俳諧師』(明治42年(1909年)1月、民友社出版部)、同年9月に『続俳諧師』
- 『柿二つ』(大正5年(1916年)5月、新橋堂)
- 『伊予の湯』(大正8年(1919年)4月、秀美社)
- 『虹』(昭和22年(1947年)12月、苦楽社)
- 『椿子物語』(昭和26年(1951年)9月、中央公論社)
文学館
- ^ 倉田喜弘『明治大正の民衆娯楽』(岩波新書)154ページ
- ^ 秋元(1966):130ページ
- ^ 文壇・詩壇・歌壇の三百五十人が参加『東京朝日新聞』昭和12年1月19日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p705 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 2024年に『新編 虚子自伝』(岸本尚毅編、岩波文庫)が刊。1948年刊の旧編(青柿堂)と併せた版。
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)17頁
- ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)184頁
- ^ 碧梧桐と私『中外商業新報』昭和12年2月3日(『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p85 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 評伝回想『高浜虚子』を著した。
- ^ 岩波書店で新装復刊(2010年5月)
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