高句麗 名称

高句麗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/29 22:35 UTC 版)

名称


朝鮮の歴史
考古学 朝鮮の旧石器時代朝鮮語版
櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 BC
伝説 檀君朝鮮
古朝鮮 箕子朝鮮
辰国 衛氏朝鮮
原三国 辰韓 弁韓 漢四郡
馬韓 帯方郡 楽浪郡

三国 伽耶
42-
562
百済
高句麗
新羅
南北国 熊津都督府安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892
安東都護府

668-756
渤海
698
-926
後三国 新羅
-935

百済

892
-936
後高句麗
901
-918
女真
統一
王朝
高麗 918-
遼陽行省
東寧双城耽羅
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代 日本統治時代の朝鮮 1910-1945
現代 朝鮮人民共和国 1945
連合軍軍政期 1945-1948
アメリカ占領区 ソビエト占領区
北朝鮮人民委員会
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
Portal:朝鮮
満洲の歴史
箕子朝鮮 東胡 濊貊
沃沮
粛慎
遼西郡 遼東郡
遼西郡 遼東郡
前漢 遼西郡 遼東郡 衛氏朝鮮 匈奴
漢四郡 夫余
後漢 遼西郡 烏桓 鮮卑 挹婁
遼東郡 高句麗
玄菟郡
昌黎郡 公孫度
遼東郡
玄菟郡
西晋 平州
慕容部 宇文部
前燕 平州
前秦 平州
後燕 平州
北燕
北魏 営州 契丹 庫莫奚 室韋
東魏 営州 勿吉
北斉 営州
北周 営州
柳城郡 靺鞨
燕郡
遼西郡
営州 松漠都督府 饒楽都督府 室韋都督府 安東都護府 渤海国 黒水都督府 靺鞨
五代十国 営州 契丹 渤海国 靺鞨
上京道   東丹 女真
中京道 定安
東京道
東京路
上京路
東遼 大真国
遼陽行省
遼東都司 奴児干都指揮使司
建州女真 海西女真 野人女真
満洲
 

東三省
ロマノフ朝
中華民国
東三省
ソ連
極東
満洲国
ソ連占領下の満洲
中華人民共和国
中国東北部
ロシア連邦
極東連邦管区/極東ロシア
北朝鮮
薪島郡
中国朝鮮関係史
Portal:中国

高句麗は別名を(はく)と言う。日本では「高麗」と書いても「貊(狛)」と書いてもこまと読む。現在では高麗との区別による理由から「こうくり」と読む慣習が一般化しているが、本来、百済・新羅の「くだら」・「しらぎ」に対応する日本語での古名は「こま」である。

高句麗の名前の由来について確実なことはわかっていない。高句麗(句驪)という固有名詞が登場する最も古い記録は『漢書』「地理志」に「玄菟・楽浪郡は武帝の時においた(前107年)。みな朝鮮・濊貊・句驪の蛮夷の地である」とあるもので、玄菟郡の首県として高句驪、上殷台、西蓋馬が言及されている[2]。驪は麗と同音であり、漢人の蔑視による表現であって意味上の差異はない[3]。高句麗の名称の由来については諸説あり、かつて白鳥庫吉はこれを「高」と「句麗」に分解し、句麗はコル(城)、高はコ(大きい)であるから、原義は「大城」であるとした[3]。李丙燾はコルを白鳥と同じく理解するが、高はスリ(神聖な/首位の)であり、「首邑」「上邑」の意味であるとした[3]

高句麗は文献記録上は貊族として現れる。そして8世紀突厥で造られたオルホン碑文にはボクリ(bökli)という東方の国が登場する。岩佐精一郎はこのボクリが高句麗を指すものであると見、「貊句麗」の音を表したものであろうとした[4]。それに対して護雅夫はこれはbök eliと読むべきで、高句麗を指すものには違いないが、意味は「貊の国」であるとする[4]。だが、貊という種族は古く代から中国の史料に登場し、時代や筆者によって異なる実体を指し示したと考えられる語であるため、高句麗を指す「貊」を漢代より前に登場する「貊」と単純に繋がりのあるものとすることはできない[4]

なお、高句麗は『南斉書』「高麗伝」に「高麗」という国名で表記されており、隋唐代の史書でも高麗と表記する。冊封の際の正式名が「高句麗王」から「高麗王」となったのは520年の冊封が最初であり、高句麗が意識的に高麗へと改名したとする説もある[3]。だが改名したとする決め手もなく、単に省略形が定着しただけである可能性もある[3]矢木毅は、冊封体制における慣例として国号の字数を2文字に揃えた物であるとしている[5]


注釈

  1. ^ 実際の書名としては『三国志』「魏書」であるが、『魏書』と銘打つ史書が他に存在することから、区別のために「魏志」という通称が広く普及している。本項でも『三国志』「魏書」は「魏志」と呼称する。
  2. ^ a b 『三国志』「魏志」では涓奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部[13]、『翰苑』引用の『魏略』逸文 および『後漢書』では消奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部とある[14]。詳細は高句麗五部を参照。
  3. ^ 百済の成立・統合の時期には4世紀半ば、3世紀半ば、前1世紀など諸説ある。ここでは日本の学界において一般的である4世紀半ばとして記述を行う。詳細は百済を参照。
  4. ^ 広開土王碑文の該当部分は摩滅が激しく、粛慎の「粛」に当たる部分は判読が困難な状態である。そのためこの部分の釈文は完全なものが存在しない。これを「粛慎」であると最初に解釈したのは青木秀であり、現在でもこの解釈が概ね引き継がれているが、粛慎ではなく朝鮮半島中南部であるとする説もある。代表的なものには濊であると解釈する津田左右吉の説、安東(現在の慶尚北道地方)であるとした今西龍の説、漢江流域であるとした王健群の説などがある[42]。ここでは粛慎説を妥当とする武田幸男の見解が他の概説書・研究書で採用されていることから、粛慎として記述する[39][43]
  5. ^ 広開土王碑を巡っては、特に倭国関係記事が集中する第1面を巡り、その信憑性を巡って長い議論が続けられてきた。現在では『三国史記』『日本書紀』にも対応する記述があり、高句麗からの百済の離脱、百済から倭への人質や、それによる百済と倭の同盟など大筋で一致していることから、碑文の史料的価値は高いとされる[45]。これを巡る主要な議論については武田幸男「その後の広開土王碑研究」(1993)にまとめられている[46]
  6. ^ 中原高句麗碑は、高句麗の新羅に対する優越、新羅が高句麗を宗主として仰ぎ臣従したこと、高句麗が新羅の領内で役夫あるいは軍夫を徴発し組織していたこと、そして朝鮮半島中南部にある現在の忠州市に軍を駐屯させていたことなどを伝える。しかし、年次部分が摩滅により判読に支障をきたしていること、また干支表記であるため60年の間隔を置いて同一の年次表記が行われることなどから碑文が作成された年代には諸説ある。5世紀後半説を取る学者が多いが、5世紀前半とする学者もいる。この問題については木下礼仁と宮島一彦が連名の論文にて詳細なまとめを行っている[52]
  7. ^ 更に倭国も600年には初めて隋に使節を派遣したという。この倭国からの使節は隋側の記録にのみあり、『日本書紀』では607年の遣隋使を最初とする。この問題については遣隋使の項目を参照。
  8. ^ 隋書』の記録では「死せる者十に八九」とするほどの損害を出したと伝えられる[70]
  9. ^ 井上秀雄、他訳注『東アジア民族史1-正史東夷伝』(1974年、平凡社)p103「(高句麗、夫余の)両族は、ともにツングース系と考えられている。両族が同系であることは始祖神話(東明・朱蒙伝説)の類同によっても推測できよう。」など。
  10. ^ 無論、このことは高句麗とその後に登場したツングース系の女真族との間に何ら文化的な関係がないということを証明するものではない[125]
  11. ^ この推測は後に高句麗五部が方位を用いた東西南北内、もしくは前後上下に改名された事実とも符合する。ただし灌奴部は南部に、絶奴部は北部に改称されているが、この推測では灌は北、絶は南の意味となり矛盾する。村山・金はこれを何等かの理由により南北が誤記されて逆転して記録されたものとして処理している[122]
  12. ^ 西谷は広開土王碑の場所を太王陵の東北450メートルとする[133]
  13. ^ 広開土王の墳墓を巡っては日本の研究者の永島暉臣慎、田村昇一、東潮らが、谷豊信による太王陵や将軍塚で出土した瓦と平壌で出土した軒丸瓦などの比較などを根拠に将軍塚を広開土王墓に比定している。一方、桃崎祐輔は太王陵を広開土王墓に比定する見解を支持している。中国の学界では太王陵を広開土王墓に比定する見解が有力であり、その論拠は太王陵から馬具や装身具と共に「好太王」銘を持つ銅鈴が出土したことが大きくあげられている[136]
  14. ^ ただし、積石塚の中にも断片的ながら壁画が発見されているものは存在する[141]
  15. ^ 清岩里廃寺の平面プランは南北軸が40度ほど東に振られているため、実際の方位としては南西面を南面とする。
  16. ^ ただし『勝覧』の記録はあくまで高麗(王氏)時代の金剛寺の記録である。高麗時代の金剛寺が高句麗時代の寺院跡に再建されたものであることは考古学的に明らかであるが、「高句麗時代の寺院跡」が高句麗当時の金剛寺であることを確実に同定することはできない。千田剛三は瓦の研究からこの寺院跡の創建年代を5世紀初頭とし、高句麗の金剛寺説を否定している他、谷豊信もまた清岩里廃寺を高句麗時代の金剛寺であるとする説とは合致しない瓦の編年を提案している[167]
  17. ^ 李成市のまとめによれば、那珂通世は東明王を夫余国の建国者とするのは伝承上の誤りであるとし、白鳥庫吉は高句麗の建国神話は夫余の建国神話を改作したものであると論じた[192]。そして池内宏は元来夫余の建国者である東明王と高句麗の建国者である朱蒙(東明王)は別人であり、『三国史記』の原史料となった『旧三国史』の編纂過程で誤って混同されるようになったものであるとした[193]
  18. ^ 李成市は、冬寿と某鎮の間の変化を単純に半自律的だった朝鮮半島の中国系人士が高句麗王権の下に服していった過程として見るのは早計と指摘する。これは冬寿が「楽浪相」に服していたことと関係する。この地位は高句麗の故国原王が前燕から冊封され「楽浪公」に任命されていたことと関係し、つまりは冬寿は前燕の官爵を媒介にして楽浪公である高句麗王との間に君臣関係を持っていたことが指摘できるためである[204]。そして高句麗王権と外来人の関係については故国原王時代に内と外を分ける高句麗独自の「国」意識の成立が見られることも注目すべきであるという。これによって「国」家にとっての「外」来人」が問題となり、それを王権の下で組織化することが政治的課題になるためである。冬寿から某鎮に至る変化は、こうした高句麗の国家発展と密接に関連しているという[205]
  19. ^ 『三国史記』は「靺鞨」と表記するが、これが後世東アジア史に登場する靺鞨ではなく、実態としては濊を表すことは津田左右吉が論証して以来、定説となっている[220]
  20. ^ 広開土王碑を巡っては、特に倭国関係記事が集中する第1面を巡り、その信憑性を巡って長い議論が続けられてきた。現在では『三国史記』『日本書紀』にも対応する記述があり、高句麗からの百済の離脱、百済から倭への人質や、それによる百済と倭の同盟など大筋で一致していることから、碑文の史料的価値は高いとされる[242]。これを巡る主要な議論については武田幸男「その後の広開土王碑研究」(1993)にまとめられている[46]
  21. ^ 広開土王碑文中の倭と百済・新羅の関係の解釈についての研究史は武田 1989, pp. 152-186 を参照。また、武田 2007も参照。日本史学者による考察としては熊谷 2008, pp. 32-48 等も参照。
  22. ^ いわゆる「任那の調」はかつて任那が倭に献上していた(とされる)調を、その地を支配する新羅に対して代納することを倭が要求したもので、百済のみならず高句麗との対立も深まっていた新羅側が「任那使」をたててこれを「献上」することで倭国との関係悪化を防ごうとしたものと解される。一般に当時「任那復興」を国策の一つとしていたが、現実的にそれを実現することが不可能であった倭国と、外交的孤立を避けようとした新羅の間で成立した政治的妥協の産物と見做される[256]
  23. ^ 『三国史記』「高句麗本紀」に依る限り、広開土王は19代目の王である。広開土王を「十七世孫」とする場合、『三国史記』の伝承と整合させるために、17の基準となる1代目の王を誰とするべきか、また十七世孫というのが王代とするべきか(王代説)、実際の系譜上の世代であるとするべきかなどについて解釈が分かれる。20世紀中の議論については武田幸男が『高句麗史と東アジア』において整理している[267]
  24. ^ 朱蒙と東明(聖)王の習合過程についての研究史は李 1998, pp. 63-91を参照。詳細については李 1998, pp. 63-91, 93-11、王の系譜については武田 1989, pp. 281-313 を参照。また、この説と簡潔なまとめ・評価については矢木 2012, p. 35-38 を参照。
  25. ^ 『三国史記』「山上王本紀」の原史料は名前不詳の高句麗の古記録であると見られるが、この記録は『三国志』の記録を底本に中国側の記録に登場する伊夷模を山上王に比定していた。一方で『三国史記』「故国川王本紀」の原史料となった『海東古記』は高句麗の古記録を『後漢書』と対照しつつ伊夷模を故国川王に比定したが、高句麗の古記録には『後漢書』に登場するそれ以前の高句麗王である遂成伯固に対応する諡号が存在しなかったため、最古の王である宮に国祖王(太祖大王)、その次に即位する遂成に次大王、最後の伯固に新大王という安易な命名法による諡号を後から用意したと考えられる。そして『三国史記』の両紀はこの矛盾する記録によってそれぞれの系譜を描いている[272]
  26. ^ 東明聖王の諱は『三国史記』には衆解とあって解字は末尾に付されている。これは元来「解」が姓ではなく人名末尾に一種の尊称として付されたものであったことの残滓であると見られ、『魏書』「高句麗伝」にも朱蒙の息子閭達の字として始閭が記載されている[275]
  27. ^ 例えば「高句麗本紀」大祖大王20年条、大祖大王22年条、次大王2年条など
  28. ^ 日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『新撰姓氏録』記載の高句麗人(渡来氏族)名に方位部が用いられているものは前部14名、後部16名、上部9名、下部4名、南部1名、東部1名、西部1名となる[288]

出典

  1. ^ 劉昫 (中国語). 《舊唐書‧卷五‧本紀第五‧高宗下》. "九月癸巳,司空、英國公勣破高麗,拔平壤城,擒其王高藏及其大臣男建等以歸。境內盡降,其城一百七十,戶六十九萬七千,以其地為安東都護府,分置四十二州。" 
  2. ^ a b c d e f g h i j k 田中 1995a, pp. 20-22
  3. ^ a b c d e 田中 1995a, pp. 23-24
  4. ^ a b c 田中 1995a, pp. 16-18
  5. ^ 矢木 2012, pp 51-52
  6. ^ 『三国史記』「高句麗本紀」井上訳, p. 6
  7. ^ 『三国史記』「高句麗本紀」井上訳, p. 7
  8. ^ a b 武田 1997, p. 278
  9. ^ a b 田中 1995a, p. 22
  10. ^ a b c d e 早乙女 2000, p. 108
  11. ^ a b 早乙女 2000, p. 112
  12. ^ a b c d e f g h 田中 1995a, p. 25
  13. ^ 『三国志』 井上秀雄 他訳, p. 114
  14. ^ 『後漢書』 井上秀雄 他訳, p. 103
  15. ^ a b c d e f g 田中 1995a, p. 26
  16. ^ a b c d 武田 1997, p. 279
  17. ^ a b 武田 1997, p. 280
  18. ^ a b c d e 武田 1997, p. 281
  19. ^ 李 2000, pp. 51-52
  20. ^ a b c 武田 1997, p. 284
  21. ^ a b c 李 2000, p. 52
  22. ^ a b c 井上 他訳注より, p. 122
  23. ^ 武田 1997, p. 285
  24. ^ a b c d 武田 1997, p. 286
  25. ^ 『三國志』「魏志」巻28/王毌丘諸葛鄧鍾傳第28
  26. ^ a b c d 武田 1997, p. 287
  27. ^ 『三国史記』「高句麗本紀」, p. 100、東川王21年(247年)条
  28. ^ 武田 1997, p. 288
  29. ^ 『三国史記』井上 訳注より, p. 116
  30. ^ a b c 李 2000, p. 53
  31. ^ a b c d e f 田中 1995a, p. 28
  32. ^ 井上 1972, p. 69
  33. ^ a b c d e f g h i 田中 1995a, p. 29
  34. ^ a b 武田 1997, pp. 305-306
  35. ^ a b c d e f g 李 2000, p. 54
  36. ^ a b c 井上 1972, p. 70
  37. ^ a b c d e 井上 1972, p. 71
  38. ^ a b 武田 1997, p. 306
  39. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 田中 1995a, p. 30
  40. ^ 武田 1989, p. 111
  41. ^ a b 武田 1997, p. 308
  42. ^ 武田 1989, pp. 115-116
  43. ^ a b c d e 李 2000, p. 55
  44. ^ a b 井上 1972, p. 74
  45. ^ 遠藤 2012, pp, 78-83
  46. ^ a b 朝鮮史研究入門 2011, p. 44
  47. ^ a b c 田中 1995a, p. 31
  48. ^ a b c d e f g h 田中 1995a, p. 32
  49. ^ a b c d e f g 田中 1995a, p. 33
  50. ^ a b 李 2000, p. 56
  51. ^ 武田 1997, p. 313
  52. ^ 木下、宮島 1993, pp. 193-236
  53. ^ a b c d e f 李 2000, p. 57
  54. ^ 武田 1997, p. 327
  55. ^ a b 井上 1972, pp. 103-104
  56. ^ a b 武田 1997, p. 325
  57. ^ 井上 1972, pp. 106-107
  58. ^ 武田 1997, p. 333
  59. ^ a b 田中 1995a, p. 34
  60. ^ 日本書紀/卷第十七 - 维基文库,自由的图书馆” (中国語). zh.wikisource.org. 2023年10月22日閲覧。
  61. ^ a b c d e f g h i j k 田中 1995a, p. 35
  62. ^ a b c d e f g h 李 2000, p. 58
  63. ^ a b c d 李 2000, p. 86
  64. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 田中 1995a, p. 36
  65. ^ a b c d 武田 1997, p. 362
  66. ^ 井上 1972, p. 182
  67. ^ a b c d e f g h i 李 2000, p. 87
  68. ^ 井上 1972, p. 183
  69. ^ a b c d e f g h 武田 1997, p. 363
  70. ^ a b c d e 愛宕 1996a, p. 302
  71. ^ a b 井上 1972, p. 187
  72. ^ a b c d e 愛宕 1996a, p. 303
  73. ^ a b c d e f g h i j k 田中 1995a, p. 37
  74. ^ 井上 1972, p. 188
  75. ^ a b c d e 井上 1972, p. 189
  76. ^ a b c d 愛宕 1996a, p. 299
  77. ^ a b 礪波 1997, p. 185
  78. ^ a b c 武田 1997, p. 364
  79. ^ 愛宕 1996b, pp. 309-312, 326
  80. ^ 愛宕 1996b, p. 326
  81. ^ a b c d e 李 2000, p. 89
  82. ^ a b c d e f g 田中 1995a, p. 38
  83. ^ 武田 1997, p. 365
  84. ^ a b 李 2000, p. 90
  85. ^ 井上 1972, pp. 192-193
  86. ^ 森 2006, p. 227
  87. ^ a b 森 2006, p. 228
  88. ^ 武田 1997, p. 371
  89. ^ 森 2006, pp. 230-233
  90. ^ 武田 1997, pp. 368-369
  91. ^ a b c 愛宕 1996b, p. 328
  92. ^ a b c d e f g h i j k 田中 1995a, p. 39
  93. ^ a b c d 武田 1997, p. 375
  94. ^ a b c 武田 1997, p. 380
  95. ^ a b 李 2000, p. 91
  96. ^ a b c d e f 武田 1997, p. 381
  97. ^ 葛 2016, p. 57
  98. ^ a b c d e 李 2000, p. 92
  99. ^ a b c d e f g 李 2000, p. 93
  100. ^ 武田 1997, p. 382
  101. ^ 井上 1972, p. 208
  102. ^ a b c d 武田 1997, p. 383
  103. ^ 李 2000, p. 107
  104. ^ a b 古畑 2018, p. 36
  105. ^ 古畑 2018, p. 37
  106. ^ a b c d 古畑 2018, pp. 38-39
  107. ^ 武田 1997, p. 400
  108. ^ 古畑 2018, p. 40
  109. ^ a b 葛 2016, p. 47
  110. ^ 葛 2016, pp. 53-58
  111. ^ 『続日本紀』 巻第七 霊亀二年(716年)五月辛卯条
  112. ^ a b 井上 1972, p. 294
  113. ^ 矢木 2012, p. 88
  114. ^ a b c d e f g h i j 李 1975, pp. 42-45
  115. ^ a b 馬淵ら 1980, p. 6
  116. ^ 馬淵ら 1980, p. 7
  117. ^ a b c d e 李 1975, pp. 39-41
  118. ^ 田中 1995a, p. 18
  119. ^ 井上 2013, p. 206
  120. ^ 金 1985, p. 116
  121. ^ a b 金 1985, pp. 117-118
  122. ^ a b c 金 1985, pp. 118-123
  123. ^ 言語学大辞典 1989, pp. 1058-1083「ツングース諸語」の項目より。
  124. ^ 言語学大辞典 1989, pp. 251-253「女真語」の項目より。
  125. ^ a b 浅川ら 1997, pp. 87-88
  126. ^ 馬淵ら 1980, p. 1-6
  127. ^ 東 1995a, p. 123
  128. ^ a b c d e f 早乙女 2000, pp. 108-114
  129. ^ 東 1995a, pp. 182-183
  130. ^ a b c 東 1995a, pp. 167-172
  131. ^ 東 1995a, p. 155
  132. ^ a b 東 1995a, p. 189
  133. ^ a b 西谷 2003, p. 146
  134. ^ a b 東 1995a, p. 184
  135. ^ a b 東 1995a, p. 194
  136. ^ 朝鮮史研究入門 2011, p. 50
  137. ^ 西谷 2003, p. 147
  138. ^ a b 早乙女 2000, p. 114
  139. ^ a b c d e f g 東 1995b, p. 248
  140. ^ a b c d 早乙女 2000, p. 115
  141. ^ a b 東 1995b, p. 247
  142. ^ 東 1995b, p. 253
  143. ^ 田中 1995b, pp. 120-122
  144. ^ 早乙女 2000, p. 116
  145. ^ 武田 1989, pp. 314-355
  146. ^ a b c d 早乙女 2000, p. 117
  147. ^ 東 1995b, p. 256
  148. ^ a b 早乙女 2000, p. 119
  149. ^ 東 1995b, p. 297
  150. ^ 東 1995b, p. 298
  151. ^ a b 東 1995b, p. 301
  152. ^ a b c 東 1995b, p. 300
  153. ^ 東 1995b, p. 303
  154. ^ 門田 2013
  155. ^ a b 『三国史記』「高句麗本紀」井上訳, pp. 126-127
  156. ^ a b c d e f 田中 1995c, p. 311
  157. ^ a b c d e f g h 田中 1995c, p. 312
  158. ^ 金 2005, p. 19
  159. ^ a b 金 2005, p. 20-22
  160. ^ a b 田中 1995c, p. 313
  161. ^ 『三国史記』「高句麗本紀」広開土王2年(393年)条、井上訳, p. 129.
  162. ^ a b 田中 1995c, p. 314
  163. ^ 『旧唐書』「高麗伝」井上 他 訳, p. 100
  164. ^ 田中 1995c, p. 316
  165. ^ a b c 田中 1995c, p. 317
  166. ^ 田中 1995c, p. 318
  167. ^ 田中 1995c, p. 319
  168. ^ 田中 1995c, p. 320
  169. ^ 田中 1995c, p. 321
  170. ^ 田中 1995c, p. 327
  171. ^ a b 田中 1995c, p. 328
  172. ^ a b c d 田中 1995c, p. 330
  173. ^ a b 李 2000, p. 060
  174. ^ 『三国史記』「高句麗本紀」井上訳, p. 198
  175. ^ 『旧唐書』「高麗伝」井上 他 訳, p. 102
  176. ^ 李 2000, p. 061
  177. ^ a b c 『三国史記』「高句麗本紀」井上訳, p. 210
  178. ^ 土屋 2010, p, 141
  179. ^ a b c 土屋 2010, p, 142
  180. ^ 土屋 2010, p, 144
  181. ^ 土屋 2010, p, 140
  182. ^ a b c 土屋 2010, p, 145-149
  183. ^ a b 李 1998, p. 16
  184. ^ 三上 1990, p. 271
  185. ^ a b c d 李 1998, p. 20
  186. ^ 三上 1990, p. 272
  187. ^ 『後漢書』「夫余伝」
  188. ^ 『梁書』「高句麗伝」
  189. ^ 『魏書』「高句麗伝」
  190. ^ 広開土王碑文 第一欄
  191. ^ a b c d 李 1998, p. 21
  192. ^ 李 1998, p. 76
  193. ^ 李 1998, p. 77
  194. ^ 李 1998, pp. 79-84
  195. ^ 李 1998, pp. 74-79
  196. ^ a b 矢木 2012, pp 47-49
  197. ^ 李 1998, p. 23
  198. ^ 武田 1989, pp. 328-335
  199. ^ a b c d e f 李 1998, p. 24
  200. ^ a b 李 1998, p. 17
  201. ^ a b 李 1998, p. 18
  202. ^ 李 1998, p. 19
  203. ^ a b c d 李 1998, p. 25
  204. ^ a b c d 李 1998, p. 26
  205. ^ 李 1998, p. 28
  206. ^ 『三国史記』「百済本紀」井上訳, p. 334
  207. ^ a b 武田 1989, pp. 218-223
  208. ^ a b c 武田 1989, pp. 228-235
  209. ^ 『隋書』「煬帝下」大兼訳, pp. 116-120
  210. ^ a b 李 1998, pp. 29-30
  211. ^ 田中 1999, p. 134
  212. ^ a b 山本 2018, p. 111
  213. ^ a b 早乙女 2000, p. 143
  214. ^ a b 李 1998, p. 30
  215. ^ a b 武田 1989, pp. 114, 136
  216. ^ 武田 1989, p. 131
  217. ^ 武田 1989, p. 68
  218. ^ 武田 1989, pp. 69-70
  219. ^ a b 武田 1989, pp. 71-73
  220. ^ 武田 1989, pp. 70-71
  221. ^ 武田 1989, pp. 68-74
  222. ^ 森 2006, pp. 108-166
  223. ^ a b 森 2006, p. 167
  224. ^ 葛 2016, p. 62
  225. ^ a b 葛 2016, p. 63
  226. ^ 李 1998, p. 29
  227. ^ 武田 1989, p. 112
  228. ^ a b c 武田 1989, p. 113
  229. ^ 『三国史記』「新羅本紀」奈勿尼師今37年条、井上訳 p. 71
  230. ^ 武田 1989, p. 120
  231. ^ 武田 1989, p. 121
  232. ^ a b c d 李 2000, pp. 74-75
  233. ^ a b c d 木下 1993, pp. 202-203
  234. ^ 木下 1993, pp. 204-205
  235. ^ 森 2006, p. 85
  236. ^ a b c 森 2006, p. 86
  237. ^ 木下 1993, p. 220
  238. ^ 李 2000, pp. 76-77
  239. ^ 李 2000, pp. 78-79
  240. ^ a b 李 2000, pp. 90-94
  241. ^ 武田 1989, pp. 152-160
  242. ^ 遠藤 2012, pp. 78–83.
  243. ^ 武田 1989, pp. 133-135
  244. ^ a b 熊谷 2008, pp. 44-48
  245. ^ 森 2006, pp. 51-56
  246. ^ a b 熊谷 2008, pp. 70-79
  247. ^ 森 2006, pp. 82-84
  248. ^ 武田 1989, pp. 270-273
  249. ^ 森 2006, p. 51
  250. ^ 上田 2015, p. 185
  251. ^ a b c d 李 1998, pp. 290-293
  252. ^ a b 森 2006, p. 183
  253. ^ a b c d e 李 1998, pp. 294-297
  254. ^ 上田 2015, p. 187
  255. ^ a b 森 2006, pp. 211-215
  256. ^ 森 2006, pp. 182-187
  257. ^ 長野市教育委員会
  258. ^ 松本市教育委員会
  259. ^ 狛江市教育部社会教育課
  260. ^ 上田 2015, p. 193
  261. ^ 上田 2015, pp. 187-196
  262. ^ 鈴木 2016, p. 67
  263. ^ a b 日本史辞典 1999, 「高麗氏」の項目より
  264. ^ a b 鈴木 2016, p. 68
  265. ^ 高麗神社、由緒と歴史
  266. ^ a b c d 武田 1989, p. 281
  267. ^ a b 武田 1989, p. 283
  268. ^ a b 李 1998, p. 93
  269. ^ 例えば武田 1989矢木 2012李 1998
  270. ^ a b 武田 1989, p. 288
  271. ^ 武田 1989, p. 293
  272. ^ a b c d e 武田 1989, pp. 293-298
  273. ^ a b 武田 1989, p. 300
  274. ^ 武田 1989, pp. 300-304
  275. ^ a b c d 武田 1989, p. 290
  276. ^ 鮎貝 1937, pp. 70-74
  277. ^ a b 『三国史記』「高句麗本紀」井上訳注, p. 24, 注3
  278. ^ 鮎貝 1937, pp. 78-80
  279. ^ 池内 1926, pp. 5, 9
  280. ^ 川本 1996, p. 7
  281. ^ a b 井上 1972, p. 45
  282. ^ 『三国史記』「高句麗本紀」井上訳注, p. 49, 注30
  283. ^ a b c 川本 1996, p. 1
  284. ^ 『翰苑』 巻30
  285. ^ 川本 1996, p. 2
  286. ^ a b c 川本 1996, pp. 3-8
  287. ^ a b 川本 1996, p. 9
  288. ^ 池内 1926, p. 2
  289. ^ 池内 1926, p. 9
  290. ^ a b 川本 1996, pp. 8-20
  291. ^ 池内 1926, p. 15
  292. ^ 池内 1926, pp. 15-33





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「高句麗」の関連用語

高句麗のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



高句麗のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの高句麗 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS