馬超 参考資料

馬超

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馬 超(ば ちょう、拼音: Mǎ Chāo熹平5年〈176年〉 - 章武2年〈222年〉)は、中国後漢末期から三国時代にかけての蜀漢の将軍。字は孟起(もうき)。は威侯。司隷扶風郡茂陵県の人[注釈 1]。『三国志』蜀志に伝がある。


注釈

  1. ^ a b 父の本貫もこれと同じだが[1]、生まれ育ちは隴西である。馬超を実質的に隴西出身と見なす研究者もいる[2]
  2. ^ 字は子碩。失官後に隴西に留まって羌族と雑居し、その地で娶った羌族の女性との間に馬騰をもうけた[3]。『三国志演義』では「馬粛」という名になっている。
  3. ^ 太平御覧』に引く傅玄『乗輿馬賦』には、馬超が蘇氏の塢(城堡)を破ったという記載がある[6]。扶風の名族として馬氏・竇氏・耿氏・蘇氏が挙げられるが[7]、書中の「蘇氏」が扶風蘇氏を指す確証はない。この事績の年代は不明だが、同書の記述をもとにすれば、潼関の戦い以前に起きている。
  4. ^ この際、馬騰・韓遂それぞれの子が人質に出された[9]。両者の具体的な紛争時期は明らかでないが、白亮は、李傕と不仲になった馬騰に韓遂が味方した興平元年(194年)から、鍾繇が司隷校尉に任じられた建安2年(197年)までの間とする[10]
  5. ^ 『三国志』張既伝では、馬騰は張既の説得により鍾繇に協力しているが、鍾繇伝注引司馬彪『戦略』では、初め郭援らに与していた馬騰を説き伏せたのは傅幹である。
  6. ^ 龐徳が郭援の首を取ったが、首級を確かめる段階になるまでそのことは判明しなかった[11]
  7. ^ これは馬超の勇猛さを表すものであり、清代に編纂された『日下旧聞考中国語版』においても、強勇の例として引かれている[12]銚期が戦闘時に傷を頭巾で覆い、ついに敵軍を大破したことは『後漢書』および『東観漢記』に見える[13]
  8. ^ 白亮は、曹操が馬超に与えたのは実権のない官職と見なしている[10]
  9. ^ 陳亮は、曹操が馬超を召しおおせなかったことを難じ、以下のように主張する。「馬超が応じなかったのは、父子ともに関西におり、単身で赴くのを厭うたから、そして与えられた官職のあまりの低さに、任官を潔しとしなかったからである。馬騰を召した後、馬超を前将軍に任じて手厚く迎え、精兵を統べさせてやり、それから弟たちに馬騰の部曲を領らしめるならば、馬超の果敢さもあって、喜び勇んで功名を立てようから、どうして応じないことがあろうか。馬超が就任してしまえば、関西諸将など物の数ではない」[14]
  10. ^ 『三国志』張既伝によると、入朝に対して馬騰はやや消極的である。張既の説得により、馬騰は部曲を解散して入朝することを承諾したものの、行動を先延ばしにしていた。その様子に変心を恐れた張既の入念な手配によって、やむを得ず東に向かっている。
  11. ^ 宗族が実質的に曹操の質任となったことを意味する[16]。己の宗族や子弟を人質として鄴に遣ることで服属を示す例は、李典臧覇にも見られる[17][18]
  12. ^ 潼関の戦いの後、曹操は衛覬の意見を採らなかったことを後悔した。
  13. ^ 胡三省曰く、「曹操が関西を捨てて張魯を遠征するというのは、伐虢取虞の計だ。思うに、馬超・韓遂を討つ名分がないから、まず張魯を攻めるふりをして背かせ、それから侵攻しただけである」[21]。朱子彦は、この時点における馬超の立場について、馬騰らの身を顧みるならば領地を手放し曹操に臣服せざるを得ないが、継いだ既得権益を守るべく鄴にいる親族を見放すならば忠孝の道を失い、曹操に道義的優位を与えることになると論じている[22]
  14. ^ 弘農に至った曹操は「ここは西道の要衝である」と言い、賈逵を弘農太守に任じた[23]
  15. ^ 杜畿が太守を務める河東郡だけは動揺しなかった[24]
  16. ^ 劉雄鳴は曹操の歓迎を受けたが、部下たちが降伏を拒んだため曹操から離反した。夏侯淵に討たれて漢中に逃走した後、張魯が敗れると再び曹操に降った[25]。「劉雄」という表記も見られる[26]
  17. ^ この時の難民の中には、三輔から逃れてきた扈累寒貧といった隠士らもいた[29]
  18. ^ 軍勢が敗れるのを目の当たりにし、また曹操も行方知れずだったため、諸将は皆危惧していた。曹操を見て悲喜こもごもの者、あるいは涙を流す者がいる中、曹操は大笑いして、「今日は小僧めにあやうく痛い目に遭わせられるところだった」と語ったという[32]
  19. ^ 『曹瞒伝』によると、馬超の騎兵による度重なる襲撃と地盤の悪さにより、曹操軍は渡河はおろか、陣営や防塁を築くこともできずにいた。そこで婁圭の案に従い、砂を水で凍らせて城を建てたことで、渭水を渡りおおせたという。裴松之はこの逸話を否定している[32]
  20. ^ 許褚の武勇を聞き知っていた馬超は、曹操の従騎が許褚ではないかと疑い、「公(曹操)の虎侯は、どちらにあるのか」と尋ねている[31]。また『太平御覧』に引く『江表伝』によると、馬超は6斛(斛は体積の単位。1斛=10斗[36])の米袋を馬にぶら下げて駆け、米袋の重さで曹操の体重を測っていた。そのことを聞いた曹操は、「狡猾な賊に騙されるところだった」と語ったという[37]
  21. ^ 韓遂との交馬語において、曹操はあえて軍事と関わりのない思い出話をした。会談を終えた韓遂に「公は何と言われたのか」と馬超が問うと、韓遂は「たいしたことではない」と答えた。また別の日には、韓遂自身が隠蔽したと他の諸将に思わせるべく、多数の改竄が残る書状を韓遂のもとに送りつけた[33]
  22. ^ 安定で包囲された楊秋は曹操に降伏して許され、復位するとともに住民の慰撫を任された[33]
  23. ^ 竇武の孫である竇輔はこの戦いに従軍し、飛んできた矢に当たって戦死している[39]
  24. ^ この年代は『三国志』楊阜伝の記載によるものである。董卓伝には「馬超が漢陽に拠有し、馬騰は連座して三族皆殺しとなった」とあり、族滅以前に反乱が起きている。一方、武帝紀では建安18年(213年)に馬超が再起したことになっている。『資治通鑑考異』にて、司馬光は武帝紀の年代を採用している[40]
  25. ^ 漢陽(天水)の任養らは馬超を迎え入れ、これを抑止するに至らなかった閻温は冀城に走った[41]。なお当郡では、姜・閻・任・趙の四姓が有力だった[27]
  26. ^ 韋康を推挙したのは荀彧である[42]
  27. ^ 『後漢書』孝献帝紀および『資治通鑑』では、馬騰らが誅殺されたのは建安17年5月癸未の日と記されているが、当月の朔日は癸未ではなく壬辰のはずである[45][46]
  28. ^ 馬超はまず怒って「足下は命のことを考えないのか」、次いで態度を軟化させて「城内の旧知で、私と意を同じくする者はいるか」と様々に問うたが、閻温は全て黙秘し、再び責められると「主君に仕えるということに、死はあれど二心はない。卿(あなた)は長者(年長者または徳の高い人。閻温自身を指す)に不義の言を出さしめんとしている。どうして生きていられよう」と返した。
  29. ^ 閻温に対する陳寿評にある解揚の逸話は、『史記』および『春秋左氏伝』に記載がある。を攻めた際、は宋を降伏させないために楚を欺くことを画策し、壮士の解揚がその君命を帯びたが、その道中で捉えられた。楚王は、宋に対し降伏勧告をするよう解揚に強いた。解揚はついにその要求に応じたが、車に乗せられて城下に着くや「晋の援軍が来る」と呼ばわった。約束に背き信義を損なったことを咎める楚王に、解揚は忠義を持ち出して答えた。そして死刑に臨むにあたり、忠義を文字通り死守せんとする己の意気を訴えた。臣下たちの反対を押し切り、楚王は解揚を許した[47]
  30. ^ 皇甫謐『列女伝』趙昂妻異伝には「馬超が約束に背き韋康を殺害した」とある[5]。なお『列女伝』のような著述には留意点がある。兪樟華・婁欣星が述べるには、古代の雑史に記された女性の伝記は複数の共通点を持つ。まず、男性中心社会において、国家存続や夫への貢献、貞節の固守などのような、婦徳やそれに繋がる才覚を発揮した女性(母、妻、娘)が特筆される。次に、当時の社会情勢や女性の生活状況が示されると同時に、作者の願望および理想の投影もまた含まれる。そして、正史内に立伝されたり記載があったりする人物を除き、逸話の典拠は主に文芸作品、野史、世間の噂などであるため、一般的な列伝と比較して、女性(特に皇族以外の階級に属する者)を主とする列伝の信憑性は低くなる[48]。熊明は、皇甫謐の筆致について、真実性や信憑性には注意を払わず、該当する人物の性格を的確に示す情報やそれに関する都合の良い資料を取捨選択し、さらに創作も織り込むさまは小説作法じみていると分析し、その叙述方式や微細な描写などから、『列女伝』をはじめとする皇甫謐の雑伝作品は史書というより小説のようだと論じている[49]
  31. ^ 曹操が鄴に帰還した後、長安に駐屯していた[26]。梁興ら残党は関中諸県で略奪行為を働いていたが、鄭渾による治安強化により勢力を弱め、鄜(左馮翊に位置する)で夏侯淵に斬られた[50]。夏侯淵伝では、梁興が斬られた場所は鄠(右扶風に位置する)となっている。また武帝紀によると、馬超の残党である梁興らは藍田に駐屯し、夏侯淵に平定された。しかし『資治通鑑』は、藍田に駐屯したのは梁興ではなく馬超とする[40]。ド・クレスピニーは、鄜で死亡したからには梁興は藍田におらず、また藍田にいた勢力は馬超に与していたが、馬超本人は涼州にいるため、夏侯淵の攻撃時には不在だったのだろうと推測する[51]
  32. ^ 214年、馬超が敗走した後に夏侯淵が興国を包囲した際、阿貴は死亡したが、千万は馬超のもとへ逃げた[26]。千万は「楊千万」とも称されるが、それは子孫が楊姓を冠したことによる[53]
  33. ^ この時の「韋康の死は楊阜ひとりの責任(『列女伝』では恥)ではない、一州の士大夫皆が恥を蒙ったのだ」という主旨の言葉は、楊阜伝では楊阜が、『列女伝』姜叙母伝では姜叙の母が発言者となっている。
  34. ^ 馬超の妻子の殺害について、詳細は武帝紀・夏侯淵伝に記載がある。楊阜伝では「馬超の妻子を討った」とだけ記され、『列女伝』には殺害そのものの記載がない。また、夏侯淵伝には趙衢らが馬超を騙して出撃させたとあるが、楊阜伝および『列女伝』では馬超が自らの意思で出撃したように書かれている。
  35. ^ ぎゃくし。不孝者の意。
  36. ^ 胡三省は、この「主君」を韋康のこととする[40]。「桀賊」は、凶暴な賊。「賊」は匪賊、人殺しなどを表す。また「桀」は凶悍なさまを示す形容詞であるほか、暴君として知られる王朝の最後の王の名でもある。
  37. ^ 後日、姜叙の母のことを聞いた曹操は、彼女を楊敞の妻に比して称賛した[43]。『列女伝』姜叙母伝のみに見える出来事として、馬超による姜叙の子の殺害と、城への放火がある。
  38. ^ 『列女伝』によると、馬超の人質となっている息子の安否を案じた趙昂に対して、王異は「忠義こそが立身の大本です。君父の恥を雪ぐにあたっては、命を差し出すのも瑣末なこと。ましてや子ども1人のことなど気にかけるものではありません」と叱咤した。さらには、王異の働きがあったために、趙昂は馬超に信用され、また戦いの最中には策をいくつも講じたのだという。
  39. ^ 資治通鑑』胡三省注によると、師君(張魯)に次ぐ位である[40]
  40. ^ 張魯自身は、劉璋に従わなかったために母と弟を斬られている[56]
  41. ^ この箇所に該当する原文は「魯將楊白等欲害其能」だが、『資治通鑑』は「楊白」を「楊昂」としている[57]。『康熙字典』の「害」の項目には「害猶言患之也。又《屈原列傳》上官大夫與之同列爭寵,而心害其能」とある[58]。例文として引かれた箇所に該当する和訳は、「上官大夫(中略)は屈原と地位をひとしくし、君寵を争うて、心ひそかにその才能を憎んだ」[59]。また中国学者レイフ・ド・クレスピニー英語版による『資治通鑑』の英訳では、「害其能」は「馬超に嫉妬した」と訳されている[60]
  42. ^ 張魯が曹操に降伏した際、曹操は董氏を張魯の功曹である閻圃に下げ渡し、馬秋を張魯に引き渡した。張魯はそれを自らの手で殺した[3]
  43. ^ 劉備の入蜀において、雒城の陥落には1年以上を要していたのに対し、成都の場合、城内には精兵3万と1年分の穀帛があり、士気も高かったにもかかわらず[56]、数十日という短期間で落城に至った[62]
  44. ^ 関羽は鬚髯(あごひげとほおひげ)が美しかったため、諸葛亮はこう呼んだ[63]
  45. ^ この時、氐族の雷定ら7部1万人あまりが呼応している[43]。武都郡は羌族・氐族が多く住む土地であり、下弁はその郡治である[64]。 劉備が漢中を取ると、劉備の北進に従い武都氐が関中を圧迫するのを恐れた曹操は、張既を武都に遣って氐族の部落5万あまりを京兆・扶風・天水に移住させた[65]。この強制移住には楊阜も関与している[43]
  46. ^ 曹休・曹真は虎豹騎を率いる精鋭である。
  47. ^ 漢中王を称するにあたり、劉備は左将軍を辞した[62]。その後任として馬超が抜擢された形になる。また、『華陽国志』では「關羽為前將軍,張飛為右將軍,馬超為左將軍,皆假節鉞」と記されており、この時『三国志』では関羽のみに仮された節鉞が、張飛・馬超にも仮されている[63][67]
  48. ^ 華陽国志』では 「[先主以]馬超[]驃騎將軍,領涼州刺史,封斄鄉侯,北督臨沮」[67]。斄は扶風郡に属する県で、「たい」と読む。後に武功県に改称[68][69]
  49. ^ これは数え年で計算した年齢であるため、満年齢で計算した場合、誕生日を迎えていれば46歳である。
  50. ^ 諡における「威」は「勇猛で剛強、強烈である。剛毅で信ずるにふさわしい」ことを意味する[71]
  51. ^ 裴松之は、揚雄方言』および郭璞の注を引き、「老兵」の意とする[72]
  52. ^ この彭羕の発言および策命から、馬超は蜀において北方(涼州)での働きに嘱されていたと判断できる。同じく策命での氐・羌・獯粥への言及より、中国西部の異民族に対する影響力への期待も認められる。
  53. ^ 目上の人間は官職名で呼ぶのが礼儀であり、字で呼ぶのは無礼である。
  54. ^ ド・クレスピニーによる『資治通鑑』の注釈に従えば、楊阜の言う「主君」は曹操を指す[74]
  55. ^ 朱子彦と呂磊は、馬超の振る舞いや異民族との関係について、羌族の血統および隴右に多く住まう羌胡の風習による羌胡化現象の影響があると論じている[75]。隴西郡は戦国時代が置いた郡だが[76]、当時からこの地域周辺の人々は風俗が異民族に近いといわれている[77][78][79]。また羌族は寡婦となった継母や兄嫁を娶り、君臣関係を築かず、強者を立てるほか[80]、父母が死んでも泣くのを恥とするという[81]。いずれの慣習も、主要な人間関係とされる五倫や「三年の喪」のような服喪儀礼などが奨励される中原の儒教倫理にはそぐわない。朱子彦らは、羌胡化した涼州人の、気まぐれで疑り深く団結力に欠ける性質、羌胡を思わせる暴力性、非文明的という印象、これらの要素が全土において士大夫らの反発を招き、果ては涼州軍閥の滅亡へと繋がったとする[82]。羌胡化した董卓ら涼州軍閥による劫掠や破壊行為といった蛮行を受けて生じた中原の人々の厭悪は、王希恩も同様に指摘している[83]
  56. ^ 韓遂・馬超を曹操の後患と見なしていた周瑜は、建安15年(210年)、益州攻略について「奮威将軍(孫瑜)と共に蜀を取り、蜀を得たらば漢中を併合し、奮威将軍を留めてその地を固守させ、馬超と誼みを結んで連合しとうございます」と孫権に提言している[86]
  57. ^ 劉邦について、曹植は「その名声は徳行にそぐわず、行動も純粋な道義と合致しない」と述べ、「太公(劉邦の父)を顧みないのは孝の道に悖るものだ」と批判している[88]。朱子彦の主張によると、劉邦の不孝な振る舞いは秦漢時代には特に非難されておらず、曹植が見せたような蔑視は、儒教理念に染まった後漢時代における代表的な反応である。そのため、父親を顧みないという行為において劉邦と同等である馬超は、士人はおろか巷間からの誹りをも免れ得なかった[89]
  58. ^ 両者の逸話は『太平御覧』において「戦不顧親」の項目にまとめられている[94]
  59. ^ 雲南省阿迷県の人。『清史稿』に伝がある[96]
  60. ^ 原文は「建安五年」。
  61. ^ 『関中勝蹟図志』で疑問を呈されている『四川通志』に記載のある馬超墓は、方角と距離が『天啓新修成都府志』の記述と一致しているため、上述した新都県のものと思しい[95][99]
  62. ^ 民間伝承では、張魯の娘は張琪瑛という名であり、馬超に情を寄せたものの、共にいることは叶わなかった。曹宇に嫁いですぐに死去し、漢水付近にある灌子山(または観子山)に葬られたが、晴れた日には、そこから馬超墓を望むことができるのだという[105]
  63. ^ 原文は「面如活蟹,目若朗星」[106]。「面如活蟹」は色に関する表現であり、『封神演義』の登場人物である魔礼青および太鸞にも用いられている。このような珍しい容貌の描写は、『平話』では蜀漢に属する人物に集中して見られる[107]
  64. ^ 挙兵と馬騰誅殺の時系列を前後させるという改変は、『三国志演義』以前に成立した『平話』や元代の雑劇においてすでに存在する[108]
  65. ^ 『平話』には「尊劉貶曹」思想が際立つ描写が多数表出しており、馬超が曹操を何度も窮地に追いやるのはその一例である[109]。曹操を貶める手段としての馬超は、『三国志演義』においても同様に機能している[110]
  66. ^ この封侯は『平話』の創作だが、西域で活躍した班超に与えられた封号でもある。
  67. ^ 毛宗崗は馬超について、大将の才を持つ他の4人と比較すれば、仁智に欠ける戦将に留まるとしており、五虎将の中では評価が最も低い[114]
  68. ^ 目上や年長者を尊ぶ中国の伝統に基づいて、大衆理念においては「父が英雄ならば息子もまた好漢たるべし」ということになる。その逆もまた然りである[117]
  69. ^ 『三国志演義』には様々な版がある。李卓吾本では、馬騰は一族と共に曹操のもとへ移り、後に連座して処刑される[118]。毛綸・毛宗崗父子により編纂された毛宗崗本(現在広く普及する版)では、一族への言及はない。
  70. ^ 『三国志演義』では、馬超・韓遂以外の8軍閥は韓遂の配下となっている。
  71. ^ 『三国志演義』では、曹操は馬超の武勇を呂布に匹敵するものとして評価している。楊阜もまた、馬超の武勇を韓信・黥布ではなく呂布に準えている。
  72. ^ 李卓吾本では、楊阜や姜叙の母は馬超のことを「叛君無父之徒」や「背父叛君,無義之賊」、「背父無君,逆天之賊」と罵るが、『三国志演義』における馬超は父の仇討ちで曹操に反逆した孝子であるため、食い違いが生じている[119]。「無君」および「無父」は、孟子楊朱墨子を攻撃する際に用いた語である。それぞれ自分本位なこと、父親をとりわけ重んじないことを指し、禽獣に喩えられ指弾の対象となっている[120]。毛宗崗本では、上記の矛盾は修正されている。
  73. ^ 井玉貴が論じるには、歴史上の劉備は、劉璋を降伏させるべく馬超の威力を活用し、さらに兵を補充してそれを強めたが、『三国志演義』では仁君としての劉備像を守る目的で、劉備による増兵は描写されなかった[121]
  74. ^ 毛宗崗は、関羽の真の意図は腕比べにはなく、益州諸将の中に己を凌駕する者はいないだろうという馬超の驕りを挫くことにあると読んでいる[122]
  75. ^ 五虎将の序列について、『平話』や『三国志演義』の多くの版本が『三国志』における立伝順(関、張、馬、黄、趙)に従う中、毛宗崗本のみが趙雲を3番手に引き上げ、相対的に馬超を降格しているが、これは『三国志演義』で大幅に書き足された趙雲の活躍が馬超・黄忠を上回っており、毛宗崗がそれを反映させたことによる[123]
  76. ^ 『三国志演義』では、孟達と彭羕は親しい関係にあるという設定である。
  77. ^ 語り手は呂布の武勇について、曹操と敵対するに足ると評しているが、やはり智謀のなさを指摘しており、曹操にも「無謀な匹夫」と言われている[125]。また「馬超の驍勇なること、呂布と遜色ない」という楊阜の発言も存在する[126]
  78. ^ 語り手は他にも、馬超と敵対した姜敘の母や王異を女傑とする一方、各々に対し「残念ながら理を見るに明らかでない」、「君父の誰たるかを到底理解していない」、さらには「名義では忠義を勧めているが、実際のところは一を知って二を知らない」、「〔彼女らの見解は〕取るに足りない」と、辛辣な評価を下している[130]
  79. ^ 厚底の靴を履き、戦場に立つ武将の場合は靠(鎧を表す)を身につけ、長槍や大刀といった長柄武器を持つ。背部の4本の旗は部隊を率いていることを示す。
  80. ^ 四庫全書総目提要』の解題によると、「この書(『耳談』)は異聞を取り集めており、洪邁夷堅志』の流れを汲んでいる。毎話ごとに語り手を明らかにすることで、信用できる証としているのは、蘇鶚中国語版『杜陽雑編』の例を用いたものだ」[131]。収録内容は多岐に渡るが、単なる逸聞集に留まらず、当時の社会情勢に対する批判も少なからず含まれている。後発の小説に与えた影響は大きく、馮夢竜凌濛初の著作、『聊斎志異』などの中には、『耳談』を基に書かれたとわかる逸話が散見される[132]
  81. ^ 風水思想では、父方の祖先を風水的に良い土地に葬れば、その子孫全体に幸福がもたらされるとされた。科挙制の導入によって世襲が成立し得ず、社会的地位を維持するのがより困難な時代にある中で、将来的な氏族繁栄を保証すべく、知識階級の人々が陰宅(風水における墓地の呼称)のための土地選びに労力を費やすという事態が、代ですでに生じていた[133][134]。明清時代は風水が隆盛を極めた時期であり、風水に関する訴訟や揉め事は枚挙にいとまがなかった[135]
  82. ^ 公開処刑の後、死体を市中に晒すこと。
  83. ^ 楊廷儀の定めた土地が風水的良地で、子孫繁栄という効果を持つならば、馬超の後裔は栄えているはずだ、ということ。

出典

  1. ^   (中国語) 『後漢書』巻72董卓伝注引『典略』, ウィキソースより閲覧。 
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  13. ^   (中国語) 『後漢書』巻20銚期伝, ウィキソースより閲覧。 ; 『東観漢記』巻10銚期伝. 中国哲学書電子化計画. 2024年3月18日閲覧。
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  15. ^ a b c d e f g h 『三国志』巻36馬超伝
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  37. ^   (中国語) 『太平御覧』巻386人事部二十七, ウィキソースより閲覧。 ;   (中国語) 『太平御覧』巻704服用部六, ウィキソースより閲覧。 
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  54. ^   (中国語) 『水経注』巻20漾水, ウィキソースより閲覧, "建安水又東逕蘭坑城北、建安城南,其地,故西縣之歷城也。楊定自隴右徙治歷城,即此處也。去仇池百二十里,後改為建安城。" ;   (中国語) 『続漢書』巻23群国志五, ウィキソースより閲覧。 
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  74. ^ de Crespigny 2004, § 66. note 28 to Jian'an 18, "This [remark of Yang Fu] refers to the fact that Ma Chao was in rebellion against his formal overlord Cao Cao, and that by his rebellion he had compelled his father Ma Teng to die as a hostage in Cao Cao's hands".
  75. ^ 朱・呂 2007, pp. 108, 116; 朱 2015, pp. 48–50.
  76. ^   (中国語) 『史記』巻110匈奴列伝, ウィキソースより閲覧, "秦昭王時,義渠戎王與宣太后亂,有二子。宣太后詐而殺義渠戎王於甘泉,遂起兵伐殘義渠。於是秦有隴西、北地、上郡,築長城以拒胡。" 
  77. ^   (中国語) 『史記』巻44魏世家, ウィキソースより閲覧, "秦與戎翟同俗,有虎狼之心,貪戾好利無信,不識禮義德行。茍有利焉,不顧親戚兄弟,若禽獸耳,此天下之所識也,非有所施厚積德也。" 
  78. ^   (中国語) 『漢書』巻28地理志下, ウィキソースより閲覧, "天水、隴西[...]及安定、北地、上郡、西河,皆迫近戎狄,修習戰備,高上氣力,以射獵為先。[...]孔子曰:「君子有勇而亡誼則為亂,小人有勇而亡誼則為盜。」故此數郡,民俗質木,不恥寇盜。" 
  79. ^   (中国語) 『漢書』巻69趙充国辛慶忌伝賛, ウィキソースより閲覧, "山西天水、隴西、安定、北地處勢迫近羌胡,民俗修習戰備,高上勇力鞍馬騎射。" 
  80. ^   (中国語) 『後漢書』巻87西羌伝, ウィキソースより閲覧, "父沒則妻後母,兄亡則納釐嫂,[...]不立君臣,無相長一,強則分種爲酋豪,弱則爲人附落,更相抄暴,以力爲雄。" 
  81. ^   (中国語) 『後漢書』巻16鄧訓伝, ウィキソースより閲覧, "戎俗,父母死,恥悲泣,皆騎馬歌呼。" 
  82. ^ 朱・呂 2007, p. 116.
  83. ^ 王 1991, pp. 72–73.
  84. ^ 『三国志』巻36黄忠伝
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  87. ^ 『三国志』巻24高柔伝裴松之注
  88. ^   (中国語) 『曹子建集』巻10「漢二祖優劣論」, ウィキソースより閲覧, "[高祖]名不繼德,行不純道,[...]太公是誥,于孝違矣!" 
  89. ^ 朱 2015, p. 58.
  90. ^   (中国語) 『酌古論』, ウィキソースより閲覧, "闗西諸將皆不足畏,所可憚者惟一馬超,而[]公制之非其術。[...]騰之家屬,盡還宿衞,而獨留超,所謂養虎自遺患也。" 
  91. ^ 『続後漢書』巻16. 中国哲学書電子化計画. 2023年12月21日閲覧, "馬超父子勇冠西州,與韓遂頡翥為寇,殘滅三輔,墾傷漢室。董卓因之肆其蛇豕,漢遂以亡。天下分裂,不能歸命有德,卒墮操手。闔門誅夷,僨踣不悔,有勇無義,君子悼諸。然潼關之役操幾不免,孤劍来歸,即則關張之列,超亦人豪也哉。"; "超幾獲操,一時之雄!"
  92. ^   (中国語) 『孟子』尽心上, ウィキソースより閲覧, "桃應問曰:「舜為天子,皋陶為士,瞽瞍殺人,則如之何?」孟子曰:「執之而已矣。」「然則舜不禁與?」曰:「夫舜惡得而禁之?夫有所受之也。」「然則舜如之何?」曰:「舜視棄天下,猶棄敝蹝也。竊負而逃,遵海濱而處,終身欣然,樂而忘天下。」" 
  93. ^   (中国語) 『小腆紀年』巻第18, ウィキソースより閲覧, "蓋聖人大公無我之心,前後一揆。若執趙苞不孝之義,律以馬超背父之條,則敝屣之棄,大舜可處海濱;杯羹之分,漢祖忍於置俎!英雄之事,非聖賢之心歟!"  影印本も参照。
  94. ^   (中国語) 『太平御覧』巻310兵部四十一, ウィキソースより閲覧。 
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  109. ^ 羅 2015, p. 68.
  110. ^ a b 蔡 2010, p. 74.
  111. ^ 『三国志演義(一)』, p. 225. 原文は「面如冠玉,眼若流星,虎體猿臂,彪腹狼腰」。「猿臂」は長い腕、「虎體」と「彪腹狼腰」はすなわち「腰細膀寬」、細腰で体格が良いことを表す。
  112. ^ 『三国志演義(二)』, p. 590. 原文は「生得面如傅粉,脣若抹硃」。
  113. ^   (中国語) 『三国志演義』「読三国志法」, ウィキソースより閲覧, "吾自[諸葛亮、関羽、曹操]而外,更遍觀乎三國之前、三國之後,[...]問有武功將略邁等越倫,如張飛、趙雲、黃忠[...]者乎?問有衝鋒陷陣驍銳莫當,如馬超[...]者乎?"  関羽は「三絶」の一人であるため、特別扱いを受けている。
  114. ^ 『毛宗崗批評本三国演義』第64回. 中国哲学書電子化計画. 2024年2月20日閲覧, "五虎將中,關、張、趙、黃皆大將才也。若馬超,則丁為戰將,而不可為大將。其殺韋康,屠百姓,不得謂之仁矣;其不疑楊阜,不得謂之智矣。前既惑於曹操,而攻韓遂;後復歸於張魯,而拒玄德:此其識見,當在四人之下。"
  115. ^ 『毛宗崗批評本三国演義』第45回. 中国哲学書電子化計画. 2024年3月6日閲覧, "寫虎將者,以懦夫形之而勇,不若以勇夫形之而覺其更勇。"
  116. ^ 蔡 2010, p. 71.
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  118. ^ 羅・李. 第57回 § 耒陽県張飛薦龐統 (PDF) . 古典籍総合データベース. 早稲田大学図書館. 2024年2月5日閲覧, "操下令,將馬騰、黃奎並兩家良賤,共三百餘口,斬於市曹。"
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  120. ^   (中国語) 『孟子』滕文公下, ウィキソースより閲覧, "聖王不作,諸侯放恣,處士橫議。楊朱、墨翟之言盈天下。天下之言,不歸楊則歸墨。楊氏爲我,是無君也。墨氏兼愛,是無父也。無父無君,是禽獸也。" 
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  122. ^ 『毛宗崗批評本三国演義』第65回. 中国哲学書電子化計画. 2023年12月21日閲覧, "關公之欲與馬超比試,非真欲與之比試也,欲借此以壓服其心也。[...]馬超新降,其視川中諸將無出我右,將不免於自矜。"
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  124. ^   (中国語) 『後漢演義』第86回, ウィキソースより閲覧, "馬超猛將,韓遂庸奴,兩人皆非曹操敵手。" ;   (中国語) 『後漢演義』第87回, ウィキソースより閲覧, "有勇無謀,如何保家?"; "馬超多勇無謀,卒致上害父母,下及妻孥;設非投入劉備,則其身尚不能保,遑問與曹操為敵乎?" 
  125. ^   (中国語) 『後漢演義』第77回, ウィキソースより閲覧, "呂布之勇,足以敵曹操,而智謀之不逮操也遠甚!"; "操復說道:「[...]但呂布是一無謀匹夫,必為我敗,玄德放心,看我指日擒布。」" 
  126. ^   (中国語) 『後漢演義』第86回, ウィキソースより閲覧, "涼州參軍楊阜,進見曹操道:「馬超驍勇,不亞呂布[...]。」" 
  127. ^   (中国語) 『後漢演義』第86回, ウィキソースより閲覧, "遂計未始不是,但不若超計之完善。"; "操先輕視馬超,當引兵北渡時,危坐不動,微許褚之翼操下船,幾已為馬超所斃矣。及已知超勇,始用賈詡計議[...]。" 
  128. ^   (中国語) 『後漢演義』第93回, ウィキソースより閲覧, "蜀將馬超,時已早歿,不略馬超。只有超從弟馬岱,從軍出征,岱勇略不及馬超,雖為蜀將,未堪大任,故亮得三郡,不復令再鎮涼州。" 
  129. ^   (中国語) 『後漢演義』第86回, ウィキソースより閲覧, "馬騰闔門一二百口,並受誅夷,雖由超私忿忘親,畢竟是曹瞞毒手殺人,如刈草芥呢!一語斷定。" 
  130. ^   (中国語) 『後漢演義』第87回, ウィキソースより閲覧, "敘母亦一女丈夫,可惜見理未明。"; "[趙昂妻]又一奇婦人,但究不知誰為君父。"; "姜敘母及趙昂妻,名為勸忠,實則知其一不知其二,仍不過為婦人女子之見,無足取焉。" 
  131. ^ 『四庫全書総目提要』巻144. 中国哲学書電子化計画. 2023年12月21日閲覧, "其書皆纂集異聞,亦洪邁《夷堅志》之流。每條必詳所說之人,以示徵信,則用蘇鶚《杜陽雜編》之例。"
  132. ^ 孫順霖「《耳談》整理小記」『殷都学刊』第3期、1990年、66-71、pp. 68–70。
  133. ^ 廖咸恵「墓葬と風水──宋代における地理師の社会的位置」上内健司訳、『都市文化研究』第10号、2008年、96-115、p. 102。
  134. ^ 水口拓寿「名墓の風水に「便乗」する者たち──中国寧波・東銭湖墓群の事例から」『お茶の水女子大学比較日本学教育研究センター研究年報』第7号、2011年、45-56、pp.49-50。
  135. ^ 樊建瑩「民間風水信仰与伝統司法──基於「刁訟陳仲垣、陳傑二杖」案的考察」『許昌学院学報』第3期、2012年、113-116、p. 114。
  136. ^   (中国語) 『耳談』巻8「漢左将軍馬超墓」, ウィキソースより閲覧, "蜀新都縣少參楊公廷儀,為親侍郎公某卜墓地,掘土見崇碑題曰:「漢左將軍馬超之墓」,以為吉有驗,遂就之。忽夢超錦袍玉帶,言曰:「我漢將軍,勿奪我墓。」公不為動,復夢超戎裝彎弓,射中公左目。已,又夢射中公右目,相次目皆瞽而意逾堅。又夢超瞋目大怒,曰:「吾有以禍汝矣!」亡何,其家數幹人與數賈為偶匿賈金盡殺之。事覺,罪淩遲而蔓及公,罪棄市。" 
  137. ^   (中国語) 『耳談』巻8「漢左将軍馬超墓」, ウィキソースより閲覧, "地以超貴,非超貴於地也。始超家族二百餘口盡誅於操,獨子秋留,依張魯,又為魯所殺。《蜀志》不言超後,則其滅絕可知。而甘禍殺身,為子孫圖所烏有,可謂過計。" 
  138. ^ 『耳談類増』巻29「漢将軍墓」. Internet Archive. 2023年12月21日閲覧, "何恠馬孟起射人目盲哉?"






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