こう‐う〔カウ‐〕【項羽】
項羽
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項 羽(こう う、Xiàng Yǔ、紀元前232年 - 紀元前202年)は、秦末期の楚の武将。姓は項、名は籍、字が羽である[1]。以下、一般に知られている項羽の名で記す[2][3]。
- ^ 『史記』項羽本紀などによる。『史記索隠』では「字は子羽」とする。
- ^ 以下、特に注釈がない部分は、『史記』項羽本紀による。
- ^ 年号は『史記』秦楚之際月表第四による。西暦でも表しているが、この時の暦は10月を年の初めにしているため、注意を要する。また、秦代では正月を端月とする。
- ^ 佐竹靖彦は著書『項羽』でこの称号を疑問視する。本来は「楚王」あるいは「大楚王」と名乗ったところを、劉邦陣営が楚を「西楚」と領土を狭め、王を「覇王」と暴力的な意味をわざと付けて呼んだのが記録に残ったとする。
- ^ 『史記』項羽本紀、「学書不成」異説として、雨森芳洲は「ここでいう書とは歴史書のことで、項羽は『歴史書なんか歴史上の人名がわかればよいのだ』と開き直ったのだ」という。通説では本文の通りで、滝川亀太郎も雨森の説を退けている。(『史記会注考証』)
- ^ 項羽の兵法は『漢書』藝文志に「項王一巻」とあり、後世に伝わったが、現存はしていない。(『史記会注考証』)
- ^ 清の何焯は「(『史記』黥布列伝によると)黥布の陣立てが、項羽の兵法に依っていることを見た劉邦はそのことを憎んだ」という文章を注釈として引用している。(『史記会注考証』)
- ^ 『史記会注考証』の著者である滝川亀太郎は、「(私が)思うに、(項羽は)兵を統率し、陣を形勢するのを得意としていたがために、力戦することができ、敵を撃ち砕けた。しかし、権謀の策が足りず、後に(相手に)奔走させられて、疲れ果てたところを敵に乗じられて倒されてしまった。これが、ここでいう(項羽が)『兵法の概略を理解すると、それ以上は学ぼうとしなかった』という文の意味である」と論じている。(『史記会注考証』)
- ^ 司馬遷は舜も瞳が二つあったと伝えられることから、項羽は舜の子孫ではなかったかと疑っている。
- ^ この時の暦は10月を年の初めにしているため、注意を要する。以下、同じ。
- ^ 後9月は、顓頊暦における閏月。
- ^ 佐竹靖彦は、「懐王の身辺に、どのような老将がいたのであろうか」と疑問を投げている。佐竹靖彦『項羽』146頁
- ^ a b c d e f g h 『史記』高祖本紀
- ^ 中国国際放送局の『『史記・項羽本紀』②~頭角を現す項羽~』によれば、この時の楚の兵力を10万、秦の兵力を30万だったとする。
- ^ 『史記』「黥布列伝」によれば、「項氏に生き埋めにされて殺された人は、数千数万人にのぼる」とされる。
- ^ 佐竹靖彦は項羽が怒った理由を、「劉邦が関中に王権を持つ王として、項羽を対等の諸侯と見なして、軍隊の侵入を阻んだ」ためとする。佐竹靖彦『項羽』192頁
- ^ 史記によれば、この時の項羽の兵力は40万、劉邦の兵力を10万だったとする。
- ^ 『史記』始皇本紀
- ^ この論客の名は『漢書』陳勝項羽伝と『資治通鑑』では「韓生」(『漢書』では、韓生は釜茹でではなく、項羽の命で斬られたと記されている)、『史記集解』では「蔡生」と記されている
- ^ 永田英正は、『(前略)(彭城は、)いくら要害といったところで、これを「金城千里」といわれた関中の地と比較すれば、まったく問題にならず、一望千里の平野のどまんなかに位置するこの城は、東西南北、四面から敵の侵入にさらされていた。まして天下に号令せんとするには、彭城の地はあまりにも東方に偏りすぎていた。項羽が関中を引き上げて彭城に都したことは、明らかに戦略上の失敗であった。』としている。永田英正『項羽―秦帝国を打倒した剛力無双の英雄』146頁
- ^ 永田英正は、『義帝(懐王)との約束に違反して劉邦を関中王にしなかったことも含め、論功行賞が不公平だった(中略)。項羽がこの論功行賞でとった一つの原則は、文字どおり軍功の有無ということ(中略)。項羽のこの原則は、いちおう筋道は立っていた。しかし問題はその判定の基準と恩賞の較差である。(中略)それは、あまりにも主観的であり、あまりにも利己的な立場から行われたために、全体として不公平の譏を免れることはできなかった。』としている。永田英正『項羽―秦帝国を打倒した剛力無双の英雄』144頁
- ^ 永田英正は、『すでに秦も滅び、自分(項羽)が天下の第一人者となったいまでは、かれの存在がしだいに目の上のこぶとなっていた。そこで封地を与えるという名目で、かれを遠い僻地へ隔離しようとしたのである。』、『秦を滅ぼしていらい、項羽にとって、義帝は煙たい存在であった。その義帝に反抗のそぶりがみえたと聞いて、かれ(項羽)は殺す決心をしたのだ』としている。永田英正『項羽―秦帝国を打倒した剛力無双の英雄』142・145頁
- ^ a b 『史記』黥布列伝
- ^ 永田英正は、『理由は何であれ、秦政権打倒、楚国再興という大義名分のためにおしいただいた盟主義帝である。その義帝を暗殺したことは、まったく弁解の余地のない不義な行為であった。項羽は道義上の責任を問われ、かれを攻撃する絶好の口実をみずからつくってしまったのである。道義心の強い項羽としては、これはとりかえしのつかぬ大きな失敗であった。』としている。永田英正『項羽―秦帝国を打倒した剛力無双の英雄』145頁
- ^ 佐竹靖彦は、彭城の戦い後の形勢において、劉邦は関中と河内郡・河南郡に郡県制を行い、大きな国力を手にいれているのに対し、「項羽の側は、劉邦軍の彭城占領によって天下の主催者としての威望は傷つけられた」としている。佐竹靖彦『項羽』245頁
- ^ 『史記』陳丞相世家
- ^ このような事態が生じた原因として、佐竹靖彦は「項羽集団においては、目的合理性な官僚体制がまったく育っていなかった」ことを挙げている。佐竹靖彦『項羽』276頁
- ^ 佐竹靖彦は、「(楚は)国力としては(劉邦の漢に比べ)劣勢に立ちながらも、名将項羽に率いられ、高い戦意に支えられた楚軍は最初圧倒的に優勢であった」としている。佐竹靖彦『項羽』267頁
- ^ 佐竹靖彦は、「項羽楚軍の幕僚部と武将のあいだの関係も、うまくいっていなかった可能性がある。何よりも、項羽の懇切な命令が守られていないことに、楚軍の規律の崩壊が感じられる」としている。佐竹靖彦『項羽』302頁
- ^ 佐竹靖彦は、「この時期になると、楚国の軍事体制は、もっぱら項羽に率いられた中央軍の滎陽・成皋包囲を焦点として組み立てられており、予想外の事態にはきわめて脆弱な反応しか示しえない状態に落ち込んでいたのである」としている。佐竹靖彦『項羽』298頁
- ^ 楚漢戦争の後半は、『項羽本紀』と『高祖本紀』とにおいて、時系列が異なる。ここでは、項羽本紀に従う。藤田勝久は、「このあたりの経過は、『史記』の項羽本紀と高祖本紀に混乱があり、正確にたどるのは難しい」としている。藤田勝久『項羽と劉邦の時代』
- ^ a b 『史記』樊酈滕灌列伝
- ^ ただし、辛徳勇や佐竹靖彦らは垓下の戦いはなく、佐竹靖彦は『項羽』にて陳下における戦いで項羽は戦死したと主張している。佐竹靖彦『劉邦』487~492頁
- ^ 中国紙・北京新浪網の記事によれば、漢書項羽伝や項氏宗譜では夫人(妻)とするが、中国の学者・王立群は結婚していなかった、愛人に過ぎなかったとし、逆に寧業高は「正式に結婚していた」としているという。『專家駁於正:虞姬確有其人但不是正妻』(中国紙『北京新浪網』の記事)
- ^ 『史記』高祖本紀では、項羽が敗北して逃走したため、楚軍は大敗したものとする。
- ^ 佐竹靖彦は、「実際の戦闘は、大規模な正規軍を率いた灌嬰が東城を含む九江郡を掃討したときに、左右司馬各一人、卒万二千人(兵卒、12,000人)が降伏した。彼はさらに長江を渡って鄣郡、豫章郡、会稽郡を平定して、合計五十二県を得たということであろう。これらの戦役全体の斬首が八万であったということになる」としている。佐竹靖彦『項羽』311頁
- ^ 『史記』絳侯周勃世家
- ^ 『史記』高祖功臣侯者年表第六
- ^ 中国国際放送局の「『史記』「項羽本紀」⑤~英雄の末路~」に記述あり。「天が私を滅ぼすのだ」という項羽の負け惜しみについては歴代の学者がこぞって批判しており、漢の揚雄は「天ではなく(劉邦が組織した)集団の力に負けたのだ。項羽は最後までそれがわからなかったのだ」と批判している(『揚子法言』)。
- ^ 『史記』「淮陰侯列伝」
- ^ 『史記』「陳丞相世家」
- ^ 『史記』「黥布列伝」
- ^ 『史記』「高祖本紀」
- ^ 王鳴盛『十七史商榷』劉項俱觀始皇
- ^ 『新釈漢文大系』「史記二(本紀)」503頁
- ^ a b 『新釈漢文大系』「史記二(本紀)」503頁
- ^ 佐竹靖彦は『項羽』で項羽が天下を制したとするが、班固の『漢書』や渡邉義浩の『ビジュアル三国志3000人』(頁79)はこれを否定している。
- ^ 永田英正『項羽―秦帝国を打倒した剛力無双の英雄』240~241頁
- ^ 佐竹靖彦、『項羽』9頁
- ^ 佐竹靖彦、『項羽』348頁
- ^ 佐竹靖彦、『項羽』42~43頁
- ^ 佐竹靖彦、『項羽』330~331頁
- ^ 『作品について|項羽と劉邦』 このサイトの中で、項羽は呂布と同じく最強を誇るとされる。
項羽(こうう)
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「風魔の小次郎 柳生暗殺帖」の記事における「項羽(こうう)」の解説
風魔の羽使い。小龍の双子の兄。夜叉八将軍戦で命を落とした。霧風の次に小次郎と対峙。小龍との連携攻撃に加え、能力を限界を超えたレベルまで引き出す秘儀・『風魔羅将紋』を発動し、双炎陣によって小次郎を窮地に追い詰める。しかし、その双炎陣を破った後に、羅将紋らしき力を発動した小次郎の一撃によって敗れる。軽い自らの羽のひとひらが、敵の命を奪うその重みを誰よりも感じていた。
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項羽(こうう)
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「まじかる無双天使 突き刺せ!! 呂布子ちゃん」の記事における「項羽(こうう)」の解説
かつて、三国天使界を圧倒的な武力をもって統一しようとした伝説の無双天使。「西楚の覇王」とも呼ばれる。
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項羽
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「リィンカーネーションの花弁」の記事における「項羽」の解説
偉人の杜初期メンバーの1人。偉人格の廻り者も罪人格の廻り者も同胞であると考え、生きがいを持って共に生きていけることを夢見ていた。しかしダヴィンチらと意見が割れ脱退してしまう。その時に感情的になったアインに攻撃され重症を負うも、罪人格の廻り者達によって一命をとりとめた。望まずとも罪人の才能を得てしまった廻り者たちの居場所を作ろうとしていたため、多くの廻り者からの信頼は厚く感謝されている。ダルモンの才能により延命していたが、左胸の傷は心臓を抉るほどのもので活動限界を悟っており、死ぬ前に自身の才能を譲ろうかと東耶に提案したが断られる。最期はダルモンの才能により重瞳の城にて死亡。
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「項羽と劉邦 (小説)」の記事における「項羽」の解説
本作の主人公。楚の名族・項氏の出身。楚随一の名将・項燕将軍の孫だが、幼少期に楚が秦に滅ぼされ、叔父の項梁とともに流浪の身となった。始皇帝の死後、叔父に従い楚を再興して天下の動乱に身を投じ、項梁の死後は楚軍の頭目となって、全反乱軍を率いて秦を倒した。秦滅亡後は「西楚覇王」を名乗って天下の盟主となるものの、やがて反旗を翻した劉邦の漢軍との間で果てしない戦いを繰り広げることとなる。
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「項羽と劉邦 (横山光輝の漫画)」の記事における「項羽」の解説
本作の一方の主人公。叔父の項梁に従い旗揚げする。項梁の死後は章邯と激戦を繰り広げて打ち破り、これを降す。咸陽制圧の劉邦との競争では、おくれをとるまいと「恐れを抱かせ逃亡させるため」に敵を皆殺しにしながら兵を進め、そのために激しい抵抗を受け、かえって進軍が遅れたことから一番乗りを逃してしまう。しかし劉邦の家臣になるつもりはさらさらなく、自ら西楚の覇王と名乗り、劉邦を屈服させて漢王に任じ、僻地に追いやる。自らの武勇に絶対的な自信を持ち、垓下の戦いでは英布・王陵・曹参・周勃といった猛将たちを含む8人の大将を相手に互角以上の戦いを見せ、次々と蹴散らすなど、桁違いの豪勇を誇る。その強さには韓信や李左車も頭を悩ませ、垓下の戦いでは包囲網を突破される危惧を抱かせる。しかし知略においては土地や兵糧の重要性を軽視し、劉邦や韓信を「小役人上がり」「臆病者」と過小評価する。性格においても、身内には寛大に接するが、激昂すると配下の言葉にも耳を貸さなくなる、満座の中で配下を一方的に罵倒するなど自己中心で傲慢な面がある。また秦の降兵20万の虐殺、始皇帝の墓を暴くなど(それらの暴挙を実行したのはほとんど英布である)、気性の激しさゆえの残虐な振る舞いも目立ち、それらが災いして范増や陳平と言った腹心たちを失ってしまう。最期は「天が自分を見放した」と判断し、会稽への逃走中に追いついた呂馬通(中国語版)(雍王章邯の旧武将)に対して、「同郷のよしみに手柄を立てさせてやる」と言って自害して果てる。
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