項燕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/24 14:10 UTC 版)
項燕 | |
---|---|
楚 大将軍 | |
出生 | 不詳 |
死去 | 負芻5年(前223年) |
主君 | 負芻→(昌平君) |
子 | 項梁、項伯 |
生涯
『史記』項羽本紀の記載によると、項氏は代々楚の武将として働き、項という邑に封ぜられた。これが項姓の祖先である[1]。
負芻3年(紀元前225年)、秦の李信が20万の大軍を率いて楚に進攻したが、項燕はこれを破り、秦軍はほとんど全軍が覆没した[2]。
負芻4年(紀元前224年)、秦の王翦が今度は60万の大軍を率いて楚に進攻、王翦は堅守・不出の戦術を悟って採用し、項燕の防備に隙ができるように仕向けた後、項燕の軍を奇襲して楚軍を大破、楚王負芻は俘虜となったが、項燕は淮水以南で負芻の異母兄弟である楚の公子昌平君(秦で呂不韋の補佐をしていた)を楚王として擁立して反抗した[3]。
負芻5年(紀元前223年)、王翦は楚軍を追撃し、昌平君と項燕ともども戦死し、ついに楚は滅亡した(『史記』秦始皇本紀による[4]。『史記』楚世家では項燕の死後に負芻が捕虜となっている[5])。
関連項目
- 1 項燕とは
- 2 項燕の概要