阿蘭陀宿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/06 02:56 UTC 版)
京都
京都の阿蘭陀宿・海老屋は「川原町通三条下(くだ)ル町」にある建物[5]で、八畳間さえ持たない小部屋ばかりの宿だった。
京都所司代や東・西京都町奉行への書類の提出、大坂の阿蘭陀宿長崎屋や蹴上宿の弓屋[6]への挨拶など、カピタン一行を迎える際には様々な仕事を務めた。
海老屋村上氏は
- 初代 村上文蔵(宝暦9年(1759年) - 明和7年(1770年)) - 宝暦7年正月に輸入薬の販売業を開始。同9年、広野与右衛門の病没後に海老屋の業務を引き継ぎ、京都の阿蘭陀宿を務める[7]。
- 2代目 村上文蔵(明和7年 - 寛政5年(1793年)) - 前名・弁蔵。
- 3代目 村上専八(寛政5年 - 文政9年(1826年))
- 4代目 村上等一(文政9年 - ?)
- 5代目 村上乙次郎(幕末 - 明治初頭) - 前名・壮二郎。
以上の5代にわたって京都の阿蘭陀宿を務めた。村上氏の前は、海老屋与右衛門こと広野与右衛門が阿蘭陀宿を営業していたが、広野氏がいつ頃から宿を務めていたかは不明である。
献上品・進物の他、江戸参府一行の荷物は高瀬舟によって運び込まれ、それを近くにある自宅の土蔵に収納した。収納しきれない荷物は、付近にある何軒かの商家の蔵を借用して保管をした。
海老屋村上氏は阿蘭陀宿の他に「龍脳取次所」という売薬業を営んでいた[8]。龍脳はオランダから輸入される薬品の1つで、他に「おらんだ伝方風薬」「おらんだテリヤーカ」「荷蘭伝方ピルガジイ」「おらんだホルト油薬」「ボウトル」「カンウンテン」「指薬」「干牛丸」などの薬も扱っており[9]、これらは全てオランダから輸入された薬品がその成分に含まれているものである。宝暦7年から始められた売薬業は、明治9年(1876年)1月に廃業している。
カピタンや通詞は、京都ではなはだ不取締りで慎みの「薄キ姿」となっており迷惑を蒙っていると、海老屋4代目当主の村上等一は綴っている[10]。これは、江戸の長崎屋では役人たちの監視が厳重で、大坂では銅座役人がいることから、カピタンも随行の通詞も行いを慎むものだが、京都の阿蘭陀宿にはそのような監視の目は無いこと、海老屋は長崎会所やオランダ商館から資金面で様々な支給を受けていたことなどが彼らの行いに目をつぶらなければならなかった理由と考えられている[11]。
天明8年(1788年)正月30日に発生した天明の大火は京都の町を焼き尽くし、海老屋もまた全焼した。宿の再建も果たせない内から、カピタンの宿泊所の確保のため、寺院や旅籠を借り受けるために主人が奔走している。なお、焼失した海老屋の再建がなったのは、文化2年(1805年)から翌3年(1806年)頃とされる。しかし、もともと海老屋の家作は小さく、大火で家屋が焼失した時期以外でも、一行のほとんどは近隣にある旅宿や茶屋などに泊めることになり、三条大橋界隈に宿泊先を用意することが多かった。
- ^ 主に、火事で焼失した家屋の再建費用のため。
- ^ 3月27日の記述。長崎屋には献上物・進物を納めるための土蔵があったことも記されている。
- ^ 長崎奉行は2人体制で、1人が長崎に駐在している間、もう1人は江戸に残って執務をした。
- ^ 『蘭人参府中公用留』(長崎奉行組与力の小笠原貢蔵の記)記載の天保9年(1838年)の実例より。
- ^ 『京都御役所向大概覚書』の記載より。
- ^ 江戸へ向かう際の、京都の次の宿。
- ^ 『阿蘭陀宿相続方手続之ひかえ』。
- ^ 長崎奉行所の『申渡留目録』より。
- ^ 「京都おらんだ宿の売薬」(『医薬ジャーナル』一九巻六号)より。
- ^ 文化11年(1814年)の参府カピタンヘンドリック・ドゥーフは夜間に宿を抜け出して茶屋を訪れて遊女を招き、文政元年にはヤン・コック・ブロンホフが出入商人の手引きで遊女を招きよせている。
- ^ 『江戸のオランダ人 カピタンの江戸参府』267頁
- ^ 伊藤家の屋敷は下関市の阿弥陀寺町にあり、「本陣伊藤邸趾」の石碑が残されている。
- ^ a b c d e f シーボルト著『江戸参府紀行』より。
- ^ 下関市南部町(なべちょう)。
- ^ a b c d フィッセルの記述より
- ^ ドゥーフの3回の江戸参府すべてに随行した医官。
- ^ 『小倉市誌』。
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