阪東妻三郎 エピソード

阪東妻三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 06:32 UTC 版)

エピソード

阪妻はサイレント映画時代から培った、動きと表情を駆使する技術で演技全体に抜群の説得力を与えた。特に彼が殺陣の見せ場で行う、両脚を大きく広げて踏ん張った体勢で手に持った刀をゆっくりと眼前に下ろし、首を左右にゆらゆらと動かす仕草は「バンツマ」の代名詞として広く知られている。これについて俳優の高橋英樹は「子供の頃、チャンバラごっこが好きな男の子はみんな阪東さんの真似をしていましたよ。僕くらいの年齢なら阪妻のあれ(首をゆらゆらさせる仕草)を全く知らないという人の方が少ないんじゃないですか」と述べており、彼の演技が幅広い年齢層に浸透していたことが伺える。

トーキー映画に初めて出演した際、自身の甲高く細い声がファンの失望を呼んだことが人気低落の理由のひとつと考え、独自にボイストレーニングを行う。やがて努力の甲斐あり阪妻は迫力のある発声を体得したが、無理な訓練がたたり喉が潰れ、以後しゃがれ声になった。しかし阪妻は声が変わってしまったことを全く後悔せず、「こういう声の方が凄みが出る。前よりずっといい」と語っていたという。そして再生一作目となる『恋山彦』前後篇では、「剣戟王・阪妻」の復活を告げる素晴らしい立ち回りとともに、喉の奥から搾り出すような独特の台詞回しで好評を博した。

現役時代は大変多忙で、休日等は自宅の二階で寝ている事が多く、家事にはあまり口を出さなかったという。ただし、来客時には客に対して正装して懇切に応接していたようである。例外として、息子である田村高廣が、旧制京都府立第三中学に合格した事を告げに担任の小学教師が訪問した際、二階から浴衣姿のままでドタドタと階段を降り、玄関先にいる教師の足下で「せ、先生!あ、ありがとうございました!」と土下座してお礼を言ったそうである[15]

阪妻の人気が上がると、各社が阪妻そっくりのスタアをつくろうと大童となった。谷崎十郎阿部九洲男がこうして生まれたが、なかには音感を似せた「千葉三郎」だとか、「吾妻三郎」というものもあった。誰も「あづま」とは読まず、「われ妻三郎」と読んでいた。場末の三本立ての館などでは、阪妻に顔も似ていて「妻三郎」でもあるのでだまされて入った客も相当いたという。

日活撮影所では千恵蔵、阪妻、寛寿郎の大スタアの顔合わせを、徳川御三家にきかせて「御三家」と呼んでいた。阪妻の内弟子は「阪東妻楊枝」と呼ばれていた。大映で四大スタアが揃うと、弟子たちは師匠自慢をしたが、「阪妻さんが歌舞伎の出や言うけど、屋号は何というのや」、「坂東なら音羽屋、大和屋、橘屋と三つあるが土偏の『坂』や、こざと偏の阪東が歌舞伎にあるかい」と言われ、弟子たちは悔しがったという。

阪妻プロを解散し、裸一貫で日活に入ったとき、日活の所員は阪妻をどう呼んでいいか迷った。マキノ正博は「妻さん」と呼び、稲垣らは「田村さん」と呼んだ。助監督や進行係は「阪東さん、阪東さん」と呼んでいたので、阪妻は「いやになっちゃうな、番頭さんみたいで」とこぼしていた。のちに「先生」と呼ばれるようになったが、それも気に入らぬようだった。「先生」が教師や医者の代名詞であるのと、川柳に「先生といわれるほどの馬鹿でなし」というのがあったからで、阪妻プロ創立時は23歳の若さだったことからよけいに不似合いなこの呼びかたを嫌がった。

あるとき祇園の女将が「そんなにおいやどしたら先生のセを抜いてよばはったらどうどすねん。ンセイなら運勢がよろしおすえ」と言ったのが気に入り、以後「ンセイ」と呼ばれるようになった。阪妻はお天気屋で知られ、ときどき冠を曲げて人を困らせた。1927年(昭和2年)の『大義』で、妙に重たい雰囲気で撮影が難渋し、これを一掃しようとした安田憲邦監督が「ハイ御大のアップ頂戴っ!」とやってのけたことがあって、これで一同ドッと笑って和やかな雰囲気となった。それ以来この「アップ頂戴」が流行っていろいろな監督が使ったが、東京のジャーナリストに誤解されて伝わり、「阪妻は横暴だ」ということになってしまった[16]

阪妻と女性たち

阪妻プロを立ち上げ、人気絶頂だったころの阪妻は、その遊びぶりも豪快なものだった。アラカンは「時代劇の王者は何とゆうても阪東妻三郎、女遊びもこの人にはとても及びまへん、散財のケタがちがう」と語っている。阪妻プロの映画は、松竹の買い取り価格が一尺あたり二円四十銭だった。「捕り方パッと走っても二、三百円稼ぐんだ、その銭をつかんで撒く、勝負になりまへん、祇園の芸者総揚げにした。伝説やおまへん、この目で見ました」、「花見小路から八坂さんまでずら〜っと、芸者末社ひきつれて大名行列を繰り広げた」

1928年(昭和3年)、昭和天皇の御大典に合わせて、東京から京都へ「偉い人たち」が大挙押し寄せ、祇園や先斗町で権柄づくの野暮天風を吹かせた。「お上が大嫌い」という阪妻はこれが気に喰わず、今東光と示し合わせて祇園街を買い占めてみせた。アラカンは「王城の都の歴史にないことを妻さんやってのけた」、「妻さん身持ち固かったとワテは思います、女道楽よりも男の意地でゼニ撒いたんやないか。尺二円四十銭、今の金に直してシャシン一本何千万円、いや億になりまっしゃろ、ためたらバチが当たりますわ」と、このときの様子を語っている[17]

環歌子は阪妻とはマキノ時代からの同僚で、大正12年、マキノ省三から「お前さんのシャシンは評判がいいから、今度の相手役はお前さんの気に入ったものを選びなさい」と言われ、ちょうど阪妻とのコンビが評判になって来た時だったので阪妻を選んだ。これが『火の車お萬』で、当時阪妻は撮影所近くに中村吉松と下宿していたが、急に人気が上がり、特に年増の女性にもて、肉屋の女中や料理屋の仲居をファンに連れて撮影所を出入りする姿をちょいちょい見かけたという。

環には、着流しで数人女連れの阪妻の姿は浮ついてだらしなく見えたので、「もし今度のシャシンで共演する気があるなら、撮影に入ったら仕事中はきちんとした服装で出所する、プライベートの時間は何をしても自由だが一本の仕事にかかったら終わるまで、女はファンだろうと誰だろうと近づけないようにしてほしい」と注文をつけた。阪妻は黙ってじっと聞いていたが、このときは「ちょっと考えさせてほしい」と云って帰り、翌日になって「環さんの言うことはよくわかりましたから、よろしくお願いします」と返事をしてきた。『火の車お萬』は大正13年正月のヒット作となった。作中での阪妻の脚の線の美しさが話題となった映画でもある[18]

阪妻と稲垣浩

稲垣浩は「妻さんは僕がこれまでに出会った人のなかで最高に懐かしく、最高に好きな人のひとりである」と述べている。あるとき阪妻は「僕らは親友などというケチなつきあいでなくいこう」と不思議なことを言い出したという。若くして時代劇の大スタアとなった阪妻だったが、十一年間のプロダクション経営で得たものは名声でもなく財産でもなく、借金と人に裏切られた悔しさと、凋落する孤独の寂しさだった。景気の良かったとき整理に困ったほど集まった親友たちは、いつしか身辺から去って行ったという。裸一貫で日活に入社し、十年ぶりに戻った太秦にはかつて自分が開いた撮影所が新興映画として華やかに活動していて、阪妻は華やかだった昔を取り戻そうということより、トーキーに移り変わろうとしている時代に生き残ろうと必死だったのである。

阪妻が日活に入社したころ、稲垣は東宝入りが決まっていたが、日活が急に引き留めを開始して、違約金まで支払われ京都に引き戻された。あとで、この工作をしたのが阪妻だと知ったという。

日活で稲垣は独自の阪妻を作り出そうと企画を出したが、どの企画も「阪妻のイメージを変えては困る」と否決された。ところが一年過ぎたある日、殺陣師の河原利一が「筒井とは縁を切ることになったから、こののちはいままでの妻三郎にこだわらず、何か新しいものを考えて欲しい」との伝言を託されて来た。「筒井」というのは仲間内で「淀君」とか「宋美齢」などと陰口していた、阪妻のマネージャー兼愛人で、この女性がいつまでも阪妻のイメージにこだわっていたのだった。相当の決心を持ってこれを絶縁した阪妻のために、稲垣は『十人斬りの男』という阪妻用の脚本を改題して『地獄の蟲』とした。

この映画が気に入った阪妻は「ツケ鬚では演技もウソ鬚になる」と、本物の鬚を生やすことにした。すると脇役の市川小文治市川百々之助志村喬団徳麿らも右に習って鬚を生やす熱の入れ方で、このとき初めて稲垣は阪東妻三郎という人の映画に懸ける意気込みと情熱を感じたという。

『地獄の蟲』は無事完成したが、ラストの自決の場面で晒の腹巻きに血がにじむという苦心の場面があり、内務省の検閲官はこれを「検閲保留」と処分した(戦前までは映画での流血はタブーだった)。会社は改訂してでも封切りたがったが、阪妻や脇役、スタッフに対し原型を変えたくないと稲垣はこれに応じなかった。このとき阪妻は「クサルことはないですよ。僕らはともかくりっぱな作品を作って、それをこの目で見たのだ。それを大衆に見せなかったのは僕らのせいじゃない」と慰めてくれ、稲垣を大変に勇気づけた。稲垣は「その後阪妻と数々の作品を生むことができたのも、親友などというケチなつきあいでなくつきあえたのも、すべてこの『地獄の蟲』が始まりだった」と語っている[19]

阪妻と「森尾重四郎」

昭和初期、「サイレント映画では、虚無的な浪人者をやらせては妻三郎の右に出るものなし」と謳われた。阪妻が最初に演じた「ニヒルな浪人者」は、『砂繪呪縛』の「森尾重四郎」だった。

1927年(昭和2年)の6月から12月まで、朝日新聞夕刊は土師清二の『砂繪呪縛』を連載。連載30回目のころに、松竹は阪妻プロでこの小説の映画化を決定。企画段階では主演は草間実で、阪妻は「森尾重四郎」役に執心していたが、四社競合製作となったため、阪妻の「勝浦孫之丞」と「森尾重四郎」二役を念頭に準備が進められ、撮入直前に阪妻の意思で「森尾重四郎」一本で行くことに決定。結果は阪妻演じる重四郎の存在感が他社を圧倒。「ニヒルな浪人剣士」の一大ブームを巻き起こした。

『砂繪呪縛』は、トーキー時代を迎えた1936年(昭和11年)、阪妻プロ谷津で阪妻主演で再映画化。さらに1952年(昭和27年)大映で黒川弥太郎主演、1960年(昭和35年)には東映で近衛十四郎主演と三度映画化されたが、「勝浦孫之丞」が主役だったのは1927年の初作のみ、再映画化三作はすべて「森尾重四郎」が主役になっているほど、阪妻の演じた重四郎は強烈なものだった。

当時、阪妻の重四郎は撮影所の所員の間でもブームとなり、真似をする者が続出。次のようなエピソードが残されている。「おい煙草はないか」と云うと静かに首を振っておもむろに「ない」、「どうだ食堂に行こうか」と云うとちょっとあいてを眼の先に引っかけて大きく頷きながら「行くことにしよう」、「おい、この間の食券返してくれよ」暫く目をぱちぱちさせながら無言でいて、「あれは返さんでもいい事にする・・・」、「手数のかかることおびただしい[20]。」

阪妻と『無法松の一生』

「無法松の一生」(1943)右は沢村アキヲ(後の長門裕之)

稲垣浩に「酒は行儀よく飲んで楽しむものだ」と教えたのは阪妻だった。阪妻はお猪口で飲んで、決してコップ酒のがぶ飲みはしなかった。自宅でも高脚の膳を据え、夫人や弟子に酌をさせた。あるとき弟子のひとりに杯を出したので、弟子はいただけるものと手を出すと、「お酌だよ、お前なんか台所でグッといけ」と言った。このように弟子に杯をやるなどということはめったにしない阪妻が、あるとき突然台所で茶碗酒だのコップ酒をやり始め、夫人も弟子も驚いた。普段は膝も崩さない阪妻が大胡坐をかいて酒を飲むありさまに、撮影所で不愉快なことでもあったのかと心配したというが、それは『無法松の一生』撮入前の役作りだったことがあとでわかった。『無法松』の現場では、よく吉岡夫人になりきった園井恵子がお茶を静かにたて、「先生、お茶が入りました」とすすめていた。阪妻も無法松を忘れず、へりくだってお茶をいただいていた[21]

阪妻が『無法松の一生』に主演してから、舞台となった九州小倉には松五郎の墓や碑が出来たうえ、映画で阪妻が見せた小倉祇園太鼓の早打ちは、フィクションが現実になってその後、祇園太鼓の基本の打ち方になってしまった。

1944年(昭和19年)、日華合作映画『狼火は上海に揚る』で阪妻は稲垣と二人で上海に渡ったが、あるとき場末の小店へワンタンを食べに入ると、店の主人や使用人が彼らを見てコソコソ囁いている。阪妻が「どうやら僕を知ってるらしいね」と言うので「日本人だからだろう」と稲垣が答えると「違う。ワンポーツォー(黄包車)とかパントンとか言ってるよ」と言う。現地の撮影所では「阪東妻三郎」は「パントン・シーサンラン」と呼ばれていたので、阪妻にはすぐわかったのである。「黄包車」は「人力車」のことで、彼らは『無法松の一生』を観たようだった。阪妻はニコニコ顔で立ち上がり、「うん、我姓(ウォーシン)、阪東妻三郎(パントン・シーサンラン)、你的(ニーデ)、黄包車(ワンポーツォー)の電影(デンエイ)、観観(カンカン)か、うん、そうかそうか」とあやしげな中国語で返すと主人は大喜びで恐縮しながら立派な紙と筆を捧げてサインを求めた。その戻りに阪妻は稲垣に「日本映画も、やっと国際的になったね」と言った[22]

阪妻映画祭

1975年が阪妻の二十三回忌にあたることから、当時の邦画五社が協力して「阪妻映画祭」と銘打ち、阪妻の代表作が1975年6月7日の日劇文化劇場を皮切りに、1976年にかけて全国各地で巡回上映された[23][24][25]。当時の邦画各社は仲がいいとは言えず[25]、ことに商売が絡むと二社ですらまとまったことがないと言われたため、当時としては画期的なイベントだった[25]。映画祭の発案者は、業界の"裏ドン"こと[26]全興連副会長で大旺映画社長・山田敏郎[25]。山田は松竹OBで「幌馬車の唄」や「人妻椿」の主題歌作詞者でもあった(山田としを名義)[25]。当時の邦画不況もあり、ローカルの小劇場は経営に苦しみ、強力な番組でも二週間持てばいい方。邦画の再上映でお茶を濁すことになるが、成績が下向するのは当然で、興行者の立場から眠っている映画の再発掘として、阪妻は現代(当時)に通じるものがあり、今出しても十分鑑賞に耐えれると考え「阪妻映画祭」を発案した[25]。ネックになったのが、阪妻は松竹、日活大映の出演作は多いが、当時の五社で影響力を増していた岡田茂東映社長と松岡功東宝副社長の二社には、阪妻の出演作が無いことだった[25]。山田は自身の業界での地位を上げるチャンスとばかり、松竹社長で映連会長・城戸四郎に了解を取り付けた上で、すぐに岡田茂を説得に行った。山田は岡田を「いい話があれば即座に飛びついて自分のモノにしてしまう男」と城戸の後継者は岡田と見込んで[25]、自分の懐に巻き込もうと画策していたため、岡田に「上映委員会副会長をやってくれ」と頼んだが「オレんとこ阪妻の写真ないからダメだ」と断られた。すかさず山田は「冗談じゃない、一本ある。『天狗の安』というのがある」 岡田「.....」。山田「第一、東映は時代劇で儲けて大きくなったんだから、せめて阪妻の追悼の意味で副会長やってくれてもいいじゃないですか」と無理やり副会長を引き受けてもらった[25]。次に松岡功に頼みに行ったら同じく「ウチも阪妻の写真がないから降ります」と言われたが「いや『佐平次捕物帳 紫頭巾』があります」 松岡「.....」と、これで五社をまとめることが出来た[25]。「阪妻映画祭」は予想以上の反響を呼び、半年間で1億1800万円の興行収入を上げ[25]、旧作リバイバルの新しい道を拓いた[24]。この成功により1975年11月に「日本映画名作祭」第一回の開催が決まり[24]、「阪妻映画祭」同様に邦画五社が各社の過去の名作を全国各地で上映し大成功した[25][27]。「阪妻映画祭」が好評で、有楽シネマを加えたことから「日本映画名作祭」は最初から三館上映を行った[24]。これらの成功を受け、番線外劇場の「名作選」上映が盛んになった[24]

剣戟スタア・阪東妻三郎

マキノ雅弘は「最後の時まで育てた役者の中で、一等大殺陣のうまかったのは?」と訊かれ、「専門としてみて」と前置きして、市川右太衛門月形竜之介の前に「妻さん、だろうね」と阪妻の名を挙げている。阪妻は月形とともに、「竹光では感じが出ない」と真剣を使っての立ち回りもよく行った。稲垣浩は「妻さんが二段引き、というのをやってね。サーッ、ターッ!と相手を斬ってから、キュッとも一つ刃を引く。『あれがいけない』っていうんで、検閲でカットになったことがある」と語っている。「『骨まで斬った』という感じが出るからいかん」、という理由だったという。

マキノと稲垣のコンビによる『血煙高田の馬場』(1937年)で、堀部安兵衛役の阪妻に、マキノ雅弘が「火傷するように熱い、火に焦げた鉄板の上の立ち回りをやってくれ!」と注文をつけた。「難しいことを言うな、と妻さん、殺陣師を横に置いて、やりましたよ。足をバタバタ、バタバタやって、実にうまかったんだ、これが。“アチッ、アチッ!”という感じでねえ。決闘シーンをイチン日で撮っちゃったんですよ。済んだらデーンとひっくり返っちゃって、二度と『高田の馬場』はやらん! と声明した。ほんとに、それから撮らなかったですよ」

阪妻の立ち回りは「悲壮豪壮天下一品」と呼ばれ、破天荒なものだった。『邪痕魔道 前・中・後篇』(1927年、古海卓二監督)の後篇は、「ここ花の吉原仲之町、歓楽の巷にまたもや血の雨が降る・・・」などと弁士の解説とともに、ただひたすらチャンバラのみが写されるという無茶なものだった。伊藤大輔監督とのコンビで撮った『新納鶴千代』(1935年)では、阪妻は荒川大橋の上で、すべての敵を後ろにして前を歩き、後からかかってくる敵を全部振り返らずに斬るという斬新な殺陣を見せている。

トーキー時代に入って伊藤とマキノ雅弘のコンビで撮った『国定忠治』では、子負いのバンツマが泣く子を『木曾の仲乗りさん』を歌ってあやしながら、追手と立ち回りを演じるという難しい殺陣を見せている。マキノによると、阪妻は歌が得意だったわけではなく、時代劇スタアの中で本当に歌が歌えるのは嵐寛寿郎くらいだったという。阪妻はむしろ悪声で、訛りがあるのをかえって居直って「阪妻節」に変えてしまったのである[28]

林屋辰三郎加藤秀俊梅棹忠夫多田道太郎がチャンバラについて討論し纏めた一文に、つぎのようなものがある。

「阪妻が一代の剣豪スタアとして絶大な人気を博したのは、眇目に構えた独特のポーズにあった。それは青眼でない眇目の阪妻が見事に表現したからであろう。このように人生論的意味を身を持って表すことのできる俳優にして、はじめてスタアの座を確保できるのだ[29]

替え玉が必要な場面でも、大河内傳次郎と並んで阪妻は遠景の姿形の美しさにこだわり、どんなに遠くて顔が見えないショットでも「自分の形の見せ所だ」と言って替え玉にはさせなかった。『無法松』では、雪の中倒れる場面の撮影で中耳炎を発症。結局久世竜が替え玉を演じ、気づく者はいなかったが、阪妻は「いい仕事ができてよかったですね。だが、あの雪の場面が僕だったら、もっと、もっとよかったでしょう」とただ一人稲垣に不満を漏らしたという[30]

1942年(昭和17年)の大映創立記念作『維新の曲』は、阪妻、千恵蔵右太衛門アラカンという「四大スタア」の顔合わせで、配役と序列で会社は頭を悩ました。そのなか阪妻が行く先も知らさず姿を消し、「役か脚本、序列が気に入らないのだろう」と噂された。稲垣も会社への不満だろうと思い、阪妻の弟子に尋ねたところ、「誰にも言わないでください」と教えてくれた。実は阪妻は坂本龍馬の役作りのため、土佐の風土、方言、龍馬の足跡などを得るために土佐へ出かけていたのだった。出来上がった龍馬はそれまでの阪妻に見たことのない、誰もやったことのない一風変わった龍馬となっていて、人々を驚かせた。

役によっては、セットでもロケでも一人離れた場所に、着くずれのしないように自分で考案した高い椅子にちょいと尻を載せて、何時間でも出のくるのを静かに待っていた。ある作品で稲垣浩監督が敵役を背中から袈裟懸けに斬る殺陣を注文したところ、「この役は背中向きを斬るような役ではないと思いますが」と遠慮深く抗議した。これで役の性格が違ってくるわけだが、若かったせいもあり稲垣は無理を押し通して撮影に入った。ところが敵役は背中に刀が当たるものと思っていたが当たらない。相手役が「かまいませんから強く刀を当ててください」と頼んだところ、阪妻は憤然として「私は今まで随分立ち回りはしてきたが、人のからだに当てないのを身上としてきたので、それだけはいやだ」と断った。稲垣はその立派さに感心したと語っている[31]

1989年(平成元年)に文春文庫ビジュアル版として『大アンケートによる日本映画ベスト150』という一書が刊行されたが、文中372人が選んだ「個人編男優ベストテン」の一位は阪妻だった。死後35年余りを経て、なおこの結果だった。2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の7位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第8位になった。

息子の田村俊磨は、居間でセリフを練習するなど家でも阪妻そのものであったとし[32]田村正和は、ハートで演じるタイプの役者であったと思うと話した[33]


  1. ^ 『あゝ活動大写真 グラフ日本映画史 戦前篇』(朝日新聞社)
  2. ^ ここまで注釈以外、すべて『剣戟王阪東妻三郎』(丸山敞平、ワイズ出版)から
  3. ^ 『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  4. ^ 『剣戟王阪東妻三郎』「環歌子聞き書き〜マキノ時代の阪妻〜」(丸山敞平、ワイズ出版)
  5. ^ ここまで注釈以外すべて『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)より
  6. ^ 『剣戟王阪東妻三郎』「環歌子聞き書き〜マキノ時代の阪妻〜」(丸山敞平、ワイズ出版)
  7. ^ 『あゝ活動大写真 グラフ日本映画史 戦前篇』(朝日新聞社刊)
  8. ^ ここまで『剣戟王阪東妻三郎』(丸山敞平、ワイズ出版)より
  9. ^ 『あゝ活動大写真 グラフ日本映画史 戦前篇』(朝日新聞社刊)
  10. ^ 『聞書アラカン一代 - 鞍馬天狗のおじさんは』(竹中労、白川書院)
  11. ^ 『聞書アラカン一代 - 鞍馬天狗のおじさんは』(竹中労、白川書院)
  12. ^ 『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  13. ^ 『無声映画俳優名鑑』、無声映画鑑賞会編、マツダ映画社監修、アーバン・コネクションズ、2005年、p.38
  14. ^ 『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)
  15. ^ 『剣戟王阪妻の素顔 - 家ではこんなお父さんでした』 田村高廣ワイズ出版、2001年
  16. ^ ここまで、『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)より
  17. ^ 『聞書アラカン一代 - 鞍馬天狗のおじさんは』(竹中労、白川書院)
  18. ^ 『剣戟王阪東妻三郎』「環歌子聞き書き〜マキノ時代の阪妻〜」(丸山敞平、ワイズ出版)
  19. ^ 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  20. ^ ここまで『剣戟王阪東妻三郎』(丸山敞平、ワイズ出版)より
  21. ^ 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  22. ^ 『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  23. ^ 「映画界重要日誌」『映画年鑑 1976年版(映画産業団体連合会協賛)』1975年12月1日発行、時事映画通信社、 15頁。
  24. ^ a b c d e 「映画業界動向」『映画年鑑 1977年版(映画産業団体連合会協賛)』1976年12月1日発行、時事映画通信社、 55頁。
  25. ^ a b c d e f g h i j k l 「トップインタビュー 全興連副会長 映団連理事 大旺映画社長 山田敏郎 『異色のカツドウ屋43年間の浪人人生』 ききて 財界』編集長 針木康雄」『月刊ビデオ&ミュージック』1976年2月号、東京映音、 20頁。
  26. ^ 「映画・トピック・ジャーナル」『キネマ旬報』1986年1月下旬号、キネマ旬報、 170-171頁。
  27. ^ 「映画界重要日誌」『映画年鑑 1977年版(映画産業団体連合会協賛)』1976年12月1日発行、時事映画通信社、 8頁。
  28. ^ ここまで『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)より
  29. ^ 『日本人の知恵』(中央公論社)
  30. ^ 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  31. ^ ここまで、『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)より
  32. ^ 週刊現代 2021年6月12日号 p.54-55
  33. ^ テレビガイド 1977年5月6日号 18-19ページ ぴいぷる 田村正和インタビュー 阪妻さんは大尊敬しています


「阪東妻三郎」の続きの解説一覧




阪東妻三郎と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

阪東妻三郎のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



阪東妻三郎のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの阪東妻三郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2022 GRAS Group, Inc.RSS