関ヶ原の戦い 9月15日の布陣と戦闘経過

関ヶ原の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 03:31 UTC 版)

9月15日の布陣と戦闘経過

関ヶ原の戦い当日の布陣や戦闘経過についての記録のほとんどは、合戦後に幕府や参戦大名によって作成された編纂物、または軍記物といった二次史料であり、信憑性の高い一次史料による記録は僅かである。二次史料同士の記述は、同じ戦闘を扱っているにも関わらず内容に食い違いが生じていることも少なくなく、『関ヶ原合戦史料集』の著者藤井治左衛門はそれら史料群について「当日の戦況を書いた軍記物は、数多くあるが、いずれも全部正しいと思われるものは殆どない。」と評している。

関ヶ原周辺略地図
関ヶ原合戦図屏風

一次史料による合戦当日の記録

(本項は白峰旬「関ヶ原の戦いにおける9月15日当日の実戦の状況について(その1)」(『別府大学紀要』54号、2013年)を参考としている)

合戦終了2日後の慶長5年9月17日に作成された松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状[134]の内容は以下通りである。

(1)9月14日に赤坂に着いた家康は15日の午前10時ごろ、関ヶ原に移動し合戦に及んだ。石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家の各勢は前日14日の夜に大垣城の外曲輪を焼き払って関ヶ原へ出陣。

(2)「先手」の井伊直政・福島正則隊に東軍各隊が続いて敵陣に攻め掛かった時、小早川秀秋・脇阪安治・小川祐忠父子が「うらきり」をしたため敵は敗走した。

(3)その後追撃戦によって島津豊久・島左近・大谷吉継・戸田勝成・平塚為広らが討ち取られた。

9月15日付伊達政宗宛家康書状[135]には午の刻(午前12時ごろ)に戦闘は終了し、勝利した家康はその日のうちに佐和山に着陣したとある。

二次史料による合戦当日の記録

関ヶ原の戦いに関する軍記・家譜・覚書類は非常に数が多いため、それらにおける合戦当日の記録すべてをここで記述・比較することは不可能である。そこで、まず『内府公軍記』における9月15日の記事を要約して記し、比較材料として明暦2年(1656年)成立の『関原始末記』[136]と、正徳3年(1713年)成立の『関原軍記大成』から西軍の布陣とおおまかな戦闘経過を抜き出す。 『内府公軍記』の著者は『信長公記』の著者として知られる太田牛一。合戦の翌年慶長6年には原本が成立しており関ヶ原関連の二次史料群の中で最初期の書物といえる。複数の自筆本・写本が現存するが、ここでは初期の原本を模写したものと考えられる杤山家所蔵本を底本とする[137]

『内府公軍記』 家康が赤坂に着陣すると大垣城の石田三成・小西行長・島津義弘・宇喜多秀家の各隊は山中まで引き、翌朝には垂井の南にある岡が鼻山に毛利秀元・吉川広家・長宗我部盛親・安国寺恵瓊・長束正家ら計2万が弓鉄砲を前衛に陣を構える。家康はこの方面に池田輝政・浅野幸長を送り込み、自らは旗本衆の指揮を執って野上と関ヶ原の間に陣を張った。 15日朝は霧と降雨によって視界不良であったが、巳の刻(午前10時ごろ)には晴天となり視界も開け、物見の部隊が戦闘を開始する。石田・小西・島津・鍋島[注釈 10]の各隊は藤子川(藤川)を越え、小関村の南に南東へ向け陣を敷き、石原峠にいた大谷吉継・宇喜多・平塚為広・戸田勝成の各隊は峠を下りて谷川を越え、関ヶ原より北の平野へ進出し、西北の山を背後にして南東へ向け兵を出す。東軍は先陣の福島正則隊が道筋(中山道)を西へ、その南側を藤堂高虎・京極高知隊が進み、中筋(北国街道)からは織田有楽斎・古田重然・猪子一時・船越景直・佐久間安政の各隊が参戦し激戦となる。金森長近・細川忠興・黒田長政・加藤嘉明・田中吉政らの部隊も先を争って攻めかかる。戦いの半ば小早川秀秋・脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠が寝返り、そこへ松平忠吉隊が乱入し、忠吉は数ヶ所の傷を負いながら組み討ちで功名を挙げた。井伊直政隊も松平隊に随伴して参戦し、直政も負傷しながら力戦。吉継は馬上で切腹し、島左近父子・平塚・戸田は討ち死。 西軍は中筋を通って突入してきた本多忠勝隊の攻勢に堪えきれず、追い討ちによる多数の死者を出しながら玉藤川(藤川)を下って伊吹方面に敗走を始め、南宮山の西軍各隊も敗走。家康は首実検を行い、兵士に休息を与えると、その日のうちに佐和山城を包囲した。

『関原始末記』 西軍の布陣は、小関村の北の山際に島左近隊を先手とした石田隊、その左の山際には織田信高と大坂黄母衣衆。石田隊後方に島津隊。小関村の南、北国街道と関ヶ原本道(中山道)に挟まれた地域に宇喜多・小西・大谷・平塚・戸田隊。本道の南、松尾山に小早川・脇坂・朽木・小川隊。南宮山の後方に長束・安国寺・吉川・長宗我部隊。 開戦時刻は辰の刻(午前8時ごろ)。先陣は福島・京極・藤堂・松平・井伊・本多で、田中・細川・黒田・加藤・金森ら二番手は石田隊を攻撃。宇喜多・島津隊は松平・井伊隊の攻勢により敗走し、これを追撃した直政は島津兵の銃撃で負傷。本多隊が突入したところで小早川ら松尾山の諸隊が寝返り、その攻撃を受けた大谷隊は崩壊。吉継は切腹、平塚・戸田は討ち死し、石田隊は裏切りによる混乱を起こして敗走。西軍の死者約8千人を残して、戦闘は午の刻(午前12時ごろ)に終了。南宮山方面の西軍諸隊は戦闘を行わず、吉川隊は家康に内通していたため動かなかった。東軍は翌16日に三成の居城佐和山城を攻める。

『関ヶ原軍記大成』 宇喜多隊は石原峠を背後に南東の方角に向け山の尾根の先。西軍側から見てその右に戸田・平塚ら。さらにその右、松尾山の麓に大谷・朽木・小川・脇坂・赤座直保ら。松尾山に小早川。石田隊は小関山に本陣を置き、島左近・舞兵庫・蒲生頼郷ら先手は小池村の前に柵を立て陣を敷く。毛利・宍戸元継・長宗我部・鍋島勝茂らは栗原山。吉川・福原広俊・長束・安国寺は南宮山。宇喜多隊の左に小西・島津・織田信高。 先陣の福島隊は宇喜多隊へ向かい、井伊・松平隊は福島隊を出し抜いて島津隊と交戦。石田隊には細川・黒田・加藤・田中・生駒一正・竹中重門の各隊が殺到し大谷隊には織田有楽斎長孝父子・藤堂隊が向かう。辰の時に始まった戦闘は巳午(10~12時)になっても勝敗が決しなかった。 黒田長政の手引きで裏切る手筈であった小早川隊が動かないのを不審に思った家康は様子見のため小早川隊の陣に向け銃撃を行うが、それでも変化は表れない。しかし藤堂高虎に内通していた脇坂とともに小川・朽木・赤座の各隊が大谷隊に攻めかかると小早川隊もこれに続く。吉継は切腹、平塚・戸田は討ち死し、宇喜多隊は敗走。石田隊は大谷隊を突破した織田・藤堂隊をも相手にしてしばらく持ちこたえるが蒲生以外諸士が討ち死にし伊吹山方面へ敗走。西軍全体の潰走で退路を断たれた島津隊は敵中突破を試み、豊久を失い、わずか50名ばかりに兵力を減じながらも戦場を脱出。井伊直政は撤退中の島津隊の銃撃を受け負傷落馬する。毛利秀元は長束正家からの出陣要請に応えようとしたものの、毛利勢先鋒の吉川広家が家康に内通して動かなかったため戦闘に参加出来ず、勝敗が決すると上方へ向け戦場を離脱。西軍の戦死者は約32600名で、戦闘終了は未の刻(午後2時ごろ)。15日夜長束・安国寺・長宗我部・鍋島の各隊も戦わずして山を下り始め、翌16日未明には撤収完了。16日より佐和山攻め。

以上のように午前中に戦闘が始まり小早川らの裏切り以降西軍が崩壊するという大筋は共通しているが、そのほか細部においては違いが見られる。また合戦当日にまつわる逸話として、福島正則と井伊直政の先陣争い、家康による小早川秀秋の陣への銃撃、島津隊の敵中突破などがよく知られるが、それらも史料によって内容が異なる。

主な両軍の大名

  • 下表内の兵力数は主に『日本戦史関ヶ原役』に拠る。『日本戦史関ヶ原役』は東西両軍の兵力の実数は不明であるとしたうえで、石高100石あたり3人で算出した動員可能兵力の推測値を載せている。

(石高の隣、○印は関ヶ原に布陣した大名、●は寝返った大名、▲は布陣のみに終った大名)

武将 石高(万石) 兵力 武将 石高(万石) 兵力
西軍 毛利輝元 112.0 東軍 徳川家康 256.0 約30,000
毛利秀元 (20.0) 約16,000 松平忠吉 (10.0) 3,000
吉川広家 (14.2) 井伊直政 (12.0) 3,600
大友義統 本多忠勝 (10.0) 500
上杉景勝 120.0 前田利長 84.0
島津義弘 73.0 約 1,700 伊達政宗 58.0
宇喜多秀家 57.0 17,220 堀秀治 45.0
佐竹義宣 54.0 最上義光 24.0
小早川秀秋 37.0 15,675 福島正則 24.0 6,000
長宗我部盛親 22.0 6,660 加藤清正 20.0
小西行長 20.0 6,000 筒井定次 20.0 2,850
増田長盛 20.0 細川忠興 18.0 5,100
石田三成 19.4 5,820 黒田長政 18.0 5,400
織田秀信 13.5 蜂須賀至鎮 17.7 不明
小川祐忠 7.0 2,100 浅野幸長 16.0 6,510
安国寺恵瓊 6.0 1,800 池田輝政 15.2 4,500
毛利勝信 6.0 不明 生駒一正 15.0 1,830
長束正家 5.0 1,500 中村一栄[注釈 11] 14.5 4,350
大谷吉継 5.0 1,500 藤堂高虎 11.0 2,490
大谷吉治

3,500

堀尾吉晴 10.0
木下頼継 2.5 750 加藤嘉明 10.0 3,000
田丸直昌 4.0 不明 田中吉政 10.0 3,000
真田昌幸 3.8 京極高知 10.0 3,000
脇坂安治 3.3 990 京極高次 6.0
赤座直保 2.0 600 寺沢広高 8.0 2,400
平塚為広 1.2 360 山内一豊 5.9 2,058
朽木元綱 1.0 600 金森長近 3.9 1,140
戸田勝成 1.0 300 有馬豊氏 3.0 900
河尻秀長 1.0 300 滝川一時 1.4 不明
石川貞清 360 織田長益 0.2 450
織田信高[注釈 12] 不明 古田重勝[注釈 13] 1,020
毛利元康 (-) 徳川秀忠 (-) 約15,000
小早川秀包 13.0 榊原康政 (10.0) 3,000
立花宗茂 13.2 大久保忠隣 (6.5)
筑紫広門 1.8 酒井家次 (3.7) 900
  • 松平忠吉等の所領は徳川家康の、毛利秀元吉川広家毛利元康の所領は毛利輝元の領地に含まれる。
  • 安国寺恵瓊小早川秀包ら秀吉取り立てによる毛利系大名は、毛利輝元の領地に含まれない。
  • 毛利秀元の兵力は毛利輝元と吉川広家の兵力の合計。
  • 島津義弘の兵力は島津豊久隊との合計。



注釈

  1. ^ 近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている(関ケ原 戦いの場所は「青野カ原」 合戦直後の文書に記載 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。
  2. ^ なお、この二派を、東軍・西軍と呼んだのは後世のことである。
  3. ^ 藤木は「太閤蔵入地をめぐる政権中枢の大名たちの暗闘のなかに、すでに関ケ原戦への予兆をはっきりと読み取ることができる」と述べている。
  4. ^ 宝永5年(1708年)に成立したとされる木村高敦の『武徳安民記』などを史料として用いた岩澤愿彦は、この時の伏見の徳川家康邸に参集した大名を福島正則・池田輝政・森忠政・織田有楽・黒田如水・黒田長政・藤堂高虎・有馬則頼・金森長近・新庄直頼・新庄直忠・蜂須賀家政・山内一豊・有馬豊氏・京極高次・高知兄弟・脇坂安治・伊達政宗・大谷吉継・堀秀治・最上義光・田中吉政らであるとしている。そして、大坂の前田利家邸に参集した大名を毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・細川忠興・加藤清正・加藤嘉明・浅野幸長・佐竹義宣・立花宗茂・小早川秀包・小西行長・長宗我部盛親・岩城・原・熊谷・垣見・福原・織田秀信・織田秀雄・石田三成・増田長盛・浅野長政・長束正家・前田玄以・鍋島直茂・有馬晴信・松浦鎮信らであるとしている[32][33]
  5. ^ この7名は史料によってメンバーに違いが存在するが、ここでは近年の研究において採用されている慶長3年閏3月5日付家康書状の宛所(宛名)の7名を記す。
  6. ^ 徳川家の大名は多くが領国の北側に配されている。ただし、井伊の様に軍監として東海道先発隊に加わったり、大久保忠隣の様に秀忠の補佐として中山道隊に加わったりと若干の入れ替えはある。
  7. ^ 「森家先代実録」によれば森忠政は自領である川中島に待機するよう家康から厳命されており中山道隊参加の形跡は一切無い。また川中島待機を命じる家康からの書状も森家に現存している。
  8. ^ 真田昌幸の西軍転身を受けて家康より帰領申し付け。よって中山道隊には不参加で在国[53]
  9. ^ 工藤章興によると関ヶ原の本戦に参加したとしている[54]。古来より同族で同じく東軍についた古田重然(古田織部)と混同されており、本戦で戦ったのを重然とする史料(太田牛一『慶長記』)もある。
  10. ^ 原文では「鍋嶋」としか表記されておらず、実名は不明。
  11. ^ 諏訪勝則作成の表(『歴史読本』780号 新人物往来社、2004年)掲載のでは一忠。
  12. ^ 黄母衣衆や、織田信吉織田長次が布陣したとされる。
  13. ^ 古田重然という説もある。
  14. ^ これについて、中山道軍の遅参のため徳川本軍は合戦で大きな役割を果たすことができず、外様大名に戦功を挙げられてしまい、そのため戦後処理で主導権を取りづらくなったことが原因であるとの説がある。
  15. ^ 吉橋村は三成の母の出身地である杉野村の近隣であり、同村の三珠院または飯福寺が秀吉と三成が初めてであった「三杯の茶(三献茶)」の舞台であったとする伝承がある[145]
  16. ^ 旧暦10月18日に自刃したとする説もある。
  17. ^ 慶長10年(1605年)毛利家御前帳に29万8480石2斗3合と記されている。
  18. ^ 慶長15年(1610年)に領内検地の後、幕閣とも協議し高直し
  19. ^ ただし、これについては吉川氏は関ヶ原以前より毛利氏庶家の筆頭の地位に過ぎず、万一の際の毛利宗家継承権を有していた長府毛利家徳山毛利家とは同列には出来ないとする見解もある[152]
  20. ^ 厳密には「慶長三年御蔵納目録」作成時点での数字。それ以降大名への給付によって減少していると考えられる。

出典

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  2. ^ 『関原軍記大成』
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