関ヶ原の戦い 首塚

関ヶ原の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/16 10:26 UTC 版)

首塚

共に合戦での戦死者を弔うために建立されたもの。国の史跡

  • 東首塚:岐阜県関ヶ原町関ヶ原908-3。関ヶ原駅から約300m。
  • 西首塚:岐阜県関ヶ原町関ヶ原2236。関ヶ原駅から約700m。

関ヶ原の戦いに関する諸説

関ケ原合戦祭
関ヶ原古戦場

三成の関ヶ原転進の理由

大垣城に篭っていた西軍首脳の石田三成他の関ヶ原転進については、「大垣を無視して佐和山城を陥とし、大坂へ向かう」という流言を流した家康に三成がおびき出されたという説が一般に流布しているが、これには疑問な点も多い[50]

玉城説

NHK「決戦!関ケ原」によると、関ケ原の西側には玉城という豊臣方の要衝(野戦築城)が存在した。その城の規模は大きく、岐阜城を超えるものだった。各辺200mに及ぶ山城は、戦国時代の日本では他に類を見ない。石田三成らは、それを起点に両脇の松尾山城、菩提山城とも連携して、関ヶ原を見下ろす山々全体を要塞化することによる徳川家康迎撃計画を立てた。航空機からレーザーを照射し、赤色立体図を作成することにより、そうした新事実が新たにわかった。バチカンのイエズス会ローマ文書館では「毛利方は12000人が籠れる戦いの為の城砦を準備している」という関ヶ原の戦いに関する宣教師の記録が見つかり、この新説の補強となっている。しかし、歴史とは勝者によって書かれるものであり、敗者の事情・観点は必ずしも記録されるとは限らない。こうした説が2020年12月19日にNHKで報道された。NHKや外岡慎一郎千田嘉博(共に奈良大学教授)による新説であるとしている。[157][158]この説によると、三成が当初、大垣城に寄ったのは、玉城完成までの時間稼ぎと西軍諸将との連絡・交渉の為だとしている。また、当時の史料には大谷吉継が山中村に陣した、とあるが、現代、山中村があったとされたところには陣の跡は見当たらず、玉城跡にはあり、玉城も山中に含まれているので、史料とも整合するとしている。また、航空レーザー測量から判明したところによれば、南宮山山頂には陣跡はなく、毛利方が陣した位置はおそらくその北側山麓であり、小早川秀秋も松尾山山頂ではなく関ヶ原寄りの山麓に陣しており、後者は当初のおそらく西軍計画から逸脱した配置であった。小早川は当初から寝返りを考えており、その為、高所にではなく、関ヶ原に進出しやすい山麓に陣を敷いた。それは、西軍諸将にも容易に判明し、実際、吉川家文章には「秀秋に逆意あり」ともあり、このような小早川の不信な動きは、西軍諸将の疑心暗鬼を一層強くし、西軍の中に消極的に動く者が相次いだ。一方で、小早川の動きを見た大谷吉継は、松尾山に対する備えをする一方で、残る全軍を急遽、玉城から降ろし、関ヶ原へと進出させた。こうして計画は当初(山々が連携しての消耗戦)とは大幅に狂ってしまい、史実のような結果になったと推定する。白峰旬(別府大学教授)も、三成が陣したのは関ヶ原の西側ではなく、玉城であったと推測する。航空レーザー立体図によると関ヶ原西部には本格的な陣跡は見当たらず、玉城にはあり、合戦直後の家康の手紙には、戦いがあった場所は山中とあり、近衛前久の書状には「三成たちは山に取り上った」とあるからである。また、石田方が関ヶ原に布陣した、という記載は後世の史料には出てくるが、一次史料には存在しない。[159][160]

西軍の首謀者と結成の過程

西軍の結成については、石田三成がまず決起し、続いて決起に反対の立場であった大谷吉継を引き入れるとともに、安国寺恵瓊と共同で毛利輝元と豊臣三奉行(前田玄以・増田長盛・長束正家)を説得して、反家康闘争に踏み切らせたと説明されることが多い。また、豊臣三奉行は当初三成と吉継の決起を反豊臣の謀反と捉え、その鎮圧のため輝元を大坂に呼び寄せる一方、家康にも協力を依頼したが、三成の説得により方針を180度転換したとする説もある[161]。しかし慶長5年7月17日の西軍決起に至るまでの三成の動向と西軍首脳部との交渉過程そのものについては、一次史料によって詳細が明らかにされているわけではい。

三成の単独決起説も江戸時代成立の軍記物・逸話集などの二次史料の記述が主な根拠であり、さらにそれぞれの内容にも食い違いが見られるなど検討の余地が残されている[162]。水野伍貴は、政権中枢から外されて協力者もいない三成に、反家康闘争に消極的な毛利輝元・宇喜多秀家の両大老が同調する構図は不自然であり、むしろ両大老に積極性があったとする。そして、挙兵計画は会津征伐が回避不能になった頃から水面下で進められていたと推測する[163]。布谷陽子は、慶長5年7月15日付上杉景勝宛島津義弘書状に輝元・秀家・三奉行・小西行長・吉継・三成が会津征伐にあたって談合したことが記されていることから、三成を含めた複数人の合議のもと西軍の形成が事前に進行していたとする[164]。谷徹也は布谷説を肯定しつつ、増田長盛が永井直勝書状を送った7月12日の直前、恐らくは家康が江戸城に到着した第一報が大坂方面に届いたとされる7月2日頃から三成の挙兵に向けた具体的な行動が開始されたと捉え、第一の目的は家康を江戸城に釘付けにするものであったと推測している[165]

毛利輝元は三成と恵瓊の説得に引きずり込まれる形で西軍の総大将になったため、大坂城に留まって積極的な行動を採らなかったとされる。しかし、対家康戦への消極的な姿勢とは対照的に、豊臣三奉行よりの要請を受け取った後の大坂入りは極めて迅速なものであり、毛利軍も四国・九州において活発な軍事行動を展開している。これらの点から光成準治は、西国における勢力拡大を目的として奉行衆と事前に協議したうえで決起に加わったとし、三成や恵瓊の甘言に乗せられたとする説を否定している[142]。また、秀吉の死後、家康が毛利秀元の給地問題や小早川隆景の遺領問題など毛利家中の問題に介入したことで、自己の権力強化を目指していた輝元が家中の問題を自分の思い通りにできなかったことを屈辱に感じ、それが輝元の決起に繋がったと考察している[166]

大谷吉継の参加も消極的なものであったかどうか、その意図を含めて見解が分かれる。吉継が三成との友情を捨てられず、負け戦を覚悟のうえで西軍に加わったとする説は江戸時代成立の二次史料の記述をもとにしており、その真偽については不明である。石畑匡基は、宇喜多騒動における家康の裁定を豊臣政権の弱体化策と捉え、それ以降家康に抱いていた不満から西軍に参加したとする[167]

小山評定をめぐる諸説

「小山評定」とは慶長5年7月25日下野国小山において、家康と会津征伐に従軍していた諸大名によって開かれたとされる軍議のことを指す。その場では福島正則が進んで家康の味方を表明し、山内一豊が徳川軍への居城明け渡しを申し出たことなどによって諸大名は家康のもとに団結し、会津征伐中断と上洛が決定したとされてきた。これまで関ヶ原の戦役におけるターニングポイントの一つと扱われてきた「小山評定」であるが、軍議における家康や諸大名の言動は「慶長記」・「関原始末記」等寛永・慶安期以降に作成された二次史料に記されているものであり、一次史料からは確認されない[168]。 白峰旬は[169][170][171][172][173][174]7月25日より前の7月19日の時点ですでに福島正則に上洛命令が出されていること、また家康が諸大名に小山召集を命じた書状や、家康や諸大名が作成した書状の中に小山での評定に言及したものが無い点などから、評定そのものがフィクションであるとする。そして8月12日付伊達政宗宛家康書状に福島正則・田中吉政・池田輝政・細川忠興から再三「上方仕置」を優先するよう要請があったため家康は江戸に帰陣したと記されている点から、会津征伐中断と上洛はそれらの進言を考慮したうえで家康が決定したものであり、一度の評定によって決定したものでは無いとする。 また肯定派が「小山評定」実施の証拠とする慶長5年7月29日付大関資増宛浅野幸長書状についても7月25日前後の浅野幸長の動向についての情報を提供するものの、「小山評定」の実施については直接の記述が無い点等から通説の「小山評定」を肯定する史料たり得ないとする。 さらに白峰説では家康は、豊臣三奉行の「別心」を黒田長政らに伝えた7月29日以前の7月24日には、すでに7月17日に三奉行が出した「内府ちがひの条々」を入手していたが、諸大名の離反を恐れてその事実を隠し、7月27日時点でも三奉行や淀君が味方であるかのように装っていたとする。

これら白峰説に対して本多隆成は[175][176]、家康が直接の主従関係に無い諸大名に一方的に命令を下したとは考え難く、諸大名の合意と納得を得るために小山評定が開かれたとする等の反論を行っている。また「内府ちがひの条々」の内容や三奉行の加担もいずれは東軍諸大名に伝わるものであり偽装工作は無意味とする。 笠谷和比古は7月25日の時点では「内府ちがひの条々」は家康や東軍諸大名の許には届いておらず、未だ三成と吉継の謀反という現状認識しかない諸大名が家康に従うのは当然であったとし、むしろ一豊による居城明け渡しの献策が三奉行加担判明後の東軍分裂を防いだと評価する[177]。また東海道の諸大名の居城明け渡しと徳川譜代武将の入城という大規模な行動を評議なく行うことは不可能とする[178]。水野伍貴は、上方からの情報によって、家康は7月23日頃に毛利輝元の西軍関与を確信しており、その事態に対処するため東軍諸大名と合議する必要があったとする。そして宮部長煕が寛永10年(1633年)に記した身上書にある、小山評定に関する記述などを根拠に虚構説を否定している(一方、水野は白峰説について、定着には至っていないものの、歴史的事実とされてきた小山評定に、検証が加えられる転機になったとも評している)[179]。ただしこれら評定肯定説は主に当時の政治的状況や経緯から、実施の妥当性を主張するものであって「小山評定」を一次史料によって直接立証したものではなく、また二次史料に記された「小山評定」の内容を無条件に肯定するものでもない。

島津義弘の夜襲策について

島津義弘の夜襲策の逸話については徳川家康の年代記として享保12年(1727年)に成立した『落穂集』に載せられたものが詳しい。それによると本戦前日の9月14日の夜、島津豊久は島津義弘の発案した家康本陣への夜襲作戦を三成に提案。三成がこれに困惑していると、島左近が古来より夜襲で少勢が大軍に仕掛けて勝利した例が無い。明日の一戦での勝利は疑い無く、久しぶりに家康が敗走する姿が見られるであろうと反対し、三成もそれに従った。豊久は左近の口出しに不快を覚えつつも、左近が家康の敗走を見たのはいつのことかと尋ねると、左近は武田家臣山県昌景の配下として出陣した時に掛川城の近くで敗走する家康を追いかけたことがあると答えた。豊久はそれは下劣なたとえで杓子定規な物言いである。その頃の家康と今の家康を同じ人物と考えるのは間違いであろうと言い、苦笑いをして三成の陣を去ったという。『落穂集』の作者である大道寺友山は島津帯刀に会った際、この件について訪ねたところ、詳しい事はわからないが伝え聞くところでは義弘と豊久が夜討ちをかけるつもりであった、という返答を書き記している。

桐野作人はこの逸話について、数万の家康本陣への夜襲という非現実な作戦を義弘が発案したとは考えがたく、また左近が山県昌景の家臣であったとする経歴も不審であり、さらに島津家側の史料に夜襲に関するものがほとんどない点から史実では無いとする。そして本戦当日、島津勢が傍観を決め込んだ理由が、作戦を却下されたことに恥辱を感じた義弘・豊久の三成への悪感情にあったとする説を否定している[180]

なお元禄元年(1688年)に貝原益軒が著した『黒田家譜』では、豊久と左近は登場せず義弘の提案を三成が却下している。

吉川広家による毛利家救済について

吉川広家は、西軍に属しながら家康に通じ、関ヶ原本戦で東軍との戦闘を回避した事が評価され、戦後に中国地方において1カ国もしくは2カ国を与えられることとなったが、それを辞退するかわりに本家毛利家の存続を願い出たため、毛利家は取り潰しを免れたとされる。しかし、この説の根拠となる書状群[181]は原本が存在せず、またそれらを掲載する岩国藩(藩祖が広家)編纂の「吉川家譜」はその典拠を明らかにしていない[182]

江戸時代、岩国藩は吉川家の家格を上昇させるため様々な宣伝活動を行ったが、その一環として藩外で作成された軍記物に対する、記事の内容改変や吉川家関連書状の掲載を推し進める工作を行っている[183]。宮川忍斎著の「関ヶ原軍記大成」には関ヶ原の戦いにおける広家の行動を正当化する記事とともに「吉川家譜」掲載の書状群が収められているが、これは水面下での岩国藩による働きかけの結果であり、著者や周辺関係者には報酬として金銭が提供・用意されている[184]。また、香川宣阿著の「陰徳太平記」は岩国藩による極秘の資金提供と指示のもと編纂されたものであるが、これにも広家を正当化する記事・書状が載せられている。「陰徳太平記」の編纂過程において岩国藩は偽文書の作成を容認しており[185]、「吉川家譜」掲載の書状群についても偽文書の可能性が指摘されている[139]

福島正則と井伊直政の先陣争い

福島正則と井伊直政の先陣争いについて『黒田家譜』は以下のように記している。

合戦前に陣列を整えていた福島正則隊の陣中を、中軍[186]の先手の井伊直政隊が松平忠吉隊を引き連れて押し通ろうとした。これを福島隊の先手を務めていた可児才蔵が、この方面の先陣(「当手の御先手」)は福島隊であると指示されており通すわけにはいかない、と押し留める。直政は家康から物見(偵察)の命令を受けているとして通行の許可を求めると、才蔵は物見ならば部隊の主力は置いて行くようにと答えたため、直政は約300名の手勢で先へ進み、忠吉は功名を挙げた、という内容である。

一方『関ヶ原軍記大成』では福島隊の陣中ではなく、陣の前を約300名の忠吉・直政隊が通ろうとしたと記しており、先に進んだ時の兵数も約40騎ないし50騎と、話の細部が異なっている。

笠谷和比古は、戦闘の前に定められた軍法で抜け駆けは厳禁されており、また戦闘後に正則が抗議を行った記録も無いことから、実際の直政の行動は正則に配慮して抑制されたものであったとする。また物見のため戦闘当日に発生した霧に紛れて前進したところ、たまたま敵に遭遇したというかたちを作ることで、徳川武将に一番槍の実績を残そうとしたと推測する[187]。 ただし『黒田家譜』を含め戦闘開始時点では霧が晴れていたとする書物は複数存在する。また抜け駆けの逸話自体江戸時代成立の二次史料を出典とするものである。

小早川秀秋の陣に対する家康の銃撃

関ヶ原の戦いを主題とした映画や小説では、戦いが昼になる頃になっても去就を明らかにしない秀秋の陣に向け、家康が裏切りを催促する銃撃を行い、意を決した秀秋の命令で小早川勢が西軍に襲いかかる場面が半ば定番化している。しかし前述したように秀秋・脇坂らが裏切ったタイミングは、戦闘開始からまもなくのことであり、また銃撃に関する記録は江戸時代成立の二次史料にのみにしか存在しない。

白峰旬はこの銃撃の逸話について

(1)『内府公軍記』・『当代記』・『三河物語』・『藤堂家覚書』・『関原始末記』・『武徳編年集成』等江戸時代前期成立の史料では銃撃の記事そのものが存在しない。

(2)寛文から正徳期の間に成立した諸史料では逸話の内容に差異がある。たとえば『井伊家慶長記』では家康の命ではなく藤堂高虎が自身の判断で銃撃したとするが、『黒田家譜』では家康の指示により福島正則隊が銃撃している。また『井伊家慶長記』・『黒田家譜』・『石田軍記』等では、銃撃を受けても小早川隊はすぐには裏切っていない。

(3)家康配下の部隊による銃撃の直後に小早川隊が裏切ったとするパターンは享保12年(1727年)成立の『落穂集』に登場しているが、これはそれ以前に存在していた銃撃の逸話を改変したものである。

とし、家康の神格化のため、天保期成立の『天元実記』・『徳川実紀』に『落穂集』の逸話が採用され後世に広まったとする。

藤本正行は当時の信用できる史料で威嚇射撃は裏付けることはできないとして、家康は小早川軍に鉄砲を撃ち込ませてはいないとする[188]三池純正は地形上の疑問点として、轟音が響き渡り、黒煙が視界を塞いでいる中で、家康が打ちかけた鉄砲だけを、松尾山で峻別できたのか、家康が打った鉄砲だけを峻別するのは難しかったとし、家康が打った鉄砲は小早川の寝返りを促したというより、小早川に西軍を攻めよとの合図のようにも受け取れるとしている[189]

秀秋裏切りの理由

秀秋の裏切りの理由は、秀秋自身が真相を語ることなく合戦から2年後にこの世を去ってしまったため明確ではない。諸説のうちの一つとして、幼少の秀秋の親代わりを努めていた秀吉正室北政所が東軍支持であった一方、北政所と対立していた秀吉側室淀君が西軍支持であったため、最終的には東軍に寝返ったとするものがある。しかし、当時の北政所の動向は必ずしも東軍支持といえないものであり、また淀君との対立も確証のある説ではない[190]

また、石田三成への反感を原因とする説もある。慶長の役末期に行われた蔚山の戦いの際、在番していた釜山から蔚山へ駆け付け戦闘に加わった秀秋の行動を、釜山を危険に晒す軽挙であるとして三成が秀吉に讒言。結果秀秋は罰として越前へ転封となるところであったが、家康のとりなしによって免れる。以降秀秋は三成を憎む一方で家康に心を寄せるようになり、それが寝返りに繋がったとする説である。この説は寛文12年(1672年)成立の「朝鮮物語」に載せられた逸話を典拠としているが、実際には秀秋の蔚山戦参加を裏付ける一次史料は確認されず、また越前転封も実行されている[191]など逸話の内容は史実と大きく異なっている。

ともあれ、秀秋に対する東軍側からの勧誘は8月28日以前より行われていたことが判明しており、そのような工作の結果小早川家中では戦闘開始前から裏切りが決定していたとも考えられる[192]

毛利家による妨害説

光成準治によると、秀頼が出馬しなかった原因に毛利輝元の意向もあった、とされる。当時、毛利家は東西南の隣国の東軍諸国に積極的に侵攻しており、秀頼の出馬によって、戦いが短期間に決着がついてしまうと、それ以上の領土拡大が見込めなくなるので、それを嫌った輝元や毛利家は、三成らの戦いが長期化するのを望み、関ヶ原での攻勢や秀頼の出馬促進に消極的になった、とする。[193][194]

関ヶ原の戦いの屏風絵




注釈

  1. ^ 近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている(関ケ原 戦いの場所は「青野カ原」 合戦直後の文書に記載 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。
  2. ^ なお、この二派を、東軍・西軍と呼んだのは後世のことである。
  3. ^ 藤木は「太閤蔵入地をめぐる政権中枢の大名たちの暗闘のなかに、すでに関ケ原戦への予兆をはっきりと読み取ることができる」と述べている。
  4. ^ 宝永5年(1708年)に成立したとされる木村高敦の『武徳安民記』などを史料として用いた岩澤愿彦は、この時の伏見の徳川家康邸に参集した大名を福島正則・池田輝政・森忠政・織田有楽・黒田如水・黒田長政・藤堂高虎・有馬則頼・金森長近・新庄直頼・新庄直忠・蜂須賀家政・山内一豊・有馬豊氏・京極高次・高知兄弟・脇坂安治・伊達政宗・大谷吉継・堀秀治・最上義光・田中吉政らであるとしている。そして、大坂の前田利家邸に参集した大名を毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・細川忠興・加藤清正・加藤嘉明・浅野幸長・佐竹義宣・立花宗茂・小早川秀包・小西行長・長宗我部盛親・岩城・原・熊谷・垣見・福原・織田秀信・織田秀雄・石田三成・増田長盛・浅野長政・長束正家・前田玄以・鍋島直茂・有馬晴信・松浦鎮信らであるとしている[32][33]
  5. ^ この7名は史料によってメンバーに違いが存在するが、ここでは近年の研究において採用されている慶長3年閏3月5日付家康書状の宛所(宛名)の7名を記す。
  6. ^ 徳川家の大名は多くが領国の北側に配されている。ただし、井伊の様に軍監として東海道先発隊に加わったり、大久保忠隣の様に秀忠の補佐として中山道隊に加わったりと若干の入れ替えはある。
  7. ^ 「森家先代実録」によれば森忠政は自領である川中島に待機するよう家康から厳命されており中山道隊参加の形跡は一切無い。また川中島待機を命じる家康からの書状も森家に現存している。
  8. ^ 真田昌幸の西軍転身を受けて家康より帰領申し付け。よって中山道隊には不参加で在国[53]
  9. ^ 工藤章興によると関ヶ原の本戦に参加したとしている[54]。古来より同族で同じく東軍についた古田重然(古田織部)と混同されており、本戦で戦ったのを重然とする史料(太田牛一『慶長記』)もある。
  10. ^ 原文では「鍋嶋」としか表記されておらず、実名は不明。
  11. ^ 諏訪勝則作成の表(『歴史読本』780号 新人物往来社、2004年)掲載のでは一忠。
  12. ^ 黄母衣衆や、織田信吉織田長次が布陣したとされる。
  13. ^ 古田重然という説もある。
  14. ^ これについて、中山道軍の遅参のため徳川本軍は合戦で大きな役割を果たすことができず、外様大名に戦功を挙げられてしまい、そのため戦後処理で主導権を取りづらくなったことが原因であるとの説がある。
  15. ^ 吉橋村は三成の母の出身地である杉野村の近隣であり、同村の三珠院または飯福寺が秀吉と三成が初めてであった「三杯の茶(三献茶)」の舞台であったとする伝承がある[145]
  16. ^ 旧暦10月18日に自刃したとする説もある。
  17. ^ 慶長10年(1605年)毛利家御前帳に29万8480石2斗3合と記されている。
  18. ^ 慶長15年(1610年)に領内検地の後、幕閣とも協議し高直し
  19. ^ ただし、これについては吉川氏は関ヶ原以前より毛利氏庶家の筆頭の地位に過ぎず、万一の際の毛利宗家継承権を有していた長府毛利家徳山毛利家とは同列には出来ないとする見解もある[152]
  20. ^ 厳密には「慶長三年御蔵納目録」作成時点での数字。それ以降大名への給付によって減少していると考えられる。

出典

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  30. ^ 「関ヶ原軍記大成」では政宗・福島正則蜂須賀家政の3名をあげているが、「家忠日記増補追加」・「伊達日記」では政宗の名前のみが載せられている。
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