関ヶ原の戦い 概要

関ヶ原の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 03:31 UTC 版)

概要

この戦役は、豊臣秀吉の死後に発生した豊臣政権内部の政争に端を発したものであり、毛利輝元を総大将とし宇喜多秀家石田三成らを中心に結成された反徳川の西軍と、徳川家康を総大将とし福島正則・黒田長政らを構成された東軍の両陣営が、関ヶ原での戦いを含め、各地で戦闘を繰り広げた[注釈 2]

この戦役の結果、豊臣政権は統一政権の地位を失った一方、勝者である徳川家康は強大な権力を手に入れ、幕藩体制確立への道筋が開かれることになる。

決戦までの経緯

豊臣家内部の対立とその背景

秀吉の死後、豊臣政権の政治体制は秀吉の独裁から幼少の後継者秀頼を五奉行、五大老によって支える体制へと移行する。しかし秀吉死後の政治抗争の過程でこの体制は徐々に崩壊してゆき、戦役の結果により消滅することになる。

政争の原因については以下のようなものが想定されているが、関ヶ原の戦いにおける東西の対立関係は複雑なものであり、各大名の動向を決定した要因は多岐にわたるものと考えられる[6]。また地方での戦闘は主力決戦が政治面も含めて決着した慶長5年10月以降も行われており、必ずしも政権中央での政治対立に直結したものでは無い[7]

中央集権派と地方分権派の対立

太閤検地の実施とそれにともなう諸大名領内への豊臣直轄領(豊臣蔵入地)の設置[8][9][10]や、大名内部で発生した諸問題への介入によって、豊臣政権(中央)による地方大名への支配力強化を進めようとする石田三成増田長盛らの強硬・集権派と、これに反対する浅野長政らの宥和・分権派との対立[11]が抗争の背景にあったとする説である。

一方、戸谷穂高は宥和・分権派として長政の名が挙げられている点について、「その論拠は一切示されておらず」強硬・集権派との「対立構図自体にも再考の余地が見だされる」としている[12]。文禄2年長政は甲斐へ国替えとなり伊達・南部・宇都宮・成田らの東国諸大名を与力とするが、それ以降、運上金増収を目的とした大名所有の鉱山への支配強化や、日本海海運の掌握を進め[13]、また宇都宮氏佐竹氏の改易を主導するなど[14]宥和・分権的とは言い切れない動向も見られる。曽根勇二もこれら東国における長政の動向を朝鮮出兵のための「総力戦の体制を打ち出した秀吉政権の集権化の実態を示すもの」とし、集権派対分権派の構図に疑問を呈している[15]

朝鮮出兵時の豊臣家臣団内部の対立

慶長・文禄の役の際、石田三成・増田長盛を中心とした奉行衆と加藤清正・黒田長政らを中心とする渡海軍諸将との間に発生した作戦方針・軍功を巡る対立が関ヶ原の戦いの主要因とする説である。この対立関係は豊臣政権において主に政務活動を担当した「文治派」と、軍事活動に従事した「武断派」との対立を含んだものともされる[16]

しかし、両派閥の不仲を示した逸話には一次史料による確認が取れないものや創作と思われるものが多く[17][18][19][20]、一方のちに東軍の属する武将間でも対立関係は存在している。巨済島海戦の軍功を巡っては加藤嘉明と藤堂高虎が対立しており[21]蔚山の戦い後、現地諸将より秀吉に提案された戦線縮小案については蜂須賀家政が賛同したのに対して加藤清正は反対の立場を取っている(慶長3年3月13日付加藤清正宛豊臣秀吉朱印状)[22]

中野等も、三成を中心とする「文治派」対加藤清正らを中心とする「武断派」との対立の構図は、江戸時代成立の軍記物等の二次史料から発して、その後旧来の研究の中で偶像化したものとしている[23]。例えば、賤ヶ岳七本槍の印象から武功による出世を果たしたと思われがちな加藤清正は、実際は国内統一戦の過程において目立った戦績が無く、朝鮮出兵以前においてはむしろ豊臣直轄地の代官や佐々成政改易後の肥後国統治など文官的活動が主であった[24]

秀次事件による豊臣家及び豊臣家臣団の確執

文禄4年(1595年)6月に発生した秀次切腹事件の影響を受けた諸大名と、秀次粛清を主導した石田三成との間の対立関係が抗争の背景にあった説である。秀次による謀反の計画への参加を疑われた諸大名に対する処罰のいくつかは、家康の仲裁により軽減されている。結果両者は親密な関係を結ぶことになり、一方諸大名は三成を憎むようになったとする。

しかし、三成を事件の首謀者とする説は寛永3年(1626年)に執筆されて成立した歴史観となった「甫庵太閤記」という本の記述に登場して以降[25]の軍記物等に取り入れられた逸話を根拠としており、史実として立証されたものでは無い。

「太閤様御置目」を巡る奉行衆と家康の対立

「太閤様御置目」(秀吉の遺言[26]や死の前後に作成された掟[27]・起請文群[28])に従って政権運営を進めようとする豊臣奉行衆と、それを逸脱して政権内での主導権を握ろうとする家康及びその家康を支持する一派との対立が抗争に繋がったとする説である。

家康は伊達政宗ら諸大名との間で進めた私的な婚姻計画をはじめ、秀吉正室北政所を追い出しての大坂城西の丸入城、大老・奉行による合意によって行われるべき大名への加増の単独決定、豊臣政権の人質である諸大名妻子の無断帰国許可など、秀吉死後数々の置目違反を犯しており、これらは関ヶ原の戦いにおいて西軍が家康を討伐対象とする根拠となっている。

一方で、前田玄以・増田長盛・石田三成・長束正家の四奉行は秀吉の死から間もない慶長3年8月27日に秀頼への忠誠と秀吉の定めた置目の遵守を改めて誓う起請文[29]を毛利輝元と作成しており、その立場は家康の行動とは相違するものである。

政治抗争の発生

慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が伏見城で死去すると、それ以降政権内部での対立が表面化していくことになる。まず秀吉の死の直後、徳川家康と伊達政宗ら諸大名が[30]、秀吉の遺言に違反する私的婚姻を計画していたことが発覚し大老前田利家や豊臣奉行衆らによる家康追及の動きが起こる。一時は徳川側と前田側が武力衝突する寸前まで至ったが、誓書を交換するなどして騒動は一応の決着を見る。正徳3年(1713年)成立の「関ヶ原軍記大成」では、この騒動の際伏見の家康邸に織田有楽斎(長益)・京極高次伊達政宗池田輝政福島正則細川幽斎黒田如水黒田長政藤堂高虎最上義光ら30名近い諸大名が参集したとしている[31]

一方の大坂の利家の屋敷には毛利輝元上杉景勝宇喜多秀家細川忠興加藤清正加藤嘉明浅野長政浅野幸長佐竹義宣立花宗茂小早川秀包小西行長長宗我部盛親岩城貞隆原長頼熊谷直盛垣見一直福原長堯織田秀信織田秀雄石田三成増田長盛長束正家前田玄以鍋島直茂有馬晴信松浦鎮信らが集まったとされる[32][33][注釈 4]

翌年の閏3月に利家が死去すると、五奉行の一人である石田三成が加藤清正・福島正則・黒田長政・藤堂高虎・細川忠興・蜂須賀家政・浅野幸長[注釈 5]の七将に襲撃される。三成は同行した佐竹義宣・宇喜多秀家の家老と共に、伏見城西丸の向かいの曲輪にある自身の屋敷に入った後、屋敷に立て籠もった[34]。三成を襲撃した七将の動機は慶長の役末期に行われた蔚山の戦いの際、不適切な行動をしたとして長政らが戦後処罰されたのは、三成の縁者福原長尭が秀吉に歪曲して報告したためと主張する、彼等の不満にあったとされている[16]。ただし忠興と正則は蔚山の戦いに参加しておらず、清正と幸長への処罰は発給文書類からは確認されない。

家康・毛利輝元・上杉景勝・佐竹義宣・秀吉正室北政所らによる仲裁の結果、三成は奉行職を解かれ居城の佐和山城に蟄居となる。宮本義己は最も中立的と見られている北政所が仲裁に関与したことにより、裁定の正統性が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価しているが[35]、一方で清正らの襲撃行為自体は武力による政治問題の解決を禁じた置目への違反であった[36]。水野伍貴は当時七将が家康の統制下にあり、その行動は家康に容認された範囲内に限られていたとする[37]

加賀前田征伐と家康の権力強化

慶長4年(1599年)9月7日、家康は秀頼に重陽の節句の挨拶をするためとして伏見城から大坂城に入城。同日、家康に対する暗殺計画が発覚する。

計画は前田利家の嫡男で加賀金沢城主である前田利長が首謀者として五奉行のひとり浅野長政、秀頼・淀殿側近の大野治長、および加賀野々市城主の土方雄久が、大坂城入城中の家康を襲撃し暗殺するというものであり、寛永年間成立の『慶長年中卜斎記』では計画を家康に密告したのは増田長盛とする。ただしこの事件に関する一次史料はわずかであり、計画の真相や騒動の経緯については不明な点が多い。

10月2日、暗殺計画に加担した諸将に対する処分が家康より発表され、長政は隠居を命じられ武蔵国府中に蟄居し、治長は下総結城、雄久は常陸水戸に流罪となった。翌3日には首謀者である利長を討伐すべく、「加賀征伐」の号令を大坂に在住する諸大名に発し、加賀小松城主である丹羽長重に先鋒を命じた。金沢に居た利長はこの加賀征伐の報に接し、迎撃か弁明の択一を迫られたが、結局重臣である横山長知を家康の下へ派遣して弁明に努めた。家康は潔白の証明として人質を要求、慶長5年(1600年)正月に利長の母で利家正室であった芳春院・前田家の重臣の前田長種・横山長和・太田雄宗・山崎長徳らの子を人質として江戸に送ることで落着した[38]。また、この時、細川忠興は長男の忠隆の妻が利長の姉であったことから、利長の陰謀に組したという家康の嫌疑を受けたため、利長と同じく、同年の正月に三男忠利(15歳)を人質として江戸に送り、浅野長政も第三子の長重(15歳)を江戸に送っている[38]

この騒動のさなか、家康は北政所の居所であった大坂城西の丸に入り、その後も在城を続ける。秀吉の遺言[39]では家康は伏見に在城することが定められており、大坂在城はこれに違反するものであった。政敵を排除し政権中枢の大坂城に入った家康の権力は上昇し[40]、城中から大名への加増や転封を実施した。これは味方を増やすための多数派工作と考えられている。細川忠興に豊後杵築6万石、堀尾吉晴越前府中5万石、森忠政信濃川中島13万7,000石、宗義智に1万石を加増。文禄・慶長の役で落度があったとして福原長堯らを減封処分とし、田丸直昌美濃岩村へ転封した。本来大名への加増転封は大老奉行の合議・合意のもと行われるものであるが、家康はこれを単独の決定によって進めている[40]

このように政権内部での権力を強化していく家康に対して、この時期の前田玄以増田長盛長束正家の豊臣三奉行は政務面で協力的であり[40]、輝元も恭順の意を示している[41]。また佐和山に隠居していた三成も家康暗殺計画事件の際は前田勢への備えとして軍勢を派遣し、大坂の自邸を宿所として提供するなど、家康とは比較的良好な関係あった[42]。しかし、最終的に彼等は反家康闘争を決断することになる。

会津上杉征伐の決定

こうした政治的状況下、慶長5年(1600年)春頃より大老上杉景勝と家康との関係が悪化。4月には家康家臣伊奈昭綱らが会津若松に送り込まれ、神指城築城や津川への架橋を豊臣政権への「別心」=反逆であるとして詰問し、景勝に6月上旬の上洛を要求する[43]。5月中旬、この要求に対して景勝は上洛の意志を伝えるとともに[44]、秋までの上洛延期と、上杉家に謀叛の疑いを掛けた者の追及を要求するが、結局上杉側の提示した要求は受け入れられず、6月上旬に景勝上洛は中止となる[43]。なお、家康に対して直江兼続が景勝への上洛要求を挑発的な文面で批判した、いわゆる「直江状」と言われる史料が存在するが、この文書の真贋や由来、内容解釈については諸説が存在している。

一方家康は会津との交渉結果が出ていない5月3日の段階ですでに会津征伐を決定しており[45]、6月2日には本多康重らに7月下旬「奥州表」に出陣することを伝えている[46]

『慶長年中卜斎記』では家康が6月15日に豊臣秀頼淀君に会見し、黄金2万枚と米2万石の他に正宗(あるいは政家)の脇差しと楢柴肩衝を餞別として送られたとしているが[47]、『関ヶ原軍記大成』では「餞別の引出物」とのみ記され、『当代記』(寛永年間成立)・『関原始末記』(明暦2年成立)には会見そのものの記述が無いなど二次史料同士での記録は一致しない。

6月16日に大坂を発った家康は同日に伏見に入城[48]。伏見城内における家康の言動について、『慶長年中卜斎記』には「17日に千畳敷の奥座敷へ出御。御機嫌好く四方を御詠(なが)め、座敷に立たせられ、御一人莞爾々々(にこにこ)と御笑被成より…」と記されている[49]

上杉景勝は上杉領へ侵攻する討伐軍を常陸の佐竹義宣と連携して白河口で挟撃する「白河決戦」を計画していたとされる[50]。しかし本間宏は決戦の為に築かれたとされる防塁の現存遺構が、慶長5年当時の造営物であるか疑問であること、発給文書等の一次史料と「白河決戦」論の根拠である『会津陣物語』(延宝8年成立)『東国太平記』(延宝8年成立か)等の二次史料の記述が矛盾している点などから「白河決戦」計画の実存を否定している[51]

なお、上杉家の挙兵は、家康が東国に向かう隙に畿内で石田三成が決起し、家康を東西から挟み撃ちにするという、上杉家家老・直江兼続と三成との間で事前より練られていた計画に基づくものとする説がある。ただしこれは江戸時代成立の軍記物・逸話集などに登場する説であり、直接の裏づけとなる一次史料は無い。宮本義己は慶長3年7月晦日付真田昌幸宛石田三成書状の内容から西軍決起後の七月晦日の段階においても、両者の交信経路は確立されておらず、よって挟撃計画は無かったとする[52]

諸将の去就

関ヶ原決戦前における日本全国の大名・武将の去就を記す。西軍から東軍に寝返った大名については裏切りを参照。

西軍

内応・叛応

中立・その他

東軍




注釈

  1. ^ 近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている(関ケ原 戦いの場所は「青野カ原」 合戦直後の文書に記載 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。
  2. ^ なお、この二派を、東軍・西軍と呼んだのは後世のことである。
  3. ^ 藤木は「太閤蔵入地をめぐる政権中枢の大名たちの暗闘のなかに、すでに関ケ原戦への予兆をはっきりと読み取ることができる」と述べている。
  4. ^ 宝永5年(1708年)に成立したとされる木村高敦の『武徳安民記』などを史料として用いた岩澤愿彦は、この時の伏見の徳川家康邸に参集した大名を福島正則・池田輝政・森忠政・織田有楽・黒田如水・黒田長政・藤堂高虎・有馬則頼・金森長近・新庄直頼・新庄直忠・蜂須賀家政・山内一豊・有馬豊氏・京極高次・高知兄弟・脇坂安治・伊達政宗・大谷吉継・堀秀治・最上義光・田中吉政らであるとしている。そして、大坂の前田利家邸に参集した大名を毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・細川忠興・加藤清正・加藤嘉明・浅野幸長・佐竹義宣・立花宗茂・小早川秀包・小西行長・長宗我部盛親・岩城・原・熊谷・垣見・福原・織田秀信・織田秀雄・石田三成・増田長盛・浅野長政・長束正家・前田玄以・鍋島直茂・有馬晴信・松浦鎮信らであるとしている[32][33]
  5. ^ この7名は史料によってメンバーに違いが存在するが、ここでは近年の研究において採用されている慶長3年閏3月5日付家康書状の宛所(宛名)の7名を記す。
  6. ^ 徳川家の大名は多くが領国の北側に配されている。ただし、井伊の様に軍監として東海道先発隊に加わったり、大久保忠隣の様に秀忠の補佐として中山道隊に加わったりと若干の入れ替えはある。
  7. ^ 「森家先代実録」によれば森忠政は自領である川中島に待機するよう家康から厳命されており中山道隊参加の形跡は一切無い。また川中島待機を命じる家康からの書状も森家に現存している。
  8. ^ 真田昌幸の西軍転身を受けて家康より帰領申し付け。よって中山道隊には不参加で在国[53]
  9. ^ 工藤章興によると関ヶ原の本戦に参加したとしている[54]。古来より同族で同じく東軍についた古田重然(古田織部)と混同されており、本戦で戦ったのを重然とする史料(太田牛一『慶長記』)もある。
  10. ^ 原文では「鍋嶋」としか表記されておらず、実名は不明。
  11. ^ 諏訪勝則作成の表(『歴史読本』780号 新人物往来社、2004年)掲載のでは一忠。
  12. ^ 黄母衣衆や、織田信吉織田長次が布陣したとされる。
  13. ^ 古田重然という説もある。
  14. ^ これについて、中山道軍の遅参のため徳川本軍は合戦で大きな役割を果たすことができず、外様大名に戦功を挙げられてしまい、そのため戦後処理で主導権を取りづらくなったことが原因であるとの説がある。
  15. ^ 吉橋村は三成の母の出身地である杉野村の近隣であり、同村の三珠院または飯福寺が秀吉と三成が初めてであった「三杯の茶(三献茶)」の舞台であったとする伝承がある[145]
  16. ^ 旧暦10月18日に自刃したとする説もある。
  17. ^ 慶長10年(1605年)毛利家御前帳に29万8480石2斗3合と記されている。
  18. ^ 慶長15年(1610年)に領内検地の後、幕閣とも協議し高直し
  19. ^ ただし、これについては吉川氏は関ヶ原以前より毛利氏庶家の筆頭の地位に過ぎず、万一の際の毛利宗家継承権を有していた長府毛利家徳山毛利家とは同列には出来ないとする見解もある[152]
  20. ^ 厳密には「慶長三年御蔵納目録」作成時点での数字。それ以降大名への給付によって減少していると考えられる。

出典

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  29. ^ 毛利家文書3、p.247
  30. ^ 「関ヶ原軍記大成」では政宗・福島正則蜂須賀家政の3名をあげているが、「家忠日記増補追加」・「伊達日記」では政宗の名前のみが載せられている。
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