関ヶ原の戦い 地方への波及

関ヶ原の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 03:31 UTC 版)

地方への波及

美濃関ヶ原での戦いと連動して、その前後、全国各地で東軍支持の大名と西軍支持の大名とが交戦した。

奥羽

上杉征伐のきっかけは、堀秀治の讒訴というのが定説であるが、近年秀治が西軍側につこうとしたことを示す書状などが発見されている。家康は三成挙兵により反転する際、結城秀康を主力に、上杉領に面した最上義光や、その近隣の秀治や伊達政宗に対して景勝監視の命を下した。上杉領を自領が分断する形になっていた最上義光は、上杉勢との衝突は避けられなかった。義光は奥羽諸将と連合し上杉勢と戦おうとしたが、関ヶ原開戦の報を受けると諸将は自国安定のため引き上げていった。数の上で不利を悟った義光は、嫡子を人質とすることを条件に上杉勢に和睦を申し入れたが、義光が秋田実季(東軍)と結び上杉領を攻める形跡を上杉側に知られたため成立しなかった。9月9日、米沢城方面から直江兼続が指揮を執る軍が、また庄内から志駄義秀・下対馬軍が最上領に押し入った。さらに小野寺義道も最上領湯沢城を攻撃した。

伊達政宗は東軍につき徳川家康が勝利した暁には、政宗の旧領7郡を加増し百万石の領地を与えるという、家康から「百万石のお墨付き」(仙台市博物館蔵)を受け取っていた。伊達勢は上杉領の白石城を攻撃し占領するも、これを返還することを条件に上杉勢と和睦を結んだ。

最上義光は9月12日の畑谷城落城をうけて9月15日嫡男最上義康を伊達政宗に派遣し援軍を要請。伊達家内では「上杉勢と最上勢を戦わせた後に攻めれば、上杉勢を退けることが出来、山形は労せずして我が物になる」という片倉景綱の進言も出たが、最上潰滅は上杉景勝の脅威をまともに受けることにつながるので(一説には山形城に居るの身を政宗が案じたとも)留守政景を総大将名代として9月17日に援軍を出撃させた。9月15日直江兼続本隊が長谷堂城攻撃を開始。9月21日伊達氏援軍が山形城東方の小白川に着陣する。兼続は最上勢の鮭延秀綱らに苦戦し、志村光安が守備する寡兵の長谷堂城を攻略しきれなかったことで戦局は膠着状態となったが、9月29日に関ヶ原の詳報が両軍陣営に達し、流れは最上勢に傾いた。

兼続は撤退を命令し、自身で殿軍を努め撤退を開始した。最上軍・伊達軍は追撃を開始し、義光自ら先頭に立ち攻撃を仕掛けた。この追撃戦は混戦となり、義光は兜に銃弾を受けるなどしたが、最上義康らの軍勢が追いつき難を逃れた。兼続勢は10月4日に米沢城に帰還したが、最上領内部に取り残された上杉勢は最上勢に敗れ、下秀久など降伏する者が相次いだ。また、伊達政宗も10月6日には2万の軍勢で上杉領の信夫郡福島城に攻めかかったが、福島城代の本庄繁長と梁川城代の須田長義の抵抗に遭い攻略に失敗して撤退した。(松川の戦い)

北陸

前田利長は上杉攻めを支援すべく、7月26日に金沢を出発。8月に入り山口宗永が篭る大聖寺城を包囲、3日で落城させると青木一矩の北ノ庄城を囲んだ。しかし、「大谷吉継の大軍が後詰でやってくる」という虚報(吉継自身が流したと言われている)に引っかかり、急いで金沢に引き返そうとした。

利長は途中軍勢を二手に分け、丹羽長重が篭る小松城に別働隊を送り込んだ。8月9日、別働隊に長重の篭城軍が攻撃して、別働隊を破った長重はさらに利長の本隊も襲い、損害を与えた(浅井畷の戦い)。こう着状態になったあと長重は和睦、小松城を明け渡した。金沢に戻った利長は軍を建て直し、9月12日に再度金沢を出発したが、結局関ヶ原には到着できなかった。この時、大聖寺城攻撃には参加していた弟の前田利政は、居城である七尾城に篭ったまま動かず、東軍には加わらなかった。利政はかねてより西軍への参加を主張していたとも、西軍の人質となっていた妻子が救出されるまで動くべきではないと考えていたとも言われ、結果的に領地没収となった[138]

畿内近国

大津城

田辺城

四国

伊予でも東軍についた加藤嘉明松前城に対し、毛利軍が戦闘をしかけた。平安時代から続く旧伊予守護家・河野氏当主であった河野通軌河野通直の養子。実父は毛利氏重臣・宍戸元秀)を始め平岡直房・曽根高房ら河野氏遺臣、村上武吉村上元吉父子ら伊予に縁のある毛利家臣が三津浜に上陸し、陣を敷いた。松前城に対し開城を要求したが、加藤家の留守居役佃十成らに夜襲を受け、村上元吉らが討ち死にし(三津刈屋口の戦い)、その後も毛利方が不利のまま関ヶ原での西軍敗北を受けて毛利軍は撤退、関ヶ原の戦いに乗じた河野氏再興はならなかった。また阿波の蜂須賀領、讃岐の生駒領は父が西軍、子は東軍になったが、父の西軍参加は消極的なものであった。そのため、彼の領地は毛利家に占領されている。このように、戦国時代より領土を拡張していった毛利氏は関ヶ原の戦いの前後の政変に於いて、豊臣政権の名において四国に対する各方面での攻略を行ったが、関ヶ原の本戦で西軍が一日にして敗北すると兵を収め、その反徳川的行動から所領の多くを失うこととなった。

阿波方面

阿波の領主のうち赤松氏は毛利輝元などによる豊臣政権としての動員命令に従って西軍となった。蜂須賀家政は嫡男の至鎮を東軍として派遣していたが少数(一説には18騎)であり、多くの兵力が国元の阿波に止まっていたと考えられる。輝元が大坂城に入城して豊臣政権から親徳川勢力を一掃すると大坂に居た家政は親徳川的な態度を咎められて逼塞処分の後、剃髪して高野山へ追放され、家臣団は豊臣家の馬廻衆に編入されて北国へ出陣されることとなった。また毛利氏が阿波の対岸の大坂を抑えるために豊臣政権としての命令が出され、本国の阿波は関ヶ原の帰趨が決すまでの一時期、毛利氏の占領下に置かれた。西軍による伏見城攻撃中の7月29日、大老の毛利輝元と、奉行の長束正家・増田長盛・前田玄以の著名により毛利家家臣の佐波広忠と村上元吉・景親兄弟に蜂須賀家家臣と共同して阿波の管理をするように指令している。8月には村上兄弟に代わって毛利家家臣の椋梨景良・仁保民部少輔・三輪元徳が阿波の管理に派遣された。9月19日関ヶ原の趨勢が決し、家康と和議進捗中で輝元は阿波の占領を解いて占領軍に大坂への撤退を命じ、家政への返還を申し入れている。阿波占領軍は25日、蜂須賀家の益田彦四郎に徳島城を引き渡し、阿波占領は終了した[139]

讃岐方面

讃岐の生駒氏に関しては関係史料が少ないが、阿波と似た様な状況にあり、生駒親正は生駒一正を東軍に付けており、岐阜城の戦いでは家康より感状を受領する程奮戦しているが、本国では蜂須賀氏と似たような状況であり、毛利氏の意向を受けた豊臣政権の圧力を受けて同じように剃髪して高野山へ一時追放され、讃岐を占領され、後に復権した。占領中に生駒氏の軍は西軍に編入されて田辺城攻めに使われた。このような状況は関ヶ原の戦いの結果が出るまで続いた[139]

伊予方面

伊予の領主のうち小川氏・池田氏・来島氏は毛利輝元などによる豊臣政権としての動員命令に従って西軍となった。大規模な戦闘に至らなかった阿波や讃岐と違って伊予方面では毛利輝元の意を受けた伊予攻略軍が東軍の加藤嘉明と藤堂高虎の領地に対して調略を行った。加藤領に対しては直接の軍事行動を起こし、旧河野家の後継者的立場にあった宍戸景世(河野通軌に比定)が総大将格となり、他に桂元綱、伊予国人の曽根景房、因島村上氏や8月に阿波方面から抽出された村上元吉が伊予に派遣された。9月17日に三津浜に上陸した伊予攻略軍は佃十成が指揮を執る加藤家の留守部隊に急襲されて村上元吉や曽根景房が戦死した(三津浜夜襲)。毛利家ではこの敗戦に対して宍道政慶と木屋元公を増派している。加藤家の編纂資料である『明公秘録』ではこの三津浜の戦闘で加藤軍にも多くの戦死者が出たとされており、三津浜を引き払った伊予侵攻軍は内陸部に侵攻し久米の如来院を占領して荏原城で蜂起した旧河野家家臣の平岡直房や正岡氏に呼応している。19日には如来院で戦闘が行われ、加藤家の指揮官の黒田九兵衛直次が戦死している。23日の三津ノ木山での戦闘を最後に、翌日には関ヶ原の戦いの結果を受けて伊予攻略軍は撤退した[139]

また、毛利氏は藤堂高虎の領地には直接の侵攻を行なわなかったが、旧西園寺氏の家臣の久枝氏や山田氏などの在地勢力に蜂起工作を行った。その結果、宇和郡松葉村の三瀬六兵衛が毛利氏に内通して一揆を起こし、鎮圧軍では足軽大将の力石治兵衛(力石是兵衛)が戦死するなど、一度板島へ引き上げた後に宇都宮氏の旧臣栗田宮内の働きにより、ようやく鎮圧された[139]

土佐方面

土佐の長宗我部氏は毛利輝元などによる豊臣政権としての動員命令に従って西軍として行動した。

九州

九州では主に領国に所在した黒田如水と加藤清正が西軍大名領に攻め込む形で戦いが発生した。

黒田如水

7月に石田三成が挙兵すると孝高は徳川家康につき九州で挙兵する意思を示し、これが家康に認められると9月9日に中津城より豊前・豊後に出陣した。孝高の最初の目標は豊後国東の垣見一直の富来城と熊谷直盛の安岐城であり、両領主は美濃の大垣城に所在しており、留守を家臣が守っていた。両城の攻撃は大友義統による豊後上陸と杵築城(木付城)攻撃に対応と石垣原の戦いにより一時中断されるが、9月17日よりから再開され、24日には両城とも開城・接収された。毛利高政領の本城日隈城及び支城の角牟礼城も19日以降に開城・接収されている。侵攻中の19日に孝高が藤堂高虎宛てに送った書状では、如水と加藤清正が自力で切り取った西軍領を拝領できるよう家康に取り成して欲しいと依頼している。佐賀の鍋島直茂は息子の勝茂が西軍についたが在国の直茂は9月下旬に孝高・清正につき領国を保った。小早川秀秋領の名島城は領主留守中に黒田軍が秋月まで侵攻したが、留守居役と交渉して久留米攻めに合意して東軍となり小早川領を維持した。毛利秀包領の久留米城は領主留守中に黒田・鍋島軍の攻撃を受け、10月14日に孝高により開城・接収された。中川秀成は配下の宗像・田原氏が離脱して石垣原の戦いに参加したため西軍と疑われたが黒田軍について佐賀関の戦いで被害を出したものの太田一吉領の臼杵城を10月頃に開城させて東軍であることを証明した。城は最終的に黒田孝高が接収した[140]

毛利勝信

毛利勝信(吉成)は毛利輝元や奉行衆の使者として8月18日に熊本城の加藤清正の下へ派遣され、西軍参加を説得した(ただし、途中で伏見城攻撃時に自軍が甚大な被害を受けた報を聞き、急遽小倉に引き返したため勝信の家臣が清正に書状を渡したもいわれる[141])。毛利勝信は子の毛利勝永(吉政)が指揮した伏見城攻撃時に多くの家臣(毛利九左衛門、毛利勘左衛門など)を失い、続く安濃津城攻撃や関ヶ原本戦時に吉政は輝元家臣と共に安国寺恵瓊の指揮下に編成されるなど単独の軍事編成が失われ、家中も混乱状態にあった。東軍についた黒田如水が軍勢を整えて攻撃を仕掛ける様相を呈している中で、領国同士が海峡を挟んで隣接し、西軍の盟主でもあった毛利輝元は家臣の三沢為虎・和田重信などを勝信領の門司城に派遣し、同じく主城の小倉城も輝元勢の統制下に置いて対抗した[142]。本戦の結果により輝元も手を引き、毛利勝信領の小倉城は10月19日以前に如水により開城・接収された[140]

加藤清正

加藤清正は関ヶ原の戦いの前年に発生した薩摩・島津家中の内紛である庄内の乱の際に、反乱を起こした伊集院忠真を秘かに支援していたことが家康に知られ、庄内の乱の収拾を図っていた家康の怒りを買った結果、上杉征伐への参加を認められなかった。清正と家康の疎遠化という事態に対し、西軍は毛利輝元らが書状を送って西軍への参加を求めて説得工作を行った(前述の毛利勝信の派遣もその一環である)。しかし、清正は家康から上杉遠征軍に自らの家臣や小姓を随行させる許可を得て、万が一の際に家康との連絡を取る態勢を整えていた。そして、家康は小山評定の直後に随行していた清正の家臣に書状を託して帰国させ、家康が尾張に到着するまでは勝手な軍事行動を控えるように指示して実質東軍への参戦を認めた。この家臣が帰国して家康の書状を清正に渡したのは8月後半と推定されているが、その間にも清正は黒田如水や松井康之(細川忠興重臣・杵築城守将)と連絡を取り協力を約していた[141]。肥後では宇土城の小西行長と人吉城相良頼房が西軍として出兵中であり、8月12日付け書状により家康より加藤清正は肥後と筑前は切り取り次第であることを認められた[140](ただし、この使者が清正の許に到着したのは9月10日のことである[141])。領国の熊本城を9月15日に進発した加藤清正は、当初は大友義統に攻められた豊後・杵築城の救援に駆けつける予定であったが、この日に発生した石垣原合戦で大友軍は壊滅、黒田如水からの書状で事情を知った清正は17日に豊後入りを取りやめてそのまま兵を小西領に向けて方向を転じた。19日より宇土城へ攻め寄せて21日には城下を焼き払った。小西行長の本城宇土城は城代の小西行景が南条元琢・内藤如安と共に堅守して加藤軍を苦しめると共に島津に援軍を要請し、島津義久島津忠長新納忠元らを肥後に派遣し、肥後水俣城に籠もり、芦北を攻めるなど加藤軍と戦った。本戦の結果を受けて10月20日に小西行景が開城に応じて自刃すると島津勢も薩摩へ帰還した[143]。なお、先立つ10月17日に清正家臣の吉村左近は小西領八代城を接収しており、宇土城も清正により11月には占領統治が開始されている[140]

立花宗茂

立花宗茂は、当初西軍に属した後に岐阜城陥落の報を契機に大津城に籠城して東軍となった京極高次を毛利勢と共に攻撃して開城させ、関ヶ原本戦には参加できなかった。本戦後、大坂城経由で海路領国の柳川城へ10月初めに帰城すると、黒田・加藤・鍋島の攻撃を受ける。10月20日には柳川北方で鍋島勢と衝突し(江上合戦・八院の戦い・柳川合戦)立花了均(鎮実)・立花統次新田鎮実らの重臣を失い、宿老の小野鎮幸も重傷を負うなどの大打撃を受けた。家康により身上安堵の朱印状を受領した後に、加藤清正と25日に和睦が成立した。柳川城は清正家臣の加藤正次が受領した[144]。この後、孝高と清正は加藤・黒田・鍋島・立花からなる九州連合軍を編成して島津攻めの準備に掛かる一方、宗茂を仲介として和平交渉を行っている。11月になると家康は薩摩攻めの中止を指示し、企画されていた徳川秀忠による島津攻めは計画のみに終わった。なお、佐土原の島津豊久は本戦で戦死したが、領国は薩摩の庇護を受けて維持した[140]

その他諸将

その他、伊東祐兵は病のために大坂に滞在していたものの、早くから家康に通じて領国の兵が東軍として戦ったために所領を安堵された。

相良頼房・秋月種長・高橋元種は東軍に内応して大垣城を占拠したことで現状維持したが、高橋元種の支城であった宮崎城は伊東祐兵に占領された。

その他

関東

常陸の大名であった佐竹義宣は三成と親交が深く、上杉景勝と連携して会津征伐に向かう徳川軍を挟撃するという密約を結んでいたといわれる。だが父・佐竹義重や弟で蘆名氏を継いだ蘆名盛重、重臣筆頭である佐竹義久が「東軍に与すべし」と主張し義宣の西軍加担に強硬に反対した。隠居していたとはいえ一代で佐竹氏を北関東・仙道筋の一大勢力に成長させた義重の発言は当主である義宣も無視できず、自身の三成との親交と板ばさみとなり曖昧な態度に終始した。すなわち配下の武将を中山道進軍中の秀忠隊に派遣し、従軍させたのである。配下の多賀谷重経や、小勢力の山川朝信相馬義胤岩城貞隆は景勝に通じていたが、これには宇都宮氏一族で結城秀康の家督相続によって当主の座を追われて浪人となった結城朝勝(佐竹義重の妹が生母)の動きが背後にあった。

伊勢

関ヶ原に進出途上だった毛利勢らが、道中にあった安濃津城など伊勢の諸城を攻め立てた。安濃津城の富田信高は降伏・出家、松坂城の古田重勝は和睦で時間稼ぎしつつ持ちこたえた。桑名城の氏家行広・氏家行継兄弟は当初中立を宣言していたが西軍の圧力に押されて西軍に加担した。その後西軍は福島正頼(正則の弟)が籠もる長島城を攻略しようとしたが、東軍が清洲城に集結したとの報に接し美濃方面へ転進している。

伊賀

安濃津城攻略向け進軍してきた西軍は3万の兵で伊賀上野城を攻める(上野城の戦い)が、筒井玄蕃は高野山へ逃亡・謹慎し、城を交戦せずに明け渡し、新庄直頼が入った。会津征伐に出陣中の城主筒井定次は、徳川家康に許しを得て伊賀国に引き返し、伊賀衆と共に上野城を攻撃する。戦闘の末新庄親子は降伏し、退却した。上野城を奪還した定次は関ヶ原へ引き返し、石田三成らと交戦した。




注釈

  1. ^ 近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている(関ケ原 戦いの場所は「青野カ原」 合戦直後の文書に記載 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。
  2. ^ なお、この二派を、東軍・西軍と呼んだのは後世のことである。
  3. ^ 藤木は「太閤蔵入地をめぐる政権中枢の大名たちの暗闘のなかに、すでに関ケ原戦への予兆をはっきりと読み取ることができる」と述べている。
  4. ^ 宝永5年(1708年)に成立したとされる木村高敦の『武徳安民記』などを史料として用いた岩澤愿彦は、この時の伏見の徳川家康邸に参集した大名を福島正則・池田輝政・森忠政・織田有楽・黒田如水・黒田長政・藤堂高虎・有馬則頼・金森長近・新庄直頼・新庄直忠・蜂須賀家政・山内一豊・有馬豊氏・京極高次・高知兄弟・脇坂安治・伊達政宗・大谷吉継・堀秀治・最上義光・田中吉政らであるとしている。そして、大坂の前田利家邸に参集した大名を毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・細川忠興・加藤清正・加藤嘉明・浅野幸長・佐竹義宣・立花宗茂・小早川秀包・小西行長・長宗我部盛親・岩城・原・熊谷・垣見・福原・織田秀信・織田秀雄・石田三成・増田長盛・浅野長政・長束正家・前田玄以・鍋島直茂・有馬晴信・松浦鎮信らであるとしている[32][33]
  5. ^ この7名は史料によってメンバーに違いが存在するが、ここでは近年の研究において採用されている慶長3年閏3月5日付家康書状の宛所(宛名)の7名を記す。
  6. ^ 徳川家の大名は多くが領国の北側に配されている。ただし、井伊の様に軍監として東海道先発隊に加わったり、大久保忠隣の様に秀忠の補佐として中山道隊に加わったりと若干の入れ替えはある。
  7. ^ 「森家先代実録」によれば森忠政は自領である川中島に待機するよう家康から厳命されており中山道隊参加の形跡は一切無い。また川中島待機を命じる家康からの書状も森家に現存している。
  8. ^ 真田昌幸の西軍転身を受けて家康より帰領申し付け。よって中山道隊には不参加で在国[53]
  9. ^ 工藤章興によると関ヶ原の本戦に参加したとしている[54]。古来より同族で同じく東軍についた古田重然(古田織部)と混同されており、本戦で戦ったのを重然とする史料(太田牛一『慶長記』)もある。
  10. ^ 原文では「鍋嶋」としか表記されておらず、実名は不明。
  11. ^ 諏訪勝則作成の表(『歴史読本』780号 新人物往来社、2004年)掲載のでは一忠。
  12. ^ 黄母衣衆や、織田信吉織田長次が布陣したとされる。
  13. ^ 古田重然という説もある。
  14. ^ これについて、中山道軍の遅参のため徳川本軍は合戦で大きな役割を果たすことができず、外様大名に戦功を挙げられてしまい、そのため戦後処理で主導権を取りづらくなったことが原因であるとの説がある。
  15. ^ 吉橋村は三成の母の出身地である杉野村の近隣であり、同村の三珠院または飯福寺が秀吉と三成が初めてであった「三杯の茶(三献茶)」の舞台であったとする伝承がある[145]
  16. ^ 旧暦10月18日に自刃したとする説もある。
  17. ^ 慶長10年(1605年)毛利家御前帳に29万8480石2斗3合と記されている。
  18. ^ 慶長15年(1610年)に領内検地の後、幕閣とも協議し高直し
  19. ^ ただし、これについては吉川氏は関ヶ原以前より毛利氏庶家の筆頭の地位に過ぎず、万一の際の毛利宗家継承権を有していた長府毛利家徳山毛利家とは同列には出来ないとする見解もある[152]
  20. ^ 厳密には「慶長三年御蔵納目録」作成時点での数字。それ以降大名への給付によって減少していると考えられる。

出典

  1. ^ 『関原始末記』
  2. ^ 『関原軍記大成』
  3. ^ 『関原合戦記』
  4. ^ 関ヶ原合戦”. 八代市. 2018年1月8日閲覧。
  5. ^ 天下分け目の「青野カ原」? 5日後の古文書
  6. ^ 林千寿「関ヶ原合戦における細川家: その動向と動機」『熊本史学』76・77号、2000年。
  7. ^ 林千寿、「慶長五年の戦争と戦後領国体制の創出」 熊本大学学位論文 甲博文第27号, 2009年, 熊本大学大学院社会文化科学研究科
  8. ^ 森山恒雄『豊臣氏九州蔵入地の研究』
  9. ^ 藤木『天下統一と朝鮮侵略』p.355
  10. ^ 藤木『天下統一と朝鮮侵略』pp.347-358[注釈 3]
  11. ^ 朝尾直弘『将軍権力の創出』岩波書店、1994年、93頁以降。
  12. ^ 戸谷穂高「天正・文禄期の豊臣政権における浅野長吉」『遙かなる中世』第21号、2006年。
  13. ^ 曽根勇二『近世国家の形成と戦争体制』校倉書房、2004年。
  14. ^ 梯弘人「豊臣期関東における浅野長政」『学習院史学』第49号、2011年。
  15. ^ 曽根勇二「豊臣奉行衆と片桐且元の動きについて-秀吉権力の集権性をめぐって-」『本郷』第34号、2001年。
  16. ^ a b 笠谷 1998.
  17. ^ 中野等「黒田官兵衛と朝鮮出兵」『黒田官兵衛 -豊臣秀吉の天下取りを支えた軍師-』宮帯出版社、2014年。
  18. ^ 中野等「唐入り(文禄の役)における加藤清正の動向」『九州文化史研究所紀要』第53号、2013年。
  19. ^ 金時徳「近世文学と『懲毖録』-朝鮮軍記物(壬辰倭乱作品群)とその周辺-」『近世文藝』88号、2008年。
  20. ^ 山本洋「『陰徳太平記』編述過程における記事の改変について」『軍記と語り物』第44号、2008年。
  21. ^ 津野倫明「慶長の役における「四国衆」」『歴史に見る四国』雄山閣、2008年。
  22. ^ 金子拓「肥後加藤家旧蔵豊臣秀吉・秀次朱印状について」『東京大学史料編纂所研究紀要』21号、2011年、 32頁。
  23. ^ 中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年、523頁以降。
  24. ^ 大浪和弥「加藤清正と畿内-肥後入国以前の動向を中心に-」『堺市博物館研究報告』第32号、2013年。
  25. ^ 阿部一彦「『太閤記』の歴史認識と批判精神-関白秀次事件をめぐって-」『『太閤記』とその周辺』和泉書院、1997年。
  26. ^ 豊臣秀吉遺言覚書(『大日本古文書 家わけ第2浅野家文書』東京大学史料編纂所1968年、p.135)
  27. ^ 文禄4年8月3日付豊臣家五大老連署條目(『大日本古文書 家わけ第2浅野家文書』東京大学史料編纂所1968年、p.477)
  28. ^ 毛利家文書3、pp.244-252、等
  29. ^ 毛利家文書3、p.247
  30. ^ 「関ヶ原軍記大成」では政宗・福島正則蜂須賀家政の3名をあげているが、「家忠日記増補追加」・「伊達日記」では政宗の名前のみが載せられている。
  31. ^ 国史研究会編『関原軍記大成(一)』国史研究会1916年、p.60
  32. ^ a b 岩澤愿彦『前田利家』日本歴史学会編集、吉川弘文館、1988年
  33. ^ a b 木村高敦『武徳安民記』巻三、p67、宝永5年(1708年)
  34. ^ 笠谷和比古「豊臣七将の石田三成襲撃事件 : 歴史認識生成のメカニズムとその陥穽」『日本研究』第22集、2000年、pp35-47
  35. ^ 宮本義己「徳川家康の人情と決断―三成"隠匿"の顚末とその意義―」『大日光』第70号、2000年。
  36. ^ 跡部信「秀吉独裁の権力構造」『大阪城天守閣紀要』第37号、2009年。
  37. ^ 水野 2016, p. 46.
  38. ^ a b 児玉幸多「参勤交代制度の意義」『日本学士院紀要』第52巻3号、1998年
  39. ^ 豊臣秀吉遺言覚書(『大日本古文書 家わけ第2浅野家文書』東京大学史料編纂所1968年、p.135)
  40. ^ a b c 谷 2014.
  41. ^ 毛利家文書3、pp.292-293
  42. ^ 水野 2016, p. 81-82.
  43. ^ a b 高橋 2009.
  44. ^ 水野 2016, p. 67.
  45. ^ 水野 2016, p. 65.
  46. ^ 白峰 2012(1).
  47. ^ 史籍集覧26, p. 95.
  48. ^ a b 白峰 2016(2).
  49. ^ 史籍集覧26, p. 45.
  50. ^ a b 藤井尚夫『フィールドワーク関ヶ原合戦』朝日新聞社、1998年。
  51. ^ 本間宏「慶長五年「白河決戦」論の誤謬」『福島史学研究』第89号、2011年。
  52. ^ 宮本義己「内府(家康)東征の真相と直江状」『大日光』第78号、2008年。
  53. ^ 「史料綜覧11」
  54. ^ 二木 1994, 工藤章興「ドキュメント関ヶ原9.15」
  55. ^ 義演准后日記慶長5年6月18日条
  56. ^ 7月朔日付田中吉次宛石川康通書状(愛知県 2011、p.644)
  57. ^ 7月7日付最上義光宛徳川家康書状(中村 1959、p.505)
  58. ^ 時慶記慶長5年7月5日条
  59. ^ 7月12日付毛利輝元宛豊臣三奉行連署書状(『松井文庫所蔵古文書調査報告書2』八代市立博物館未来の森ミュージアム、1997年 p.139)
  60. ^ 7月12日付永井直勝宛増田長盛書状(中村 1959、p.518)。なおこの書状については原文が存在せず、また内容に不審な点があることから偽文書の可能性が指摘されている。
  61. ^ 7月13日付榊原康政・本多正信・永井直勝宛益田元祥・熊谷元直・宍戸元次連署書状(吉川家文書2、p.59)
  62. ^ 7月14日付榊原康政宛吉川広家書状(吉川家文書2、p.61)
  63. ^ 7月15日付加藤清正宛毛利輝元書状(『松井文庫所蔵古文書調査報告書2』八代市立博物館未来の森ミュージアム、1997年 p.140)
  64. ^ 旧後3, p. 552.
  65. ^ 7月17日付前田利長宛毛利輝元・宇喜多秀家連署書状(『武家事紀・中巻』山鹿素行先生全集刊行会、1915年 p.663)
  66. ^ 義演准后日記慶長5年7月18日条
  67. ^ 北野社家日記7月17日条
  68. ^ 平山優『大いなる謎真田一族 最新研究でわかった100の真実』PHP研究所、2015年、247-248頁。
  69. ^ 丸島和洋『真田信繁の書状を読む』星海社、2016年、148-149頁。
  70. ^ 平山優『真田信之』PHP研究所、2016年、148-149頁。
  71. ^ 時慶記7月18日条
  72. ^ 義演准后日記7月19日条
  73. ^ 時慶記7月19日条
  74. ^ 言経卿記7月22日条
  75. ^ 義演准后日記7月23日条
  76. ^ 近藤瓶城編 『改定史籍集覧第15冊』 近藤出版部、1902年。 
  77. ^ 井上泰至編 『関ヶ原はいかに語られたか―いくさをめぐる記憶と言説』 勉誠出版、2017年、27-28頁。 
  78. ^ 7月18日付明行坊・経聞坊宛稲葉通孝書状(『岐阜県史史料編史古代中世1』岐阜県、1969年 p.851)
  79. ^ 7月22日付滝川雄利宛徳川秀忠書状(中村 1959、p.526)
  80. ^ 7月21日付松井康之・有吉立行・魚住昌永宛細川忠興書状(『関ヶ原合戦と九州の武将たち』八代市立博物館未来の森ミュージアム、1998年 p.127)
  81. ^ 7月23日付最上義光宛徳川家康書状(中村 1959、p.522)
  82. ^ 7月26日付堀秀治宛徳川家康書状(中村 1959、p.531)
  83. ^ 7月26日付田中吉政宛徳川家康書状(中村 1959、p.530)
  84. ^ 7月27日付秋田実季宛榊原康政書状(中村 1959、p.534)
  85. ^ 7月29日付黒田長政宛徳川家康書状、他(中村 1959、pp.538-540)
  86. ^ 7月晦日付藤堂高虎宛徳川家康書状(中村 1959、p.544)
  87. ^ 7月26日付中川秀成宛豊臣三奉行連署書状(愛知県 2011、p.647)
  88. ^ 7月晦日付真田昌幸宛石田三成書状(『真田家文書上巻』長野市、1981年 p.54)
  89. ^ 義演准后日記他日記類の8月1日条
  90. ^ 8月朔日付豊臣大老・奉行連署書状(『武家事紀・中巻』山鹿素行先生全集刊行会、1915年 p.663)
  91. ^ 義演准后日記8月8日条
  92. ^ 8月4日付福島正則宛徳川家康書状、他(愛知県 2011、p.651)
  93. ^ 8月5日付福島正則・徳永寿昌宛徳川家康書状(愛知県 2011、p.653)
  94. ^ 義演准后日記8月5日条
  95. ^ 8月5日付真田昌幸他2名宛石田三成書状(『真田家文書上巻』長野市、1981年 p.61)
  96. ^ 8月10日付佐竹義宣宛石田三成書状(愛知県 2011、p.663)
  97. ^ 8月19日付島津忠恒宛島津義弘書状(旧記雑録後編3 p.565)
  98. ^ 8月20日付本田正親宛島津義弘書状(旧記雑録後編3 p.566)
  99. ^ 8月19日付井伊直政・本多忠勝宛黒田長政他2名連署書状(愛知県 2011、p.672)
  100. ^ 8月22日付本多正信他2名宛井伊直政書状(愛知県 2011、p.681)
  101. ^ 8月24日付結城秀康宛福島正則書状(愛知県 2011、p.686)
  102. ^ 8月29日付堀秀治宛徳川家康書状(愛知県 2011、p.693)
  103. ^ 8月28日付黒田長政宛徳川秀忠書状(『信濃史料補遺巻下』信濃史料刊行会1969年、p.60)
  104. ^ 8月24日付竹中重門他2名宛井伊直政書状(『岐阜県史史料編史古代中世4』岐阜県、1973年 p.1126)
  105. ^ 8月29日付黒河内長三宛保科正光書状(愛知県 2011、p.694)
  106. ^ 8月27日付福島正則宛徳川家康書状、8月27日付藤堂高虎他8名宛徳川家康書状、他(中村 1959、pp.634-637)
  107. ^ 時慶記8月27日条
  108. ^ 9月朔日付福島正則・池田照政等宛徳川家康書状(中村 1959、p.658)
  109. ^ 9月朔日付堀直寄宛徳川家康書状(中村 1959、p.660)
  110. ^ 9月3日付加藤貞泰・竹中重門宛徳川家康書状(中村 1959、p.664)
  111. ^ 時慶記9月3日条
  112. ^ 義演准后日記9月5日条
  113. ^ 御厨義道 「関ヶ原合戦における京極高次と大津籠城」、橋詰茂編 『戦国・近世初期西と東の地域社会』 岩田書院、2019年。 
  114. ^ 9月5日付浅野長政宛徳川秀忠書状(『大日本古文書 家わけ第2浅野家文書』東京大学史料編纂所1968年、p.141)
  115. ^ 9月12日付祖式長吉好宛吉川広家書状 (『大日本古文書家わけ九吉川家文書別集』東京帝国大学、1932年 p.44)
  116. ^ 10月7日付本多正純宛池田照政書状(『新修徳川家康文書の研究』徳川黎明会2006年、p.294)
  117. ^ 9月9日付福島高晴宛徳川家康書状(中村 1959、p.678)
  118. ^ 9月10日付藤堂高虎宛徳川家康書状(中村 1959、p.680)
  119. ^ 9月13日付丹羽長重宛徳川家康書状(中村 1959、p.688)
  120. ^ 9月12日付温井蔵助宛細川幽斎書状(『関ヶ原合戦史料集』藤井治左衛門、1979年p.347)
  121. ^ 言経卿記9月12日条、中臣祐範記9月13日条、北野社家日記9月14日条
  122. ^ 北野社家日記9月15日条
  123. ^ 9月15日付伊達政宗宛徳川家康書状(中村 1959、p.698)
  124. ^ 義演准后日記9月17日条
  125. ^ 10月8日付秋田実季宛最上義光書状(『山形県史資料編15上』山形県1977年、p.1004)
  126. ^ 9月21日付相良長毎宛井伊直政書状(『大日本古文書家わけ五の二相良家文書』東京帝国大学、1919年p.286)
  127. ^ 9月17日付毛利輝元宛福島正則・黒田長政書状(毛利家文書3、p.299)
  128. ^ 9月22日付井伊直政本多忠勝宛毛利輝元起請文(毛利家文書3、p.300)
  129. ^ 10月10日付毛利輝元・秀就宛徳川家康起請文 (吉川家文書2、p.71)
  130. ^ 9月25日付福島正則他4名宛徳川秀忠書状及び9月25日付池田照政・浅野幸長宛徳川家康書状(中村 1959、p.753-755)
  131. ^ 言経卿記9月25日条
  132. ^ 言経卿記9月27日条
  133. ^ 舜旧記、北野社家日記、時慶記、等日記類の10月1日条
  134. ^ 『新修福岡市史資料編中世1市内所在文書』福岡市2010年、pp.177-178
  135. ^ 中村 1959、p.698
  136. ^ 近藤瓶城編 『改定史籍集覧26』 近藤出版部、1902年。 
  137. ^ 大澤泉「史料紹介 杤山斉氏所蔵『内府公軍記』」『大阪城天守閣紀要』第37号、2009年。史料本文は本論文掲載の翻刻文を利用し、史料の概要は補論の「『内府公軍記』諸本の比較と編纂過程」を参照。
  138. ^ 見瀬和雄「関ヶ原合戦前後における前田利政の動静」『金沢学院大学紀要』12号、2014年。/所収:大西泰正編 『前田利家・利長』 戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 第三巻〉、2016年。ISBN 978-4-86-403207-0 
  139. ^ a b c d e 光成 2009.
  140. ^ a b c d e 林 2010
  141. ^ a b c 山田貴司「関ヶ原合戦前後における加藤清正の動向」(初出:熊本県立美術館 編『生誕四五〇年記念展 加藤清正』(2012年)/所収:山田貴司 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』(戒光祥出版、2014年)ISBN 978-4-86403-139-4
  142. ^ a b 光成 2007.
  143. ^ 笠谷 2007
  144. ^ 中野.
  145. ^ 「森岡榮一・太田浩司「石田三成の生涯-その-出自と業績-」『石田三成-秀吉を支えた知の参謀-』(市立長浜城歴史博物館、1999年)、のち谷徹也 編『シリーズ・織豊大名の研究 第七巻 石田三成』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86-403277-3)所収。pp.92-93(2018).
  146. ^ 朝尾直弘「幕藩制と天皇」『将軍権力の創出』岩波書店、1994年。
  147. ^ 高木昭作「『法度』の支配」
  148. ^ 中野, p. 121.
  149. ^ 『関原大条志』
  150. ^ 光成 2007, p. 1-19.
  151. ^ 「毛利家文書」「全国石高及び大名知行高帳」など
  152. ^ 脇正典 「萩藩成立期における両川体制について」、藤野保先生還暦記念会編 『近世日本の政治と外交』 雄山閣、1993年。ISBN 4-639-01195-4 
  153. ^ 光成準治 2016, p. 249.
  154. ^ 藤井讓治「家康期の領知宛行制」『徳川将軍家領知宛行制の研究』思文閣出版社、2008年。
  155. ^ 笠谷 2007、p.158-159
  156. ^ 下村効「豊臣氏官位制度の成立と発展-公家成・諸大夫成・豊臣授姓-」『日本史研究』第377号、1994年。
  157. ^ NHK『決戦!関ヶ原 「空からスクープ 幻の巨大山城」』2020年12月19日放送
  158. ^ NHK「空から読み解く! 新説・関ヶ原 決戦!関ヶ原 〜空からスクープ 幻の巨大山城〜」2020年12月19日放送
  159. ^ NHK『決戦!関ヶ原 「空からスクープ 幻の巨大山城」』2020年12月19日放送
  160. ^ NHK「空から読み解く! 新説・関ヶ原 決戦!関ヶ原 〜空からスクープ 幻の巨大山城〜」2020年12月19日放送
  161. ^ 笠谷 2007、pp.33-36
  162. ^ 布谷 2005
  163. ^ 水野 2016, p. 86-89.
  164. ^ 布谷 2005
  165. ^ 谷徹也 「総論 石田三成論」 『石田三成』 戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 第七巻〉、2018年、62-64頁。ISBN 978-4-86-403277-3 
  166. ^ 光成準治 2016, p. 252.
  167. ^ 石畑匡基「秀吉死後の政局と大谷吉継の豊臣政権復帰」『日本歴史』第772号、2012年。
  168. ^ 白峰旬「「小山評定」の誕生 : 江戸時代の編纂史料における小山評定の記載内容に関する検討」『別府大学大学院紀要』第16号、2014年。
  169. ^ 白峰旬「フィクションとしての小山評定 : 家康神話創出の一事例」『別府大学大学院紀要』第14号、2012年。
  170. ^ 白峰旬「小山評定は歴史的事実なのか(その1)拙論に対する本多隆成氏の御批判に接して」『別府大学紀要』第55号、2014年。
  171. ^ 白峰旬「小山評定は歴史的事実なのか(その2)拙論に対する本多隆成氏の御批判に接して」『別府大学大学院紀要』第16号、2014年。
  172. ^ 白峰旬「小山評定は歴史的事実なのか(その3)拙論に対する本多隆成氏の御批判に接して」『史学論叢』第44号、2014年。
  173. ^ 白峰旬小山評定は本当にあったのか?、渡邊大門編 「家康伝説の嘘」 『柏書房』 、2015年。 
  174. ^ 白峰旬「いわゆる小山評定についての諸問題 : 本多隆成氏の御批判を受けての所見、及び、家康宇都宮在陣説の提示」『別府大学大学院紀要』第19号、2017年。
  175. ^ 本多隆成「小山評定の再検討」『織豊期研究』14号、2012年。
  176. ^ 本多隆成「「小山評定」再論 : 白峰旬氏のご批判に応える」『織豊期研究』第17号、2015年。
  177. ^ 笠谷 2007、p44-47
  178. ^ 笠谷和比古編 『徳川家康 ─その政治と文化・芸能─』 宮帯出版社、2016年、53-54頁。 
  179. ^ 水野伍貴「小山評定の歴史的意義」『地方史研究』第67巻第2号、2017年。
  180. ^ 桐野作人『関ヶ原 島津退き口』学研パブリッシング、2013年、111頁~。
  181. ^ 10月2日吉川広家宛黒田長政起請文、10月3日黒田長政宛吉川広家書状、10月3日黒田長政・福島正則宛吉川広家起請文
  182. ^ 山本 2012
  183. ^ 山本洋「『陰徳太平記』の成立事情と吉川家の家格宣伝活動」『山口県地方史研究』第93号、2005年。
  184. ^ 山本 2012
  185. ^ 山本洋「『陰徳太平記』編述過程における記事の改変について」『軍記と語り物』第44号、2008年。
  186. ^ 『黒田家譜』は東軍の先陣諸隊を中央・左・右の3軍に分けて記しており、福島隊は左軍に属したとしている。
  187. ^ 笠谷和比古『関ヶ原合戦と近世の国制』思文閣出版、2000年、69-73頁。
  188. ^ 藤本正行「関ヶ原合戦で家康は小早川軍に鉄砲を撃ち込ませてはいない」『歴史読本特別増刊』特別増刊、1984年2月。
  189. ^ 三池 2007, p. 222-224.
  190. ^ 跡部信「高台院と豊臣家」『大阪城天守閣紀要』第34号、2006年。
  191. ^ 本多博之「豊臣政権下の筑前」『西南地域史研究』第11号、1996年。
  192. ^ 渡邊大門「関ヶ原合戦における小早川秀秋の動向」『政治経済史学』599・600号、2016年。
  193. ^ NHK『決戦!関ヶ原 「空からスクープ 幻の巨大山城」』2020年12月19日放送
  194. ^ NHK「空から読み解く! 新説・関ヶ原 決戦!関ヶ原 〜空からスクープ 幻の巨大山城〜」2020年12月19日放送
  195. ^ 関ケ原古戦場の整備”. 岐阜県庁. 2017年9月1日閲覧。
  196. ^ プレイライフ編集部 (24 September 2020). "【関ケ原の戦いが1分でわかる】一度見れば絶対に忘れない!大人は説明できないと恥ずかしい??". プレイライフ. 2020年9月27日閲覧
  197. ^ ワーテルローと関ケ原、「姉妹古戦場」に日本経済新聞』夕刊2017年9月1日





関ヶ原の戦いと同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「関ヶ原の戦い」の関連用語

関ヶ原の戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



関ヶ原の戦いのページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの関ヶ原の戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2021 Weblio RSS