長谷川良平
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/09 17:52 UTC 版)
人物
普段の生活では健康面や身体の手入れを重要視した。右肩を大事にして、列車の座席では必ず左肩の方を窓際に寄せた。寝る時は右肩に布を当てて冷えるのを防いだ。どんな暑い夜でも扇風機は勿論、窓を開けて寝ることを避けた。同部屋の選手が暑さにたまりかねて起きても長谷川は寝入っていたという。
酒は嫌いだったこともあるが、贔屓や同僚からどんなに勧められても断り、相手の感情を害しようが決して飲まなかったためキャバレーで「失礼な態度だ」とブランデーを投げかけられ、球団内部で問題になったこともあった[35]。なお、当時かわいがってもらっていた力道山が同席していても頑なに拒否し、そのうち力道山も理解したのか酒を勧めなくなったとされる[35]。
もともと酒が苦手な上に、貧しい実家に送金する必要から余分な出費を嫌って、酒席を避けるようになったことや、長谷川自身も、自分が懸命に投げているのに、負けても遊びに行ったり麻雀をするばかりで練習しない古参選手の姿に我慢できなかったことで、チームメイトの多くとはあまり仲が良くなかった。だが、そのような態度が周りと軋轢を生み、特に酒豪の武智修にはよくいじめられた。わざとエラーされたり村八分にされていたが、1951年末に勃発した移籍騒動では、石本秀一監督と共に説得役としてやってきたという。
チーム内での友人は捕手の長谷部稔など、数人しいなかったが、その長谷部とは2001年5月1日に放映された「プロジェクトX〜挑戦者たち〜 史上最大の集金作戦 広島カープ~市民とナインの熱い日々~」で共にゲスト出演。当時71歳ながらNHKのスタジオ内で長谷部とキャッチボールをして、見事なコントロール振りを披露した。
また「プロジェクトX~挑戦者たち~」では球団の資金難を克服するべく選手達と共に広島県内の劇場を周り、「湯島の白梅」を歌って資金調達に奔走した事を明かしている。
注釈
出典
- ^ “【世代別ベストナイン】「1926〜29年」豪華な少数精鋭の“昭和初期世代””. ベースボールONLINE. (2018年3月29日) 2020年2月21日閲覧。
- ^ 松永 2001, pp. 17–20.
- ^ a b 松永 2001, p. 21.
- ^ a b 松永 2001, p. 22.
- ^ 松永 2001, pp. 46–47.
- ^ a b c 松永 2001, p. 50.
- ^ a b 松永 2001, p. 47.
- ^ 松永 2001, p. 239.
- ^ 松永 2001, pp. 50–51.
- ^ 松永 2001, pp. 48–49.
- ^ a b c d 松永 2001, p. 48.
- ^ a b c d 松永 2001, p. 49.
- ^ a b 松永 2001, p. 51.
- ^ a b 松永 2001, p. 52.
- ^ 松永 2001, pp. 51–52.
- ^ a b c d e f g h i カープ50年 夢を追って、中国新聞社、1999年11月、P35、P125
- ^ 松永 2001, pp. 53–54.
- ^ 松永 2001, p. 54-55.
- ^ 松永 2001, p. 59.
- ^ 松永 2001, pp. 59–60.
- ^ 松永 2001, p. 60.
- ^ a b 松永 2001, p. 67.
- ^ 松永 2001, p. 69.
- ^ a b 松永 2001, p. 76.
- ^ 松永 2001, p. 79-80.
- ^ a b 松永 2001, p. 81.
- ^ 松永 2001, p. 87.
- ^ a b 松永 2001, p. 83.
- ^ a b 松永 2001, p. 84.
- ^ デイリースポーツ、2007年10月10日付朝刊、広島版、P.10
- ^ 『プロ野球を創った名選手・異色選手400人』41頁
- ^ 松永 2001, pp. 22–23.
- ^ 『魔球伝説-プロ野球不滅のヒーローたち』145頁
- ^ 『魔球伝説-プロ野球不滅のヒーローたち』144頁
- ^ a b 松永 2001, pp. 24–25.
- ^ 松永 2001, p. 64.
固有名詞の分類
- 長谷川良平のページへのリンク