長沢千和子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/11 04:53 UTC 版)
長沢千和子 女流四段 | |
---|---|
名前 | 長沢千和子 |
生年月日 | 1964年6月18日(58歳) |
プロ入り年月日 | 1979年8月1日(15歳) |
女流棋士番号 | 5 |
出身地 | 長野県松本市 |
所属 | 日本将棋連盟(関東) |
師匠 | 松田茂役九段 |
段位 | 女流四段 |
女流棋士DB | 長沢千和子 |
戦績 | |
一般棋戦優勝回数 | 1回 |
2022年6月30日現在 |
棋歴
将棋の駒の動かし方を覚えたのは、小学4年生の頃[2]。将棋道場を経営していた父は、歌を覚えるのが早いという千和子の記憶力に着目し、将棋が強くなるのではないかと思ったという[3]。
千和子が中学1年生のとき(1977年度)、父が「中部六県名人戦」で優勝し、その大会で審判を務めたプロ棋士の松田茂役(後に千和子の師匠)が父を訪ねて来た。その際、松田が千和子と将棋を指し「才能があるのではないか」と言った[3]。これが将棋を本格的に始めたきっかけである[3]。
1979年8月、松田茂役門下として、女流2級でプロ入り。
1983年度、第6期女流王将戦で林葉直子女流王将への挑戦権を得、タイトル戦初登場。三番勝負は0勝2敗で敗退。
1984年度、第11期女流名人位戦でも林葉に挑戦。五番勝負は1勝の後の3連敗で敗退。
20代前半の頃、女流王将戦で挑戦権争いをしていたとき、山下カズ子との対局の勝勢の局面で、4段目で歩を成るという反則負けをし、以降、スランプに陥る[3]。将棋の道から退くことさえ考えたが数か月後に立ち直り、以降、従来の「才能で指す」というスタイルを改め、棋譜並べ(過去の実戦の研究)や詰将棋などに打ち込むようになる[3]。その努力が1995年度、レディースオープントーナメントで実り、決勝で当時三冠の清水市代を破り、一般棋戦初優勝を果たした。
2008年7月2日、女流名人位戦B級の対伊奈川愛菓戦で勝ち、通算300勝達成。
2018年2月16日に蛸島彰子が引退したことにより、現役女流棋士で最年長となる。2022年12月には現役期間が43年5ヶ月となり、女流棋士としては蛸島彰子の43年4ヶ月を超えて史上最長期間の現役在籍となっている。
人物
- 得意戦法は四間飛車。のちに大流行する角交換四間飛車を2000年以前から採用していたことでも知られる[4]。
- 既婚で息子が2人いる。婿取り婚をしているので、本名も長沢姓のままである。
- 抜群の歌唱力を持ち、女流棋界きっての歌姫と称されている。かつて「山あじさいの唄」(作詞・土井弘千香、作曲・戸村純)という曲を出した。2016年には、日本将棋連盟推奨で「千駄ヶ谷エレジー」(作詞・袋小路宇治夫、作曲・カツ丼将棋)をリリースしている[5][6]。
昇段履歴
- ^ a b c d e f g h i “長沢千和子”. 日本将棋連盟. 2019年5月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年5月20日閲覧。
- ^ 平成10年版「将棋年鑑」(日本将棋連盟)
- ^ a b c d e 別冊宝島380「将棋王手飛車読本」
- ^ 2014年8月26日 第8期マイナビ女子オープン本選 長沢千和子女流四段 対 和田あき女流2級(17手目の棋譜コメント) - マイナビ女子オープン棋譜中継、2014年8月26日
- ^ 「(広告)千駄ヶ谷エレジー c/w信濃慕情 歌唱:長沢千和子女流四段 日本将棋連盟推奨 桜井昇八段推薦」、『将棋世界』(2016年8月号)、日本将棋連盟 pp. 24
- ^ “長沢千和子女流四段CD「千駄ヶ谷エレジー」”. 日本将棋連盟デジタルショップ. 2016年4月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年7月17日閲覧。
- ^ “第45回「将棋の日」表彰・感謝の式典の模様”. 日本将棋連盟 (2019年11月29日). 2019年12月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年12月1日閲覧。
- ^ “【叡王戦記念特番】東西対抗 詰将棋カラオケ”. ニコニコ生放送 (2019年3月30日). 2020年3月21日閲覧。
固有名詞の分類
- 長沢千和子のページへのリンク