鎌倉宮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/12 15:27 UTC 版)
概要
建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社。神社本庁の包括下には当初より入っていない単立神社。護良親王の通称である大塔宮(おおとうのみや)に因み、地元では大塔宮(だいとうのみや)と呼ばれることもある[4]。
なお、「護良親王」は歴史的には「もりよししんのう」と訓まれたと考えられるが[5]、2020年時点では、鎌倉宮の主祭神としては「もりながしんのう」と呼称する[6]。また、「大塔宮」の訓み方は正式には「おおとうのみや」と考えられ[5]、鎌倉宮でもこれを採用するが[6]、親王薨去の約40年後に完成した軍記物語『太平記』の5巻では「だいとうのみや」とも俗に訓まれていたかのような描写があり[7]、鎌倉の地元でもこちらの「だいとうのみや」や更に詰まった「だいとのみや」で訓まれることが多い[4]。
祭神
護良親王
祭神である護良親王は、後醍醐天皇の皇子で父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現したが、その後、足利尊氏との対立により足利方に捕えられて東光寺に幽閉され、建武2年(1335年)の中先代の乱の混乱の中で尊氏の弟の直義の命で、家来である淵辺義博(ふちのべよしひろ)によって殺害された。
持明院 南御方
持明院 南御方(じみょういん みなみのおんかた)は持明院中納言の藤原保藤の息女。護良親王の鎌倉幽閉に随行し、身の回りの世話をし、親王の最期にあたっては理知光寺(廃寺。現、皇子護良親王墓陵)の長老と共に丁重に弔った後、上洛し後醍醐天皇へその最期の仔細を報告した。
境内に摂社があり、「南方社」(みなみのかたしゃ)と呼ばれている。
村上彦四郎義光
村上義光(むらかみよしてる)は護良親王の忠臣で吉野落城に際しては、自刃を覚悟した親王を諫め、親王の鎧直垂を着用して身代わりとなり、腹十文字に掻き切って壮烈な最期を遂げた。1908年(明治41年)、真に至誠純忠の勇士として従三位を追贈され、贈従三位左馬権頭と呼ばれるようになった。
境内に摂社があり、「村上社」(むらかみしゃ)と呼ばれている。
歴史
1869年(明治2年)2月、武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を賛え、明治天皇は護良親王を祀る神社の造営を命じて自ら宮号を「鎌倉宮」と名づけた。7月15日に鎌倉宮の社号が下賜され、7月に東光寺跡の現在地に社殿が造営された。
1873年(明治6年)4月16日に明治天皇は鎌倉宮に行幸し、同年6月9日に鎌倉宮は官幣中社に列格した。
1939年(昭和14年)1月18日、日本郵船の客船「秩父丸」は「鎌倉丸」と改名する[8]。客船「氷川丸」の船橋に氷川神社の祭神を祀っているように、「秩父丸」にも秩父神社を勧請していた[8]。改名に際し、「鎌倉丸」は新たに鎌倉宮から祭神を奉安した[8]。
注釈
出典
- ^ 『鎌倉古社寺辞典』株式会社 吉川弘文館、7‐10、19頁。ISBN 9784642080606。
- ^ 『鎌倉史跡事典』株式会社 新人物往来社、3-15、86頁。ISBN 4404024525。
- ^ 『かまくら子ども風土記(第13版)』鎌倉市教育委員会、3-31 平成21、49頁。
- ^ a b “鎌倉タイムTop » 寺と神社 » 鎌倉宮”. 鎌倉タイム. 2020年2月18日閲覧。
- ^ a b 亀田 2017, pp. 30–31.
- ^ a b “鎌倉宮について 御由緒や歴史のご紹介”. 鎌倉宮. 2020年2月18日閲覧。
- ^ 長谷川 1994, p. 261.
- ^ a b c #三菱、20話12頁『「秩父丸」から「鎌倉丸」へ船名変更』
鎌倉宮と同じ種類の言葉
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