金田正一 トレーニング法・コンディショニング理論

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金田正一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/07 03:11 UTC 版)

トレーニング法・コンディショニング理論

スポーツ医学などが発達していなかった当時、自身の経験と知識を元に体作りに関する独自の思想をまとめ上げていたことは有名であり[79]、金田本人にとっても、その後のスポーツ医学の先駆者になっていることは誇りであったという。

コンディション管理

金田はコンディション、特に左腕の状態を維持するために普段の生活から極めて細やかな神経を配っていた。そして、肩が冷えることを極端に嫌っていた[80]。以下はその例である。

  • 就寝時には利き腕の肘を守るためにサポーターを着けて、冷えたりしないよう万全のケアをしてから寝床に入った[80]
  • 自家用車(クライスラー・ニューヨーカー[81])にはエアコンを置かず、扇風機を付けていた。また、自宅のクーラーは1台だけだった[80]
  • 現役時代、乱闘時にはいかに興奮していてもタオルで左手をグルグル巻きにしてから飛び出したり、酒を飲んでいて興奮して机を叩いていても、いつも左手にはおしぼりが巻かれていたという逸話がある程、左腕を大事にしていた。
  • 賢一たち自分の子供を抱くときにすら、絶対に左手で抱くことはなかった。
  • 「一人前の野球選手が自分で車なんか運転したらいかん」と、自らは運転せず運転手付きの車で球場まで通っていた。運転することで神経を消耗するとプレーに影響するというのがその真意。その上「窓を開けた時に吹き込む風で左肩や腕を冷やさないように」左側には絶対に座らなかった。
  • 前記の「肩や腕を冷やさないように」するために試合においても、たとえ夏場であろうともアンダーシャツは長袖を常に着用していた。金田が夏場に中継放送の解説を担当した試合で開始前の取材の際に北別府学広島東洋カープ)が夏場(の暑さ)を理由に半袖を着ていた(=投手の命とも言える肩と腕を冷やすことになるため)ことを見咎めて叱責したエピソードがある[82]。この叱責を機に北別府は夏場であっても私服もアンダーシャツも長袖を着用することにしたという[82]
  • ヒゲを剃るときも、指先を切る恐れのある剃刀は使わず、電気シェーバーを使用。外出時にも、つま先を剥き出しにするサンダルは絶対に履かないなど、普段の生活からケガの防止には人一倍気を遣っていた。
  • マッサージを受ける時は、一部分のみのマッサージはせずに必ず全身をマッサージするように心がけた。また、鍼、灸の類は一切しなかったという。
  • シーズンオフの休養の重要性を晩年まで説いていた。金田自身、オフは完全に休養に充ててコンディションを整えている。1958年のオフに父親の死去であまり休養が取れなかった時は、それが祟って以後3年間ベストコンディションに戻らなかったという。この3年間も毎年20勝していたが、1960年と1961年はちょうど20勝で止まった。1959年は6月25日に13勝目を挙げたものの、そこから2か月勝ち星が無く8連敗を喫し、1960年は残り4試合でようやく20勝目を挙げたものの7年振りに勝率が5割を切り、1961年には途中11連敗を喫して2か月以上勝星から遠ざかるなど苦しいシーズンを送った。
  • 当時のプロ野球選手は喫煙者が珍しくなかったが、金田は嫌煙家であった[83][84][85][86]

トレーニング

「下半身で野球をやっている人はピンチを招いても力まない。下半身の弱い人はピンチになるとだめになる」とコメントしているように、下半身強化を重視し、選手時代はまずランニングを最重要課題としていた[87][88]。その金田の強靭な下半身は、自身の少年時代、第二次世界大戦の終戦後に名古屋に転居した後、食料や物資を買い出しに小牧春日井までリヤカーを曳いて出掛け、家まで往復する日々の中で培われたものでもある[89]

その金田のトレーニングメニューは極めてハードなもので、オールスターゲームの時に、練習の虫と言われていた村山実が金田のトレーニングに付き合おうとしたが、そのあまりにもハードな内容に音を上げたという逸話がある。ロッテ監督時代もランニング重視のメニューを選手に課しており、金田の練習と言えば「走れ走れ」と言うイメージが定着している[注 9]

八木沢が、あまりのハードさにランニングの中止を申し入れると「そう言いにくるのは真剣に走った証拠だ」と褒めちぎったという。村田によると「実績のある投手は投球練習をしなくてもいいから、とにかく走れ」と指導していたという。ロッテに1年間在籍した野村もこのことに触れており、「走るだけでピッチングがうまくなるのか?」と疑問に感じた程、金田が投手に課したトレーニングはランニング一辺倒だった。村田はランニング中心のトレーニングの結果「夏場になっても疲れが溜まらない。まるで高校時代に戻ったみたいに体が軽かった」と語っている[90]。その村田に対して金田は「村田は他の投手よりもよう走った」とお墨付きを与えている。

後年、当時ランニングを重視していなかった松坂大輔に対しても「走らないと投球時のバランスを崩すから成績を悪くする」と出演したテレビ番組で指摘。金田の言う通りに松坂の成績が悪くなったため、改めて松坂がランニングなど下半身強化中心のトレーニングに切り替えたというエピソードがある。ただし、誰でもとにかく走らせることにこだわっていたわけではなく、走ることが逆に選手にマイナスになるような場合には絶対に走らせないなど、状況に合わせた指導は怠っていなかった。江本孟紀によると「体ができないうちは走りこみをやっても体がつぶれるだけ。体に見合った走りこみをするべき」として、単なる『走れ走れ練習』に対しては厳しく批判していたという。

効率的なストレッチ運動を行うため、試行錯誤の末「カネヤンダンス」と称される柔軟体操を始め[91][92]『金田式健康棒』など、お手製の健康器具を発明・発売していた。

巨人移籍時のキャンプメニューは、朝5時30分に起床してランニングにダッシュ。午前の投手練習を終えた後に陸上競技場の土手をダッシュで30本駆け上がり、柔軟体操。その後球場でアメリカンノックを繰り返すというもので、練習好きの長嶋茂雄ですら驚く程だったという[93]

野球選手が過度の筋力トレーニングによってバランスを崩すことを危惧していて、亡くなるまで様々なメディアで警鐘を鳴らしていた[94][95][96]。これについてはイチローも同様の指摘をしている[97]

食事

体作りへのこだわりは食にも現れた。現役時代から「いいものを食べなきゃダメ」が口癖で、春季キャンプには自ら食材を持ち込んでいた[98]。金田本人の話では、当時のサラリーマンの月給分に相当する額を全て市場での買い物に使い、それをたった3日で食べてしまったという。また春季キャンプでは牛肉や野菜などは最高級品を自ら購入し、そうした食材をふんだんに利用してすき焼きちゃんこ鍋鉄板焼きスープなどを金田自ら毎日作り、チームメイトにも振る舞っていた[99][100]

ロッテ監督時代も特にキャンプでの食事には質量共にこだわり[101]、質の良い肉を選手に食べさせるように球団と自ら交渉したこともある。1回の夕食を全て食べ終わるのに2時間はかかったと言われる。豊田泰光伴淳三郎から紹介されたという、当時珍しかったミネラルウォーターを金田に勧めて以来、水道の水を飲まずに高価なミネラルウォーターを飲んでいた[102][103]

独自の調整理論を持っており、必要とする能力から逆算してトレーニングや食生活までを組み立てていた。2003年11月6日放送の『NANDA!?』(テレビ朝日)で本人が語った所によると、「肺活量向上のために走るトレーニングを主に行う日は、朝からオートミールなどの消化の良い食べ物を食べる。その日のトレーニング内容によって食事や生活を変えるのは当然だ」とのことだった[要出典]古田敦也も「そんなことはここ10年位でようやく詳しくなってきたことだ。50年前にそこまで考えていたのは凄い」と感心していた。


注釈

  1. ^ 当時、国鉄スワローズの経営は日本国有鉄道(国鉄)の外郭団体である財団法人鉄道弘済会に担われていたが、公的機関の運営という性格からの緊縮財政、重大事故の続発や経営状況悪化(1964年に初の累積赤字が発生)に対する国鉄への批判から、球団保有の維持には限界が迫っていた。金田の移籍後、1965年4月に球団経営権の譲渡が発表され、同年5月10日からチーム名も「サンケイスワローズ」と改称された。
  2. ^ 2004年にNHK衛星第1テレビジョンで放映された「よみがえる熱球・第7集「二つの引退」」の中で金田自身が示している。
  3. ^ しかし、青田昇は沢村栄治から実際に聞いた話として「オレの一番いい時は、ベース前の手前をめがけて投げたら、ホップしてちょうど真ん中の高さに行ったよ」と語っていたことを証言している[63]
  4. ^ この時代に活躍した稲尾和久権藤博杉浦忠らには、金田の最高記録である年間31勝を上回る勝利を挙げたシーズンもあるが、いずれも酷使により故障し、金田よりも短い実働年数で引退している。金田自身も肘の痛みを抱えながら現役生活を続けた。
  5. ^ 1950年代にプロ入りした投手では、金田の他に米田哲也小山正明・稲尾和久・梶本隆夫村山実皆川睦雄の6人。
  6. ^ 投手として出場での打席における敬遠が7度、後述するサヨナラゲームとなる場面に代打で登場して敬遠が一度
  7. ^ この年の金田敬遠時の次の打者は4度とも丸山完二だったが、丸山はサヨナラ安打1度を含む3安打1四球を記録
  8. ^ 次打者の田中久寿男小川健太郎から逆転サヨナラ満塁本塁打を記録している
  9. ^ ランニングなどによる下半身強化の重要性はメジャーリーグの大投手ノーラン・ライアンも自らの著書「ピッチャーズバイブル」で述べている。
  10. ^ 発端は太平洋球団の取締役だった青木一三が話題づくりとして金田に持ちかけたものだった[109]
  11. ^ 金田自身は「顔面を蹴るつもりなどまったくなく、あれは足を出したところに偶然顔が来てしまった」と言っている。
  12. ^ その後、高木は「こんな奴がいるところでジャッジができるか!」と激怒し、シーズン途中で辞表を叩きつけて審判生活に終止符を打った。
  13. ^ ただし、山崎の著書によれば、「ヘタクソ」でも暴言とみなされ退場に値する[112]
  14. ^ 前述の1991年のトレーバーに蹴りを入れた行為は明らかに暴力行為であるが金田には退場処分等は下されなった
  15. ^ ヤクルト本社は1966年にサンケイアトムズ(同年に「スワローズ」から改称)の経営に参加し、1970年に単独経営権を取得したため、金田のスワローズ在籍時の接点は無かった。
  16. ^ 1978年~1983年の6年間付けており、その後は中日で右のエースナンバーと位置付けられていた20へ変更となり、山本昌が受け継いだ。
  17. ^ 広島時代の1981年~1994年

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