野間玄琢 野間玄琢の概要

野間玄琢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 05:01 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
野間玄琢
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正18年(1590年
死没 正保2年11月14日1645年12月31日
別名 成岑(諱)、寿昌院、白雲老人
官位 法橋、法眼、法印
主君 後陽成天皇後水尾天皇徳川秀忠家光
氏族 相模波多野氏支流
父母 父:野間宗印
神崎氏の娘
三竹、安節、女子
テンプレートを表示

生涯

野間氏は尾張国の武士で玄琢の曾祖父の代から野間氏を称する。織田信包に仕える父が曲直瀬玄朔と友人であったため、その縁で若いころから玄朔の門下に入って医学を学ぶ。慶長15年(1610年法橋に叙されて朝廷に出仕する。元和3年(1617年)法眼に進み、寿昌院の号を賜り、元和9年(1623年)には法印に叙される。寛永3年(1626年徳川秀忠が上洛した際、二条城で秀忠と謁見して以後は将軍家に仕えるようになる。以後は江戸京都を隔年で移動するようになる。寛永5年(1628年徳川家光疱瘡に倒れた際にはその診療を行った。寛永13年(1636年徳川和子(東福門院)が病んだ際には薬を進上してこれを快癒させ、寛永15年(1638年)からは東福門院付きとなった。正保2年(1645年)京都で没。著作に「群方類稿」があり、子の三竹がさらに増補を行っている。また蔵書家としても知られ、白雲書庫を創始した。野間家は以後幕府の医官として続いた。

出典




「野間玄琢」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「野間玄琢」の関連用語

野間玄琢のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



野間玄琢のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの野間玄琢 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS