野中広務
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人物
- 北朝鮮政府と密接な関係にある朝鮮総連と親しく、総連の外交部門を担う国際局出身で後に総連のトップになる許宗萬と社会党の田辺誠、自民党の金丸信、山崎拓、加藤紘一と共に日本の政治家の中で北朝鮮と特に親しかった[66]
- 韓国人に対する関心が多いのは、幼児期に本人と妹を韓国人(朝鮮人)女性が世話をしたためであり、そのためコリアンに対する愛情が深い。
- 東アジアの平和と在日同胞のための努力が認められ、2014年5月9日に崇実(スンシル)大で名誉博士学位を受けた。学位の授与は日本で在日同胞高齢者を世話するボランティア団体「こころの家族」の斡旋で行われた[67]。
- 国家公安委員長だった1994年に、当時野党政治家だった金大中元大統領に対して韓国中央情報部が犯した金大中拉致事件のための質問などを警察の幹部を呼んで直ぐに止めさせた。その後、官房長官だった1998年に金大中-小渕の日韓共同声明の件で訪韓して金大統領に会ったところ、『あの時は本当に世話になった』と言われた。
「叩き上げ」から「影の総理」へ
- 野中は国会議員としては遅咲きであったため、当選回数でみて村岡らの橋本派の他の幹部と比較して少ない。しかも、野中の初当選が補選であったことから、当選回数が同数の者(例えば古賀誠)に比べても、野中のほうが国会議員歴は短い。それだけに、原則的に年功序列であったかつての自民党において野中がいかに際だった「叩き上げ[68]」だったかがわかる。また、古賀を含めて亀井静香、鈴木宗男など協力関係にあった人物にも「叩き上げ」が多い。
- 自民党幹事長代理として仕えた加藤紘一幹事長に心酔し、小渕政権で加藤が反主流化するまで「加藤を総理にする」との姿勢を示していたことから、「野中はキングメーカーまで狙っている」と評された[69]。
- 「士志の会」を主宰する古賀誠とは同期当選ながら師弟関係にある[要出典]。また、2度総裁選に出馬している亀井静香、鈴木宗男、茂木敏充、野田聖子、さらに麻生太郎を親しく期待していた[要出典]。
政治資金
- 1983年の衆議院旧京都2区補欠選挙の直前に京都財界の有志企業から届けられた政治献金を返上した。このとき、秘書と当時の京都府議会議員の西田吉宏(後の参議院議員)が、当時の京都商工会議所会頭であった塚本幸一が社長を務めるワコール本社まで返上に出向いたことが京都政財界の話題となった。
- 衆議院議員在職中に東京での自宅や個人事務所を持たず、政治資金集めのためのパーティーを一度も開催したことはない[11][70]。
官房機密費に関する発言
- 2010年4月30日、小渕内閣官房長官当時の官房機密費の取り扱いについて「毎月5千万から7千万円くらいは使っていた」と発言した。与党内の国会対策などだけではなく、政治評論家や当時の野党議員にも配っていたという。さらに、「前の官房長官から引継いだノートに政治評論家も含め、ここにはこれだけ持っていけと書いてあった。持っていって断られたのは田原総一朗さん一人」と続け、与野党問わず、何かにつけて機密費を無心されたこともあったと明かした[71]。
利権疑惑に関する報道をめぐり『噂の眞相』誌に勝訴
- 自身が最高顧問たる自由同和会京都府本部の会長の上田藤兵衛との関係が取り沙汰され、「野中の口利きで上田や傘下の建設組合が公団や役所から工事を受注して儲けている」との記事が『噂の眞相』2001年5月号に出たことがあるが、野中はこの報道を事実無根として名誉毀損で同誌ならびに編集発行人の岡留安則を提訴し、2003年に最高裁で『噂の眞相』が敗訴、350万円の損害賠償が認められた。
その他
- 阪神タイガースのファンである。2003年6月16日、大阪で行われた講演で星野仙一監督が率いるタイガースの独走について、出席者から「優勝は間違いないですな」と言われた。野中は「そう言われると不安になる。これから悪い潮目が来たらかなわん」と、優勝を期待しながらも不安にさいなまれるファン心理を吐露して会場を沸かせた[72]。
- 酒は飲まず、煙草も吸わない[73]。かつては酒を飲み煙草を吸っていたが、園部町長に就任したのをきっかけに禁酒し[74]、友人の死をきっかけに禁煙[75]。
- 歌手の松山千春と雑誌で対談なども行なっている。
- フジテレビのコント番組『笑う犬の冒険』では、自民党幹事長時代の野中をモデルとしたコント「ひろむちゃん」が放送されていた事があり、ひろむちゃんは名倉潤(ネプチューン)が演じていた。後に同じフジテレビ制作の『鶴瓶と南原、新・平成日本のよふけ』に野中がゲスト出演した際には、前述のコントについて知っているとMCの南原清隆に語ったことがある。
- 親しい人からの愛称はノーさん [76]。
- 健康を守る秘訣として、毎晩のように足裏をハンマーで叩いている[77]。
- 最高の総理大臣として村山富市を挙げている。野中は社会党の山口鶴男と会談を行うなど自社さ政権成立に尽力した一人であり、村山内閣で自治大臣・国家公安委員長として初入閣し1995年のオウム真理教事件や全日空機ハイジャック事件の対応に当たった。1999年12月に村山訪朝団の副団長を務めるなど、自民党と社民党が与野党に分かれて以降もたびたび村山と政治活動を共にしている。
- 野中家の菩提寺である園部町の真宗大谷派玉光山本福寺の境内には野中の功績を綴った石碑が建てられている[78]。
- 尖閣諸島紛争はどう解決するべきかとの質問に対し、「現日本政権[* 8]は受け入れないだろうが、個人的には両政府が共同出資した特別財団を設立し、周辺の地下資源を共同で開発するのが解決策になる」 と述べた[67]。
注釈
- ^ ただし、国政進出後からは公言したことはなかった。
- ^ 角岡伸彦は著書『はじめての部落問題』で『野中広務 差別と権力』からこの事件の記述を引用し、「野中が小泉首相も出席した総務会で差別発言を指弾したにもかかわらず、不幸にも、麻生(福岡8区選出)はその直後、部落差別の担当官庁である総務省の大臣に就任した。泥棒が警察官になるようなもので、これほど不適切な大臣登用はない。麻生は後に、衆議院総務委員会でこの問題を追及されたとき、「そのような発言をしたことは全くありません」と事実を否定している。ではなぜ、野中に指弾された総務会の席上で「何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだった」のか、不可解である。その後、この問題発言は、うやむやになってしまった。しかし、部落出身という理由による総理大臣就任阻止の動きがあったとすれば、未遂ではあるが、有権者の代表である国会議員による“就職差別”である。」と解説している。
- ^ 『週刊ポスト』は第40巻第44号で「本誌は01年の総裁選当時、大勇会のA議員から“麻生発言”をめぐる混乱の顛末について証言を得ていた。A議員によれば、麻生発言がなされたとされる大勇会の会合の翌日、麻生氏側のB議員が自民党幹事長室に呼ばれたという。「そこには険しい表情をした野中氏が待っていて、前日の会合の議事録のようなメモを突きつけ『麻生が何をいったか全部わかっている。オレは絶対に許さない』と通告したB議員は真っ青になって派閥に戻り、経緯を報告した」という内容だった。」と報じている。
- ^ 先日、多民族共生人権教育センターの総会が開かれ、その記念講演で野中広務さんに来て頂きました。野中さんは「まさか、私が大阪人権センターに呼んで頂けるとは」と言っておられました。その懇親会の席で、私は『野中広務 差別と権力』(魚住昭著)に書かれている麻生太郎の差別発言について「あれは本当なんですか」と直接聞きました。実は部落解放同盟の中央大会でも、このことについて意見が出され、「解放同盟としては現在、事実確認ができていない」と答えていたからです。野中さんは「差別発言は本当です。次の選挙では、私は麻生の地元に入る。解放同盟も行動を起こすべきだ」と言われました。彼は、自身と部落解放同盟には考え方の違いはあるとした上で、部落差別が未だ根深いという認識は一致できるとして「差別をなくしていくためにも部落解放運動の中で、もっとエセ同和の問題に取り組んで欲しい。できたら自分の問題(麻生発言)も取り組んで欲しい」と言われました[38]。
- ^ 上杉隆によると、藤本は麻生の著書『とてつもない日本』の編集にかかわり、麻生と同じ福岡・筑豊の出身、麻生選対のあった「ホテルオークラ東京」のペントハウスで連日取材をしていた政治ジャーナリストだという[42]。
- ^ 「石炭六法は終わるが、旧産炭地が置かれた状況は変わらない。同和対策や在日朝鮮人の問題など政治的な責任はなくならない」
- ^ 野中は『老兵は死なず 野中広務全回顧録』等の著書では強制連行された朝鮮半島の「人びと」や「人たち」としている。
- ^ 2014年5月の韓国メディアによるインタビューに答えたもの。当時は安倍晋三政権。
出典
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- ^ 野中を語る言葉には事欠かない。「叩き上げ」「剛腕」「強面」「喧嘩上手」「権力志向」「気配り」「義理人情」「闇将軍」「キングメーカー」「情報収集能力」……。海野謙二編著『野中広務—素顔と軌跡』のうち「はじめに」より
- ^ 野中広務さん死去 孤独な闘士、最後まで貫く 毎日新聞2018年1月27日 編集委員伊藤智永
- ^ 『聞き書 野中広務回顧録』, p. 381.
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- ^ 園部まちなか散策ウォーキングに参加する。
- ^ 「2002年秋の叙勲 勲三等以上と在外邦人、外国人叙勲の受章者一覧」『読売新聞』2002年11月3日朝刊
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