近衛秀麿
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栄典
家族・親族
秀麿は2度の結婚の他に「妾」も持っており女性遍歴も派手であった。2人の正式な妻の他に、実子を産んだ女性が少なくとも2人おり、また、終戦後アメリカ軍に抑留された際、尋問で子供の数を聞かれ、しばらく沈黙した後「今何人いたか数えているところだ」と言い放って取調官を沈黙させたように、他にも実子誕生までに至った女性が何人かいるようである。名門貴族の家ならではの複雑な事情が入り混じっている。
- 一度目の妻
離婚に至った経緯等を秀麿は一切語っていない。離婚騒動は当時のマスコミを賑わすスキャンダルとなり[18][19][20][21]、月刊「読売」に愛人の澤蘭子の手記「愛に破れて」が登場した[22]ほか、月刊「青春タイムス」には阿部鞠也の筆名で「実名小説 色魔近衛秀麿」なる暴露小説が登場[23]、この小説には「女から女え(ママ)、肉欲を求めて飽くことを知らぬ世界的名指揮者は、女体に接する毎に、インスピレーションを得る、というのだ。(中略)これぞ、昭和最高の愛欲流転史」というリード文が付けられていた。
- 二度目の妻
- 長井和子(1933年8月27日-)1956年結婚。近衛管弦楽団の事務を取り扱っていた女性。
- 四男:雅楽(1958年6月21日-)幼い頃からチェロを習っており、1972年東京ユース・シンフォニー・オーケストラのスイス演奏旅行に参加する。
- 愛人
服部時計店創業者服部金太郎とともにヨーロッパを視察したこともある時計商坪井徳次郎の養女。一説には千代子・泰子の実家毛利家の家来筋の家系と言われている[26]。文麿ら近衞本家の影の圧力に負け、秀健と忠俊を産んだ後、経師職人と再婚した。
- 愛人
- 澤蘭子(1903年-2003年)
- 三女:曄子(1940年-1945年9月28日)
澤蘭子(本名:松本静子)は元宝塚歌劇団花組娘役で宝塚歌劇団卒業生であり、宝塚歌劇団を退団後に帝国キネマ芦屋撮影所製作のサイレント映画『籠の鳥』に主演して歌川八重子が唄った主題歌と共に一世を風靡した映画女優である。撮影の為にアメリカへ向かう客船の中で偶然に秀麿と一緒になり、艶福家の秀麿を心配した兄・文麿からの「澤蘭子にさわらんこと。」という電報を秀麿が受けたのは有名な話であるが、忠告に反し夫婦同然となった。秀麿の渡欧の際も同行し女児・曄子(日本と中華民国の平和を願って、「日」と「華」が組み合字を使っている)を産んでいる。しかし、秀麿はドイツ陥落後にソ連軍によってシベリアに抑留された蘭子と曄子親子を捨ててさっさと外交特権で先に帰国した為に、曄子は敗戦直後の混乱に因る日本への過酷な引揚げ最中に体調を崩して父祖の地を踏むこともなく5歳で夭折した。蘭子はこのことで戦後に秀麿を告発する投稿、離縁条項の実行を求めて秀麿を告訴している。その後、蘭子は長命で2003年1月11日に満99歳で京都府京都市下京区の知人の産婦人科病院の一室で亡くなった。葬儀は質素なものであった。
- 愛人
- エルナ・ライセル - 秀麿の滞欧時代の愛人。当時25歳のズデーテン出身のドイツ人女性。雑貨商の娘で、在留邦人相手の娼婦であったともいわれる[27]。
- 愛人
- 北澤栄(1908年 - 1956年) - ソプラノ歌手
晩年、朝比奈隆に「もうアチラ(女性遊び)のほうはおやめになっては」と切り出され、秀麿は「でも、相手、ヨッ、喜んでおりますよ」と言い、朝比奈を唖然とさせたこともある[28]。
系譜
近衞家
近衞家は、藤原忠通の子である近衞基実を始祖とし、五摂家の一つであった。
皇室との関係
後陽成天皇 | 後水尾天皇 | 明正天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
後光明天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
後西天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
霊元天皇 | 東山天皇 | 中御門天皇 | 桜町天皇 | 桃園天皇 | 後桃園天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直仁親王 | 典仁親王 | 光格天皇 | 仁孝天皇 | 孝明天皇 | 明治天皇 | 大正天皇 | 昭和天皇 | 明仁上皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
近衞信尋 | 近衞尚嗣 | 近衞基熈 | 近衞家熈 | 近衞家久 | 近衞内前 | 近衞経熈 | 近衞基前 | 近衞忠煕 | 近衞忠房 | 近衞篤麿 | 近衞文麿 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
近衞秀麿 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 係累縁者が多数に上るため、後陽成天皇以降の歴代天皇および関連する男系男子の人物を記載した。そのため、母方の系図は省略している。
- 遠祖の近衞信尋は、後陽成天皇の第四皇子として生まれ、近衞信尹の養子となり、近衞家を継承した。
注釈
出典
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、40頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、45頁。
- ^ その中には、齋藤秀雄や貴志康一などもいた。
- ^ NHK BS1スペシャル『戦火のマエストロ・近衛秀麿~ユダヤ人の命を救った音楽家~』(2015年8月8日放送)
- ^ 2012年9月21日付ニューヨーク・タイムズ
- ^ 略称は「近響」。「近管」では他のオーケストラとの語呂が悪かったらしく、「近響」にしていたと言う。
- ^ シベリウス交響曲第2番、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン『皇帝』(ピアノは園田高弘)
- ^ 大野芳「近衛秀麿」p.396
- ^ 「週刊大衆」1967年2月23日号「元華族近衛秀麿氏 手形事件の波紋」。
- ^ 大野芳「近衛秀麿」p.393-395
- ^ 大野、p.399。
- ^ 1973年に新県民歌「愛媛の歌」制定に伴い廃止。
- ^ 2009年より正式に校歌に制定。それまでは正式な校歌は同校にはなかった。
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1919年1月10日。
- ^ 「故近衛秀麿氏に勲三等」『朝日新聞』昭和48年(1973年)6月13日朝刊、13版、23面
- ^ a b 大野芳『近衛秀麿』p.247
- ^ 大野、p.389。
- ^ 「朝日新聞」夕刊、1950年2月4日付。
- ^ 「週刊朝日」1950年2月19日号。
- ^ 「読売新聞」1950年5月16日付。
- ^ 「読売ウィークリー」1950年5月20日号。
- ^ 「月刊読売」1950年7月号、p.13-18。
- ^ 「青春タイムス」1950年7月号 p.59。ただし目次によれば執筆者は「近江不二」名義である。なお、当該号には阿部鞠也名義の「小説 山田五十鈴」が掲載されている。
- ^ 近衛秀健氏死去 宮内庁式部職楽部指揮者
- ^ 大野芳『近衛秀麿』p.249
- ^ 大野、p.178。
- ^ 大野、p.313-314。
- ^ 大野、p.392。
- ^ “戦火のマエストロ・近衛秀麿”. 2016年8月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月9日閲覧。
- ^ “玉木宏、日本人指揮者・近衛秀麿に迫る紀行番組への参加は「俳優としての財産」”. 映画.com (2017年7月18日). 2021年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月9日閲覧。
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