軽井沢 歴史

軽井沢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 09:05 UTC 版)

歴史

有史以前

人類の痕跡としては、縄文時代より集落の形成があったのではないかとの推定がなされており、縄文から弥生古墳時代までを含む遺跡が町内の至る所で発見されている。町の南西に位置する『茂沢南石堂遺跡』ではストーンサークル竪穴住居土器類など、縄文中期 - 後期のものと思われる遺跡が数多く発見されている。柱を残したまま住居を廃棄していることや、発見された土器類が北関東との交流を物語っていることから、しばらくこの地に住んでは去ってゆく、その繰り返しが軽井沢と北関東の間で行われていたのではないかとの見方がある[5]。群馬県との県境に位置する熊野皇大神社の歴史はこの時代まで遡ることができ、社伝や古事記日本書紀によれば、その創建は110年(景行天皇40年)とされる。

交通の要所

古代放牧地として利用され、平安初期には現在の中軽井沢官牧として『長倉の牧』が設置された。それは軽井沢高原一帯を占める広大な官牧であったと考えられている[5]。また軽井沢は浅間山の南麓に位置することから、関東地方と信濃を結ぶ交通の要地となり、古代では東山道が軽井沢を通っていたと考えられている。そのルートには諸説あるが、祭祀遺跡の発見により入山峠が有力とされており、道はそこから西に向かって抜けていったと思われる(現在の碓氷バイパスに近い)。

その後時代を経てもこの地が交通の要地であったことに変わりはなく、1423年応永30年)の国人一揆1440年永享12年)の結城合戦では、碓氷峠は信州からの侵攻を防ぐ要衝となっていた。また1561年永禄4年)の小田原城の戦いでは、援軍として参加した武田信玄が碓氷峠からの進出を数回に亘って行なったほか、戦国末期の小田原征伐の際には、真田昌幸真田信繁(幸村)、前田利家上杉景勝らおよそ3万5000の軍勢が松井田城攻略のための陣地として軽井沢を利用し、一行は1590年天正18年)3月、碓氷峠を超え上野国に侵攻した。

中山道の宿場町

歌川広重「木曽街道六十九次 軽井澤」(天保頃)
宿場町(追分宿)の面影を残す軽井沢町追分の街並み

江戸時代には、五街道のひとつ中山道が通る宿場町であり、中山道の難所のひとつとして知られる碓氷峠の西側の宿場町として栄えていた(碓氷峠は、江戸よりの隣の宿場町、坂本宿との間)。軽井沢付近には軽井沢宿(旧軽井沢)のほか、沓掛宿中軽井沢)・追分宿(信濃追分)が置かれていた(この3宿をまとめて「浅間三宿」という)。その賑わいは相当なもので、これらの宿場には合わせて数百の宿があり、宿主や宿員のほか飯盛女も数多くいたという。軽井沢宿の北端に位置する「二手橋(にてばし)」は、旅人と飯盛女が別れを惜しみ二手に分かれる場所であったことから、その名が付けられたと伝えられている。

また、この地域は浅間山を望む景勝地としても有名であった。1878年(明治11年)に明治天皇北陸東海を巡幸した際には、熊野皇大神社近くにある「碓氷川水源」が御膳水として使用された。あるいは現在の「ホテル鹿島の森」敷地内にある湧水は、地元では古くから「お水端」と呼ばれ親しまれていたほか、諸大名宮家などの御膳に用いられたことから「御膳水」とも名付けられている。その後軽井沢宿・沓掛宿は洪水や火災に遭った上、大規模開発もあり、宿場町時代の街並みは失われている。史料もほとんど伝わっていない。中山道と北国街道の分岐点であった追分宿は、宿場町の面影のある街並みや史料が残っており、往時の様子を知ることができる。

  • 中山道 江戸… 坂本宿 - (旧)碓氷峠 -(峠町)- 軽井沢宿 - 沓掛宿 - 追分宿 - 小田井宿 …京
  • 北国街道 追分宿(中山道より分岐) - 小諸宿…直江津北陸道に合流)

外国人避暑地と別荘の起源

アレクサンダー・クロフト・ショー

江戸幕府が倒れ明治時代に入ると交通事情が変化し、参勤交代もなくなったため、全国の宿場町は没落していった。軽井沢においては雨宮敬次郎が開墾事業を計画するなどしたが、地域は衰退していった。1884年(明治17年)には(新)碓氷峠を越える碓氷新道(現在の国道18号)が開通。軽井沢宿は新道のルートからも外れ、宿場町としての機能を失った。しかしその後、1885年(明治18年)夏にカナダ人の聖公会宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーが、友人の東京大学英語講師ジェームズ・メイン・ディクソンと酷暑の東京を逃れ、たまたま軽井沢を訪問。高林薫平の居宅を借り受けて7月から8月まで滞在した。ショーは軽井沢の冷涼な気候や風土が故郷のトロントと似ていると感じ、「屋根のない病院」と呼んだ。軽井沢が「保健休養地」を称する所以である。ショーはディクソン夫妻を伴い翌年夏軽井沢を再訪した。

1888年(明治21年)に日本に滞在していたカナダ人の宣教師ショーは「つるや」(現在のつるや旅館)の主人の佐藤仲右衛門の斡旋によって旧軽井沢の大塚山に軽井沢初の別荘を建設した。保養地避暑地としての軽井沢の歴史を切り開いた。別荘第1号は、民家を移転し、改造したものであった。その後この別荘は日本基督教団軽井沢教会の敷地内に移築保存されていたが、1986年(昭和61年)に再び移築復元され、ショーハウス記念館としてショー記念礼拝堂の裏に現存する。

旧軽井沢
旧軽井沢
群馬県安中市にある、アプト式時代に横川駅 - 軽井沢駅を繋いでいた鉄道橋碓氷第三橋梁』(通称「めがね橋」。1893年竣工)

1886年には、氷職人の泉喜太郎が天然氷の製造を開始した。現在でもその製造は『渡辺商会』によって継続されており、天然氷製造元全国6ヶ所のうちの一つとなっている。 なお1948年(昭和23年)には、この製氷の業績を記念して、碓氷川水源近くに「水神の碑」が建立された(揮毫尾崎行雄)。また1888年(明治21年)9月には碓氷馬車鉄道官設鉄道横川駅から軽井沢駅間に開通。同年12月には官設鉄道信越本線長野方の上田駅から軽井沢駅まで延伸された。軽井沢に鉄道が到達し、碓氷新道(国道18号)近くに軽井沢駅が開業した。

更に1893年(明治26年)には馬車鉄道に代わり、アプト式ラックレールを採用して急勾配の碓氷峠を越える官設鉄道碓氷線が開通し、東京方の上野駅と直結した。以後軽井沢駅が地域の玄関口として機能するようになり、駅前に商店が増えた。新道や鉄道が通じている軽井沢駅周辺が地域の新たな交通の中心となり、次第にこれを「新軽井沢」と呼ぶようになった。これに対し軽井沢宿の旧道界隈を「旧軽井沢」と呼ぶようになり、今に至っている。

江戸時代後期に開業するも宿場の衰退により休業していた旧軽井沢の旅籠「亀屋旅館」の主人佐藤万平(初代)は、ディクソン夫妻から洋食や外国人の生活習慣を習得し、1894年(明治27年)、軽井沢で最初の洋式ホテル「亀屋ホテル」(後の万平ホテル)を創業した。その後、1899年(明治32年)には「軽井沢ホテル」、1906年(明治39年)には「三笠ホテル」も開業して宣教師・知識人・文化人の間で人気を博し、日本三大外国人避暑地の1つに数えられるようになった。

1900年代に入ると貸別荘やホテルなども増え始めた。かつての宿場町の通りは、旧軽井沢メインストリートと名を変え、外国人向けの商店や夏季出店店舗が軒を連ねはじめた。ショーが宣教師であったことから、他の外国人避暑地に比べ宣教師が多く訪れ、キリスト教の色合いが濃い保養地となった。当時設立されたキリスト教会が現在も活動しており、米国人建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した軽井沢ユニオンチャーチ1918年(大正7年)に建築された教会)、日本基督教団軽井沢教会(1929年(昭和4年)に建築された教会)など外国人ゆかりの教会建築が軽井沢の各地に現存している。ヴォーリズも夫妻でたびたび軽井沢を訪れており、教会以外にも軽井沢会テニスコートクラブハウスや医院など幾多の建物を手掛けた。ヴォーリズの手になる別荘も数棟残っており、現在も使用されている。

日本人の参入

鉄道が開業する以前の軽井沢には日本人の別荘はなく、碓氷峠を挟んだ東側の霧積温泉が日本人向けの避暑地として開かれていた。霧積温泉に療養に来ていた海軍大佐八田裕二郎(後に衆議院議員)が峠を越えて軽井沢を訪れ、高原の気候や外国人と交流できるこの地を気に入り、土地を購入。その後1893年(明治26年)に旧軽井沢に別荘を建設した。この「八田別荘」が軽井沢初の日本人所有の別荘であった。

その後八田は日本人に避暑や転地療養先として軽井沢を紹介し、別荘を建てることを勧めた。1916年(大正5年)のダニエル・ノルマン島田三郎等による「財団法人軽井沢避暑団」の設立(1942年(昭和17年)、「軽井沢避暑団」と「軽井沢集会堂」が合併し「財団法人軽井沢会」となる)に加わり世話役を務めるなど、終生避暑地軽井沢の発展に関わる活動を展開した。軽井沢避暑団はサナトリウム(避暑団診療所。のちマンロー病院)を開設し、結核患者の転地療養を支援した。ヴォーリズが手掛けたサナトリウムの建物は既に残っていないが、「八田別荘」は建築当時の場所に現存している。

こうして軽井沢は箱根大磯に続き新興の別荘地として成立し、その起源から西洋風且つキリスト教の色彩が強い独特の雰囲気を持つ避暑地となっていった。政治家財閥華族等のエスタブリッシュメント学者文化人など西洋文化の洗礼を受けた日本人の間で軽井沢は「日本の中の西洋」と目された。彼らが外国人を真似て西洋風の避暑や別荘レジャーを楽しむ地となり、ショーや他の宣教師達、あるいは八田が建てたような簡素な住宅ではなく、瀟洒な洋館を建てる者も現れた。時代の変遷によりそのような洋館の多くは無くなったが、旧徳川圀順水戸徳川家)軽井沢別荘(後に田中角榮家別荘となる。公益財団法人田中角榮記念館所有。非公開)など数棟が現存している。

1923年(大正12年)には室生犀星がまだ学生だった堀辰雄を伴って軽井沢を訪問している。日本三大外国人避暑地のうち他の2地域とは異なり、旧軽井沢は日本人にも開放されていた。旧軽井沢は宿場町であり、日本人の往来は元々あったが、第一次世界大戦による大戦景気以降はついに外国人避暑客より日本人避暑客の方が多くなり[6]、大手資本による周辺地域の大規模開発、一般向けのレジャー用の贅沢品の一種としての別荘販売に結びついていった。

大規模開発の起こり

大正期の軽井沢駅
野沢源次郎
草軽電気鉄道

1909年(明治42年)、草軽電気鉄道の前身となる「草津興業」が発足。同社はスイス登山電車のように高原温泉へ避暑客・湯治客を運ぶとともに、貨物輸送を行って地域の発展を図ろうとする趣旨から創立された。1913年(大正2年)に軽井沢駅に隣接する新軽井沢駅から旧軽井沢駅(開業時は旧道駅)までの区間と北軽井沢駅(開業時は地蔵川駅)を経由して草津温泉駅に至る軽便鉄道の敷設に着手し、1915年(大正4年)には小瀬温泉まで、1918年(大正7年)には北軽井沢まで開業。1926年(大正15年)には草津温泉まで55.5kmに及ぶ高原鉄道が全線開通した。路線の延伸と並行して沿線地域が次々と開拓されていった。

1912年(大正元年)に半田善四郎が土地分譲・別荘分譲を開始。1916年(大正5年)には貿易商野澤組の野澤源次郎が軽井沢にて転地療養したことをきっかけに別荘地開発に乗り出し、旧軽井沢の旧中山道沿いに約200万坪の土地を取得。ホテル鹿島ノ森の敷地内の湧水「御膳水」を源とする小川(雲場川)をせき止め人造湖雲場池」を造成、「健康保養地」と称して上流層に向けて別荘の分譲を行った。雲場池の周りにはホテル・ゴルフ場・市場・遊歩道・並木道等が整備された。この一帯は「野沢原」と呼ばれるようになり現在に至っている。同じく1916年には、野沢の親類で名古屋の実業家である近藤友右衛門も、旧軽井沢から碓氷峠にかけての約22万坪の土地を買収し、碓氷峠遊覧歩道を含めた見晴台一帯を開発整備、また別荘地の分譲を始めた。なお近藤は、晩年の1938年には旧軽井沢メインストリート沿いに夏季出店を支援する「近藤長屋」を建設、日本人向け夏季出店の礎を築いている。

1918年(大正7年)には、堤康次郎による西武資本1920年(大正9年)、箱根土地株式会社設立)が、大字長倉沓掛区有地坂下ほか公有林・原野60万を3万6千(1坪5)で買収。傘下に株式会社千ヶ滝遊園地を設立し、開発に参入。沓掛宿周辺を「中軽井沢」と称して旧宿場町北側の千ヶ滝を整備、大規模な別荘地の販売や鉱泉の掘削、ホテルの営業を開始した。箱根土地が当初手掛けた物件は山荘というより簡易で手狭な山小屋程度の物であったが、都市部の富裕層を中心に人気を呼び、軽井沢は避暑地として賑わいを見せるようになった。

箱根土地は軽井沢町内から嬬恋村への道路整備に着手し、1928年(昭和3年)にバス路線(「高原バス」。1958年(昭和33年)、西武バスに吸収され西武高原バスとなる)を開設、1933年(昭和8年)には有料道路鬼押ハイウェーを開通させた(後述)。更に信越本線沓掛駅(後に中軽井沢駅と改称)から千ヶ滝を経由し、北軽井沢・鬼押し出し万座温泉草津温泉方面への高原鉄道の敷設や温泉の引湯なども計画したが、これらは実現に至らず終わっている。

また箱根土地は1921年(大正10年)、大字発地の原野や湿地86万坪を買収、これを「南軽井沢」と称して別荘地・ホテルの他競馬場・飛行場(いずれも後にゴルフ場となる)などを建設し、開発の手を広げていった。南軽井沢は平坦な土地であったが湿地の改良整備が難航し、開発は遅れた。しかし戦後にはゴルフ場の開業に至っている。一方東急資本も戦前から軽井沢の開発に参入し、1945年(昭和20年)には草軽電気鉄道を傘下に収めた。戦後の復興を背景に西武資本と東急資本による軽井沢を舞台としたリゾート開発競争が激化していくことになった。

大正時代には箱根土地や東急・野澤組・三井鹿島建設など、単に別荘を建てて売るのみならず、レジャー施設建設など総合的な大規模開発を手掛け始めたが、こうした業者の手が入って別荘地となった山林や原野の周囲にも、かつては元々の住民がおり、別荘地の中にも不動産登記上は未だに小字が残る通り、農家があり耕作地もあった。しかし元々耕作には適さない不毛の荒地ばかりで、湿気や厳しい寒さなど、農業生業として日々暮らしていくには気象条件も悪かった。宿場町も機能を失って旧来の商業は衰退していたことから、東京の業者が乗り込んできて開発の話が出ると、地元住民は一斉に家や土地を手放し、補償金を手に軽井沢を離れて行った。千ヶ滝は集落全体で箱根土地の買収に同意し、旧住民全員が転出している。

代わって別荘利用者相手に商売をする人々や、別荘地の諸施設・ホテル等に勤務する人々などが転入し、新たな地元住民となった。新住民流入により軽井沢の人口は増加し、1923年(大正12年)8月1日、北佐久郡東長倉村が町に昇格。避暑地軽井沢が広く世に知られるようになったことから、町制施行に際し「東長倉」の呼称を廃し、軽井沢町となった。

それまで個人に林間の土地や物件を販売し、買い手が自分で別荘を建て、また管理することが基本であった別荘地分譲においても、大手資本が開発に参入し広大な土地を押さえるようになると、分譲後も管理事務所や管理請負会社を運営して別荘の建物からライフライン道路私道)・別荘分譲地全体の環境などの維持を行い、その他別荘利用者にサービスを提供する「管理別荘地」が増えて行った。また昭和初期には「南原会」など自然を残し商業施設やレジャー施設などを設けない別荘地も生まれ、学者や文化人らが集まり、文化村と呼ばれた。このような別荘地は戦後も独自の取り決めなどを設けて鄙びた雰囲気を維持し、未舗装道路もそのまま残している。

大正期の『星野温泉旅館』

在京資本以外では、中軽井沢で温泉を掘削し1914年(大正3年)に温泉旅館「明星館」(その後、星野温泉ホテルを経て星のや軽井沢となる)を創業し、別荘地開発も手掛けた星野嘉助による星野遊学堂(その後、軽井沢高原教会となる。1921年(大正10年)創立)を中心とした文化活動や、中西悟堂と星野によるエコツーリズム「ピッキオ」の活動も戦後の軽井沢のリゾート地としての発展の基礎を築いた。中西は1934年(昭和9年)、日本野鳥の会を創立し初代会長となった。1951年(昭和26年)には浅間鳥獣保護区が国の指定となり、1974年(昭和49年)には星野温泉に「国設軽井沢野鳥の森」が開かれた。星野温泉は戦後株式会社化され、1995年(平成7年)、エコツーリズムの理念を受け継ぐ[7]リゾート運営会社星野リゾートとなった。国内外に事業を展開し、大手資本の一角を形成するに至っている。

第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)末以降に本土への空襲が増加した後は、中立国や同盟国の大使館の多くは、軽井沢や箱根などの別荘地にあるホテルへ疎開して活動した。特に、これらの中立国と枢軸国の約300人の駐日外交官と2000人以上の一般外国人の疎開地となった軽井沢では、三笠ホテルに外務省軽井沢出張所が設置され、1944年8月には民間の貸別荘だった深山荘にスイスの公使館が置かれる事となった。(→#戦時下の軽井沢

戦後の発展と別荘ブーム

戦後の1951年(昭和26年)、一連の特別都市計画法の一つである「軽井沢国際親善文化観光都市建設法」により軽井沢町は別府・熱海・伊東・奈良・京都・松江・芦屋・松山と共に国際観光文化都市に指定され、国の支援も受け軽井沢のリゾート開発は引き続き進展した。1953年(昭和28年)には、朝鮮戦争の影響から浅間山西麓に米軍基地設置計画が持ち上がった。米軍当局から町に強硬な要求がなされたが、町民や有識者らによる断固とした反対運動によって結果的に取り止めとなり、町側の勝利となった。これを機に同年8月には、有識者たちが軽井沢の文化を守るべく「軽井沢文化協会」を設立した(協会の命名は三笠宮であり[注 1]、会長には加藤与五郎が就任した)。

1955年(昭和30年)には、御代田町の「軽井沢農場」に「軽井沢蒸溜所」が造設され、ウイスキーの生産が開始される。一大産地スコットランドに似た冷涼な気候によって生み出された銘柄「軽井沢」は、2000年(平成12年)に製造を中止したこともあり現在では"幻のウイスキー"と呼ばれ、2015年(平成27年)には"世界一価値の高いウイスキー銘柄"となった[8]1956年(昭和31年)には西武資本により「軽井沢スケートセンター」(2009年(平成21年)3月31日閉鎖)と「南軽井沢ゴルフ場」(1971年(昭和46年)に軽井沢72ゴルフの一部となる)が開業。

1961年(昭和36年)からは国土計画興業株式会社(1944年(昭和19年)、箱根土地が社号変更)が南軽井沢の更に南に広大な土地を取得。高度経済成長期以降の国民の余暇を課題とする国策を背景として、リゾート開発構想を立案した。軽井沢湖(南軽井沢湖)と称する人造湖1963年(昭和38年)造成。1974年(昭和49年)からレマン湖と称する)を中心とした大規模別荘地「レイクニュータウン」の造成を1964年(昭和39年)から開始。レマン湖には島を設け、湖畔にホテルや夏期のみ季節営業を行う商業施設、西洋風庭園を整備するなど大掛かりな工事を行った。

国土計画は三越百貨店と提携し、三越店舗でレイクニュータウン別荘地を分譲販売した。旧軽井沢や千ヶ滝に比べ割安(とは言え十分贅沢品の価格)であったこともあり、高度経済成長と相まって、生活に余裕が出たサラリーマンなど中間層を中心に飛ぶように売れ、別荘ブームが起こった。岡田茂が社長に就任した三越は1974年(昭和49年)、レマン湖畔に季節営業の支店「三越ファッション館」を開業し、軽井沢の地に進出するに至った。フランスの古城・シュヴェルニー城を模したという従来の三越店舗には例のない建物で、その豪壮な外観は投資額の大きさを象徴するものであった(建物は店舗撤退後解体され現存せず)。1970年代には夏のレマン湖畔はペンションブームで活況を呈していた旧軽井沢メインストリート(旧軽井沢銀座)と肩を並べるほどに大勢の人出で賑わった。

1972年(昭和47年)2月のあさま山荘事件の舞台となった河合楽器健康保険組合「軽井沢保養所浅間山荘」もレイクニュータウンにあった(事件後建物は大幅に改装され現存。犯人グループ妙義山から佐久市方面に逃亡しようとしていたが、道に迷った挙句、オフシーズンで店舗は営業しておらず客も全くいないレイクニュータウンに偶然出てしまった。当時のレイクニュータウンはちょうど開発されたばかりで、犯人グループが所持していた地図には載っておらず、自分達が今いる場所が軽井沢であるとは当初分からなかったという。事件後の1973年(昭和48年)、レイクニュータウン北側のニュータウン区入口に「浅間山荘事件記念碑(治安の礎)」が建立され、あさま山荘事件十周年記念樹が植えられている)。

千ヶ滝では西武百貨店軽井沢店(その後1980年代に撤退。建物は西武商事運営の千ヶ滝ショッピングプラザとなるがこれも1990年代に閉店。建物も解体)が季節営業を始めたほか、1961年(昭和36年)に地元住民の手により造成された人造湖である塩沢湖(アイススケート場)の一帯が整備され、1971年(昭和46年)には「塩沢遊園」が開園(1983年(昭和58年)に「塩沢湖レイクランド」となり、レジャー施設が造られた)、別荘利用者相手の商業施設が増えて行った。他にも大手の三井不動産丸紅野村不動産、新興の紀州鉄道なども別荘地開発を手掛け、軽井沢町内各所に別荘地が林立する状況となった。別荘ブームによる開発の結果、軽井沢町は多額の固定資産税等の収入を安定して得られるようになり、町が日本有数の財政力を有する地方自治体に成長する契機となった。

戦後満州からの引揚者が千ヶ滝の西側、追分の北側の浅間山麓のカラマツの原生林に入植し、荒野を開拓。畑作を行った。入山峠から南軽井沢・発地地区や後に塩沢湖が造成される辺りを通る中山道の脇往還「入山道」沿いなどには古くからの農家が点在しており、稲作が行われ、江戸時代以前に遡るような農地もあるものの(発地地区ももともと荒地や湿地が多かった)、浅間山麓は扇状地で水利が悪く、土地も痩せていたため稲作はおろか農業自体に不向きであった。しかし入植者は土地を開墾し、キャベツレタスなどの高原野菜を生産する農地や牧場を切り開いた。

彼らは1937年(昭和12年)、南佐久郡大日向村(後に佐久町大字大日向を経て佐久穂町大字大日向)の分村移民計画により送り出された満蒙開拓移民約690人の内、生きて日本に帰国できた人々とその子孫である。大日向村からの満蒙開拓団は、1938年(昭和13年)に満洲国内に分村を成立させたが、1945年(昭和20年)8月9日のソ連による満蒙侵攻による混乱の中、半数以上が命を落とした。終戦後約310人は日本に生還できたが、満州の分村の家や土地を失った。更に大日向村を離れる際に村の家や土地などを失っていたため村にも帰れず、1947年(昭和22年)、65戸165人が軽井沢に入植するに至ったものである。入植者は開拓地を故郷と同じ「大日向」と命名。大日向神社を祀り、軽井沢町大字長倉の大日向区となった[9][10]

前述のように米軍演習地化計画もあったが、別荘ブーム以降大日向区にもリゾート開発の波が押し寄せ、土地が高価格で取引されるようになると離農者が増えた。開拓地を開発業者やホテル、商業施設などに売却したり、建設業や商店主、サービス業に転業・兼業する住民が相次いだ。西武資本による大規模別荘地に取り囲まれつつ開拓農地は存続しているが、既に専業農家はなく、大日向区は別荘・保養所・ペンションテニスコートなどの施設が点在する地域になっている。入植者とは無関係の別荘利用者の定住、他地域からの転入も多くなり、開拓当時の様相は消えつつあるという。入植者世帯の世代交代も進み、満州から帰国した1世から2世は減り、開拓当時には生まれていなかった3世・4世の代になっている。このため入植者世帯の組織「大日向振興会」は入植と開拓の歴史を後世に伝えるため、当時の農機具や生活用品、写真など約160点を持ち寄り、2005年(平成17年)2月11日、大日向公民館内に大日向開拓記念館を開館した。

新たなリゾート地へ

1980年代には海外旅行ブームが起こり、それまで軽井沢の別荘・ホテルに避暑・レジャーを楽しみに来ていた層は海外に出掛けるようになっていった。軽井沢は客足が伸びなくなり一時的に寂れ、レイクニュータウンの三越やホテルなども次々に撤退(別荘地自体は存続しており、庭園も維持されている)。同時期に若年層を中心にペンションなどが人気となっていた新興別荘地の清里と比較される程度に別荘ブームは沈静化し、活気を失っていった。その後1980年代から1990年代バブル期には単なる別荘地・避暑地から行楽地への脱皮、観光地としての充実が図られた。

宿場町当時の遺構がほとんど残っていない軽井沢にとって稀少な歴史的建造物の一つである旧三笠ホテルの一般公開を1983年(昭和58年)より開始。また別荘地としての原点であるショーハウス記念館の一般公開も1986年(昭和61年)から行われている。また軽井沢に点在する美術館文学館記念館の大半はこの時期に開館しており、国内外の著名建築家などが設計・デザインした特徴的な建造物や西洋風庭園が次々に出現した。塩沢湖レイクランドにも1985年(昭和60年)から1986年(昭和61年)にかけて園内に美術館・文学館が相次いで開館し、1996年(平成8年)には総合レクリエーション施設「軽井沢タリアセン」となった。

『軽井沢・プリンスショッピングプラザ』(1995年開業)

風越公園ムーゼの森など他のレクリエーション施設の整備も進んだほか、結婚式場・会員制リゾートホテルなど様々な業態の事業者が増加。1995年(平成7年)には南軽井沢のゴルフ場に西武資本の大型ショッピングモール軽井沢・プリンスショッピングプラザ」(西武プロパティーズ運営)が開業した。

1996年(平成8年)には町内にブルワリーヤッホーブルーイング』が設立され、「よなよなエール」や「軽井沢高原ビール」などのクラフトビールが生み出された。なおブルワリーとしてはほかにも、2011年に設立された『軽井沢ブルワリー』がある。地域のブランド化が加速し、観光客や買い物客が多くなるにつれ、避暑客や別荘利用者も戻り始め、集客の勢いを取り戻した。別荘の需要も回復し、バブル期には全国的に別荘の価格がつりあがった。大洋村など別荘地ではなかったところにまで開発の手が及び、別荘ブームが再来したが、軽井沢と周辺地域は最も価格が高騰した別荘地であった。

また観光客や買い物客が年間を通して訪れるようになったことから、夏期のみの季節営業が多かった商業施設も通年で営業することができるようになり、地域経済の維持・発展に寄与した。しかし一方では、地域の繁栄を維持すべく一部で商業主義的な方向性も加速したため、軽井沢町は過度な商業化を抑制し、健全な風俗の維持するため条例を制定し、コンビニエンスストアなどあらゆる店舗の深夜営業を規制した。北陸新幹線長野新幹線)や上信越自動車道の開通により首都圏からのアクセスも短時間且つ容易となり、首都圏の後背地として軽井沢町内全域及び周辺自治体に開発が拡大、日本を代表するリゾート地に成長した。

1910年 - 1997年まで現役で使用されていた軽井沢駅・旧駅舎を2000年に復元。2017年にしなの鉄道の「旧駅舎口」として整備され、再び現役の駅舎となった。
『ハルニレテラス』(2009年開業)

日本国内全体においては、その後のニーズの変化や長期間に及ぶ個人消費の落ち込みなどから、旧来型の浮世離れした避暑や別荘レジャーは終息に向かいつつある。バブル期にみだりに開発を行った新興別荘地は廃れた。大方の別荘は値崩れしている上に売れず、衰退する別荘地も増えている。しかし軽井沢においては未だにバブル的な様相を呈したままとなっており、旧軽井沢など人気別荘地を中心に価格も高値で推移しているほか、なおも新規の別荘地開発が行われている。

軽井沢町の産業別生産額構成比と産業別付加価値額は不動産業サービス業建設業という別荘・リゾート観光施設に直接関係する3業種のみで8割を越えている状態が長期にわたっており、極めて特徴的な地域経済の様相を見せている。他地域からの転入者や別荘利用者の定住・長期滞在も多くなり、2000年代以降、そうした客を見込んだスーパーマーケット家電量販店ホームセンタードラッグストア衣料品量販店など都市近郊と変わらぬチェーンストア国道18号軽井沢バイパス沿いに相次いで開業したことにより、山間の別荘地ながら日常生活の利便性が向上した。

新たに複数の美術館が開館しているほか、2009年(平成21年)には星野温泉に商業施設「ハルニレテラス」、2016年(平成28年)には軽井沢町農産物等直売施設「軽井沢発地市庭(いちば)」、2018年(平成30年)にはしなの鉄道軽井沢駅に駅ナカ商業スペース「しなの屋KARUIZAWA」が開業するなど、集客スポットの充実も続いている。

日本が人口減少社会に突入した2010年代にあっても軽井沢町・御代田町の人口は増加している。ただ別荘利用者などの定住・長期滞在はリタイア組が多くを占めており、他地域からの転入者によって予測以上の高齢化が進行している。一方で2014年(平成26年)には、町内に日本初の全寮制インターナショナル・スクールISAKジャパン英語版』が開校し(2016年には日本初のUWC加盟校となった)、世界各国の若者がこの地で共同生活を送っている。

外国人観光客が増え国際化も進んだが、2016年(平成28年)に国が民泊に関連する規制緩和に踏み切ったことに対し、軽井沢町は民泊カプセルホテルは「善良なる風俗の維持と良好な自然環境の保全の障害となり、風紀を乱すおそれがある」との理由から、町内全域においてこれらの設置を一切認めない方針を明示、貸別荘についても営業の条件を厳しくした。軽井沢町は2017年(平成29年)、「長く保たれてきた良好な別荘環境を守るため」との理由から、町内全域での民泊通年規制を含む県条例を2018年(平成30年)6月の住宅宿泊事業法(民泊新法)施行前に制定することを長野県に求めた。条例による民泊通年規制は事実上民泊全面禁止を新たに法的に定めることになり、民泊新法の趣旨や国による規制緩和の方針に逆行するため、長野県は軽井沢町が求めるような内容を含めることについては厳しい見通しを示していたが、別荘地やスキー場などが所在する他の県内自治体からも民泊に一定の規制を設けるべきであるという意見があり、県は同年2月の長野県議会定例会に条例案を提出した。

同年3月、「長野県住宅宿泊事業の適正な実施に関する条例[11][12]」が可決・成立。同月22日に公布された[13]。条例は県が別荘地での民泊営業期間を制限することができる内容を含むものとなり、新法施行日と同日の6月15日に施行される。一方2018年(平成30年)1月、星野リゾートが民泊事業参入を表明、軽井沢町内の自社管理別荘の民泊活用を想定していることを明らかにし、町の方針や条例による過度な規制に反対している[14]。この他にも中国系の業者が参入し不分明な別荘地開発が行われるなど、これまでにはなかった新たな課題も生じている。


注釈

  1. ^ 正式には改名である。発足時は「軽井沢文化人協会」であったが、会員を限定せず多くの人に賛同してもらいたいとして、三笠宮が「人」を取ることを提案した。
  2. ^ 長野県が発表した、1925年から2015年までの100年あたりの気候変動としては、年平均気温で1.54℃の上昇を記録している[18]
  3. ^ 軽井沢の8月が東京の5月下旬〜6月上旬とほぼ同水準の気温であることからして、これは想像に難くない。なお、先人たちが創り上げてきた「避暑地」というイメージのみが先行し、「軽井沢は格段に涼しいはず」「温暖化以前は軽井沢にこんな暑い日はなかったはず」といった一種の神話的様相を呈することが多々ある。
  4. ^ ただし、野鳥には留鳥以外も含まれるため、軽井沢の環境変化のみが、鳥類減少の要因として決定づけられるわけではないことには留意である[29]
  5. ^ イギリス人語学者で、1923年に日本に渡り、1926年から東北帝国大学で講師を務めた。1942年に離日[36]
  6. ^ 川上操六の土地はのちに根津嘉一郎の所有(別荘)となり、戦後は国土計画に買収され、現在の『軽井沢プリンスホテル』となった。川田小一郎の土地は、のちに後述する野澤源次郎に売却され、別荘地開発の大きな基点となった。
  7. ^ イギリス人法学者経済学者で、東京帝国大学で経済学の講師を務めた。
  8. ^ 生没年不明。英国の商人で、会社を経営していたという。1882年英国王立地理学会の特別会員となる。著作は『日本内陸紀行』のみ。1881年6月1日横浜に到着し、9月18日函館を出港するまでの約3か月、日本を旅行して回った。経済的にも恵まれ、教養も深く、当時の日本で活躍していた外国人たちとも交流があった[46]
  9. ^ イギリス人でJ.M.ディクソンの友人。本著書で300枚以上の写真を用いて明治後期の日本の様子を描写した(本著書の前書きより)。
  10. ^ 1916年に細川護立徳川慶久がそれぞれ野澤源次郎から土地を購入した際の登記簿[56]には、現在の三笠通り付近が既に「山林」と表記されている。
  11. ^ 恐らくラウンドアバウトである現在の六本辻を指していると思われる。
  12. ^ 徳川圀順徳川慶久徳川義親の誰を指しているのかは不明(3人とも軽井沢に別荘を所有)。
  13. ^ 全編を通して軽井沢が舞台・ロケ地となっており、当時の旧軽井沢メインストリート草軽電気鉄道の様子なども確認することができる。またこの映画の舞台として使用された別荘は、かつて旧軽井沢に存在した細川侯爵邸そのものであり、別荘を黒塗りの馬車が往来している様子も描写されている。
  14. ^ 「ゴルフ場」とは『旧軽井沢ゴルフクラブ』のことであり、「ニューグランド」とは、かつて雲場池湖畔に存在した、横浜の『ホテルニューグランド』から夏期限定で出店されたホテル『軽井沢ニューグランドロッジ』のことである。「山腹の道路」は現在の『御水端通り』を指している。
  15. ^ 「高木林」、「雑木林」と同義。
  16. ^ 避暑地草創期においては、共同で山羊などを飼い、畑を耕し、自給自足の生活を送っていた。
  17. ^ 旅籠「つるや(現・つるや旅館)」の主人佐藤仲右衛門の長男であり、軽井沢の総合案内である本著書を執筆。当時19歳。軽井沢に生まれ育ち、商社マンとして外国貿易に従事した後、1950年に帰郷し、軽井沢観光ホテル社長を務めている[67]
  18. ^ 〔のちの軽井沢の変わり様に対して〕わが家の山荘はいまも残っているが、私にとって「ふるさとは遠きにありて思うもの」(原文 : "You can’t go home again")は、どこよりも軽井沢において真実なのである』とある[86]
  19. ^ シチリアワイン「ドゥーカ・ディ・サラパルータ」の醸造家として世界的に著名で、イタリアコムーネサラパルータ」の由来でもある。
  20. ^ 横浜山手町にあり、自動車部品製造メーカー「ボッシュ」と日本で初めて代理店契約を締結するなどの功績を持つ。会社は現存。
  21. ^ 「軽井沢新スタジオ」は現在、レーモンドの弟子であった建築家北澤興一が所有している。
  22. ^ カントリー料理の講師としてテレビ出演経験もある妻ステラと、1953年に『軽井沢ユニオンチャーチ』で結婚式を挙げるなど、軽井沢を愛した人物である。なお、軽井沢生まれの息子クレイグは、『軽井沢ユニオンチャーチ』の代表理事を務めた。
  23. ^ 個人邸としては破格の規模の工事であったため噂された。当の別荘は2017年頃工事機材が撤去され、一応の工事終了となった。
  24. ^ ゆえに1890年代の外国人別荘は、日本人の名義で土地が登記されていた。
  25. ^ この文献は、尾崎行雄が「80歳を越えて」(69頁)書かれたものであるため、1940年頃から1946年までの間に書かれた随筆をまとめたものと判断している[55]
  26. ^ そもそも、軽井沢の地理的特性上「水」環境が悪く生活用水源や水辺レクリエーションが限られていたことも、野尻湖に転居した要因として考えられる[106]
  27. ^ 有島武が明治末期に建設。元々旧軽井沢の三笠地区にあったが、後に『軽井沢タリアセン』内に移築された。なお別荘跡には「有島武郎終焉地碑」が建立されている。
  28. ^ ワルワーラ・ブブノワに同じ。
  29. ^ 芸妓娼妓、またそういった女性による接待が行われる店のこと。
  30. ^ 派手な女性関係で知られた富裕層も、軽井沢では"正式な"家族と和気藹々とした時間を過ごすことから、皮肉を交えて、軽井沢が「正妻の町」と呼ばれることもあるという[120]
  31. ^ だらしなく着物を着くずしている様子の意。
  32. ^ ただしこれらの割合は、普通世帯の世帯員が現在居住している住宅又は住宅以外の建物のほかに住宅を所有(共有の場合を含む)している場合のみを表しており、法人名義の住宅は含まれていないため、実際よりも過小な数値になっている可能性がある。
  33. ^ 写真には「七尾池」と記載されているが、池の形状からして雲場池であり、また奥に見える建物はその外見からかつて雲場池湖畔にあったホテル『軽井沢ニューグランドロッジ』であるため、「七尾池」は当時の雲場池の別名や俗称などと考えられる。
  34. ^ 現在の近衛レーン沿いであり、その別荘跡には未だ「KONOE SANSO」の標識が立っている。
  35. ^ ロンドンハンプトン・コート宮殿で毎年開催されるクラシックカーの世界的祭典。ケント王子は名誉顧問を務める。
  36. ^ 両親から受け継いだ愛宕山にあった別荘の土地の一部を手放して、建設費に充てた。両親が建てた明治期の古い別荘は、老朽化のため同じ場所に新たな別荘として建て替えたが、その後手放し(この建物は現在、作家下重暁子が所有[195])、本文後述の「ハーモニーハウス」の隣地に新たな別荘「メロディハウス」を建てた。「ハーモニーハウス」を含め、3軒のいずれも、カニングハムと親交のあった吉村順三の設計による。
  37. ^ 1931年竣工。元々は旧軽井沢の二手橋付近にあったが、朝吹登水子の意思により2008年に移築された。
  38. ^ 芥川龍之介の軽井沢の滞在日記には、1925年の時点で既に、石垣を積んだ別荘の様子が描写されている。→初出:芥川龍之介『軽井沢の一日 (仮) 』(私的日録, 1925年)。『芥川龍之介全集 第23巻』(岩波書店, 1998年)に所収。以下該当箇所。「自分はH〔堀辰雄〕やS〔萩原朔太郎〕の妹たちと宿〔つるや旅館〕の前の路へはいった。右側が別荘の塀になってい、左側はやはり石垣をつんだ別荘の庭になっている。」「アタゴ山〔愛宕山〕の方へはいった。別荘ばかり並んだ小路だ。(中略)男は皆別荘の低い石垣に腰かけて休んだ。」
  39. ^ この項で他者の著作物の内容を数多く羅列(転載)しているのは、そのほとんどが著作権の消滅した文献のためであり、著作権の消滅していない文献については「引用」の規定に則って記載している。

出典

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