軍服 (大日本帝国陸軍) 正装

軍服 (大日本帝国陸軍)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/24 14:48 UTC 版)

正装

正装(将校准士官等)

陸軍歩兵大尉(袖章が細線3条)。裕仁親王皇太子時代)
陸軍騎兵大尉(袖章が細線3条)。騎兵佐尉官准士官の正衣袴は将官および他の兵科部とは大きく異なっており、上衣は肋骨服、袴は長袴でなく絨・萌黄色定色側線を有す短袴で長靴を履く。竹田宮恒久王
元帥陸軍大将。寺内正毅
兵科の尉官(陸軍大学校卒業生、恩賜組(軍刀組)

正装をすべき場合

正装で正衣(せいい)を着用すべき場合は、時代により多少の変遷はあるが概ね次の通りである。

様式

1873年(明治6年)9月24日に「陸軍武官服制」(明治6年9月24日太政官布告第328号)が制定される。将校(士官)准士官は、立襟ダブルボタンの半マンテル、長袴(ちょうこ、スラックス)に短靴(たんか、サイドゴアブーツ)の正装を用いた。細部の改正を経つつ、この基本形は帝国陸軍の最期まで用いられることとなった。

1879年(明治12年)3月18日制定の「陸軍服装規則」によると、将校准士官同相当官は、正帽・正衣・正袴・飾帯(佐官(隊附・伝令使を除く)以上。会計・軍医・馬医部の佐官相当官以上および参謀科尉官がこれを用いる)・白手套下襟飾緒(参謀科及び伝令使のみ)・正剣(正剣に代わって軍刀を佩用するのは、将官部隊を率いる場合、参謀科将校が観兵式などにあたりその職を奉じる場合、伝令使及び隊附の佐尉官の場合である)および短靴を着用することとなっていた。

1900年(明治33年)の「陸軍服制」(明治33年勅令第364号)によると、一般将校準士官の第一種帽は、(色合いは黒色に近い)濃紺絨の地質。帽章日章(旭日章)は金色直径17。目庇(まびさし)はで、表が黒色、裏が萌黄色。頤紐(あごひも)が黒革で幅が3分5、頤紐釦が直径3分であった。また第一種帽には横章が付されている。上下部縫際に蛇腹組み金線小線(幅1分5厘)1条を付すほか、階級により別に金線が付された。少尉は金線小線1条とし、大佐に至るまで小線1条ずつ増えた。少将は金線大線(幅9分)1条及び小線1条とし、大将に至るまで小線1条ずつ増えた。また、頂上に五芒星の刺繍が付された。正衣袖章は金線で表され、少尉同相当官を1条として、大佐同相当官の金線6条に至るまで1条ずつ増えてゆく。

明治45年2月24日勅令第10号による改正では、第一種帽を正帽と改称すると共に、目庇の裏が黒色(元は萌黄色)となり、顎紐の幅が3分7厘(2厘太くなる)、顎紐止め釦の直径3分5厘(5厘大きくなる)となる。

昭和13年勅令第392号による改正では、正衣について、各部将校准士官(旧相当官)の飾帯の定色の区別がなくなり、一律に緋色となる。

襟章によっても階級が区別されており、将官には毘沙門亀甲の刺繍、佐官には雷紋の刺繍、尉官には蛇腹折の金色テープが用いられた。 また規定外ではあるが襟章にスパンコールをあしらう例もある。

正装(下士卒等)

1873年9月24日に「陸軍武官服制」(明治6年9月24日太政官布告第328号)が制定される。下士にはシャコー帽が採用された。

1879年3月18日制定「陸軍服装規則」によると、下士卒同相当官は、正帽・正衣・正袴を着し、正帽には前立を装し、各科所用の兵器を携帯し、乗馬本分者は長靴を、徒歩本分者は脚絆を着用した。ただし、飾隊儀仗の整列等にあって隊附徒歩本分の下士卒は、下副官および曹長のほか、皆背嚢を負い、毛布蹄鉄状に付しその上に外套を付着し、嚢中に定規の器具を収め脚絆を袴下に着用した。また、工兵及び鍬兵の下士卒は毛布の代わりに各工具を付着した。また、隊外の下士は、兵科に関せず総て軍刀を佩用した。なお、1880年(明治13年)には、官営千住製絨所が操業を開始し、国産の羅紗地が用いられるようになった。

1900年の「陸軍服制」(明治33年勅令第364号)でも下士卒第一種帽(シャコー帽)は維持された(憲兵および輸卒を除く兵科の下士卒)。憲兵および各部の下士卒の第一種帽は将校准士官のそれに近いものであった。


注釈

  1. ^ 錦織は明治5年の天長節から着用としているが[2]、刑部は翌年6月としている[3]
  2. ^ なお、海軍の第一種軍装および正装・礼装では将官を示す袖章の線が、一般の大将は太線2本に中線3本であるのに対し中線が4本あった。
  3. ^ ちなみにイギリス王室においては海軍軍装が優先。
  4. ^ 詰襟型であり、天皇は同年11月8日に新御服を着用し伊勢神宮に親拝した。
  5. ^ 勅令の規則上では、将官の場合が上下端の大線が幅6分(18.2cm)で、間隙(濃紺絨部分)3条のそれぞれの幅は1分(0.3cm)、小線2条のそれぞれの幅は間隙に同じのものとされ、濃紺絨の生地に緋絨の線を4本縫い付けることとなっていた。佐尉官も同様の規定となっていた。

出典

  1. ^ 刑部 p 66
  2. ^ a b c 錦織 p 76
  3. ^ a b 刑部 p 67
  4. ^ 錦織 p 78
  5. ^ 明治19年7月勅令第48号(陸軍将校服制改正)及び明治19年12月内閣達第14号(陸軍服制中下士以下服制改正)
  6. ^ 篠田雄次郎1977『日本人とドイツ---猫背の文化と胸を張る文化』光文社:68
  7. ^ a b 瀬間喬(海軍主計中佐、海将補)『自衛隊を裸にする : 誰も知らない汚濁の内幕』ことば社、1981年、21頁。 


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