足利持氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/15 15:03 UTC 版)
系譜
- 父:足利満兼
- 母:一色氏
偏諱を与えた人物
- 石川持光(いしかわ もちみつ、陸奥石川氏)
- 一色持家
- 岩松持国
- 上杉持定(扇谷上杉家)
- 上杉持朝
- 上杉氏憲(犬懸上杉家)- 持氏と折り合いが悪く、後に上杉禅秀の乱を起こすが敗死。
- 宇都宮持綱
- 大井持光
- 大森氏頼 - 扇谷上杉家の重臣として知られる人物であるが、永享の乱以前は鎌倉府に仕えていた。
- 大多和持高(おおたわ もちたか)- 大多和氏。系譜は「義遠-義武-義之-義雄-義高-持高」と伝わり[8]、持高は持氏の偏諱授与者と考えられている[9]。
- 大伴持時(おおとも もちとき) - 家系は古代氏族・大伴氏の末裔を称し、鶴岡八幡宮神主を世襲した家柄[10]。応永21年(1414年)3月、11歳で持氏から偏諱を賜ったと伝わる[11]。
- 小田持家
- 小山持政
- 木戸持季(きど もちすえ) - 野田持忠(野田氏)と同族で、小山義政の乱後に下野守護に任命された木戸貞範(法季)の孫。結城合戦において結城氏朝方につき討死。
- 野田持忠
- 野田持保(のだ もちやす) - 宝徳3年(1451年)に野田持忠が知行に強入部したとして名前の伝わる人物。持忠の近親者(弟か)と思われる。
- 舞木持広(もうぎ もちひろ)- 駿河守。家系は藤原秀郷流佐貫氏の支流とされる。岩松満純(持国の伯父)の追討や、被官の赤井若狭守とともに参加した永享の乱で活躍。永享12年(1440年)山内上杉家の家宰・長尾忠政(忠綱の子)により謀殺された。
- 簗田持助
- 結城氏朝(下総結城氏)
- 結城氏朝(白河結城氏) - 上記の下総結城氏の氏朝と同名の人物だが、白河結城氏は京都扶持衆の一員であるなど幕府寄りであり、永享の乱・結城合戦においてはそれぞれ鎌倉府・下総結城氏と敵対している。
- 結城持朝(下総結城氏)
脚注
注釈
- ^ 足利義満の子・義嗣の次男である一色直明の娘とされる。一色氏久の項も参照のこと。
- ^ 記録上持氏の妻は簗田河内守の娘しか伝えられていないが、鎌倉公方には守護大名もしくは足利一門出身の正妻もしくは上﨟󠄀(簗田氏出身よりも格上の妻妾)が存在したと考えるのが自然であり、義久の生母は記録が喪われた正妻もしくは上臈であったと推測される[6]。
- ^ 『古河公方系図』では、簗田河内守の娘が春王丸の母とされているが、長塚孝は結城合戦の際に安王丸が兄を差し置いて主将に担がれ、かつ簗田一族がこれを補佐していることを指摘して、安王丸の母の誤りである可能性が高いとする。また、成氏(万寿王丸)の母が簗田満助(助良)の姪であるとして、河内守の娘と満助の姪が同一人物、すなわち安王丸と成氏が同母兄弟であった可能性を指摘している[6]。
出典
- ^ a b c コトバンク_足利持氏とは より。
- ^ a b c d e f g 足利持氏より。
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 31頁。
- ^ 亀田俊和「鎌倉府施行システムの形成と展開」『ヒストリア』214号、2009年。のちに亀田俊和「鎌倉府施行状の形成と展開」『室町幕府管領施行システムの研究』思文閣出版、2013年。ISBN 978-4-7842-1675-8。と改題
- ^ 『喜連川判鑑』では永享10年時点で義久は既に死亡していたとも
- ^ a b 長塚孝「総論 足利成氏論」長塚孝 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第三三巻 足利成氏』(戒光祥出版、2022年)ISBN 978-4-86403-421-0 P9-12.
- ^ 長塚孝「鎌倉府奉公衆の一過程―簗田氏の動向を素材として―」『葦のみち』15号、2003年。
- ^ 早稲田大学図書館所蔵『三浦家文書』所収「三浦十左衛門家系図」。
- ^ こちらを参照。
- ^ 詳しくは、社家の姓氏-大伴氏-(外部リンク)を参照。
- ^ 「大伴神主家系譜集」『鶴岡叢書』 第1輯、鶴岡八幡宮社務所、1976年。
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