趙治勲 顕彰等

趙治勲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/25 11:19 UTC 版)

顕彰等

棋道賞

  • 最優秀棋士賞 受賞9回 (1980年、1981年、1982年、1984年、1994年、1996年、1997年、1998年、1999年) - 歴代2位
  • 最多勝利賞 受賞5回 (1975年、1976年、1979年、1980年、1987年)
  • 殊勲賞 受賞4回 (1972年、1974年、1975年、1979年)
  • 以下受賞1回 技能賞 (1976年)、連勝賞 (1976年)、国際賞 (2003年)、特別賞 (2004年)、新人賞 (1971年)

秀哉賞

  • 受賞9回 (1980年、1981年、1982年、1984年、1994年、1996年、1997年、1998年、1999年)

その他

棋風

序盤は徹底的に実利を稼ぎ、その後相手の模様に入ってシノギ勝負に持ち込む実利派。

読みの鋭さは随一であり、普通なら侵入不可能とされる相手模様でシノいだり、到底攻めの対象とならない石の壁をもぎ取ったりするなど、大一番に真価を発揮する。

極めて勝負にこだわる性格で、常に最強の手を打とうとする。非常な長考派として知られるが、同時に早碁でも多くの優勝歴を持つ。

人柄・エピソード

  • 4歳で碁を覚え、わずか1年余りでアマチュア高段者並になる。
  • 対局中、よくぼやく(独り言のように、自分の碁の内容への不満や落胆を言う)。「どこへ石が行くんだろうな」「いけませんねぇ、ホンマに」「ヘボちゃんですねえ、全く」「あほちゃいまんねん、パーでんねんか」「ああーいけね」「迷うなあ、迷える子羊ちゃん」「さすがに負けましたかね こりゃ」などと激しくぼやく。かつては坂田栄男大平修三とともに「三ぼやき」と言われた。ただし、小林光一によるとこれは考えるリズムをとるためのものであり、「ぼやいていても劣勢とは限らない」「出る言葉はあまり当てにならない」とのこと。調子を取り戻すと、ぼやきは止まる。
  • かつては対局中、扇子をかじったり、マッチ棒をポキポキ折りながら考える癖があり、徳用マッチ箱を傍らに置いていた[36]。現在は健康器具やハンカチを手に握りながら対局する。
  • 1980年ごろ、居住していた千葉県で発生した地震により、対局時間にまにあわず、十段戦の本線トーナメントで不戦敗となったことがある[37]
  • 1980年の第五期名人戦第4局にて、趙は自分がコウの取り番(コウを取れる番)か分からなくなり、記録係に確認した。直前の着手は相手(大竹英雄)のコウトリだったため実際には取り番ではなかったが、記録係が「はい」と誤答したため趙はコウを取ってしまった。本来は趙の反則負けであるが、立会人の判定により無勝負となった。タイトル戦においてそれまで1人だった記録係は、この事件を契機に2人になった。
  • 盤面に集中し「盤上没我」となるあまり、持ち時間を早くに使い果たし、秒読みギリギリで打つことが多い。
    • 1996年のNHK杯、対藤沢秀行戦では、序盤で(わざと)考慮時間を使い果たして背水の陣を敷き、一勝を挙げたこともある。
    • 2002年の王座戦第二局では、自らの手番にもかかわらず、対局相手 (王銘琬)の手番だと思い込み、記録係の秒読みのうちに打たなかったため、切れ負けするというハプニングを招いた。
    • 2014年のNHK杯、対余正麒戦では、対局中に意識が朦朧とし、秒読みの「8」で着手した直後「あれっ?えっ?(時間)切れちゃった?切れちゃってはないよね?アイタタタ ボ~ッとしちゃったなぁ…」と口にした(結果は勝利)。
  • 碁に対する厳しさや執念を物語るエピソードに事欠かない。
    • 対局中、自らの打った悪手に腹を立て、脇息を投げ飛ばしてしまったことがある。
    • 自らの頭や頬を叩いたり、髪の毛をかきむしる癖がある。
    • 対局を見学していた日本棋院院生が私語をしたところ、ペットボトルを投げつけたことがある。
    • 2009年10月8日台風18号の影響で交通機関が乱れ、不戦敗の棋士が続出する中、天元戦予選 (対河野貴至戦)のあった趙は不戦敗扱いとなる1分前の59分遅れで対局場に到着。「持ち時間から遅刻時間の3倍をペナルティとして引く」という規定により持ち時間3時間のうち2時間57分を引かれ、さらに息も切れ切れという状況にもかかわらず、勝利をおさめた[38]
  • タイトルマッチ七番勝負 (棋聖戦・名人戦・本因坊戦)の戦績は29勝9敗 (2010年現在)。3連敗4連勝も3回達成している「七番勝負の鬼」 (ただし林海峰に3連勝4連敗したこともある)。
  • 将棋が趣味。ネット将棋のハンドルネームは、将棋棋士の羽生善治谷川浩司からとって「ハブタニ」であると明かしている。
    • 2020年8月26日、囲碁・名人戦の控室で将棋の渡辺明名人と囲碁・将棋の二面指し(囲碁名誉名人と将棋名人との対決という趣向)を行なった。将棋(4枚落ち)は趙名誉名人が、囲碁(9子局)は渡辺名人が勝利した[39]
  • ゴルフを大変愛好しており、その影響か、顔が赤く日焼けしていることが多い。地方で対局をする場合も、その前にゴルフでリフレッシュを図ることが多く、受け入れ担当者はゴルフ場の手配をしておくことが「定石」といわれる[40]
  • ユーモアのある解説で知られる。
    • 1991年 世界囲碁選手権富士通杯決勝で中国の銭宇平九段に不戦勝で優勝したが、3位決定戦に出場予定の小林光一九段も来られずこちらも不戦勝となり、その日の対局は全てなくなってしまう。大盤解説を楽しみに集まった1000人近くのファンのために、急遽、大盤解説者の中澤彩子(当時初段)と公開対局をした(が、あっさりと敗れてしまった)。
    • 2004年加藤正夫の追悼番組では、(聞き手を務めたにもかかわらず)石田の悪手を遠慮なく次々と指摘したり(下記参照)、自分と加藤の碁の解説をした際にはゴルフの話に持ち込み、「加藤さんがゴルフうまいんだ、また」「加藤さんのスイングを僕は真似したいんだけど…」などと、解説の最中にもかかわらず本当に真似を行なった。
  • 解説以外にもユーモアあふれる語り口に定評があり、週刊碁では読者からの質問に答える「お悩み天国MAX これが治勲のシノギかた」が連載されている。 ニコニコ超会議では同じく将棋界で人気のある加藤一二三九段と囲碁・将棋両方で対局しつつ、トークで場を盛り上げている。[41]
  • 「入門者・初心者は、最初は少ない路数の碁盤で学ぼう」という考えから、「よんろの碁」が登場するかなり前の、1994年に発行された『発想をかえる 囲碁とっておき上達法』や『はじめて打つ碁―誰でも楽しく碁が打てるようになる』では、他棋士があまり扱わない3路盤・4路盤・5路盤を詳しく解説している。
  • NHK囲碁講座」では2014年4月号から「二十五世本因坊治勲のちょっといい碁の話」を連載している。
  • 対局のある日は「朝食を食べたら昼食を抜く」「朝食を抜いたら昼食を食べる」のがルーティン[42]

他の棋士たちとのかかわり

  • ライバル小林光一とは、129戦して66勝63敗 (2011年現在)とほぼ五分だが、タイトル戦では多く勝ち越している。また129戦は同一カードとして史上最多記録。なお、若手時代は石田・加藤・武宮の「黄金トリオ」に対して、趙・小林は「シルバーコンビ」と呼ばれた[43]。当初は気が合わないとされていたが、輪禍直後に迎えた第10期棋聖戦 (1986年)での小林の率直な対応に、かえって尊敬の念を抱くようになったと、趙は度々語っている[44]
  • 兄弟子の加藤正夫武宮正樹は、趙を大いに苦手とした。加藤は趙との生涯戦績が42勝71敗とふるわなかったが、趙の大三冠獲得直後の十段戦 (1983年)で3局半目勝ちで勝利するなど、しのぎを削りつづけた。武宮もタイトル戦で苦杯をなめることが多かったが、棋風の対照的な趙との対局は楽しいと語り[45]、NHK杯戦の趙の対局では自ら進んで解説を担当する。
  • 石田芳夫を「クールな反面、とても温かい心の持ち主」と慕う。1991年の第46期本因坊戦第1局での敗戦譜について、石田が「趣味の碁」と評したのに対し、趙は「なまじほめられるより、石田さんみたいに手厳しくやっつけてくれたほうが嬉しい」と語った。一方、2004年に放送された加藤正夫の追悼番組では、石田が第32期本因坊戦第7局の敗戦譜を丁寧に解説していくのに対し、趙は石田の悪手を遠慮なく次々と指摘。加藤が白番で両三々に構えた碁だったため、「石田さんが両三々好きだからこの碁はてっきり石田さんが白だと思ってて、石田さん随分うまく打つなと思ってた。そしたら逆だったんだね」と笑い、その後も「(石田のケイマに対し)これは軽やかないい手でしたね。珍しく。」「石田さんのいい手を紹介してもしょうがないから省きましょう」「このコスミがこれとセットで本因坊を逃した原因じゃない?」「情けないですねぇ。気持ちが逃げてる。」などと罵倒。石田は趙の的確な指摘に反論できず、苦笑いするしかなかった。締めくくりに石田が「失礼しました」というと、趙は「しっかりやれ」と返し、その場らしからぬ爆笑をもたらした。
  • 坂田栄男とは18歳のとき、日本棋院選手権戦で2連勝3連敗という痛恨の逆転負けを喫して以来、公式戦で13連敗し、苦い体験を重ねた。しかしその間に、坂田の碁に大きな影響を受け、現在の棋風を確立していくことになる。坂田没後、お別れの会の弔辞で、趙は「坂田先生と対局し、13連敗したのが僕の一生の宝物」と語り、涙ぐんだ[46]
  • 林海峰とは1962年に来日直後、6歳で初対局。五子のハンデの公開対局で勝利し、大きな話題となった。これについて趙は後年、「林先生が緩めてくれたんだと思う」「 (このあと木谷道場で加藤正夫に星目以上まで打ち込まれ)これがつまづきのもとだった」と述懐している[47]。棋聖戦の3連敗後4連勝で大三冠となり迎えた1983年の本因坊防衛戦で、林と対戦。今度は趙が3連勝後4連敗の大逆転負けを喫し、わずか4か月で大三冠を失った。ある公式戦では、終局が午前1時であったにもかかわらず、双方熱心なあまり検討で夜を明かし、午前10時半まで続いた。
  • 小林光一の義理の息子に当たる張栩には27戦して6勝21敗 (2012年初現在)と大きく負け越しており、天敵というべき存在である。
  • 張栩以外の第一線の棋士では、高尾紳路にも4勝14敗 (2012年春現在)と大きく負け越している。山下敬吾にも当初負けがこんでいたが、「最近人格が出てきて、勝たせてくれるようになった」[48] と冗談交じりに語っている。
  • 最年少タイトル獲得記録をはじめ、次々と趙の記録を塗り替えていく井山裕太に関して聞かれた際に、「私は最年長記録を更新したい」と抱負を語り、笑いを誘った。自著では「治勲を嫌いな人が多い中、治勲のことが好きという変わり者」[49] とされ、井山の大三冠獲得後には「ぼくだけの記録だったのに、井山裕太め……」[50] とボヤキを記している。
  • 叔父は韓国囲碁界黎明期トップ棋士で韓国棋院理事も務めた趙南哲 (チョ・ナムチョル、조남철)、15つ年上の実兄に退役の囲碁棋士の趙祥衍 (チョ・サンヨン、조상연)七段。門下に金秀俊 (キム・スジュン、김수준)、松本武久鶴山淳志がいる。
  • 高校生時代の坂井秀至の碁について、プロにならないのはもったいないとした記者評とは対照的に、「アマチュアには適用しても、プロではだめでしょ」と厳しく講評した。のちにアマチュア本因坊となった坂井も、手合割 (二子)への不満から、当時本因坊だった趙とのプロアマ対局を拒否している[51]。坂井は後にプロ入りし、七大タイトルの一つである碁聖を獲得した。

注釈

  1. ^ 本因坊10連覇の功績により特例で60歳未満で二十五世本因坊を名乗ることができた。60歳以後は本因坊戦、阿含・桐山杯全日本早碁オープン戦を除き、序列が上の名誉名人が表記されている。
  2. ^ 女性特別採用枠では藤沢里菜が11歳6か月で入段
  3. ^ 病欠による不戦勝
  4. ^ マイナビ出版から「過去の名著、名作を文庫として残し著者、出版社、囲碁ファン三者の利益となることを目的として企画」と題し、「ひと目の詰碁」のタイトルでシリーズの抜粋および電子書籍版が2003年に発行されている。

出典

  1. ^ 『読売新聞』、2019年5月20日、32面。
  2. ^ 풍양 조씨” (朝鮮語). 중앙일보 (1982年1月30日). 2022年7月19日閲覧。
  3. ^ 『命がけで打つ』趙治勲 実業之日本社 昭和56年 p.18
  4. ^ 『命がけで打つ』趙治勲 実業之日本社 昭和56年 p.20
  5. ^ 『命がけで打つ』趙治勲 実業之日本社 昭和56年 p.19
  6. ^ 『命がけで打つ』趙治勲 実業之日本社 昭和56年 p.25
  7. ^ 『命がけで打つ』趙治勲 実業之日本社 昭和56年 p.27
  8. ^ 『命がけで打つ』趙治勲 実業之日本社 昭和56年 p.29
  9. ^ 『命がけで打つ』趙治勲 実業之日本社 昭和56年 p.34
  10. ^ a b 『命がけで打つ』趙治勲 実業之日本社 昭和56年 p.41
  11. ^ 『命がけで打つ』趙治勲 実業之日本社 昭和56年 p.35
  12. ^ 『命がけで打つ』趙治勲 実業之日本社 昭和56年 p.44
  13. ^ 『命がけで打つ』趙治勲 実業之日本社 昭和56年 p.53
  14. ^ 『命がけで打つ』趙治勲 実業之日本社 昭和56年 p.54
  15. ^ 『命がけで打つ』趙治勲 実業之日本社 昭和56年 p.56
  16. ^ 『命がけで打つ』趙治勲 実業之日本社 昭和56年 p.67
  17. ^ 第5期 名人戦
  18. ^ 第6期名人戦
  19. ^ 第9期名人戦
  20. ^ 第53期本因坊戦
  21. ^ a b 週刊碁 2000年1月31日号
  22. ^ 第9期 阿含・桐山杯 全日本早碁オープン戦
  23. ^ 第8期 三星杯
  24. ^ 第1回 エステー&フマキラー囲碁マスターズカップ
  25. ^ 第4回 フマキラー 囲碁マスターズカップ
  26. ^ 第5回 フマキラー 囲碁マスターズカップ
  27. ^ a b 囲碁の趙治勲名誉名人 韓国でMVP受賞
  28. ^ “囲碁:61歳の趙治勲名誉名人が75回目の優勝”. 朝鮮日報. (2018年4月24日). http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2018/04/24/2018042400609.html 2018年4月25日閲覧。 
  29. ^ “囲碁の2018年最多勝 芝野七段が2年連続”. 日本経済新聞. (2019年1月15日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO39802810Z00C19A1GS9000/ 2023年4月8日閲覧。 
  30. ^ “「もう一回頂上を」=囲碁棋士、趙治勲名誉名人-紫綬褒章”. 時事ドットコム. (2019年5月20日). https://www.jiji.com/jc/article?k=2019052000095&g=pol 2019年5月22日閲覧。 
  31. ^ “asahi.com(朝日新聞社):1000勝に迫る結城 囲碁、最年少・最速・最高勝率の記録達成へ - 囲碁”. asahi.com(朝日新聞社. (2011年1月20日). オリジナルの2011年1月20日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110124210219/https://www.asahi.com/igo/topics/TKY201101200400.html 
  32. ^ a b 趙治勲 史上初の通算1500勝!!!日本棋院、2017年4月27日。 オリジナルの2017年4月27日時点におけるアーカイブhttps://web.archive.org/web/20170427195944/http://www.nihonkiin.or.jp/match_news/match_info/1500.html 
  33. ^ a b 趙治勲が史上初の1600勝」『岩手日報 IWATE NIPPO』、2023年12月25日。オリジナルの2023年12月25日時点におけるアーカイブ。
  34. ^ a b 趙治勲、史上初の通算1600勝達成!日本棋院、2023年12月25日。 オリジナルの2023年12月25日時点におけるアーカイブhttps://web.archive.org/web/20231225111441/https://www.nihonkiin.or.jp/match_news/match_result/1600.html 
  35. ^ 公式戦のみ。女流棋戦・地方棋戦(王冠戦関西棋院第一位決定戦など)は除く。
  36. ^ 本因坊400年・手談見聞録:/41 治勲時代の幕開け
  37. ^ 安倍吉輝『逆転の囲碁』(二見書房)P.53
  38. ^ 2009年10月10日放送の「囲碁・将棋ジャーナル」で武宮正樹が証言。また 朝日新聞2009年10月14日付 を参照。
  39. ^ 「渡辺明名人、囲碁・名人戦の控室に現れ趙治勲名誉名人・二十五世本因坊と二面指し対決」女流本因坊戦•KK共同通信 (@KK_joryu) August 26, 2020
  40. ^ 荒谷一成『囲碁名棋士たちの頭の中』 (中経出版)
  41. ^ 囲碁将棋レジェンド対局加藤一二三九段vs25世本因坊治勲@ニコニコ超会議2015
  42. ^ 棋士の勝負めし 「将棋のほうが囲碁より食べる」と観戦記者 - ZAKZAK・2017年6月30日
  43. ^ 『坂田栄男と現代強豪20人』 (誠文堂新光社)P.188
  44. ^ 例えば『お悩み天国 治勲の爆笑人生相談室』 (日本棋院、2013年)140頁。
  45. ^ 2010年度NHK杯「張栩対趙治勲」戦での解説から。
  46. ^ 坂田栄男さん:お別れの会に囲碁ファンら300人 毎日新聞、2010年12月22日閲覧。
  47. ^ 2004年、加藤正夫の追悼番組より。
  48. ^ 2009年、「囲碁・将棋ジャーナル」出演時の発言。
  49. ^ 『お悩み天国 治勲の爆笑人生相談室2』 (日本棋院、2015年)214頁。
  50. ^ 『お悩み天国 治勲の爆笑人生相談室』 (日本棋院、2013年)210頁。
  51. ^ 第34期名人戦挑戦者決定リーグ戦第11局観戦記 坂井秀至七段対趙治勲二十五世本因坊 朝日新聞2010年12月15日閲覧。






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