詩経 詩経の概要

詩経

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/21 01:43 UTC 版)

古典詩の最初の歌で、乾隆帝によって手書きされ、が添えられています。
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中国においては、古代から『詩経』と『書経』は「詩書」として並び称され、儒家の経典として大きな権威を持った。中国の支配層を形成する士大夫層の基本的な教養として、漢代から近世に至るまでさまざまに学ばれ、さまざまな解釈が生まれた[3]。一方、経典として扱われる以前の『詩経』が、どのような環境で生み出され、いかなる人々の間で伝承され、元来いかなる性格の詩集であったのか、といった事柄には多くの学説があり、はっきりとした定論はない[3]

成立

『詩経』に収められている詩は、西周の初期(紀元前11世紀)から東周の初期(紀元前7世紀)の頃に作られたものであり[4]、特に周の東遷前後のものが多いとされている[5]。原作者は、男・女、農民・貴族・兵士・猟師といった幅広い人々であるとされる[4]。その成立時期はギリシアホメーロスイーリアス』『オデュッセイア』と並んで古いものであり、特に個人・集団の叙情詩としては世界最古のものであるといえる[6]

もとは口承で伝播していたが、春秋時代前期に書きとめられて成書化したとされる[4]。『詩経』に収められた作品のうち下限を示すものとして挙げられるのは、国風・秦風の「黄鳥」であり、これは紀元前621年の秦の穆公の葬儀を歌ったものとされている[7]。これらの詩は周代から春秋時代にかけて音楽にのせて歌い継がれ、地域を超えて広く伝播していた[4]

『詩経』が成書化するに至った経緯には諸説がある。伝統的な説として、『漢書芸文志には、周のはじめには「采詩の官」という役人がいて、土地土地の歌謡を採取して皇帝に献上し、皇帝はその歌謡を見て各地の風俗や政治の状況を知り、統治に役立てたという説がある[8]。ただ、どれほど事実に即しているのかは定かではなく[8]崔述青木正児は儒家が漢代の楽官から類推して作り上げた空想であるとしている[9]。また『史記』孔子世家には、もともと三千以上存在した詩から、孔子が善きものを選び取って現行の三百五篇に編纂したとする説があり、これを「孔子刪定説」と呼ぶ[10]。この説は『史記』にしか載っていないものであり、これにも古くから異議が唱えられている[11]

結局のところ『詩経』の詳細な成立過程は不明であるが、『春秋左氏伝』には紀元前544年に季札が『詩経』各篇を賛美した言葉が伝えられており、その篇の順序が現行本と概ね一致していることから、春秋時代後期には現行本に似た形の『詩経』が成立していたと考えられる[12]。また、『荀子』には風・雅・頌などの名称が出ており、戦国時代に現行本と近い『詩経』が存在したことも分かる[8][13]

また、同時代的な出土資料としては、1990年代に発見された上海博物館所蔵の戦国時代の竹簡(上海楚簡)や郭店楚簡のなかに、『詩経』を部分的に引用した竹簡や、『詩経』の詩を解説した竹簡がある[14]。2015年には、安徽大学が戦国時代の竹簡を入手したが、これは『詩経』のうちの「国風」の部分を含んだものであった[14]

三家詩

漢代に入ると、学官・博士の制度が定められ、経書の研究が盛んになった[15]。この頃、『詩経』のテキストとその解釈には大きく三種の系統が存在しており、これを「三家詩」と総称する[15]

魯詩
魯国で伝えられてきた解釈で、申培文帝の時期の博士)によって学官に立てられた[16]。申培は浮丘伯の弟子で、浮丘伯は荀子の弟子である[17]。申培の弟子には周覇・夏寛・魯賜らがいる[15]西晋の頃に亡び、現存しない[16]
斉詩
斉国で伝えられてきた解釈で、轅固中国語版景帝の時期の博士)によって学官に立てられた[16]。夏侯始昌によって盛んになり、翼奉匡衡らの時に最も隆盛であった[15]三国魏の頃に亡び、現存しない[16]
韓詩
魯国で伝えられてきた解釈で、韓嬰中国語版(文帝の時期の博士)によって学官に立てられた[16]。三家詩の中では長く伝えられ、北宋の頃まではその本が伝えられていた[15]。また、その説話集である『韓詩外伝』は現存する[16]。これも荀子系統の学を引いているとされる[17]

以上の「三家詩」は、漢代の博士によって脈々と伝えられたテキストに基づいており、漢代通行の字体である「今文」で伝承されていた[16]。前漢の書籍を記録した『漢書芸文志には、魯詩として「魯故二十五巻」「魯説二十八巻」など、斉詩として「斉后氏故二十巻」「斉孫氏故二十七巻」「斉后氏伝三十九巻」など、韓詩として「韓故三十六巻」「韓内伝四巻」「韓外伝六巻」などが記録されている[15]。ただし、いずれも現代は亡んでおり、唯一『韓詩外伝』のみが伝わる[18][注釈 1]

毛詩

一方、今文で書かれていた「三家詩」とは別に、河間献王劉徳が古書を収集した際、秦代以前の古い字体である「古文」で書かれたテキストが発見された。これは荀子から魯の毛亨中国語版に伝えられたものであった。劉徳は毛萇中国語版を博士とし、これも『詩経』のテキスト・解釈として用いられるようになった。この古文系統の『詩経』のテキストおよび毛氏の解釈を『毛詩』という[19]

『毛詩』には、詩の本文に加えて、毛氏の解釈を伝える「毛伝」ならびにそれぞれの詩の大意を記した「詩序」(大序・小序)が附されていた[20]。「詩序」の作者は諸説あり、『後漢書』は衛宏中国語版の作であるとし、『隋書』は子夏が作り毛氏・衛宏が潤色したとする[21]

その後、『毛詩』は前漢の間は貫長卿・解延年・徐敖中国語版・陳俠・謝曼卿を通して伝えられた。後漢に入り古文学が盛んになると、衛宏・徐巡・賈逵鄭衆らを通して伝えられ、馬融は『毛詩』に注釈を附し、さらにその弟子の鄭玄が『毛詩』に「箋」と呼ばれる注釈を作った(鄭箋[22]。『毛詩』と鄭箋は、唐代の『五経正義』に採用されて主流のテキスト・解釈となった[23]

構成

『詩経』の十五の国風の所在地[24]。周南・召南の場所は諸説ある。

『詩経』には合計311篇の詩が収められているが、このうち6篇は題名だけで本文は伝わっていない[1]。それぞれの詩のタイトルは、多くの場合は最初の句から数文字(多くは二字)を選んでそのまま題名にしたものであり、内容を要約したものではない[25]。これら311篇の詩は、「風」「雅」「頌」の三つの区分の下に収録されている。

「国風」とも。各国の民間で歌われた詩で、国ごとに十五に分けられている。計160篇[26]。周南・召南(周公召公の封地の詩。場所は諸説ある)、邶風・鄘風・衛風(内容は全て衛風、衛国の詩)、王風(東周の都を中心とする詩)、鄭風(の詩)、風、風、風、風、風、風、風、豳風(周の先祖公劉以下の故地の)の15に区分される[27]
中央朝廷の正しい音楽。「小雅」(31篇)と「大雅」(105篇)に分かれる[26]。「大雅」が周王朝の朝廷・宗廟に用いる詩であるのに対し、「小雅」は上下を通じて用いられる詩で、政事の大小・道徳の存否・辞気の厚薄・成立の豊薄に相違があるとされる[28]。「雅」は「正」の意味で正楽の歌を指すとする説と、「夏」の意味で中国中原から生まれた歌であることを示すとする説などがある[29]。小雅・大雅では十篇ごとを一組としてその最初の詩の名前を冠して「〇〇之什」として区分されている[30]。小雅は鹿鳴之什・南有嘉魚之什・鴻鴈之什・節南山之什・谷風之什・甫田之什・魚藻之什、大雅は文王之什・生民之什・蕩之什に分かれる[31]
朱熹は「宗廟之楽歌」と述べており[32]宗廟で祖先の功業を褒めたたえるための歌舞をともなう詩のこと[26][33]。「頌」という言葉は、「褒め歌」の意味であるという説と、舞いの様子を表したものとする説がある[32]。頌は、周頌・魯頌・商頌に分かれ、周頌は清廟之什・臣工之什・閔予小子之什の三つに分かれる[34]

松本雅明は、シンプルな畳詠体が多い国風が最も古く、雅・頌がこれに次いで成立したと主張するが、これに対して白川静は、風・雅・頌ではそれぞれ伝承過程が異なるため単純な比較はできないと述べている[35]小南一郎は、梁啓超の説を踏まえて、韻を踏まず、また章分けも存在しない「周頌」の作品群が最古であり、次いで雅・風が成立したと主張している[35]

なお、このうち「周南」「召南」を「南」(二南)として国風から独立させる分け方もあり、これは宋代の儒者が唱え始めた[36]。この「南」の意味は、文王の教化が南へ向かうことを表すとする説(毛詩)と、詩体の一種とする説(朱熹)、楽歌・楽舞と結びついた楽体とする説(鄭樵・程大昌)、「南」は「男」の意味とし爵位を表すとする説(牟庭)などがある[37]


注釈

  1. ^ 亡びてしまった三家詩を、他書に残された引用から復元する試みも行われており、その成果に清の陳寿祺・陳喬樅の『三家詩遺説考』や王先謙の『詩三家義集疏』などがある。ただ、誤りが多い点には注意が必要である[15]
  2. ^ 江戸時代の詩経名物学書は以下に網羅されている。: 陳捷 著「経学註釈と博物学の間―江戸時代の『詩経』名物学について」、陳捷 編『医学・科学・博物 東アジア古典籍の世界』勉誠出版、2020年。ISBN 978-4-585-20072-7 

出典

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  2. ^ 村山 2005, p. 22.
  3. ^ a b 小南 2012, pp. 4–5.
  4. ^ a b c d 加納 2006, p. 16.
  5. ^ 村山 2005, p. 10.
  6. ^ 村山 2005, p. 14-16.
  7. ^ 小南 2012, pp. 31–32.
  8. ^ a b c 村山 2005, p. 12.
  9. ^ 小南 2012, pp. 24–26.
  10. ^ 野間 2014, pp. 117–118.
  11. ^ 村山 2005, p. 11-12.
  12. ^ 陳 2003, p. 3.
  13. ^ 目加田 1991, p. 204.
  14. ^ a b 陳 2003, pp. 385–386.
  15. ^ a b c d e f g 洪 2002, p. 108.
  16. ^ a b c d e f g 野間 2014, pp. 118–119.
  17. ^ a b 目加田 1991, p. 205.
  18. ^ 宇佐美 1984, p. 154.
  19. ^ 野間 2014, pp. 119–120.
  20. ^ 村山 2005, pp. 18–19.
  21. ^ 目加田 1991, pp. 210.
  22. ^ 目加田 1991, pp. 206–7.
  23. ^ 村山 2005, pp. 20–21.
  24. ^ 村山 2005, p. 29.
  25. ^ 村山 2005, p. 14.
  26. ^ a b c 野間 2014, p. 121.
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  103. ^ 家井 2004, pp. 9–11.
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