角福戦争
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第二次角福戦争(第一次大福戦争)
- ポスト福田赳夫総裁選(1978)大平正芳 対 福田
福田政権は長期政権とせずに大平に政権を譲るという了解のもとで発足したが、「福田は1期のみ務めて大平に譲る」(大福密約)ことを大平側が要求する一方、福田は「再選し2期目の半ばで大平に譲る」ことを主張した。内閣改造およびそれに伴う党役員入れ替えでは、中曽根康弘が総務会長につけられるなど、旧三木政権に連なる非主流派が配慮される。一方で、田中派には経済関係閣僚が割り当てられず[4]、主流派というには冷遇された形となった。福田は総裁再選を期して衆議院解散を目論むが大角がこれに反対し、中曽根総務会長が大平幹事長の談話と相反する談話を繰り返すなど、政権内の不和が目立つようになった。結果として大福は決裂し総理総裁の座は1978年自民党総裁予備選挙で争われることになった。
ロッキード事件と大福提携で雌伏を余儀なくされていた田中派は全面的に大平の支援に回り、当時党全国組織委員長を務めていた竹下登が門外不出のはずの党員党友名簿を持ち出し、それを基に後藤田正晴が田中派の議員秘書を総動員して戸別訪問や電話攻勢等をするローラー作戦を展開。
当初の世論調査では現職の福田が予備選挙で圧倒的に有利とされており、また福田が派閥解消を主唱していた手前もあって、福田派の動きは大平陣営と対照的に鈍かった。一方で本選挙で投票する国会議員については予断を許さない状況のため、福田は「予備選で負けた候補は本選挙を辞退すべきだ」と発言していた。しかし予備選挙の結果は大平748点に対し福田638点と大平の大差での勝利となった。
福田派は、派閥単位の選挙を自重した自分達に対して田中派がなりふり構わず派閥選挙を仕掛けたとして激昂し、森喜朗や小泉純一郎などが本選挙に打って出るべきと要求する。しかし、予備選で大勝し勢いに乗る大平に対しては本選挙でも勝ち目は無く、前言を覆して本選に打って出て負ければ体面が立たないと安倍晋太郎が辞退を主張する。結局、福田は「天の声にも変な声がある」「敗軍の将、兵を語らず」との台詞を残して本選挙を辞退した。同年12月7日第1次大平内閣が成立し福田は反主流派に転落した。
大平は親台湾派であった福田が日中国交正常化以後、親中派へと態度を変えたことに元々親中派であった自分の居場所が無くなるという危機感を持っていたという。
田中はローラー作戦を展開する前から現職の福田が圧倒的に有利とされていた下馬評の流れではなくすでに大平が20~30ほど優勢であるとの認識を持っていたという[5]。
- ^ ただし福田は蔵相として証券不況の1965年7月27日、戦後初の長期国債発行による景気対策を打ち出している。 草野厚 『山一証券破綻と危機管理』 朝日新聞社 1998年P 183
- ^ 「一人にしぼれぬ 角福調整最終的に断念」『朝日新聞』昭和47年(1972年)6月19日夕刊、3版、1面
- ^ 「財政赤字の政治学-政治的不安定性,経済バブル,財政赤字」村松岐夫、北村亘、『バブル/デフレ期の日本経済と経済政策-第7巻-分析・評価編7「構造問題と規制緩和」』所収、寺西重郎編、慶應義塾大学出版会、P165{{{1}}} (PDF)
- ^ 改造前の田中派への閣僚割り当ては運輸大臣・郵政大臣・行政管理庁長官、改造後は厚生大臣・防衛庁長官・環境庁長官。
- ^ 戸川 猪佐武著 『自民党総裁 死闘・大角連合』
- ^ 衆議院・第161回国会本会議第4号(平成十六年十月二十二日)、小里貞利議員・在職二十五年代表謝辞
- ^ このときの話し合いで田村元が持ち込んだ総理総裁分離が浮上し中曽根総理、福田総裁案を福田は呑んだといわれているが、田中の意を受けた中曽根は蹴った。
- ^ a b 安藤俊裕 (2011年8月28日). “田中角栄に反旗、竹下派旗揚げ 「政界のドン」金丸信(5)”. 日本経済新聞 2020年8月2日閲覧。
- ^ 亀井は自民党時代は清和会(福田派)に属していた。
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- 2 角福戦争の概要
- 3 概要
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