親衛隊 (ナチス)
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組織
中央組織
親衛隊の中央組織は時期によって変遷があるが、基本的には本部(Hauptamt) が置かれ、その下に各部署が置かれる形になっていた。ヒムラーが全ドイツ警察長官、ドイツ民族性強化国家委員、内相などの国家の役職を兼任するようになると国家機関も親衛隊の機関として含まれるようになった。最終的には12の本部が存在した。
親衛隊全国指導者個人幕僚部
親衛隊全国指導者個人幕僚部(Persönlicher Stab Reichsführer SS、略称Pers,Stab RfSS)は、1936年にカール・ヴォルフSS少将(当時。後に大将)の下にあった親衛隊司令部が改組されて誕生した。1939年に本部 (Hauptamt) に昇格している[85]。親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの個人的な幕僚達で構成された部である。長官は一貫してカール・ヴォルフSS大将が務めた。ヴォルフはヒムラーとの関係を悪くして1943年にイタリアへ送られているが、親衛隊全国指導者個人幕僚部長官の地位は敗戦まで保持している。アーネンエルベや生命の泉協会などの親衛隊組織が親衛隊全国指導者個人幕僚部の傘下に置かれていた。親衛隊名誉指導者もこの部の下に配置されていた。
親衛隊本部
親衛隊本部(SS Hauptamt、略称SS-HA)はもともとSDを除くすべての親衛隊機関の事務を担当していた。人事に財政にとその職務は広範囲に及んだ。武装親衛隊の前身である親衛隊特務部隊や強制収容所の警備部隊親衛隊髑髏部隊ももともとこの本部の傘下に置かれていた。しかし親衛隊本部の仕事はあまりに膨大であったため、この本部からいくつかの事務が切り離されて3つの本部(親衛隊作戦本部、親衛隊人事本部、親衛隊経済管理本部)が独立することになった[85]。戦時中に親衛隊本部は親衛隊(特に武装親衛隊)の隊員の募集と採用を主な任務とする機関となっていた[86]。クルト・ヴィットイエSS中将 (Curt Wittje)、アウグスト・ハイスマイヤーSS大将、ゴットロープ・ベルガーSS大将が長官を務めた。
親衛隊作戦本部
親衛隊作戦本部(SS Führungshauptamt、略称SS-FHA)は1940年8月15日に親衛隊本部から分離して設置された[87]。一般SSと武装SSの司令部を傘下に入れている本部である[88]。武装SSの「総司令部」の役割を期待されて創設された。戦闘の際には武装SSは国防軍の指揮を受けたが、それ以外の際には親衛隊作戦本部の指揮下にあった。武装SSの医療や兵站は作戦本部が担っていた。隊員訓練も作戦本部が行い、SS士官学校も作戦本部により運営されていた。ハンス・ユットナーSS大将が長官を務めた。
親衛隊人事本部
親衛隊人事本部(SS Personalhauptamt)は、親衛隊の人事を管轄とした部署。親衛隊本部から人事に関する事務が切り離されて誕生した。長官はヴァルター・シュミットSS大将(Walter Schmitt)、マキシミリアン・フォン・ヘルフSS大将が務めた。このマキシミリアン・フォン・ヘルフは陸軍大佐だった人物で北アフリカで勇戦している。12本部の長官たちの中では唯一の貴族出身者にして騎士鉄十字章叙勲者である(秩序警察長官代理アルフレート・ヴェンネンベルク除く)。
国家保安本部
国家保安本部(Reichssicherheitshauptamt、略称RSHA)は、国家の警察機関である保安警察(ゲシュタポと刑事警察)と親衛隊のSD本部を統合する形で1939年9月に誕生した親衛隊の本部である。ドイツ本国及びドイツ占領地の政治警察のすべてを統括する親衛隊の最重要本部である。長官ははじめラインハルト・ハイドリヒSS大将が務めていたが、1942年6月にハイドリヒが暗殺された後にはハインリヒ・ヒムラーが長官を兼務して直接の指揮を執った。1943年1月からドイツの敗戦までエルンスト・カルテンブルンナーSS大将が長官に就任する。国家保安本部は以下のように編成されていた。
- I局、人事局 (Personal)
- 局長: ブルーノ・シュトレッケンバッハSS少将、エーリヒ・エーアリンガーSS少将
- II局、編制・総務・法務局 (Organisation, Verwaltung und Recht)
- 局長: ハンス・ノッケマンSS大佐 (Hans Nockemann)
- III局、国内保安局 (SD-Inland)
- 局長: オットー・オーレンドルフSS中将
- IV局、秘密国家警察局 (Geheimes Staatspolizeiamt、略称Gestapo)
- 局長: ハインリヒ・ミュラーSS中将
- IVB4課 (ユダヤ人課)
- 課長: アドルフ・アイヒマンSS中佐
- IVB4課 (ユダヤ人課)
- 局長: ハインリヒ・ミュラーSS中将
- V局、刑事警察局 (Reichskriminalpolizeiamt、略称KriPo)
- 局長: アルトゥール・ネーベSS中将、フリードリヒ・パンツィンガーSS上級大佐
- VI局、海外保安局 (SD-Ausland)
- 局長: ハインツ・ヨストSS少将、ヴァルター・シェレンベルクSS少将
- VII局、世界観調査・分析局 (Weltanschauliche Forschung und Auswertung)
- 局長: フランツ・ジックスSS少将
また国家保安本部は戦時中にドイツ占領地各地に「保安警察及びSD司令官」を設置していた。ハインリヒ・ヒムラーの設置した「親衛隊及び警察高級指導者」に対抗したものであった[70]。多くはアインザッツグルッペンの指揮官と兼務となっていた。
秩序警察本部
秩序警察本部(Hauptamt Ordungspolizei、略称OrPo)。政治警察を除いたすべての警察を指揮する秩序警察を親衛隊の本部にしたもの。長官はクルト・ダリューゲSS上級大将が務めていたが、1943年に心筋梗塞で重体になり、代わりに長官代理としてアルフレート・ヴェンネンベルク警察大将が置かれることとなった[48]。
親衛隊法務本部
親衛隊法務本部 (Hauptamt SS-Gericht) は、SS裁判所を傘下に収める本部であり、規則に反した親衛隊員の懲戒処分を決定する。長官はパウル・シャルフェSS大将 (Paul Scharfe)、フランツ・ブライトハウプトSS大将 (Franz Breithaupt)、ギュンター・ライネッケSS上級大佐(Günther Reinecke)が務めた。
ハイスマイヤー親衛隊大将本部
ハイスマイヤー親衛隊大将本部 (Hauptamt Dienststelle SS-Obergruppenführer Heißmeyer) は、政治教育を行うナポラ (Nationalpolitische Erziehungsanstalt) の監督を行う本部である。長官はアウグスト・ハイスマイヤーSS大将が務めた。
親衛隊人種及び移住本部
親衛隊人種及び移住本部(Rasse- und Siedlungshauptamt der SS、略称RuSHA)は、親衛隊員がゲルマン人種の純血を保つこと、また東方に入植させることを目的とする。1931年に創設され、1935年に本部 (Hauptamt) に昇格した。親衛隊員が結婚するためにはこの部署の許可を必要とした。花嫁が「健康で遺伝的に問題がなく、少なくとも人種的に同等である」ときにのみ婚姻が許可された[89]。長官は、リヒャルト・ヴァルター・ダレSS中将(当時)、ギュンター・パンケSS少将(当時)(Günther Pancke)、オットー・ホフマンSS中将(当時)、リヒャルト・ヒルデブラントSS大将が務めた。
ドイツ民族性強化国家委員会
ドイツ民族性強化国家委員会(Reichskommissar für die Festigung deutschen Volkstums、略称RKFDV)は、1939年10月7日にハインリヒ・ヒムラーがヒトラーより「ドイツ民族性強化国家委員」に任命されたことにより設置された官庁である。親衛隊の本部のひとつとなった。ナチス・ドイツは占領した地域をドイツ化することを目指していた。そのためのドイツ人の再植民などを担当するのがこの部署であった。長官はウルリヒ・グライフェルトSS大将が務めた。
ドイツ民族対策本部
ドイツ民族対策本部(Hauptamt Volksdeutsche Mittelstelle、略称VOMI)は、東欧諸国や旧ドイツ植民地から民族ドイツ人の帰国を支援するための組織である。またドイツ人の再植民にもあたった。この面においてドイツ民族性強化国家委員会と似た役割を担うが、こちらは特に再植民の技術面や組織面を担当し、一方、民族性強化国家委員会の方は計画と執行を担当した[90]。長官はヴェルナー・ローレンツSS大将が務めた。
親衛隊経済管理本部
親衛隊経済管理本部(Wirtschafts- und Verwaltungshauptamt、略称WVHA)は、親衛隊の財政を管理する本部。長官はオズヴァルト・ポールSS大将。前身は1939年6月に親衛隊本部から独立する形で創設された「経済および管理本部」(Hauptamt Verwaltung und Wirtschaft) と「予算および建設本部」(Hauptamt Haushalt und Bauten) である。1942年2月1日にこの2つの本部が統合されて誕生したのが親衛隊経済管理本部である。親衛隊の企業の経営の監督や強制収容所の運営の監督などを行った。また大戦末期にはV2ロケットの生産の監督は陸軍から親衛隊経済管理本部C局のハンス・カムラーSS大将の下に移されている。親衛隊経済管理本部は以下のように編成されていた。
- A局、部隊管理 (Truppenverwaltung)
- 局長: ハインツ・ファンスラウSS少将 (de:Heinz Fanslau)
- B局、部隊経済 (Truppenwirtschaft)
- 局長: ゲオルク・レーナーSS中将 (Georg Lörner)
- C局、建設 (Bauwesen)
- 局長: ハンス・カムラーSS大将
- D局、強制収容所運営 (Konzentrationslagerwesen)
- 局長: リヒャルト・グリュックスSS中将
- 親衛隊髑髏部隊(1942年以前は親衛隊本部、親衛隊作戦本部の管轄)
- 局長: リヒャルト・グリュックスSS中将
- W局、経済活動 (Wirtschaftsunternehmungen)
- 局長: オズヴァルト・ポールSS大将、後にアウグスト・フランクSS大将 (August Frank)
地方組織
親衛隊はドイツ全土に地区区分を行い、その地区ごとに指導者 (Führer) を任命して親衛隊の地方組織の管理をさせた。親衛隊の地区区分は、もともと突撃隊 (SA) にならって親衛隊集団 (SS-Gruppen) の下に複数の親衛隊地区 (SS-Abschnitte) を置く形で区分されていた。しかし1933年に親衛隊上級地区 (SS-Oberabschnitte) が新設され、その下に複数の親衛隊地区 (SS-Abschnitte) が置かれる形に変更された。それぞれの親衛隊地区には親衛隊連隊 (SS-Standarten)、親衛隊大隊 (SS-Obersturmbanne)、親衛隊中隊 (SS-Sturmbanne) が属していた。こうした親衛隊地方組織は中央組織から監督と指令を受けた。
親衛隊上級地区 (SS-Oberabschnitte) は1933年の段階で12個存在していた。1938年には14個になり、さらに1941年には19個置かれた[91]。1937年11月13日にヒムラーは「親衛隊及び警察高級指導者」(Höhere SS- und Polizeiführer、略称HSSPF)をドイツの各地域に設置したが、親衛隊上級地区の指導者がこれを兼務するのが通例であった。「親衛隊地区指導者」は一部を除いてドイツ国内にのみ設置されていたが、「親衛隊及び警察高級指導者」は第二次世界大戦中のドイツ国防軍占領地域にも設置されていた。
注釈
- ^ 山下英一郎『制服の帝国 ナチスSSの組織と軍装』(彩流社、2010年)38頁によると「司令部護衛隊」の「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」への改称は1923年7月であるという。またハインツ・ヘーネ『SSの歴史 髑髏の結社』(フジ出版社、1981年)26頁とゲリー・S・グレーバー『ナチス親衛隊』(東洋書林、2000年)54頁によると「司令部護衛隊」と「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」は同じ組織ではなく、旧エアハルト海兵旅団とナチ党の連携が切れたためにエアハルト海兵旅団の隊員が引き上げてしまい「司令部護衛隊」が解体し、代わりに「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」がヒトラー護衛組織として作り直されたという。
- ^ グイド・クノップ著『ヒトラーの親衛隊』(原書房、2003年)によるとヒトラーのボディーガード組織に「親衛隊」の名称が与えられたのは1925年9月であるという。ロビン・ラムスデン『ナチス親衛隊 軍装ハンドブック』(原書房、1997年)によると1925年11月9日にミュンヘン一揆の記念式典で親衛隊が結成されたとある。
- ^ 彼ら普通党員章保持者は古参の黄金ナチ党員バッジ保持者から蔑まれることになる。
- ^ V2ロケットの開発に携わったヴェルナー・フォン・ブラウン博士が逮捕された際にその弊害が現れている。この時は最終的にヒトラー自らがゲシュタポに介入してようやく釈放させたものの、そのときヒトラーは「私でも彼(フォン・ブラウン)を釈放することはかなり困難だった」と言ったという。
出典
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