親衛隊 (ナチス)
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思想
人種観
ヒトラーは『我が闘争』の中で左翼政党、金融資本、国民経済空洞化、議会主義、自由主義、平和主義など「ドイツ労働者を墜落させる」要素はすべてユダヤ人の世界陰謀であり、全ての歴史は「文化創造人種アーリア人VS文化破壊人種ユダヤ人」という文脈で捉えられると主張していた[97][要文献特定詳細情報]。
親衛隊もこのヒトラーの思想を受け継いでいた。親衛隊の人種理論を立てていたリヒャルト・ヴァルター・ダレは「歴史上の偉大な帝国や文明はほとんどが北方人種によって作られ、維持されてきた。これらの帝国が滅びたのはそれを作った北方人種の血が守られなかったためだ」と主張し、北方人種の血を守るために有害なユダヤ人、フリーメーソン、キリスト教会などを排除する必要性を訴えた[98]。
親衛隊員の世界観教育ははじめ親衛隊人種及び移住本部が所管していたことから人種教育に力を入れていたことが分かる。しかし人種関連の講義は隊員から人気がなく、形骸化していったため、世界観教育は後に親衛隊本部の所管となった[99]。
宗教観
親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは、親衛隊の隊員をキリスト教から切り離し、古代ゲルマン異教思想を持たせることに努めた。婚姻条例において隊員の結婚式をキリスト教会で行うことを禁じ、親衛隊の部隊において結婚式を執り行わせた。その結婚式では上官の親衛隊将校が牧師の代わりを務めた[100]。またクリスマスを祝う習慣を無くすべく、冬至祭(ユール)を祝うことを奨励した[101]。
1934年7月にはフン族の攻撃を防いだと言われるヴェーヴェルスブルクの古城が親衛隊に購入された。ヒムラーはこの城に『アーサー王物語』や『円卓の騎士』に強い影響を受けた大改築を行い、ここをゲルマン異教の儀式の中心地にしようとした[102][103]。親衛隊幹部はこの城のヒムラーとともに数時間の瞑想を強要されたという[104]。1935年にはヒムラーの主導で「ユダヤ=ボルシェヴィキから北方インド=ゲルマン人種を守るための研究機関」としてアーネンエルベが創設された。ここではヒムラーの異教思想を科学的に実証しようと試みられた[105]。
しかしながら結局隊員達をキリスト教から切り離すことはなかなかできなかった。婚姻規則は隊員たちから不評を買ったため、結局、処分用件が緩和されていった。1935年には婚姻条例に反した隊員は親衛隊から追放するとしていたが、1937年には人種条項に反した結婚でなければ、それ以外の婚姻条例に違反していたとしても必ずしも追放されないと修正された。さらに1940年には人種条項以外の規定のために追放された隊員は人種条項に反していなければ再入隊が認められるとも定められた[101]。
一般親衛隊は3分の2が変わらずキリスト教徒だった。雑多な人種がいた武装親衛隊や親衛隊髑髏部隊では比較的非キリスト教徒が多く、武装親衛隊の53.6%、髑髏部隊の69%が非キリスト教徒であったが、戦争中にはカトリックの司祭がそれぞれの武装親衛隊部隊に配属されていた。武装親衛隊の将軍の中にはヴィルヘルム・ビットリヒのように執務室にキリスト教の礼拝堂を置く者もいた[101]。
ヒムラーの異教思想は他のナチ党幹部にも受けが悪く、ヨーゼフ・ゲッベルスは1935年8月21日の日記に「ローゼンベルクとヒムラーとダレは、ばかばかしい儀式は止めるべきだ。バカバカしいドイツ崇拝は全部やめさせなければならない。こんなサボタージュをする奴らには武器だけを持たせよう」と書いている[106]。ヒムラーはヴェーヴェルスブルク城にヒトラーの部屋を作らせ、その訪問を心待ちにしていたが、最後までヒトラーから相手にされることはなかった[107]。
注釈
- ^ 山下英一郎『制服の帝国 ナチスSSの組織と軍装』(彩流社、2010年)38頁によると「司令部護衛隊」の「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」への改称は1923年7月であるという。またハインツ・ヘーネ『SSの歴史 髑髏の結社』(フジ出版社、1981年)26頁とゲリー・S・グレーバー『ナチス親衛隊』(東洋書林、2000年)54頁によると「司令部護衛隊」と「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」は同じ組織ではなく、旧エアハルト海兵旅団とナチ党の連携が切れたためにエアハルト海兵旅団の隊員が引き上げてしまい「司令部護衛隊」が解体し、代わりに「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」がヒトラー護衛組織として作り直されたという。
- ^ グイド・クノップ著『ヒトラーの親衛隊』(原書房、2003年)によるとヒトラーのボディーガード組織に「親衛隊」の名称が与えられたのは1925年9月であるという。ロビン・ラムスデン『ナチス親衛隊 軍装ハンドブック』(原書房、1997年)によると1925年11月9日にミュンヘン一揆の記念式典で親衛隊が結成されたとある。
- ^ 彼ら普通党員章保持者は古参の黄金ナチ党員バッジ保持者から蔑まれることになる。
- ^ V2ロケットの開発に携わったヴェルナー・フォン・ブラウン博士が逮捕された際にその弊害が現れている。この時は最終的にヒトラー自らがゲシュタポに介入してようやく釈放させたものの、そのときヒトラーは「私でも彼(フォン・ブラウン)を釈放することはかなり困難だった」と言ったという。
出典
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