西園寺公望 家族

西園寺公望

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/23 22:08 UTC 版)

家族

親族

実父は右大臣徳大寺公純、実母は千世浦斐子(宇佐神宮社家末弘氏の正親盛澄の娘、後に正心院)、兄は3度にわたって侍従長となり、内大臣宮内大臣も務めた徳大寺実則。弟に学校法人立命館理事の末弘威麿住友財閥を継いで第15代住友吉左衛門を襲名し長く財界に君臨した住友友純(隆麿)がいる。

西園寺は生涯結婚せず、正妻はいなかった。明治13年、京都祇園井筒屋(現・祇園辰巳NEXUS)の芸妓・江良加代(当時18歳)を東京へ連れてきて結婚しようとするも、親族の反対に遭い断念した。一説には西園寺家の守神は弁才天であるため嫉妬深く、西園寺家は代々正妻はもたないという家憲があるという俗説があるが、これは誤りである[295]。一方で、4人の女性を事実上の妻とした。

小林菊子

新橋芸者・玉八で、明治14年(1881年)にお座敷で出会った[29]。父親は尾張竹腰氏の家老、高野瀬和人[296]。気品のある美人であり、機転も利く女性であった[296]。西園寺と同居していた時代は、二階に同居していた中江兆民の世話もしていた[297]。西園寺の公使時代には彼の母親である斐子と同居している[296]。娘の新子をもうけた。菊子は大磯の西園寺別邸の主人であり、西園寺が京都や興津で生活するようになると疎遠になっていった[298]。大正6年(1917年)に大磯の別邸が池田成彬に売却された後は、娘の新子とその夫の八郎の邸宅の近くに住むようになった[299]。以降、西園寺と会うことはほとんど無かったが、西園寺が死の床についた昭和15年(1940年)6月14日に面会している[300]

中西房子

元新橋・中村屋のふさ奴で、一女・園子をもうけた。駿河台の西園寺本邸に暮らしており、西園寺が「妻に似たものの」と形容し、新聞報道では「北の方」とも呼ばれた[301]

奥村花子

西園寺家の女中頭・奥村花子は、パリ講和会議に同伴させたことで話題となった。吉野作造は花子を同行させたことを批判している[302]。また現地報道では「最もしとやかにして謙遜なる美人」「愛妾」などと評されている[302]。大正13年(1924年)には女児加代子を出産するが、公望は頑として自分の子として認めず、入籍させなかった[303]。加代子はその後花子の弟夫妻に養育されている[303]。昭和3年(1928年)に西園寺家出入りの銀行員の子を妊娠し、執事の熊谷八十三、娘の園子、養子の八郎らが共同で花子を追放するよう西園寺に勧告し、3月2日に西園寺家から追放された[304]。しかし4月6日には実母とともに坐漁荘を訪問する事件を起こしている[305]。その後花子は腹膜炎にかかり、昭和4年(1929年)2月3日に死亡した[306]

漆葉綾子

京都の大泉寺住職漆葉光雲の娘で、一度は結婚して子を産んだものの離縁となっている[307]華道茶道・琴に通じ、花子が女中頭を務めている時期に西園寺家に仕えはじめ、花子とは確執もあった[307]。花子の跡を継いだ女中頭の八木悦子とも反目し、ともに辞めると申し出たところ、西園寺は「お前に行かれてはこちらが困る」と言って八木悦子のみを解雇した[308]。その後女中頭となり、若い女中や看護婦、男性警官までがいじめの対象となり、西園寺が調停するという事件も起きている[309]

新子

明治20年(1887年)、小林菊子との間にもうけた娘。西園寺は2歳になった頃から英語かフランス語を学ばせようと考えるなど教育に熱心であった[310]。養嗣子八郎と結婚し、公一不二男など三男三女を産んだ。首相時代の西園寺が外国人を招いたパーティを開くと、そのホスト役となって得意のフランス語を披露していた[311]。大正9年(1920年)にスペイン風邪で死去した[299]。西園寺は「さつぱり解けて仕舞けり雪不とき」と哀悼の句を詠んでいる[312]

園子

中西房子との間に生まれた娘で、高島正一に嫁いだ[313]

元子

西園寺の養女。

八郎

旧長州藩主毛利元徳の八男で、明治32年(1899年)に西園寺の養子となった[314]第2次桂内閣の秘書官を務めた後宮内省に入り、皇太子裕仁親王の欧州訪問などに随行した。しかし新子の死後、八郎が西園寺と提携関係にある牧野内大臣排斥の動きに加わったこともあって、西園寺との関係は悪化した[315][316]。大正11年(1922年)以降は手紙も極めて簡単なものになっていった[317]。しかし西園寺に対する風当たりが強くなると、次第に関係は改善されている。

同居人

親友である光妙寺三郎が死ぬと、その遺児である三三郎(後の東屋三郎)を引き取って養育した[318]。また一族である橋本実斐も一時養育している[318]。二人は普段、八郎とともに暁星学校の寄宿舎に入っていたが、週末ごとに西園寺家に滞在していた[318]




注釈

  1. ^ グレゴリオ暦導入後、西園寺は10月23日を戸籍上の誕生日として登録している(伊藤之雄 2007, pp. 8-9)
  2. ^ 京都市北区等持院ちかくの別邸「萬介亭」の竹に因んだ号(出典: 藤井松一「西園寺公望関係文書について」『立命館大学人文科学研究所紀要(27)』p.32)
  3. ^ 当時最新の火薬で、極めて爆発しやすい性質を持つ

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