西園寺公望 人物評価

西園寺公望

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/23 22:08 UTC 版)

人物評価

  • 公私ともに親しかった陸奥宗光は「天下第一の高人」と評し、政略を持ち肝も据わっているが、それを露骨に振り回さず、一緒に仕事をしているとそれが次第に現れると評している[51]
  • 国木田独歩は若い頃は「下瀬火薬質」[注釈 3]だったが、1900年頃から優しさの分子が増え始めてきたと評している[263]
  • 原敬は『原敬日記』において政友会総裁時代の西園寺を「意志案外強固ならず、且つ注意粗にして往々誤あり」とその資質を批判している[264]
  • 孫の西園寺公一は、火のように激しい厳しい性格を包蔵しているが、表面に現れる事は滅多にないと回想している[263]
  • パリ講和会議で再会した旧友クレマンソーは、「昔は過激な、愛すべき公子であったが、今はおだやかな皮肉屋となった」と回想している[23]
  • 勝海舟は1898年(明治31年)10月23日の座談で「西園寺というのは、どうでしょうか。」と尋ねられて「伊藤さんの子分でネ。アーそうさ、利巧の方サ」と評している[265]

年譜

清水区興津清見寺町に復元された興津坐漁荘の海岸側外観
西園寺の国葬
多磨霊園にある西園寺家(右の墓石)と公望(左の墓石)の墓

※日付は明治5年まで旧暦

  • 嘉永2年(1849年)10月23日、清華家徳大寺公純の次男として京都で誕生。
  • 嘉永3年(1850年)、公望と改名。
  • 嘉永4年(1852年)12月20日、従五位下に叙位。
  • 嘉永5年(1852年)1月27日、従五位上に昇叙。この年、西園寺師季の養子となる。
  • 嘉永6年(1853年
  • 嘉永7年(1854年)1月22日、従四位下に昇叙、侍従は元の如し。
  • 安政2年(1855年)1月22日、従四位上に昇叙、侍従は元の如し。
  • 安政3年(1856年)2月5日、正四位下に昇叙、侍従は元の如し。
  • 安政4年(1857年)10月7日、元服し。昇殿を聴され、右近衛権少将に転任。
  • 文久元年(1861年
    • 3月27日、右近衛権中将に転任。
    • 4月25日、従三位に昇叙、右近衛権中将は元の如し。
  • 文久2年(1862年)1月5日、正三位に昇叙、右近衛権中将は元の如し。
  • 慶応3年(1868年)12月20日、官軍参与を兼帯。
  • 明治元年(1868年
    • 1月4日、明治政府の山陰道鎮撫総督を兼帯。
    • 3月20日、権中納言に転任。
    • 4月19日、但馬府中裁判所総督兼帯。
    • 閏4月5日、但馬府中裁判所総督から山陰道裁判所総督及び東山道第二軍総督に異動兼帯。
    • 閏4月21日、参与を辞す。
    • 閏4月23日、山陰道裁判所総督兼東山道第二軍総督より北国鎮撫使に異動兼帯。
    • 閏4月24日、軍人として三等陸軍将に補す。
    • 6月14日、北国鎮撫使から会津征討越後口参謀に異動。
    • 6月20日、越後口大参謀に異動。
    • 10月20日、新潟府知事に異動。
  • 明治2年(1869年
    • 1月5日、新潟府知事を辞す。
    • 3月15日、三等陸軍将を辞す。
    • 7月3日、正三位権中納言の官位を返上。望一郎と名乗る。この年、私塾立命館京都御所の邸内に開設。
  • 明治3年(1870年)12月3日、官費によりフランス留学のため、横浜より出航。ソルボンヌ大学で学ぶ。
  • 明治11年(1878年)12月19日、正三位の位階に復す。
  • 明治13年(1880年)10月21日、横浜へ帰航。
  • 明治14年(1881年
  • 明治15年(1882年)3月11日、勲三等旭日中綬章を受章。
  • 明治16年(1883年)12月24日、参事院議官に転任。
  • 明治17年(1884年)7月7日、華族令の施行により侯爵を受爵。
  • 明治18年(1885年)2月14日、駐オーストリア=ハンガリー帝国公使として赴任。
  • 明治19年(1886年)8月6日、法律取調委員を兼任。
  • 明治20年(1887年
  • 明治24年(1891年)9月4日、帰国し、賞勲局総裁に就任。
  • 明治25年(1892年)10月7日、民法商法施行取調委員長を兼任。
  • 明治26年(1893年
  • 明治27年(1894年
  • 明治28年(1895年
  • 明治29年(1896年
    • 4月3日、外務大臣臨時代理を解く。
    • 5月30日、外務大臣を兼任。
    • 6月5日、勲一等旭日大綬章を受章。
    • 7月、陸奥宗光と共に雑誌『世界之日本』(主筆・竹越三叉)を発行。
    • 9月18日、第2次松方内閣に外務大臣兼文部大臣として留任。
    • 9月22日、外務大臣を辞す。
    • 9月28日、文部大臣を辞す。
    • 11月5日、法典調査会副総裁を辞す。
    • 11月29日、渡仏
  • 明治30年(1897年
    • 10月5日、帰国
  • 明治31年(1898年
    • 1月12日、第3次伊藤内閣の文部大臣として入閣。
    • 1月21日、法典調査会副総裁(総裁は伊藤博文)を兼任。
    • 3月30日、法典調査会副総裁を辞す。
    • 4月30日、文部大臣を辞す。
    • 12月20日、正二位に昇叙。
  • 明治32年(1899年)、大磯に別荘(隣荘)を構える。
  • 明治33年(1900年
  • 明治34年(1901年
    • 5月2日、内閣総理大臣臨時代理となる。
    • 5月10日、内閣総理大臣臨時代理から内閣総理大臣臨時兼任となる。
    • 5月14日、大蔵大臣臨時兼任。
    • 6月2日、第1次桂内閣発足により、内閣総理大臣臨時兼任と大蔵大臣臨時兼任を解く。
  • 明治36年(1903年
    • 7月13日、枢密院議長を辞す。
    • 7月14日、立憲政友会総裁に就任。
  • 明治39年(1906年
    • 1月7日、内閣総理大臣に就任(第1次西園寺内閣)し、文部大臣臨時を兼任。これ以降、桂太郎と交互に組閣し、桂園時代と呼ばれる。
    • 3月3日、外務大臣臨時兼任。
    • 3月27日、文部大臣臨時兼任を解く。
    • 5月19日、外務大臣臨時兼任を解く。
    • 8月30日、外務大臣臨時兼任。 
  • 明治40年(1907年)9月14日、勲一等旭日桐花大綬章を受章。
  • 明治41年(1908年)7月14日、内閣総理大臣を辞す。
  • 明治44年(1911年)8月30日、内閣総理大臣に就任(第2次西園寺内閣
  • 大正元年(1912年)12月21日、内閣総理大臣を辞職。前官礼遇を受ける。
  • 大正2年(1913年)、京都の清風荘に隠棲。
  • 大正3年(1914年)6月18日、政友会総裁を辞任。
  • 大正6年(1917年)、大磯の別荘(隣荘)を池田成彬に売却。
  • 大正7年(1918年
  • 大正8年(1919年)、1月11日、パリ講和会議全権に任命。1月14日に渡仏、7月19日まで滞在、8月23日に帰国。静岡県庵原郡興津町 (現静岡市 清水区興津清見寺町)に別荘 (坐漁荘) を建設し、主な居住地とする。以後政財界の要人が頻繁に興津の西園寺の元を訪れるようになり、「興津詣」(おきつもうで)という言葉が生まれる。
  • 大正9年(1920年)9月7日、公爵に陞爵(パリ講和会議首席全権の功)。
  • 昭和3年(1928年)11月10日、大勲位菊花章頸飾を受章。
  • 昭和11年(1937年)10月13日、帝国経済顧問を辞す。
  • 昭和15年(1940年
    • 11月24日、薨去。
    • 11月25日、特旨によって従一位追昇。
    • 12月5日、国葬。遺言の指示通り、書簡、資料類が焼却される。
  • 昭和16年(1941年)1月7日 - 18日まで、東京日本橋三越百貨店で「西園寺公を偲ぶ展覧会」開催される(主催 読売新聞社、協賛 立命館大学、後援 外務省文部省)。

栄典

位階
勲章等
外国勲章佩用允許
受章年 国籍 略綬 勲章名 備考
1882年(明治15年)9月29日[266] ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国 二等白鷹勲章英語版
1888年(明治21年)2月25日 バチカン ピウス9世勲章グラン・クローチェ[266][285]
1888年(明治21年)5月9日 オーストリア=ハンガリー帝国 1等鉄冠勲章英語版[266][266][286]
1891年(明治24年)3月16日 オランダ オランダ獅子勲章英語版[266][287]
1891年(明治24年)10月15日 ドイツ帝国 赤鷲第一等勲章英語版[266][288]
1892年(明治25年)7月5日[266] ベルギー レオポルド勲章英語版グランドコルドン
1894年(明治27年)3月8日 オスマン帝国 一等メディジディー勲章英語版[266][289]
1896年(明治29年)3月6日[266] イタリア王国 聖マウリッツィオ・ラザロ勲章グラン・クローチェ
1896年(明治29年)3月17日 ロシア帝国 白鷲勲章英語版[266][266][290]
1896年(明治29年)11月10日 スペイン王国 カルロス3世勲章英語版グランドクロス[266][291]
1898年(明治31年)2月10日[266] デンマーク王国 1等級ダンネブロ勲章[266][292]
1906年(明治39年)3月3日 イギリス帝国 聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス (GCMG)[266]
1907年(明治40年)10月23日 フランス共和国 レジオンドヌール勲章グランクロワ[266][266][293]
1907年(明治40年)10月30日 ロシア帝国 聖アレクサンドル・ネフスキー勲章大綬章[266][294]
1907年(明治40年)12月17日[266] 大清帝国 頭等第二御賜双竜宝星中国語版



注釈

  1. ^ グレゴリオ暦導入後、西園寺は10月23日を戸籍上の誕生日として登録している(伊藤之雄 2007, pp. 8-9)
  2. ^ 京都市北区等持院ちかくの別邸「萬介亭」の竹に因んだ号(出典: 藤井松一「西園寺公望関係文書について」『立命館大学人文科学研究所紀要(27)』p.32)
  3. ^ 当時最新の火薬で、極めて爆発しやすい性質を持つ

出典

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  21. ^ 金沢公子「ワーグナーの愛したジュディット・ゴーチエ,そして日本 (井上正蔵先生古稀記念号)」95-96p
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  65. ^ 『原敬日記』1909年(明治42年)11月9日。
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