西南戦争 雑誌

西南戦争

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雑誌

西南戦争を記録する会編『西南戦争之記録』第1〜5号。現在も刊行中。

文献目録

※基礎的な史料・公文書・文献の目録

  • 菖蒲和弘 編『西南の役文献目録 -調査研究の歩みとその成果:明治10年~平成20年3月』
    • 熊本・私家版、現在も改訂版を刊行中
  • 菖蒲和弘 編『西南の役研究文献目録 -調査研究の歩みとその成果:国内発行書籍・雑誌記事索引-』
    • 熊本・私家版、現在も改訂版を刊行中
  • 菖蒲和弘 編『西南の役公文書目録 -全国公文書所在確認調査報告書-』
    • 熊本・私家版、現在も調査中
  • 菖蒲和弘 編『西南の役・屯田兵出征公文書目録 -全国公文書所在確認調査報告書-』
    • A4判、35p、平成19年11月、熊本・私家版、現在も調査中
  • 菖蒲和弘 編『西南の役関係法令索引 -布告・布達・達・その他-』
    • A4判、20p、平成19年11月、熊本・私家版

関連文献

  • 中原幹彦『西南戦争のリアル 田原坂』新泉社〈シリーズ「遺跡を学ぶ」153〉、2021年12月15日。ISBN 978-4-7877-2133-4 

関連項目

外部リンク


注釈

  1. ^ 「砲第五号 砲兵支廠鹿児島属廠設置之スナイトル弾薬器械其廠ヘ備附其廠ニ於テ製作可致此旨相達候事但入費之儀ハ其廠額金之内ヲ以取計 追而不足之節可申出事 十年一月八日 陸軍卿山県有朋」
  2. ^ 「局三四号 砲兵支廠ニ於テスナイトル弾薬製作之義ニ付伺 スナイトル弾之義是迄砲兵支廠ニ於テ製造不致処第二方面内歩工兵員三分ノ二ヲ過キ同銃携帯致居候ニ付当今、鹿児島属廠制作之同弾ヲ以支廠送付致シ然ル後再ヒ各地江配賦致有之候右ハ隔他之場処運搬致候益之矢且緩急之際不都合不少候ニ付左之迄御決定御指令相成度御達案相添此段相伺候也 第三局長代理 十年一月八日陸軍大佐福原実二 陸軍卿山縣有朋殿伺之通 一月十日但入動廠 額金内点報 多少 通御達相成度候也 小砲兵支廠御達案 鹿児島属廠設置之スナイトル弾業器械其廠備付」
  3. ^ 「参第二百六十号副 第三坤天式十壱号 至急局百二十三号 スナイトル弾製造器械砲兵支廠江御備附之義伺 一スナイトル弾製造器械一基 但一日六千発製出之分 右砲兵本廠ニ備附之分砲兵支廠江送達同廠ニ於テ右弾製作致候様仕度御達案相添此段相伺候也 十年二月十三日 第三局長代理陸軍大佐福原實 陸軍卿代理 陸軍少輔大山巖殿 伺之通相達候事 二月十三日 砲兵本廠江御達案 一スナイトル弾製造器械一基 右砲兵支廠江備附右弾製作可為致ニ付其廠在来之器械至急同廠江送達可取計此旨相達候事 砲兵支廠江御達案 一スナイトル弾製造器」
  4. ^ 「候間至急御返却有之度猶及御掛合候也 壬申七月十三日 大蔵省 陸軍省御中 第七百二十三号 スナイトル銃空包 六万四百八拾発 入箱式拾壱個 但壱箱弐千八百八十宛 右陸軍省御用ニ付可差出旨於此県西郷少輔殿ヨリ致承知今般有功鑑ヘ積入差廻候間着船之上御請取相成度荷作其他本艦迄運送入費ハ当処会計掛ヨリ明細書差出候間急便御差送候被下度此段御伺申上候也 壬申六月廿六日 鹿児島県 大砲製造所 陸軍省秘史局御中 第七百二十四号 城地御伺之義ニ付申上書 陸省官員出張ヲ以御取調有之候福島城之義委詳別紙之通当四月中相伺置候」
  5. ^ その後捕縛された中原らが西郷暗殺計画を“自白”したため、興奮した私学校徒の多くは暗殺計画の実在を疑いもなく信じたが、谷口が暗殺計画と思い込んだのは「西郷を“しさつ”するために戻ってきた」との中原の言葉であり、冷静な人間であれば“視察”と聞こえる言葉を、中原に疑いを持って対していた谷口が“刺殺”と聞いたのではないか?、と後に山縣有朋は推測している。当の谷口登太は薩軍壊滅後も生き残り、逮捕・投獄された後も鹿児島で暮らし、昭和8年に没するまで西郷暗殺計画について何も語らなかったと伝えられている。
  6. ^ 西郷が発した「ちょしもたー」の言葉の意味については、西郷が決起に慎重だった、前向きだった、と考える双方の立場によって意見が分かれている部分である。決起に慎重だったとする立場からは、私学校徒の暴発を止められなかったことへの率直な後悔の念を現した、と取られている。一方で、決起に前向きだったとする立場からは、油断を突かれて政府に武器弾薬と設備を持ち去られたことへの憤懣を現した、と取られている。この時の西郷の心情を示す資料や証言は何も残っておらず、後世の人間には推察することしかできない。
  7. ^ 激しい拷問を加えられた中原だったが、3月10日に海路鹿児島に入った勅使柳原前光の一行に救出されて東京に移送された。後に高知県警部長山梨県警部長福岡県警部長を務めた。
  8. ^ 何月何日号かは不明。
  9. ^ 『新編西南戦史』等では池上策が採られたとされているので、それに従ったが、川尻軍議で池上の主力東上・一部抑え策と篠原の全軍強襲策が対立し、後者に決していることから推せば、この時の結論はむしろ漫然とした陸路東上策であった可能性が高い。川尻に先着した別府晋介に熊本隊の池辺吉十郎が策を尋ねた時に、別府が策は無しと答えたと熊本隊の『戦袍日記』に記していることがこれを証している。
  10. ^ 決起当初の薩軍が長崎奪取を重視したのは、当時の長崎が日本最大の国際貿易港だったことと関係がある。日本向けの貨物は上海香港から長崎へいったん送られ、そこから日本国内各港向けに振り分けられていた。旧式装備しか持っていなかった薩軍だったが、日本陸軍といえども多くの武器・弾薬を輸入に頼っており、輸入港が押さえられてしまえば短期間で陸軍の戦力は低下する上に、長崎の豪商達から献金を誘えば、薩軍が政府軍を圧倒できるだけの装備を入手することも可能だった。また、1871年(明治4年)に上海との間に海底ケーブルによる電信が開通しており、日本と海外の間の電信も全て長崎を経由して送受信されていたため、長崎を抑えれば日本と海外との交通・通信を完全に掌握できた。このため、薩軍は長崎制圧の拠点としての熊本城奪取に固執して、当初の戦争目的である関門海峡を渡って東上する好機を逸し、攻城戦と野戦に戦力を分散させて、自ら敗北するきっかけを作ってしまった。
  11. ^ 旧厩跡にあった私学校横の旧牧場。『新編西南戦史』、『翔ぶが如く』など、閲兵が行われた練兵場を伊敷練兵場としているものが多いが、いずれも誤りである[11]
  12. ^ 日本で最初の電信は1869年(明治2年)、築地横浜居留地間を結び、上海 - 長崎間に海底ケーブルが敷設され諸外国との電信が開通したのは1871年(明治4年)のことであった。欧州においては普仏戦争に際してプロイセン軍が野戦電信網を構築・活用しており、その軍事的価値は広く知られていた。1874年(明治7年)佐賀の乱においてすでに日本陸軍・政府は電信による情報伝達を行っており、逃亡した江藤新平は自らが司法卿だった時に構築した電信による全国警察網によって逮捕されている。また同年の台湾出兵に際しても、日本陸軍は後備部隊として電信兵を伴っており、前線からの報告は逐次大阪・東京に伝えられていた。
  13. ^ 谷口四郎兵衛、関川代次郎
  14. ^ 「砲第九十八号 カットリング弐門以下福岡エ差送ノ儀ニ付伺 南ノ関出張先福原大佐ヨリ別紙ノ通電報有之候ニ付申越ノ通可差送候哉此段相伺候也 明治十年三月四日 砲兵本廠提理陸軍大佐大築尚志 陸軍卿殿代理陸軍少将西郷従道殿 伺ノ通 但臼砲二門榴弾百発焼弾百発木管属具共並ニカットリング砲二門弾薬六千五百発至急送達可致事 三月五日」
  15. ^ 「陸第千百七十五号 甲第七十四号 至急砲弐百六十八号 大坂支廠ヨリ電報之儀ニ付伺 別紙之通昨夕大坂支廠ヨリ電報有之候ニ付当廠在庫品取調候処一舶用ブロートヱル属品共弐門一同弾信管共四百発一ガットリング車台属品共壱門同弾弐万発クルツプ榴弾信管共弐千発右之通有之候ニ付申越之通船便次第送方取計可申哉此段相伺候也 明治十年五月廿一日 砲兵本廠提理陸軍大佐大築尚志 陸軍卿殿代理 陸軍少将井田譲殿 追テ猶又只今別紙乙印之通ヱンヒール火門針及ヒ換壱門之儀モ申越候是又申越之通相送可申哉此段モ添テ申進候也 伺之通 五月〜」
  16. ^ 「局第三百五十八号 スナイトル弾薬材料御買上之義ニ付伺 金六万三千三百三十三円九十銭 但スナイトル弾薬製造材料之内鉄座用細鉄並原導クランカン御買上費 右者スナイトル弾薬五百万発製造之義先般御達相成候所貯納弾薬追而欠乏相成候二付更ニ千八百万発製造致度候所前書之材料者砲兵本廠ニ於テ製作難相成品二付兼而欧州江候文不相成候半而ハ至急之需用ニ応シ難ク候間御買上相成候様仕度此段相伺候也 十年三月二十三日 第三局長代理陸軍大佐原田一道 陸軍卿代理陸軍中将西郷従道殿 伺之通 三月二十四日」
  17. ^ 「砲第百七号 スナイドル弾薬製造所其他建築費及ビ器械修理費御渡ノ儀ニ付伺 一金三千円 但スナイドル弾薬製造所鉛熔解所雷管製造所粉剤調合所建築費及ビ火工器械補欠並修理費 右ハ今般砲兵本廠ヨリスナイドル弾薬製造機械送達相成候ニ付テハ製造着手致度候条別書ノ金員別途御払渡相成候熔致度此段至急相伺候也 明治十年三月七日 砲兵支廠提理御用取計兼勤陸軍中佐関廻教陸軍卿代理陸軍中将西郷従道殿 伺ノ通 但追テ明細書ヲ以報告可致候事 三月十四日〜」
  18. ^ ツンナール銃(ドライゼ銃)は、スナイドル銃より先進的なボルトアクション式後装銃だったが、使用する弾薬が紙製薬莢であるため、スナイドル銃用の金属薬莢よりも雨や湿気に弱い点と、メンテナンスを怠るとガス漏れが発生する点が欠点と考えられていた。同時に、維新後に徴兵制とプロシア式陸軍を創設して台頭した紀州藩がツンナール銃を主装備として、自力で工廠まで建設して弾薬や付属品を大量生産していたことから、英仏陸軍を範として成長して来た薩長閥の軍人達はツンナール銃の使用を忌避し、大量の弾薬在庫がありながら1885年(明治8年)の時点で二線級装備に格下げされていた。
    陸軍軍政年報(明治八年の項より)
    「第五 砲兵事務 (明治八年)九月ヨリ官員ヲ派出シ長門国萩沖原ニ於テ「エンピール」統ヲ「アルミー」銃ニ改造ヲ始ム 「スナテトル」弾製造器械来着セリ(八年九月)此器械ヲ用ユルキハ大凡一日五万発ノ弾ヲ製造スルコトヲ得ル〜和歌山属廠ハ(当)時「ツンナール」ヲ用ヒサル因ヲ閉廠〜」
  19. ^ 「東四十八号 其@歩兵第二連隊第二大隊之内三中隊昨年@大阪鎮台@携帯スナイトル致ツンナール銃与交換出征@戦地ヨリ@ニ本営へ引揚@付@引渡方@五第三千十七号大阪鎮台伺出@之通及指令候条@心得此旨相達候事 明治十一年二月十二日 陸軍卿山県有朋 東京鎮台 別紙@大九十四号」
  20. ^ 「砲第百三十八号 一金六万三千三百三十三円九十銭 但スナイトル弾薬製造材料座鉄用細鉄並厚薄グランカン買入代価 右スナイトル弾薬千八百万発製造可致ニ付前書ノ金員別途相渡候条於其廠欧州ヘ注文材料買入方可取計此旨相達候事 三月二十五日 陸軍卿代理陸軍中将西郷従道 砲兵本廠」
  21. ^ 「局第三百七十四号 ツンナール銃及弾薬共砲兵支廠江送附之儀ニ付伺 一ツンナール銃 千三百三十挺 但弾薬盒帯革剣差共 一同弾薬 百九十五万七千発 右者砲兵本廠貯蔵之分砲兵支廠江送附為致候様仕度御達案相添此段相伺候也 第三局長代理 明治十年三月三十一日 陸軍大佐原田一道 陸軍卿代理 陸軍中将西郷従道殿 砲兵本廠御達案 一ツンナール銃 千三百三十挺 一同弾薬 百九十五万七千発 右者其廠貯蔵之分前行之通砲兵支廠江送附可致此旨相達候事 砲兵支廠ヘ御達案 一ツンナール銃 千三百三十挺 一同弾薬 百九十五万七千発」
  22. ^ 「五@千六百三十一号 第三伸@法@十九号 甲第三十二号 大二百十九号 元遊撃歩兵第五大隊出征用兵器彈薬返納之義ニ付伺 十年和歌山県臨時召募元遊撃歩兵第五大隊昨十二月解隊返納兵器彈薬@別紙甲乙二表之通有之御召表中持帰ノ分返納@之度此段相伺候也 明治十一年四月十五日 大阪鎮台司令長官 陸軍少将三好重臣代理 陸軍少佐高島信茂 陸軍卿山県有朋 伺之通 四月三十日 元遊撃歩兵第五大隊出征持出ノ兵器弾薬之内凱旋返納員数 長ツンナール銃 同剣 同屓革 同弾薬合 同帯革 同剣差 同胴ノ金物 同又字金 同接脱金 同鍼」
  23. ^ 「大阪鎮台号 別紙即チ辞第一号 第四百十八号 医歩兵第五大隊出征候申付之付来ル二十四日神戸出帆熊本此段候ニ付該隊候可相度ツンナール弾薬二十五至急神戸港マテ輸送之上引渡可申此鶏相達候事 明治十年五月二十一日 陸軍西郷従道 砲兵〜」
  24. ^ 「参第四百五十五号 第三伸天四十八号 至急 局第二百七十号 改造銃代価積り問合之儀二付伺 村田少佐試シ改造之シヤスポー銃独逸国@代価積り問合申度二付アーレンス社より談判為度就而者右十同人より御渡相成度此段相伺候也 十年三月七日 第三局長代理陸軍大佐原田一道 陸軍卿代理陸軍中将西郷従道殿 伺之通 三月七日」

    シャスポー銃は当時の日本に存在した歩兵銃の中では最も先進的な銃であり、村田経芳はシャスポー銃を金属薬莢用に改造したグラース銃の国産化を目指し、その延長上で村田銃を開発した。
  25. ^ 「至急 参第七百九号控 第三伸天八拾弐号 局第参百八拾壱号 スナイドル弾製造器械御借受之儀ハ付伺 スナイドル弾製造器械海軍省ヨリ御借請相成度同省江御掛合案並砲兵本廠江御達案相添此段相同候也 第三局長代理 陸軍大佐原田一道 陸軍卿代理 陸軍中将西郷従道殿 伺之通 四月三日 海軍省江御掛合案 過日御談有之候スナイドル弾製造器械之義ニ付主任之者為一覧差出候処兎ニ角御借請致度旨申出候就而砲兵本廠ヨリ請取之者差出候ハハ右器械御引渡相成度此段及御掛合候也 砲兵本廠江御達案 スナイドル弾製造器械別表之@海軍省ヨリ」
  26. ^ 「局五百八十四号参千九十一号スナイドル弾薬空筒五百万発御買上之儀伺 一洋銀七万弗但スナイドル弾薬空筒五百万発御買上費右者欧州注文至急御買上相成度砲兵本廠ヘ御達案相渡此段相伺候也 第三局長代理陸軍少佐水持明徳 明治十年六月六日 陸軍卿代理陸軍少将井田譲殿 御達案ハ砲三百十壱号也 伺之通 六月八日」
  27. ^ 「月五百〇九号壱第千八十九号 長崎居留英商ギリブル方江三百万発之スナイドル早合二ヶ月内到着之筈於我政府約定相成候趣別紙写之通在上海品川領事ヨリ申越候処右は於貴省御約条相成候品ニ候哉貴省ニおゐて御約定ニ候ハハ二ヶ月内ハ何月幾日より之事ニ候哉為心得承知致度此段及御問合候至急御廻答有之度候也 十年六月三日 大隈大蔵卿 井田陸軍少将殿 別紙 清国軍様所より借入之スナイトル弾薬十万発 返弁方之儀ニ付而ハ本月十四日附を以再応之御上申候ニ付最早委曲御承知之事と被存候然る処今般我政府より長崎居留英商ギリブル方江三百」
  28. ^ 鎮台側による自焼説が有力。
  29. ^ これも籠城側が射界を確保するための自焼ともいわれる
  30. ^ 歩兵第13連隊貴下の隈岡長道、小島政利両大尉指揮の2個中隊
  31. ^ 後に農商務大臣
  32. ^ 後に海軍大臣・軍令部長
  33. ^ 後に陸軍大臣・参謀総長
  34. ^ 後に参謀総長
  35. ^ 後に参謀総長・元帥
  36. ^ 後に陸軍大将。陸軍大学校教官メッケルから児玉と並んで優秀と評される。
  37. ^ 後に陸軍大将。日露戦争旅順攻囲戦203高地を攻略した第七師団
  38. ^ 段山は藤崎台とは5m半程しか離れておらず、頂上から藤崎台を見渡せたのでここから城内を射撃することが出来た。司馬遼太郎は著書『翔ぶが如く』で「段山の存在は熊本城唯一の欠点とされており」と言及しており、熊本城の築城主である加藤清正が自分一代で支城として要塞化する余裕がなかったのかもしれない、と推定している。段山は後年、鉄道開通に伴って藤崎台から分離され、その後削平されて現在は消失しているが、少し離れた井芹川沿いの熊本市西区島崎1丁目に薩軍戦没者慰霊碑が建てられており往時を偲ぶことが出来る。
  39. ^ 第三大隊のうち第一第二中隊は高瀬経由で、第四中隊は山鹿街道からそれぞれ熊本を目指した
  40. ^ スケッチした政府軍(薩摩軍)の川口武定(第1旅団会計部長)は、8年後の1895年には、海軍省経理局長として英国に発注された一等戦艦2隻(テムズ富士アームストロング・ホイットワース八島)について答弁を行う[34]。1895年8月、日清戦争の功により男爵を叙爵し華族となる。
  41. ^ このことは、NHKの『その時歴史が動いた』でも取り上げられた。
  42. ^ この日の攻撃で12名が戦死し36名が負傷する大打撃を受けている
  43. ^ 後に六番・七番大隊として再編され、中隊規模の兵力で編成された
  44. ^ 東京鎮台諸隊から選抜されて編成
  45. ^ 新渡戸稲造の兄
  46. ^ 飯沼貞吉の兄
  47. ^ のち自由党員、福島事件加波山事件に連座
  48. ^ 松平春嶽側近
  49. ^ 山本五十六の兄
  50. ^ 生麦事件実行犯
  51. ^ 古今亭志ん生の父
  52. ^ 沖田総司の甥
  53. ^ 樋口一葉の父
  54. ^ 各府県の剣客からなる部隊
  55. ^ 2月19日に勅使護衛の歩兵第1・8連隊所属の2個大隊をもって臨時編成
  56. ^ 6月19日に左半大隊が、8月3日に残りの右半大隊が編入
  57. ^ 4月26日に歩兵第11連隊第1大隊第2中隊半、歩兵第6連隊第3大隊第3中隊、歩兵第9連隊第3大隊第1中隊、歩兵第11連隊第2大隊第1中隊の4個中隊で臨時編成
  58. ^ 翌年に発生した竹橋事件を受けて、徴兵により集められた兵士達への精神教育が重視され、軍人訓誡(後に軍人勅諭)が出されるが、自由民権運動への警戒も相まって共和制フランス陸軍から君主制ドイツ陸軍へと、日本陸軍の導入モデルが変化した。
  59. ^ 「参第二千八百九十九号 スナイドル銃一萬挺改造之儀ニ付伺 スナイドル銃 一萬挺 此入費概算金三萬三千円 右先般同銃壱萬挺改造御達相成直ニ着手現今火造リ方大砲成功相成候処該銃予備来タ充分ニ無之且工廠之内平閑之場所出来候ニ付当前書之通改造相成度御達案添此段相伺候也 局九百九十六号 第三局長代理 明治十一年十二月十六日 陸軍大佐原田一道 陸軍卿山縣有朋殿 追而該入費者小銃並ニ弾薬製造費十八万円余之内ヨリ御払出相成度此段申添候也 砲兵本廠ヘ達案 スナイドル銃 一萬挺 右在来エンヒール銃ヲ以改造可取計此旨御達
  60. ^ 1884年(明治17年)の秩父事件で蜂起した農民達は、火縄銃と手投げ弾で武装していた。

出典

  1. ^ a b 「鹿児嶋戦場名覧」 静岡県立中央図書館蔵 編輯兼出板人 長谷川作次郎 明治十年五月廿二日
  2. ^ 『西南記伝中巻1』p215-218
  3. ^ 陸軍省大日記 明治10年 「大日記 砲兵本支廠工兵各方面 1月木 陸軍省第1局」 陸軍省 明治10年1月8日[注釈 1]
  4. ^ 陸軍省大日記 明治10年 「大日記 省内各局参謀近衛病院 教師軍馬局 1月水 陸軍省第1局」 陸軍省 明治10年1月[注釈 2]
  5. ^ a b 陸軍省大日記 明治10年 「大日記 省内各局参謀近衛病院 教師軍馬局 2月水 陸軍省第1局」 陸軍省 明治10年2月13日[注釈 3]
  6. ^ 陸軍省大日記「大日記 壬申 7月 府県之部庚」 陸軍省 明治5年7月[注釈 4]
  7. ^ 松尾千歳著『西郷隆盛と薩摩』p122-123『忠義公史料』第六巻明治2年5月13日条に機械注文記事がある。
  8. ^ a b c 加治木常樹著『薩南血涙史』
  9. ^ 金子常規『兵器と戦術の日本史』中公文庫2014年、252-253頁。また土門周平「全貌・西南の役」『歴史と人物』1982年8月号。
  10. ^ 佐々木克 2004, p. 36-37.
  11. ^ 「西南戦争における薩軍出陣の「練兵場」について」
  12. ^ 歴史群像シリーズ「西南戦争」p36
  13. ^ 桑原嶽著「乃木希典と日露戦争の事実」p42
  14. ^ 陸軍省大日記 「大日記 砲工の部 3月木 陸軍省第1局」 陸軍省 明治10年3月4日[注釈 14]
  15. ^ 陸軍省大日記 「大日記 砲兵工兵方面 5月木 陸軍省第1局」 陸軍大佐 大築尚志 明治10年5月 陸軍省[注釈 15]
  16. ^ a b 陸軍省大日記 「大日記 省内各局参謀近衛病院 教師軍馬局 3月水 陸軍省第1局」 陸軍省 明治10年3月[注釈 16]
  17. ^ 陸軍省大日記 「大日記 砲工の部 3月木 陸軍省第1局」 陸軍省 明治10年3月7日[注釈 17]
  18. ^ 陸軍省大日記 「大日記鎮台の部 2月木乾 陸軍省第1局」 陸軍省 明治11年2月12日[注釈 19]
  19. ^ 陸軍省大日記 「大日記 砲工の部 3月木 陸軍省第1局」 陸軍省 明治10年3月25日[注釈 20]
  20. ^ 陸軍省大日記 「大日記 省内各局参謀近衛病院 教師軍馬局 3月水 陸軍省第1局」 陸軍省 明治10年3月31日[注釈 21]
  21. ^ 陸軍省大日記 明治11年 「大日記6管鎮臺の部 4月末乾 陸軍省第1局」 陸軍省 明治11年4月[注釈 22]
  22. ^ 陸軍省大日記 明治10年 「大日記 送達の部 5月分 送号 大阪征討陸軍事務所」 明治10年5月 陸軍省[注釈 23]
  23. ^ 陸軍省大日記 「大日記 省内各局参謀近衛病院 教師軍馬局 3月水 陸軍省第1局」 陸軍省 明治10年3月7日[注釈 24]
  24. ^ 陸軍省大日記 「大日記 省内各局参謀近衛病院 教師軍馬局 4月水 陸軍省第1局」 陸軍省 明治10年4月[注釈 25]
  25. ^ 陸軍省大日記 「大日記 省内各局参謀近衛病院 教師軍馬局 6月水 陸軍省第1局」 陸軍省 明治10年6月[注釈 26]
  26. ^ 陸軍省大日記 明治10年 「大日記 諸省来書 7月月 陸軍省第1局」 陸軍省 明治10年6月3日[注釈 27]
  27. ^ 歴史群像シリーズ「西南戦争」p37
  28. ^ a b c 歴史群像シリーズ「西南戦争」p38
  29. ^ 歴史群像シリーズ「西南戦争」p38-39
  30. ^ a b 歴史群像シリーズ「西南戦争」p40
  31. ^ a b 歴史群像シリーズ「西南戦争」p39
  32. ^ 歴史群像シリーズ「西南戦争」p41
  33. ^ a b 歴史群像シリーズ「西南戦争」p42
  34. ^ 川口武定『製造中の2大鋼鉄艦船のトン数』《戦国写真画報 明治28年》春陽堂、1895年https://dl.ndl.go.jp/pid/1567877/1/36 
  35. ^ 歴史群像シリーズ「西南戦争」p43
  36. ^ 歴史群像シリーズ「西南戦争」p43-44
  37. ^ a b 歴史群像シリーズ「西南戦争」p44
  38. ^ 歴史群像シリーズ「西南戦争」p45
  39. ^ 歴史群像シリーズ「西南戦争」p45-46
  40. ^ a b 歴史群像シリーズ「西南戦争」p46
  41. ^ a b 歴史群像シリーズ「西南戦争」p46-47
  42. ^ a b 歴史群像シリーズ「西南戦争」p47
  43. ^ a b 歴史群像シリーズ「西南戦争」p48
  44. ^ 歴史群像シリーズ「西南戦争」p49-50
  45. ^ a b 歴史群像シリーズ「西南戦争」p50
  46. ^ 歴史群像シリーズ「西南戦争」p51
  47. ^ 歴史群像シリーズ「西南戦争」p51-52
  48. ^ 小松宮彰仁親王博愛社発会式の祝辞』《新撰文章教科書: 中等教育》積善館・松本仁吉、1892年、175頁https://dl.ndl.go.jp/pid/864945/1/104。"本社創立以来、社員諸君の勤勉と四方有志の共同とに因て事業日に就り月に将む。去年陸軍医部の幇助を得て、安比蘭斯等の救急器械を製し以て万一の用に備ふ、是れ奏功の一場面の社業の進歩を表するに足れり"。 
  49. ^ 大給恒・佐野常民『国中の人民従軍を願い、その外軍人を愛恤すること』《近世太平記 4篇巻之上》東壁堂・吉村明道、1879年https://dl.ndl.go.jp/pid/772730/1/28 
  50. ^ 『西南記伝』辺見十郎太伝
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