西ドイツ 政治

西ドイツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 03:12 UTC 版)

政治

ベルリンの壁、中間の無人地帯に見えるのは東ドイツ側の国境警備隊員

西ドイツには、「東ドイツとの統一後に憲法を持つことにする」との意志から憲法(Verfassung) がなく、基本法(Grundgesetz)のみがあった(これは基本法146条に明記されていた)。

東西冷戦の最前線に立つ国だったことからアメリカへの政治的・軍事的依存が高く、多くの米軍基地が国内におかれていた。また東ドイツとの対立から、再軍備直後の1956年以来、18歳から45歳までの男子国民に徴兵制が敷かれていた。しかし第二次世界大戦への反省から、西ドイツ時代のドイツ連邦軍の役割は抑制されたものだった。環境保護運動同様に反戦運動も盛んであり、1983年には、1979年調印の第二次戦略兵器制限交渉(SALT II)にもかかわらず西ドイツに核ミサイルが持ち込まれたことを受けてヨーロッパ全土へ波及する大規模な反核運動が起こっている。

対東ドイツ政策

ヴィリー・ブラントリチャード・ニクソン

対東ドイツ政策では、1970年代以前はハルシュタイン原則に基づき、西ドイツがドイツ地域で唯一民主的に選出され、ドイツ人民を代表する正統性を持つ国家であると位置づけ、ソ連以外の国で東ドイツを承認して国交を持った国とは、国交を断絶する政策を採った。しかしこの原則は東ドイツが第三世界の多くと国交を結ぶ中で実効性を失った。

1970年代初頭、東側諸国との関係改善を図るヴィリー・ブラント首相東方外交により、東西ドイツは相互承認へと進んだ。さらにモスクワ条約(1970年、ソビエト・西ドイツ武力不行使条約)、西ドイツ・ポーランド間のワルシャワ条約(1970年)、東西ベルリンの相互通行を促進する米ソ英仏の四カ国合意(1971年)、西ベルリンと西ドイツ間の通行を保障する通過合意(1972年)、東西ドイツ基本条約(1972年)と続いた諸条約は東西ドイツの関係正常化につながり、両国が同時に国際連合へ加盟する道を開いた。

欧州の協調と対独抑止

第二次世界大戦直後、東西冷戦と並ぶ欧州の大きな問題は、ドイツが三度戦争を起こさないようにするにはどのように抑え込めばいいかというものだった。当初はアメリカなどの一部でドイツの徹底した脱工業化・非ナチ化が構想されていた(モーゲンソー・プランも参照)。また連合軍占領下ではドイツは武装解除され、小規模な国境警備隊や機雷掃海部隊以外の国軍を持つことは許されず、米ソ英仏の四カ国が治安に責任を持っていた。

こうした流れは冷戦の開始とともに変わることとなる。ソ連に対抗すべく西ドイツ経済の復興が求められると同時に、西ドイツの再軍備も検討されるようになった。主権回復後の1950年、西ドイツは再軍備の基本構想策定を解除され新たな「ドイツ連邦軍」の創設準備を始めた。

一方、周辺の西欧諸国はブリュッセル条約を締結して対独抑止を図ったほか、ヨーロッパが西ドイツを制御できなくなることを防ぐため、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)によって軍需物資である石炭と鉄鋼の産出を西欧諸国で共同管理する仕組みが作られた。また西欧とアメリカは北大西洋条約機構(NATO)を結成することでソ連・東欧への対抗とドイツ抑え込みを行うことになる。しかしフランスはドイツ連邦軍の創設と西ドイツのNATO加盟に反対し、西ドイツも含む西欧諸国が超国家的な汎ヨーロッパ軍を構成する「欧州防衛共同体」(EDC)構想を打ち出した。この構想では西ドイツが作る部隊は西ドイツ政府ではなくEDCの指揮のもとに置かれ、西ドイツの防衛はEDCが責任を持つこととなっていた。この構想は1952年に西ドイツを含む西欧各国間で調印されたが、主権を侵されることをよしとしないド・ゴール主義者たちの反対により1954年に当のフランス議会で否決され、批准に至らなかった。結果、フランスも西ドイツの再軍備とNATO加盟を認め、ドイツ連邦軍は1955年11月12日に正式に誕生した。

国内政治

西ドイツの政治は、小政党が乱立し結果としてファシズムの台頭を招いたヴァイマル共和政期の反省から、一定の得票率 (5%) を議席獲得の条件とする(「阻止条項」)、議会制民主主義を否定する政党の結党を禁止する(「戦う民主主義」)などの措置を講じていたため、非常に安定した。議会ではキリスト教民主主義の元に右派諸勢力が結集したキリスト教民主同盟 (CDU) と19世紀以来の左派政党ドイツ社会民主党 (SPD) の二大政党が左右に並んでいた。

建国後、西ドイツ再建と社会福祉の充実を指揮したアデナウアー政権(1949年 - 1963年)のあと、短いエアハルト政権(1963年 - 1966年)とキージンガー政権(1966年 - 1969年)が続いた。

1966年までの政権はキリスト教民主同盟 (CDU) とキリスト教社会同盟 (CSU) の二つの保守政党の連立であり、これに中道の自由民主党 (FDP) が加わっていた。1966年のキージンガー政権ではキリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟とドイツ社会民主党の「大連立」が成立したが、この時期に社会民主党は現実主義路線に移り政権運営が可能な能力を得た。

大連立下の議会では、論議の的となってきた非常事態宣言法など憲法上の権利を制限する法律が成立した。この法律に対し学生運動労働組合は反対の声を上げた。1967年には学生デモに参加していた学生ベンノ・オーネゾルクの射殺により運動が過熱し、1968年には学生運動の指導者ルディ・ドゥチュケに対する暗殺未遂事件が発生した。

1960年代にはナチス時代に対する直面を促する学生らによる大規模行動も起こった。また経済成長とともに激しくなったドイツの環境破壊を背景に、ルディ・ドゥチュケら学生運動家、ペトラ・ケリーハインリヒ・ベルヨーゼフ・ボイスら社会運動家は環境保護運動に結集し緑の党が結成された。1979年ブレーメン州選挙で、緑の党はついに得票率5%を超えたため議席を確保している。こうした動きの中で環境保護主義と反国家主義が西ドイツの基本的な価値観となった。

同じ1960年代の学生運動のうち、過激化した運動家らが1968年以降ドイツ赤軍 (Rote Armee Fraktion, RAF) を結成し、1970年代の間、西ドイツの政治家財界人に対するテロ攻撃を加え続けた。特に1977年の「ドイツの秋」と呼ばれる一連の事態(ドイツ経営者連盟会長のハンス=マルティン・シュライヤーに対する誘拐殺人、およびルフトハンザ航空181便ハイジャック事件など)は西ドイツを震撼させた。

1969年の選挙でヴィリー・ブラントが党首を務める社会民主党は大きな議席を確保し、自由民主党との連立で政権を獲得することに成功し政権交代が起きた。ブラント政権は1974年まで続き東方外交など外交上の成果を上げたが、彼の秘書が東ドイツ国家保安省(シュタージ)のスパイだったというスキャンダルからブラントは首相を辞任した。財務大臣ヘルムート・シュミットが以後1982年まで、自由民主党の党首ハンス・ディートリヒ・ゲンシャーの助けのもと政権をとった。石油ショック後の景気維持のほか、欧州共同体(EC)への支持、全欧安全保障協力会議の創設など、欧州統合と米欧間の協力強化に尽力した。

1982年には社会民主党と自由民主党の連立が崩壊し、シュミット政権に建設的内閣不信任案を出したキリスト教民主同盟が自由民主党を引き入れて政権を奪取し、ヘルムート・コールが第6代首相となった。翌年の選挙でコール政権は支持を得たが、緑の党の躍進と連邦議会議席獲得によりキリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟は絶対過半数の獲得には失敗した。1989年のベルリンの壁崩壊に伴い東西ドイツ統一の好機が訪れると、コール政権は統一ドイツもEU統合や米欧同盟維持を支持するとして各国の了解をとり、一気に東ドイツを吸収し、東ドイツに数か月前に成立したばかりの五つの州をドイツ連邦共和国の一部とした。

地域分散

戦前に欧州有数の大都市だったベルリンが実質的に飛び地となった西ドイツでは、政治の中心は暫定首都のボンに置かれたものの、多くの権限を各州が持ち、中央銀行・証券取引所など経済政策の中心がフランクフルト・アム・マインに置かれ、連邦憲法裁判所と連邦最高裁判所といった司法の中心がカールスルーエに置かれるなど政治・経済面での地域分散化が進んだ。この点では、東ベルリンへの一極集中を進め地方都市の弱体化が進んだ東ドイツとは対照的だった。ベルリンは名目上は西ドイツの首都でありながらドイツの中心としての地位を喪失したものの、西ベルリンは三カ国占領下で徴兵制もない政治的にあいまいな状態のため、西ドイツや世界各地からの若者が流入し、コスモポリタン的な文化が栄えた。


注釈

  1. ^ 1953年から1971年まで、西ドイツは毎年マーシャル・プランの貸付資金の返済を行わねばならなかった。この債務は戦争の補償に上積みされた。
  2. ^ 1950年にイギリスのタイムズ紙がドイツ復興をこう表現した。
  3. ^ 国外に保有する資産に関しては日本も同様の境遇にあった。
  4. ^ ここから西ドイツ成立後の市場経済主義経済政策に至るまで、ルートヴィヒ・エアハルトが経済大臣・首相を歴任した。
  5. ^ 出資割合は、シーメンス6に対しヌーケム4。

出典

  1. ^ Bildung, Bundeszentrale für politische. “Themen | bpb” (ドイツ語). bpb.de. 2021年10月24日閲覧。
  2. ^ a b 東京大学社会科学研究所 『国際環境』 東京大学出版会 1974年 pp.128-129.
  3. ^ 清水忠之、「複数議決権等と株主平等の原則」『明治学院大学法律科学研究所年報』2015年 31巻 p.39-45, hdl:10723/2512, 明治学院大学法律科学研究所
  4. ^ シュテルン 1988年1月21日号
  5. ^ ヌーケム NUKEM History or the Roots of NUKEM Alzenau, August 2013
  6. ^ IDSA News Review on East Asia, vol. 3, Institute for Defence Studies and Analyses, 1989, p. 143.
  7. ^ Harpers & Queen, March, 1990






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