蘇亮 蘇亮の概要

蘇亮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/24 07:52 UTC 版)

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経歴

泰山郡太守の蘇祐の子として生まれた。博学で文章を好み、秀才に挙げられた。洛陽に上京して河内の常景と会い、その器量を評価された。斉王蕭宝寅に召されて参軍となった。後に蕭宝寅が府を開くと、蘇亮はその府主薄となった。蕭宝寅の西征に従い、記室参軍に転じた。蕭宝寅が大将軍となると、蘇亮はその掾となった。蕭宝寅は蘇亮を重んじて、檄文や謀議のことを委ねた。蘇亮は行武功郡事をつとめて、名声があった。527年、蕭宝寅が乱を起こすと、蘇亮は黄門侍郎となった。蕭宝寅が敗死すると、その部下たちの多くも禍に遇ったが、蘇亮は命長らえた。530年長孫稚爾朱天光らが西征すると、蘇亮は郎中となり、文章をつかさどった。鎮軍将軍・光禄大夫・散騎常侍・岐州大中正に累進した。532年賀抜岳が関西行台となると、蘇亮は召されて左丞となり、機密をつかさどった。

534年孝武帝関中に入ると、蘇亮は吏部郎中に任ぜられ、衛将軍・右光禄大夫の位を加えられた。536年、給事黄門侍郎となり、中書舎人を兼ねた。西魏の文帝の子の宜都王元式が秦州刺史となると、蘇亮は秦州司馬となった。541年、再び黄門侍郎となり、驃騎将軍の位を加えられた。542年、都官尚書・使持節に転じ、北華州刺史を代行し、臨涇県子に封ぜられた。中書監に任ぜられ、著作を兼ね、国史の修撰にあたった。548年、秘書監・車騎大将軍・儀同三司となり、まもなく大行台尚書に任ぜられ、岐州刺史として出向した。551年、召還されて侍中となった。在官のまま死去した。本官を追贈された。従弟の蘇綽とともに名を知られ、著書数十篇が世に行われた。

子の蘇師が後を嗣いだ。

伝記資料

  • 周書』巻三十八 列伝第三十
  • 北史』巻六十三 列伝第五十一



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