藤田嗣治 藤田嗣治の概要

藤田嗣治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/05 08:23 UTC 版)

藤田 嗣治
オートクローム技法により撮影された藤田嗣治の肖像写真(1930年)
誕生日 1886年11月27日
出生地 日本東京府牛込区新小川町(現在の東京都新宿区
死没年 (1968-01-29) 1968年1月29日(81歳没)
死没地 スイスチューリヒ
国籍 日本(-1955年)
フランス(1955年に帰化)
運動・動向 エコール・ド・パリ
芸術分野 画家、彫刻家
教育 東京美術学校
代表作 『ジュイ布のある裸婦(1922年)』
『五人の裸婦(1923年)』
『秋田の行事(1937年)』
『アッツ島玉砕(1943年)』
カフェ(1949年)』
受賞 レジオンドヌール勲章朝日文化賞、第1回トリステ宗教美術展金賞、勲一等瑞宝章
会員選出組織 サロン・ドートンヌ
近代日本美術総合展
活動期間 1910年 - 1968年
影響を受けた
芸術家
パブロ・ピカソモイズ・キスリングアメデオ・モディリアーニ
影響を与えた
芸術家
カンディド・ポルチナーリ
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第一次世界大戦前よりフランスパリで活動、を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリの代表的な画家である。

生涯

家柄

1886年(明治19年)、東京府牛込区(現在の東京都新宿区新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。父・藤田嗣章(つぐあきら)(1854 - 1941年)は、大学東校東京大学医学部の前身)で医学を学んだ後、軍医として台湾朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鷗外の後任として最高位の陸軍軍医総監中将相当)にまで昇進した人物。祖父の藤田嗣服は元田中藩[1]。曽祖母は江戸時代の文人画家春木南湖の血筋である[2]。兄の嗣雄(1885 - 1967)は朝鮮総督府陸軍省に在職した法制学者・上智大学教授[3]で、陸軍大将児玉源太郎の四女と結婚。また、義兄(姉たちの夫)に、父の元部下でのちに陸軍軍医総監となった中村緑野中原中也の名づけ親)、芦原甫の養子・信之(医師)がいる[1]小山内薫は嗣治の従兄、舞踊評論家の蘆原英了と建築家の蘆原義信は甥にあたる。又、遠い親戚に千葉雄大がいる[要出典]

パリに至るまで

藤田は子供の頃から絵を描き始める。父の転勤に伴い7歳から11歳まで熊本市で過ごした。小学校は熊本県師範学校附属小学校(現在の熊本大教育学部附属小[4]に通った。1900年、高等師範附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)を、1905年に高等師範附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。その頃には、画家としてフランスへ留学したいと希望するようになる。

1905年(明治38年)、森鷗外の薦めもあって東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)西洋画科に入学する。しかし当時の日本画壇はフランス留学から帰国した黒田清輝らのグループにより性急な改革の真っ最中で、いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされており、藤田の作風は不評で成績は中の下であった。表面的な技法ばかりの授業に失望した藤田は、それ以外の部分で精力的に活動し、観劇や旅行、同級生らと授業を抜け出しては吉原遊廓に通いつめるなどしていた。1910年に同校を卒業。卒業に際して製作した『自画像』(東京芸術大学所蔵)は、黒田が忌み嫌った黒を多用しており、挑発的な表情が描かれている[5]。なお精力的に展覧会などに出品したが、当時黒田清輝らの勢力が支配的であった文展などでは全て落選している。

1911年(明治44年)、長野県木曽へ旅行し、『木曽の馬市』や『木曽山』の作品を描き、また薮原の極楽寺(木祖村)の天井画を描いた(現存)[6]。この頃女学校の美術教師であった鴇田登美子(鴇田とみ)と出会って、2年後の1912年に結婚。鴇田とともに榛名湖群馬県)などを訪れた際に描いたと思われる油彩画『榛名湖』が2017年、鴇田の生家(千葉県市原市)の解体中の蔵から発見されている[7]

新宿百人町アトリエを構えるが、フランス行きを決意した藤田は妻を残して単身パリへ渡航。最初の結婚は1年余りで破綻する。

パリでの出会い

1917年、パリにて
パリのアトリエにて(1918年)

1913年大正2年)に渡仏し、パリのモンパルナスに居を構えた。当時のモンパルナス界隈は町外れの新興地に過ぎず、家賃の安さで芸術家、特に画家が多く暮らしていた。藤田は、隣の部屋に住んでいて後に「親友」と呼んだアメデオ・モディリアーニシャイム・スーティンらと知り合う。また彼らを通じて、後のエコール・ド・パリジュール・パスキンパブロ・ピカソオシップ・ザッキンモイズ・キスリングジャン・コクトーらと交友を結びだす。フランスでは「ツグジ」と呼ばれた(嗣治の読みをフランス人にも発音しやすいように変えたもの)。

また、同じようにパリに来ていた川島理一郎や、島崎藤村薩摩治郎八金子光晴、岡田謙三[8]ら日本人とも出会っている。このうち、フランス社交界で「東洋の貴公子」ともてはやされた、大富豪の薩摩治郎八との交流は藤田の経済的支えともなった。

パリでは既にキュビズムシュールレアリズム素朴派など、新しい20世紀の絵画が登場しており、日本で「黒田清輝流の印象派の絵こそが洋画」だと教えられてきた藤田は大きな衝撃を受ける。この絵画の自由さ、奔放さに魅せられ、今までの作風を全て放棄することを決意した。「家に帰って先ず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩き付けました」と藤田は自身の著書で語っている。

第一次世界大戦

1914年、パリでの生活を始めてわずか1年後に第一次世界大戦が勃発。日本からの送金が途絶え、生活は貧窮した。戦時下のパリでは絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖を取ったこともあった。そんな生活が2年ほど続き、フランス領内に侵攻していたドイツ軍が守勢に転じて大戦が終局に向かい出した1917年3月、カフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエと2度目の結婚をした。この頃に初めて藤田の絵が売れた。最初の収入は、わずか7フランであったが、その後少しずつ絵は売れ始め、3か月後には初めての個展を開くまでになった。

シェロン画廊で開催されたこの最初の個展では、著名な美術評論家であったアンドレ・サルモン (en:André Salmon) が序文を書き、良い評価を受けて、すぐに絵も高値で売れるようになった。翌1918年に第一次世界大戦が終結。戦後の好景気に合わせて多くのパトロンがパリに集まって来ており、この状況が藤田に追い風となった。

パリの寵児

モンパルナスを歩く藤田嗣治とアリス・プラン(キキ)

面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃に確立。以後、サロンに出す度に黒山の人だかりができた。サロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、急速に藤田の名声は高まった。

当時のモンパルナスにおいて経済的な面でも成功を収めた数少ない画家であり、画家仲間では珍しかった熱い湯の出るバスタブを据え付けた。多くのモデルがこの部屋にやって来てはささやかな贅沢を楽しんだが、その中にはマン・レイの愛人であったキキも含まれている。彼女は藤田のためにヌードとなったが、その中でも『寝室の裸婦キキ (Nu couché à la toile de Jouy)』と題される作品は、1922年サロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こし、8000フラン以上で買いとられた。

このころ、藤田はフランス語の綴り「Foujita」から「FouFou(フランス語でお調子者の意)」と呼ばれ、フランスでは知らぬ者はいないほどの人気を得ていた。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章ベルギーからレオポルド勲章を贈られた。

南アメリカへ

藤田の肖像(イスマエル・ネリ、1930年代)

2人目の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、藤田自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚。リュシーは教養のある美しい女性だったが酒癖が悪く、夫公認で詩人のロベール・デスノスと愛人関係にあり[9]、その後離婚する。

1931年には、新しい愛人マドレーヌ (Madeleine Lequeux 1910 - 1936)[10]を連れて個展開催のため、南北アメリカへに向かった。ヨーロッパと文化、歴史的に地続きで、藤田の名声も高かった南アメリカで初めて開かれた個展は大きな賞賛で迎えられ、アルゼンチンブエノスアイレスでは6万人が個展に訪れ、1万人がサインのために列に並んだといわれる。[要出典]

マドレーヌは戸塚の家で脳溢血で急死した。

日本への帰国

陸軍美術協会理事長時代の藤田
1942年頃、東京のアトリエにて

その後、1933年に南アメリカから日本に帰国、1935年に25歳年下の君代(1911年 - 2009年)と出会い、一目惚れして翌年5度目の結婚をして、終生連れ添った。1936年、旧友ジャン・コクトーが世界一周の旅で日本に滞在した際は、藤田と再会し詩人の堀口大學らと共に相撲観戦や夜の歓楽街の散策を供にした(その時、藤田の案内で学生絵画グループ「表現」が銀座の紀伊国屋画廊で開催していた展覧会を訪れ、ジャン・コクトーが大塚耕二の作品を称賛した)。

1938年からは1年間、小磯良平らとともに従軍画家として日中戦争中の中華民国に渡り、1939年に日本に帰国した。

その後再びパリへ戻ったが、同年9月には第二次世界大戦が勃発。翌年5月23日、ドイツにパリが占領される直前にパリを離れ、同年7月7日、再度日本に帰国した[11]。その後、太平洋戦争に突入した日本において陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画(下参照)の製作を手掛けた。南方などの戦地を訪問しつつ『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』(題材はノモンハン事件)や『アッツ島玉砕』(アッツ島の戦い)などの作品を書いた。

このような振る舞いは、終戦後の占領期では「戦争協力者」と批判されることもあった。また、陸軍美術協会理事長という立場であったことから、一時はGHQからも聴取を受けるべく身を追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていたこともあった[12]。また1945年11月頃からGHQの命令に近い形で、戦争画の収集作業に協力させられている[13]。こうしたGHQに占領された戦後の日本国内の情勢に嫌気が差した藤田は、1949年に日本を去りフランスに向うこととなる。

フランスに帰化

傷心の藤田がフランスに戻った時には、既に多くの親友の画家たちがこの世を去るか亡命しており、フランスのマスコミからも「亡霊」呼ばわりされるという有様だったが、その後もいくつもの作品を残している。そのような中で再会を果たしたパブロ・ピカソとの交友は晩年まで続いた。1955年にフランス国籍を取得(その後、日本国籍を抹消)[14][15]1957年、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られた。

晩年

1959年にはランスノートルダム大聖堂カトリック洗礼を受け、シャンパンG.H.マム」の社主のルネ・ラルーと、「テタンジェ」のフランソワ・テタンジェから「レオナール」と名付けてもらい、レオナール・フジタとなった。またその後、ランスにあるマムの敷地内に建てられた「フジタ礼拝堂」の設計と内装のデザインを行った。1968年1月29日スイスチューリヒにおいて、ガンのため死亡した。遺体は「フジタ礼拝堂」に埋葬された[16]日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈された。

死後

メゾン・アトリエ・フジタ

藤田の最期を看取った君代は、自身が没するまで藤田旧蔵作品を守り続けた。パリ郊外のヴィリエ・ル・バクルフランス語版に旧宅を「メゾン・アトリエ・フジタ」として開館に向け尽力。晩年には個人画集・展覧会図録等の監修も行った。2007年に東京国立近代美術館アートライブラリーに藤田の旧蔵書約900点を寄贈し、その蔵書目録が公開[17]された。藤田の死去から40年余りを経た2009年4月2日に、東京にて98歳で没した。遺言により遺骨は夫嗣治と共にランスの「フジタ礼拝堂」に埋葬された[16]。君代夫人が所有したかどうかは明記されていないが、藤田作品の多くはポーラ美術館ランス美術館(フジタ礼拝堂がこの美術館の建物の一部)に収蔵されている[14][18]

2011年、君代が所蔵していた藤田の日記(1930年から1940年1948年から1968年までで、戦時中のものは未発見)及び写真、16mmフィルムなど6000点に及ぶ資料が母校の東京芸術大学に寄贈されることが発表され、今後の研究に注目が集まっている[19]

2015年、日本・フランス合作の伝記映画『FOUJITA』(小栗康平監督)が公開され、2018年には『没後50年 藤田嗣治展』が東京と京都で開催されるなど、再評価の機運が高まっている。

名前の表記揺れについて

藤田は名前の表記揺れが多い画家である。まず「嗣治」の名前であるが、一般に「つぐはる」と読まれるが、前述のように「つぐじ」と読む場合もある。これについては、元々次男だったこともあり「つぐじ」と読んでいたが、父から「画家として名を成したら「つぐはる」と読め」といわれ、パリで成功した後の藤田は「つぐはる」と名乗るようになったと言う逸話が知られる。しかし、10代の頃から親友への手紙に「つぐはる」と記した例や、藤田の戦後のアメリカ・フランス行きを支援したGHQの印刷・出版担当官フランク・エドワード・シャーマン宛の手紙に「つぐじ」と署名するなど例外もあり、藤田がどういう意図をもって使い分けていたかは判然としない。

作品のサインも「Foujita」と「Fujita」の二通りある。フランス語としては前者が正しくパリ時代のものは同様に署名しているが、日本滞在中などでは後者の例が多い。

フランス帰化後の表記も、「レオナール・フジタ」と「レオナルド・フヂタ」の揺れがある。今日、前者で呼ばれる方が一般的であるが、これは君代の意向が大きく働いている。しかし、藤田自身はそもそもレオナルド・ダ・ヴィンチへの尊敬から後者で呼ばれることを好み、手紙類の日本語署名は全て「レオナルド(フヂタ) 」である[20]


  1. ^ a b 藤田嗣章『人事興信録』8版
  2. ^ 「藤田嗣隆さん 『レオナルド藤田嗣治覚書』 身内だからこそ書ける姿」2022年6月8日閲覧。
  3. ^ 1885年-1967年。著書に『天皇の起源 法社会学的考察』(新版・書肆心水、2019年)などがある。
  4. ^ 『藤田嗣治の肖像』西日本新聞. 2009年3月3日朝刊
  5. ^ この自画像については、2007年8月19日放送のETV特集日本人と自画像~東京芸術大学 4800枚の証言~」で紹介された
  6. ^ 極楽寺木祖村観光協会公式ホームページ(2019年2月19日閲覧)。
  7. ^ 藤田嗣治の風景画 未発表作見つかる 渡仏前に描いた「榛名湖」朝日新聞』夕刊2019年2月18日(10面)2019年2月19日閲覧。
  8. ^ ユーゲニズム(幽玄主義)をアメリカで広めた画家
  9. ^ 「異邦人の視線 -金子光晴とジャン・コクトー」西川正也
  10. ^ 後に妻となり、日本で急死
  11. ^ 戦乱のパリから帰国『東京日日新聞』(昭和15年7月9日)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p684 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  12. ^ 遠山彰『日本ダービー物語』(丸善ライブラリー、1993)、p11
  13. ^ 秘史こぼれ話『朝日新聞』1976年(昭和51年)5月31日、13版、3面
  14. ^ a b レオナール・フジタ (藤田嗣治)”. ポーラ美術館. 2023年12月4日閲覧。
  15. ^ 藤田嗣治と5人の妻 ~パリで評価され、最後はフランスに帰化した画家の孤独”. SUIHA Gallery. 2023年12月4日閲覧。
  16. ^ a b DOSSIER DE PRESSE – mars 2010, Foujita Monumental ! Enfer et Paradis”. 2018年9月14日閲覧。
  17. ^ 東京国立近代美術館アートライブラリ所蔵 藤田嗣治旧蔵書
  18. ^ Chapelle Foujita - Portail officiel des Musées de Reims(フランス語)”. MUSEUMS OF REIMS. 2023年12月4日閲覧。
  19. ^ “藤田嗣治の日記・写真6000点 東京芸大に寄贈「生涯知る資料」”. 日本経済新聞』夕刊. (2011年2月9日) 
  20. ^ 矢内(2015)pp.183-184。
  21. ^ 『近代画説 19』明治美術学会誌(2010年)ISSN 1343-7445
  22. ^ 例外で生前に『日本近代絵画全集7 藤田嗣治』(岡本謙次郎解説、講談社、1964年)が出版された
  23. ^ 木島 林(2010)pp.72-85。
  24. ^ “藤田嗣治、あの乳白色はベビーパウダー”. 読売新聞. (2011年1月12日). http://otona.yomiuri.co.jp/news/news110113_03.htm 2011年2月15日閲覧。 
  25. ^ 岡鹿之助 「藤田嗣治―ドランブル時代」『みづゑ』593号、1955年1月。岡鹿之助 『フランスの画家たち』 中央公論美術出版、2004年、p.115、に再録。
  26. ^ 内呂博之 「「かたち」への挑戦―岡田三郎助と藤田嗣治」(東京文化財研究所編 『「かたち」再考 開かれた語りのために』 平凡社、2014年12月17日、pp.162-165)。
  27. ^ 木島 林(2010)p.49。
  28. ^ 木島 林(2010)p.105。
  29. ^ 林洋子『藤田嗣治 手しごとの家』集英社新書、2010年3月、60頁。ISBN 978-4-08-720519-0 
  30. ^ 林洋子『藤田嗣治 手しごとの家』集英社新書、2010年3月、69-70頁。ISBN 978-4-08-720519-0 
  31. ^ 『開運!なんでも鑑定団』2016年8月16日放送 レオナール・フジタの円形机”. テレビ東京 (2016年8月16日). 2016年9月23日閲覧。
  32. ^ 『藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画』第7図。
  33. ^ 『没後50年 藤田嗣治展』第10図。
  34. ^ a b c d e 神戸市立小磯記念美術館編集 『ユニマットコレクション フランス近代絵画と珠玉のラリック展 ―やすらぎの美を求めて―』 神戸新聞社、2017年9月16日、第66-71図。
  35. ^ 『藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画』第26図。
  36. ^ 神奈川県立近代美術館ほか編集『「松本竣介 創造の原点」展』 神奈川県立近代美術館、2016年、p.48。
  37. ^ 横たわる裸婦 _ 神奈川県立近代美術館
  38. ^ 『藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画』第40図。
  39. ^ 『藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画』第44図。
  40. ^ 富山県美術館編集・発行『TAD 富山県美術館』(2017年)、第12図。
  41. ^ 二人裸婦 _ 神奈川県立近代美術館
  42. ^ a b 財団法人 長島美術館編集・発行 『長島美術館図録』 1989年10月5日、p.143。
  43. ^ 『藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画』第59図。
  44. ^ a b c ウッドワン美術館編集 『ウッドワン美術館所蔵 近代日本絵画の巨匠立たち』 青幻舎、2011年2月、pp.105-111,187-188、ISBN 978-4-86152-295-6
  45. ^ 芸術新潮』2018年8月号、p.97。
  46. ^ 芸術新潮』2018年8月号、pp.92-93。
  47. ^ 『没後50年 藤田嗣治展』第76図。
  48. ^ 島根県立美術館 収蔵品データベース
  49. ^ 徳島県立近代美術館企画・構成 今に生きる「人道博愛の心」展実行委員会 徳島県立近代美術館 日本赤十字社徳島県支部編集 『日本赤十字社徳島県支部創立130周年記念展 今に生きる「人道博愛の心」ー美術に見る日本赤十字社の歩みー図録』 今に生きる「人道博愛の心」展実行委員会、2017年4月22日、p.11。
  50. ^ 熱田神宮文化課 大原和生編集 『熱田神宮名宝図録』 1992年4月1日、第84図(白黒)。
  51. ^ 吉野石膏株式会社編集・発行 印象社制作 『吉野石膏コレクション 西洋編』 2018年8月31日、p.85。
  52. ^ 偽版画流通、丸善が公表せず 大阪の画商、17年前販売か―藤田嗣治”. 時事通信 (2021年3月31日). 2021年6月28日閲覧。
  53. ^ 関連図書に、渡部琴子『平野政吉 世界のフジタに世界一巨大な絵を描かせた男』(新潮社、2002年)






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